実験棟はすでに地獄と化していた
天井の照明システムは全て侵蝕されていた。蛍光灯は破裂し、歪んだ金属フレームが触手のように垂れ下がり、ゆらゆらと揺れている。その深紅の先端は不気味に脈動していた
床には割れたガラスや壊れたドアのフレームが散乱し、時折、暗がりの奥から鋭い咆哮が響いてくる
3人は壁に沿って素早く前進した。いくつか角を曲がった時、全員が同時に「意識海研究所」の扉を目にした
封鎖灯は緑だわ、まだ間に合う!
彼女は駆け寄り、指を生体認証パネルに押し当てた。灯りが点滅し、ロックが解除される
3人は一斉に中へ飛び込んだ
「王冠」は磁気の台座上に静かに浮かんでいた。その名の通り、月桂冠型の精密な構造物で、外殻は淡い金色を帯び、表面には科学理事会ですら解明できない紋様が刻まれている
よかった……
彼女は駆け寄り、そのプロトタイプを慎重に台座から持ち上げ、胸に抱きかかえた。金属外殻の冷たい感触が手袋越しに伝わってくる。まだ無傷の状態だ
次の瞬間、何かに刺激されたかのように、廊下から無数の音が響き始めた
金属同士がぶつかり合う音と電弧放電のバチバチと弾ける音が入り混じり、まるで廊下の壁そのものが生きて動き出したかのようだ
やつらが追ってきた!
ギィ……ガアァ!!
ドンッという音とともに、2体の侵蝕体が扉を叩き破った
アデレーネが側の金属ラックを掴み、敵を迎え撃つ。一撃で先頭の1体の頭部を砕き、更なる一撃で別の敵の前肢をへし折った。敵はその場に倒れ、一瞬だけ進路が開いた
早く!!
扉を開けたその瞬間、天井から吊り下がる鉄の棘が唸りを上げて落下した。アデレーネはとっさに身をひねったが、それでも鉄の爪は彼女の外骨格フレームを掠めた――
右膝の外骨格の油圧管が引き裂かれ、乳白色の油圧オイルが飛び散った。アデレーネは大きく体勢を崩して片膝をついたが、歯を食いしばって腕で体を支えた
オフェリアがジョアンを引っ張って駆け出し、侵蝕体の残骸を踏み越えて廊下へ飛び出した。アデレーネは油圧を失った右脚を引きずり、遅れながらも後を追った
そこら中、敵だらけだわ!ど、どこへ行けばいいの?
天井から垂れ下がる触手はますます数を増やし、両側の壁が歪み始めた。亀裂から伸び出した金属パイプが、まるで成長する根のように床へと絡みついていく
廊下は蠕動する喉のようで、彼女たちにもはや逃げ場はなかった
もう打つ手がない!この先の、私のラボへ行くわよ!
廊下の突き当たりの「ナノラボ」と表示された金属扉は、まだ無事だ。オフェリアが手を認証装置に当てると、緑のランプが点灯した
3人はつんのめるようにして中へ飛び込んだ
グオオォッ!
オフェリアが扉を閉めた瞬間、侵蝕体の鋭い爪が隙間から猛烈な勢いで刺し込まれた。彼女は肩を扉に押しつけ、侵蝕体の爪を扉で挟んだが、敵の爪先が彼女の右脚を切り裂いた
くッ!
彼女はくぐもった呻き声を漏らしながらも、力いっぱい扉を押し切った。ロックがガチャンと戻った瞬間、敵の爪は切断され、地面の上を痙攣しながら這いまわった
オフェリア!!
オフェリアは扉にもたれ、自分の右脚を見下ろした。太ももの外側が大きく裂け、長い切り傷が走っている。傷口の縁は脂肪がめくれ上がり、筋膜が見えるほど深かった
……大丈夫よ
どこが大丈夫なの!だって脚が――
大丈夫だって言ってるの!
ドンッ――扉の外で侵蝕体が扉にぶつかる音が響き始めた。1度、2度……次第に激しくなり、扉全体が震え始める
アデレーネは使い物にならない右脚を引きずり、作業台や機材ラック、材料キャビネット等を押して扉を塞いだ。だが、それが長く持たないことは誰の目にも明らかだ
どうしてこんなことに……
ジョアンはラボの真ん中に立ち尽くし、「王冠」を抱えたまま声もなく涙を流した
オフェリアは自分のラボを見回した。彼女が3年かけて築き上げた場所であり、どの装置も型番まで言えるほど熟知している
彼女とアデレーネの視線がぶつかり、ふたりは同時に西側の壁にある小さな扉に目を向けた
非常用通路の入口だ
…………
オフェリアは自分の脚の傷を見下ろした
フフ……
彼女は猛然と振り返り、ジョアンの襟首を掴むと、激痛に耐えながら非常用通路の方へ引きずっていった
えっ?何――
行くよ
オフェリアとともにアデレーネが反対側から押し、ふたりはジョアンを左右から支えるようにして通路の入口へ向かった
ちょ……ちょっと待って!ふたりとも何するの――!!
オフェリアは非常用通路の扉を開けた。通路は人ひとりがやっと通れるほど狭く、中は下へと続く階段になっていた。照明は薄暗いが、まだ点いている
その直後、アデレーネがジョアンを通路へ突き飛ばした
ジョアンはよろめきながら通路へと転がり込み、狭い壁に肩をぶつけた。抱えていた「王冠」を落としそうになりながらどうにか体勢を立て直し、そしてハッと振り返った――
通路の入口に立つオフェリアの手は、すでに扉の取っ手にかけられていた
ジョアン、走るのが遅くたっていい
立ち止まらなければいいの
アデレーネはオフェリアを見つめて、静かに頷いた
バタン――扉が閉められた
ジョアンの耳に扉の向こう側の音が聞こえた。重いものを押しつける音、金属が床を擦る音。ふたりが非常用通路の入口を塞いでいる
オフェリア!!アデレーネ!!
お願い!!開けて!!
――開けてえぇっ!!!
その悲痛な叫びは分厚い鉄扉を貫けず、返事はなかった
…………!
彼女は拳を壁に叩きつけた。指の関節の皮が裂け、血が涙と混ざって、ざらついたコンクリートに擦りつけられた
ああ――あああッ!!!
彼女は扉に背を向け、「王冠」を強く抱きしめた
涙をこぼしながら、彼女は全力で走り出した
オフェリアは自分のラボを見回した。3年かけて準備してきた設備やデータ、そして何度も何度も調整を重ねたナノマテリアル合成装置
……もったいないわね。まだ素材を全部使い切れてないのに
そう……
ガキンという音とともに、侵蝕体が鉄扉をこじ開け、押し広げた隙間から次々と雪崩れ込んできた
グォォオ!!!
アデレーネが立ちはだかった。手には相変わらずあの鉄の棒。彼女はファウンスの教官として、最も貧弱な道具で生き延びる方法を教えてきた。今、自分がそれを実践する時だ
飛びかかってきた1体目の侵蝕体を身を捻って躱し、鉄の棒で薙ぎ払い、敵の前肢を叩き折った。続けざまに胴体へ蹴りを叩き込んだ時、右膝に激痛が走った
蹴りを叩き込んだ瞬間、次の敵が横から襲いかかってきた。その攻撃を受け止めた彼女の肩が切り裂かれ、血が噴き出した
――!
オフェリアが実験台の後ろから実験用のボンベを引きずり出し、入口の侵蝕体の群れへ向かって放り投げた
どいて――!
アデレーネが身を捻って道を開けると、オフェリアは電気プローブを掴み、ボンベに向かって投げつけた――
ボンベが爆発し、低温ガスが一瞬で拡散する。最前列の侵蝕体の数体の関節に霜が張って凍りつき、急激に動きを鈍らせた
しかし数秒後、後方から更に侵蝕体が押し寄せ、仲間の凍って砕けた死骸を踏み越えて前進を続けた
防ぎきれない
……
実験台にもたれたオフェリアの肩や腕は傷だらけだ。彼女の背後にはナノマテリアルの合成装置があり、制御パネルのスイッチはまだ緑色に点灯していた
高密度の銀ナノワイヤ――それは彼女が3年かけて研究してきたものだ。磁気拘束が解かれた瞬間、毎秒1200mの速度で全方向へ膨張し、爆弾のように拡散する
……アデレーネ
うん
初めてのホログラム演習の時のこと、覚えてる?
アデレーネは実験台によじ登ろうとした侵蝕体を殴り倒し、数歩後ずさった。オフェリアと背中合わせの体勢だ
あなたがバカみたいに突っ込んできて、手榴弾を抜いた。それでふたりとも、退場になった
……あれがあの時の最適解だった
わかってる
彼女の声が、ふいに掠れた
あの時、「次こそは絶対、真っ先にあなたを倒してやる」って言ったけど……
結局、1度も倒せなかった
……
侵蝕体がまた数体雪崩れ込んだ。アデレーネは鉄製の机を蹴って2体を押し返したが、3体目が下から現れた――鋭い爪が彼女のふくらはぎを掠め、ついに彼女は片膝をついた
――!
オフェリアはアデレーネの腕を掴んで歯を食いしばりながら引き戻した。机をひっくり返して防ぎながら、よろよろとナノ合成装置の前まで後退する
ふたりはほとんど力を使い果たし、背中合わせのまま、その場に崩れ落ちた
何年も前、演習場で数百回の腕立て伏せをやり終えたあと、肩を並べて壁際にもたれていた、あの夕暮れの時のように
――!!!
徐々に狭まっていく檻のように、周囲は侵蝕体の唸り声と深紅の光に満ちていた
この数年、あなたが行った場所……戦火の絶えない最前線とか……とても危険だったんでしょ?
まあね。たいした怪我はしなかったけど……
あのねえ、私が一番腹が立つのは何かわかる?
侵蝕体がバリケードを突き破り、ふたりから10mの距離まで迫りつつある
……何?
あなたが何も言わないことよ。どれだけ酷い怪我をしたか、どれだけ危険な場所に行ったか、膝がどれほど痛むか、何も言わない……
いつも私たちは眠れないまま、「まだ生きてるかな」って考えるしかない。あなたは皆をちゃんと守るくせに、誰にも自分を守らせようとはしない
……皆を心配させたくない
ほら、またそれ
彼女は疲れたように笑った
もし、またチャンスがあるなら……
…………
もうひとりで全部背負わないで。いい?
アデレーネは答えなかったが、背中を更に強く押しつけた。血塗れの服越しに、オフェリアはアデレーネの背中が震えているのを感じた
……オフェリア
何?
あなたや[player name]、ルシアにジョアン……この数年であなたたちからたくさんのことを学んだ
ありがとう
…………
バカね。お礼なんかいいのに
侵蝕体は叫び、最後のバリケードを押し倒し、5m手前に迫った
この銀ナノワイヤの放出半径は、フロア全体を覆うレベルよ。そして、全てを切り裂く
私たちも含めて
…………
アデレーネは黙ったまま手を伸ばし、スイッチを押さえているオフェリアの手に、そっと自分の手を重ねた
ハハ……私が一番後悔してるの、入学初日にあなたとケンカしちゃったことかも
私は別に後悔してないわ
――ギィ!!!
3……
2……
1……
次の瞬間、ナノワイヤが合成装置の中心から噴き出した
肉眼では見えないほど細い無数の銀糸が、超音速であらゆる方向へ広がった。それは、ミリ秒のうちに一気に開花した鉄の花のようだった
銀糸は侵蝕体を切り刻み、実験台の鋼板を砕き、コンクリートの天井や配管をも粉砕した。銀糸はフロア中を荒れ狂い、空間そのものを引き裂くような轟音の波となった
ようやく静けさが戻った瞬間、蜘蛛の巣のように広がった亀裂がメリメリと裂け、フロアは振動とともに一気に崩壊した――
ジョアンは背後の振動に気付いた。非常用通路の壁が揺れ、埃がバラバラと落ちてくる
…………
彼女は腕の中の「王冠」をギュッと抱え直し、奥歯を噛み締めながら前へと走った。こぼれる涙が廊下の床に飛び散った
非常用通路は長く、照明は明滅を繰り返していた。彼女の足音が狭い空間に反響し、震える心臓の鼓動のように響いた
どれほど走ったのだろう。遠くの光がふいに大きく広がり、光が再びジョアンの顔を包み込んだ。眩しさに目を開けていられない
彼女はプリズム広場に立っていた。広場はファウンス士官学校で最も開けた場所だ。彼女は毎日のようにここを訪れ、遠くの「天国の橋」を眺め、多くの仲間や同僚とすれ違った
だが今、その広場は廃墟と化していた
世界は燃えていた。「天国の橋」の方向には濃煙が立ち昇り、巨大な侵蝕体の輪郭が見えた。それは建物1棟分の鉄骨を組んだ巨獣のようにファウンス上空を緩慢に移動していた
嘘……でしょ……
ジョアンは白い霧に覆われた広場を呆然と見つめた。目に入るのは人間の血と死体ばかり。若い顔がいくつも血の海に沈み、その中には見覚えのある者も、ない者もいた
グオォ……
霧の中でいくつもの深紅の眼球がギョロギョロと向きを変え、血に飢えた狼の群れのように、一斉にジョアンを見据えた
い、いや……
ジョアンは後ずさった。背中が背後の壁にぶつかる
グォォオ――!!!
獣の群れが低く唸り、弾丸のような勢いで彼女に襲いかかる――
その瞬間、見慣れた人影がジョアンの前に立ちはだかった
離れなさい!!
そう言って右腕をブンと振ると、金属板が層のように跳ね上がって伸び、2m近い長刃へと変形した。彼女はそのまま侵蝕体を真正面から迎え撃ち、斬り伏せた
彼女は更に1歩踏み出した。金属関節から炎が噴き上がり、加熱された刃が旋回しながら、両側の侵蝕体を真っぷたつに切り裂いた
深紅の紋様が彼女の鉄の腕に走ったが、それはすぐに消えた――この怪物たちは、彼女の体を侵蝕することができないようだ
カサンドラさん!?
……ジョアン、よく聞いて。「王冠」を持って……
ゲホッ!
彼女の体がぐらりと傾き、循環液をゴボッと吐き出した。ドレスは切り裂かれ、内部の機械構造が露出している。彼女はこの場所で、何度も死闘を繰り返していたようだ
――グオォ!!!
言いかけた途中で、ビルの高さほどの巨大な侵蝕体がふたりに気付いた。体を大きく伸ばし、その全重量をこちらへと叩きつけてくる――
カサンドラが立ちはだかり、たったひとりで崩れ落ちてくる「空」そのものを受け止めた。両足が地面を深くえぐり、機械関節は過負荷のせいで悲鳴を上げる
広場のビーコンへ行って……ゲホッ……ドミニクがそこに「弦計画」の……「バックドア」を残してるわ!
バ、バックドア?どういうことですか?
私にもわからない……ただドミニクが言ってたの。「遠航」に何かあれば……広場のビーコンへ行けって!
――!!
赤い蒸気が轟音とともに噴き上がり、空全体が鼓膜を震わせるような悲鳴を上げた
あなたの体……全部、最新の……構造体技術?
ふふ……ドミニクに従った最初の「遠航者」は、私よ。あなたたち子供は……むしろ私の後続ってところ
どうして……?
ある時、ドミニクが言ったのよ。こういう実験や……こういう武器が……人類をもっと遠くへ連れていくかもしれないって
「いいわ、じゃあ私が子供たちの代わりに試してやる」って思ったの……どうせもう、痛みなんて怖くないもの!
彼女は叫びながら全力で1歩踏み出し、ジョアンが身を屈めて進めるだけの道をこじ開けた
ジョアン……
カサンドラはなんとか顔に笑みを浮かべながら、どこかニタに似ているジョアンを最後にもう1度見つめた
走りなさい
……!
ごめんなさい……カサンドラさん!
ジョアンは涙を拭い、「王冠」を抱えながら駆け出した
背後のカサンドラの怒号と鋼鉄の衝突音が次第に遠ざかり……最後には白い霧に呑み込まれ、完全な静寂が訪れた
どれほど時間がすぎたのだろうか。崩れ落ちたカサンドラの機械アームは完全に停止し、体の脇にダラリと垂れ下がっている。その表面には深紅の紋様がびっしりと広がっていた
ハハ……私のようなレディにずいぶん無礼なことしてくれたわね……
ガキッ――鉄の巨人は手を伸ばし、カサンドラの髪を掴むと、花の芯をねじ切るように彼女の下半身をへし折り、無造作に投げ捨てた
ぐッ……あぁッ……!
赤い循環液が、雨のようにパラパラと降り注ぐ
続いて左腕、右腕――巨人は玩具を分解するように、カサンドラの体を少しずつねじ切り、粉砕していった
薄れてゆく意識の中で、カサンドラは血で霞んだ目を開き、視線をある方向へ向けた
それは講堂の方向だった。あの日の午後、420人が1台の古いピアノを囲み、口々に言葉を連ね、名もなき歌を書き上げた場所だ
またあなたなのね……
そよ風が銀色の長い髪を揺らした。白い霧の中に立つ凛とした人影が、じっと彼女を見つめていた
ルシア……それともこう呼ぶべきかしら……
α?
…………
あなたはまた同じ始点に戻ってきた……
最後の選択は、もう決めた?
まだたくさんの大切な人たちが、未来であなたを待っている
その人影は依然として白い霧の中から、静かにカサンドラを見つめていた。まるで自分のものではない、遠い昔の記憶のワンシーンを眺めるかのように
私たちの「遠航」は、ここで終わりよ、
鉄の巨人は大きく口を開け、片手でカサンドラの上半身を持ち上げると、半身だけの彼女を口元へ運んだ
なぜ、あの見知らぬ名前を口にできたのだろう?
もしかしたら、ドミニクが実験中に、うっかり彼女の意識海に残してしまった断片だったのかもしれない。あるいは、別の何かか。彼女はもう思い出せなかった
……そうだ、ドミニク――彼女はふと、ずっと昔のあの午後を思い出した。陽光が海岸線を照らし、ドミニクは窓辺に立っていた。あの時、彼女はこんな予言を口にした
当ててみましょうか。いつかあなたは「理想」のせいで死ぬわ。でも私は、「野蛮さ」によって歴史に名を轟かせ、永遠に美しく生き続けるでしょうね
ゲホッ……ふふふ……あははは……
彼女は廃墟を見渡した。若者たちの顔ぶれ、自分が建てた教室や廊下、最後までタイトルを持たなかったあの歌を思い返す
それから、懐中時計の中の人の笑顔と、決して本音を言わない首席技術者
もしこれが、皆が命を懸けて手に入れた結末だっていうのなら……神様って、ほんと情け容赦ないのね……
……私たちのしたことは全て正しい……解法ではなかったというの?
白い霧の中、答える者はいない。ぼろぼろの体は震えながら、ゆらゆらと深淵の中へと漂い落ちていった
吹き抜けた風が、最後の声をさらっていった
西暦2160年、ロジック回路を侵蝕する悪性データが零点エネルギーリアクターの真空から噴出し、何の前触れもなくこの世界に降臨した
それは現代技術に壊滅的な打撃を与えたため、人類が滅びるまで、その正式名称が広く知られることはなかった
後に残された生存者の記録の中で、人々はそれをある言葉で呼んだ――<color=#ff4e4eff><b>パニシング</b></color>、と
最初の戦闘でファウンス士官学校に残留した教職員と学生たちは職責を全うした
彼らは現代兵器を失った状況下で即席の防衛線を築き、この災厄の拡大を食い止めようと尽力した
約193分後、最後のひとりとなった学生が旧式爆薬を抱え、敵の群れへ突入
ファウンス士官学校、3162名の教職員と学生、全員が戦死
5時間後、電力、通信、軍事指揮系統を含めた全世界の電力網全てが麻痺し、機能を停止した
翌日、世界規模のパニックが始まる
徒歩での避難民の列は数十kmにわたり、人口1000万を超える都市のうち50都市以上が、3日目の夜明け前までにほぼ壊滅した
6日目、残存する人類の軍は絶望的な反撃に打って出た
兵士たちは200年も前の武器を手に、理解不能な敵と戦った。防衛線を築いては崩され、また築いては崩され……
その中で人々は初めて気付く。構造体はパニシングとの戦闘において卓越していることに
だが、世界政府の過度な慎重さゆえにこの技術は普及しておらず、全て手遅れだった
10日目、月面基地と通信が途絶えた。800名の駐留者の消息は不明
12日目、火星前哨基地が地球へ最後の通信を送信
15日目、抵抗を続ける地域は7%未満に減少
生存者たちは電力網から遠く離れた電気も現代科学技術もない場所で、火起こしや井戸の掘削、星で方角を知る方法を学び直した
文明はたった2週間で200年後退した。だが、それでも<color=#ff4e4eff><b>パニシング</b></color>は拡散を続けていた……
人類は数千年かけて食物連鎖の頂点に登りつめ、更に数百年かけて、自らのゆりかごを離れる術を身につけた
だが、そのゆりかごから溢れ出したものが、ほんの数時間であらゆる文明の輝きを呑み込んでしまった
▇█▇日目……
彼女には、それが何日目なのかもうわからなかった
広場のビーコンタワーに触れてから、彼女はずっとこの息の詰まる空間を彷徨い続けている
この場所で、時間は意味をなさなかった。日が昇ることも沈むこともなく、歳月を測るものは何ひとつ存在しない。ただ、永遠に続く白い霧だけがあった
彼女は虚無の中に浮かんでいた。まるで風で枝から吹き飛ばされた1枚の葉のように、自分がどこへ落ちるのかもわからず、永遠に漂っていた
それでも彼女は、まだ「王冠」を強く抱きしめていた
その外殻は、入学当初にラボで見た時の淡い金色ではなくなっていた。紋様は薄れ、金属の光沢は失われ、内側から少しずつ空っぽになっていくかのようだった
情報の流れが途絶え、王冠にデータが流れることはなくなった。それはゆっくりと現実から「蒸発」しつつあった
だめよ……
彼女はそれを強く抱え込んだ。自分の血肉でそれを引き留めようとするように、爪が食い込むほど、消えかけた紋様を掴んでいた
だが、「王冠」は消え続けていた
これは……皆の命と引き換えに取り戻したものなのに……
オフェリア、アデレーネ、カサンドラ……
3162人のファウンスの教師と生徒……
そして、人類文明
その全ての重みが、彼女の腕の中で透明になりつつあるこの金属にのしかかっていた
…………
もし、「私」を使ったら……?
彼女は目を閉じ、「王冠」を掲げると、自分の頭に載せた
その瞬間、意識の奥を貫くような激痛が炸裂した
あ――ああああッ!!
無数の針が意識の深部から一斉に突き出し、あらゆる神経とあらゆる記憶、そして「ジョアン」という生命の全てを貫く
彼女は体を縮め、虚無の中で痙攣していた。視界に無数の破片が弾け飛び、彼女の脳では到底処理しきれない情報の奔流が無理やり流し込まれた。意識は今にも破裂しそうだ
「王冠」は外部からの情報の流れによる供給を失い、やがてそれを支える宿主を食らい始めた。彼女の血肉を、記憶を……そして、人間としての全てを
ジョアンは叫ぼうとしたが、もはや声は出なかった
忘れちゃダメ……
ルシア……[player name]……!
彼女はそのふたりの名前を、呪文のように何度も繰り返し唱えた。そうすることで、残っている自分の理性をどうにか繋ぎ止めていた
「王冠」は、この世界に残された最後の希望だ。もし、彼女が死ねば、それも消えてしまう……そうなれば、皆の犠牲が本当に無に帰してしまう
渡さなきゃ……正しい人に……ルシアと[player name]に渡さなきゃ……
ふたりの手に渡りさえすれば……きっと、まだ何かを変えられる……!
その思いだけが、唯一の支えだった。その思いを虚無の中に杭のように打ち込み、白い霧と「王冠」に体と意識を削られながらも、彼女は決して手を離そうとしなかった
どれくらいの時間がすぎただろう
数年?数十年?ジョアンの意識は何度も叩き割られ、貼り直された鏡のようだった。だがひびだらけの鏡面にかろうじて何かを映していた。あのふたりの名前を
ルシア……[player name]……
それ以外は……ほとんどが霞んでしまった
たまに、声が聞こえることがあった。白い霧の向こう、幾重にも重なった虚無の更に遠くで。誰かが泣き、叫び、どこかで聞いたことのある歌を歌っている
世界の……果てで……
彼女は手を伸ばした。だが、何ひとつ掴めない
そしてまた、果てしなく長い沈黙が訪れる
ある瞬間、白い牢獄の奥深くで、微かな震動が伝わってきた
……?
彼女は目を開いた。白い虚無の中で、遠くに1本の亀裂が現れていた
向こう側から何かが激しく引き裂こうとしている。この密閉された空間をこじ開けようとしている
亀裂の隙間から光が漏れ出した。それは、彼女が長い間見ることのなかった、現実世界の温かな陽光だった
自分にどれだけの力が残っているのか、彼女にはわからなかった。もうそれほど多くはない。最後に何かひとつ成し遂げる力しか……
彼女は手を伸ばし、指先は亀裂の縁に触れた――
どうやらフォン·ネガットは約束を破らなかったみたいね。確かに「塔」の中で、思いがけないサプライズを手に入れたわ……
口を閉じるように、白い虚無が背後で閉じていった。彼女は何か硬いものに叩きつけられ、全身の骨が軋んだ
光があまりにも眩しく、彼女は目を細めた。何もはっきりとは見えないが、ただここに空気があり、温度があり、音があることだけは感じ取れた
そのあと、彼女が目の前の世界をはっきりと認識できるようになるまで、長い時間がかかった
なるほど……それが、あなたたちの世界の全てなのね?
ええ、アシュリン
じゃあ、その「王冠」の質点……ドミニクが研究していたって言ってたけど、それもあなたたちの世界と一緒に消えたの?
ジョアンの指先がはたと止まった。彼女は嘘をつく感覚が嫌いだった
ええ
アシュリンはそれ以上追及しなかった。どうやら信じたようだ
……ひとつ、質問があるんだけど
この世界に……ルシアっていう人はいる?
……いるわ
それと、[player name]という人は?
その名前を聞いた代行者は、盤の向こう側で、どこか嬉しそうに眉を跳ね上げた
いるわ、どうしてそんなことを訊くの?
私、あなたの助けになれるかも
どういうこと?
あなたの世界には空中庭園があるって言ってたわね?そこにある「ファウンス」は、構造体を指揮する指揮官を育成するために作られた……
昨日、グレンジャがいくつか装置をくれた。「ファウンス」には間違いなく本物の質点が存在する、元研究者として保証するわ。あなたはそれが必要なんじゃないの?
続けて
宇宙での戦闘を避けるために、ファウンスの宇宙船ごと霧域へ引き込みたいの。できる?
アシュリンは笑った
もちろん。でも、その代わりに多くの人が「消える」ことになるわよ
……
わかってる
でも、そうしなければ――あなたの世界も、あなたの遠い故郷も、いずれ私と同じ結末を迎えることになる
ただ、それが少し遅いだけよ
アシュリンは彼女を見つめていた。その目には、吟味と値踏み、そしてどこか冷ややかな同意が混じっていた
あなたはただ自分の故郷に戻りたいだけ、全てが始まる前に、違う?
この世界の人間は、私みたいな怪物を受け入れない。アシュリン、あなたもわかっているはず。私に他に選択肢がないことを
そうでしょうね。私の敬虔なる「使徒」さん
私が動かせる限りの力は使うわ。ついでに……
私をがっかりさせないで、ジョアン
ジョアンはその場にひとり座り込んだ
周囲の空気は冷たい。彼女は自分の痩せ細った腕を長い間見つめていた
彼女は嘘をついた。この世界のファウンスに質点など存在しない。「王冠」は、彼女の体の中に隠されている
「王冠」は、ふさわしい者にこそ意味がある。だが、彼女の体は持って数カ月、あるいは数週間。信頼を築いてこの世界のルシアと[player name]を探し出す時間はなかった
もしこの世界にもファウンスが存在するのなら、ルシアと[player name]もきっとそこに関わっているはずだ。彼女はそう信じようとした
正しい道を進む余裕はもうない。だから彼女は最短ルートをとることにした
ファウンスを霧域へ引きずり込み、混乱を引き起こし、その中で
…………
彼女はうなだれ、両手で顔を覆った。白い髪が指の隙間から垂れ下がった
(ごめんなさい)
彼女は心の中で呟いた。これから巻き込まれるであろう無実の人々に向けて
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……)
彼女は手を下ろして、涙を拭って立ち上がり、アシュリンが去っていった方向へと歩き出した
1歩、また1歩と
1歩ごとに、足取りは重くなっていく
