<i>「時間は前へ進もうとしない。誰かが時計を弄んでいるの」</i>
<i>「電子時計だけじゃない。ぜんまい式のものも含めて」</i>
<i>「私の腕時計の秒針は震えて1秒進み、次に震えるまでに1年もかかる」</i>
あなたたちを失い、霧域に落ちてから、私の時間は止まってしまった
見て、ここにいる誰もが、似たような過去を背負っている
……私たちは「怪物」なんかじゃない。故郷を失った、流浪者よ
グル……グル……
……うぅ
上昇し続ける中で、虚無が
最初にその体に届いた声は、リオラたち、あの世界の「先遣隊」のものだった
帰ってきたら、一緒にルナを探しに行こうね
タンポポが咲くのを一緒に見に行こうね
「カエルちゃん」っていうのよ……すごく可愛いアニメなの。帰ってきたら一緒に見てみない?
……でも、この世界には、もうほとんど生存者はいないのよ
だから今回は、私たちが前を行くわ
私たちは必ず「扉」を通ってみせる
私の遺品を整理しに来てくれてありがとう。赤い箱の中にキャンディがひとつ入ってるわ。これで少しでもあなたの苦しみが和らぐといいのだけど
あなたはここで少し休んでもいい。でも私たちはまだ足を止めるわけにはいかないわ……ニモ
「私も皆と同じく、異重合塔のルールを書き換え、塔の一部となった……」
「もうすぐ私たちだけの秘密のトンネルができる……その時が来たら、私たちの残した全てを持って、ドミニクがいる時代へ向かって」
「そうだ、この異重合塔から伸びるトンネルは『夢渡る橋』と名付けたいの……素敵な名前でしょう?」
もしみんなの言う通りなら……質点を「別の世界」へ届ければ……全て救えるはず
人類は団結して、ひとつになって、悪者に勝つ
でもみんなは……その任務を果たせなかったのかもしれない
……私もダメだった。ルナを探しに行くこともできなかった
……それなら、私がやる
……私たちの小さな英雄……α……どうして……あなたまで……行ってしまったの……?
ごめんなさい……ル……シア
ごめんなさい、私たちは……失敗した
……
基地に残していって、ごめんなさい。私たちの道を引き継がせてしまって、ごめんなさい。あんなに辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい
ごめんなさい、大人である私たちがちゃんとできなかった。どうか許して
硬く閉ざされていた殻に、ひと筋のひびが走った
…………
長年その毒を飲み続けてきたもうひとりが、掠れた声で口を開いた
……私の時間は止まってしまった。あなたたちふたりが、私の側からいなくなったあの日から
最初はすごく後悔した。あの時、ドームなんか見上げずにふたりをしっかり見ていれば、突然消えたりしなかったかもしれないのに
長い間、ふたりは死んだと思ってた。崩れ落ちた天井の下敷きになったんだって
でも、「王冠」を受け入れざるを得なくなって、自分が見るもの全てを超越する知識に触れた時、ふと別の可能性を思いついたの……
キメラはその顔にジョアンの苦笑を浮かべた
――あなたたちふたりは、ただ私には見えない、触れられないどこかへ行っただけなんじゃないかって
まだあなたたちを見つけて、「王冠」を渡せる可能性があるんじゃないかって
まだ一緒に戻って、私たちがどうしても手放したくないあの世界を救えるんじゃないかって
キメラはαを抱きしめた
ごめんね……こんな形でしか話せなくて……やっと見つけたよ
ジョ……アン……
再会の抱擁の中で、αはほとんど息ができなかった
友情、それとも執念なのか……宇宙の片隅に流れ着いたこの想いに、どんな立場で、どんな気持ちで向き合えばいいのだろう
ルシア、言わなくてもわかってる。私は間違ったことをしたわ。パニシングに仲間を奪われたことを憎んでいるのに、別の世界の仲間を傷つけてしまった
心の中で、何百万回も謝ったわ。でも、どんな言葉も、あなたたちにつけた傷を埋めることはできないってわかってる
ジョアンは再び顔を歪め、叫んだ
――でも、世界ってそういうものなのよ!正しいことをするために、最後のチャンスを掴むために、私は一時的に「間違った」場所に立つしかなかったの!
ジョアンは引き裂かれるように言葉を吐き出した。かつての仲間に顔向けできないと言うように、世界を直視することを拒むように、彼女は両手で顔を覆った
だって、これは皆の命と引き換えに手に入れたものなのよ……ファウンスの3162人の教師と学生……そして全人類……その犠牲を無意味にするわけにはいかないの……
この「王冠」の重さから逃げられる理由なんて……私にはないわ……
私は……旧世界の「生存者」で……あなたがいる新世界の……「罪人」よ
覆われた顔の奥で、暗澹とした苦笑が浮かぶ
私は……自分を捨てるわ
……私たちを物語に必要なスケープゴートだと思って。いい?
キメラは再びもがき出した。キメラの思考は目に見えて混乱していた――複数の意識がせめぎ合い、いくつもの顔が現れ、それぞれが異なる声を上げている
…………
αは、その見覚えのある、混乱に満ちた顔の数々をじっと見つめた。ひとつひとつが、彼女の前に映し出されていく
それらは大きく口を開き、ただ繰り返している
だが同時に、それらは
ごめんなさい、こんな手段しか取れなくて。でも、私たちはこの僅かな理性に縋るしかないの
霧域と「王冠」に心を蝕まれる毎分毎秒の中で、私たちはずっと昔のことを思い出していた。そうでもしないと、とても耐えられなかった!
今すぐ帰ろう。もう二度と、私を置いていかないって約束してくれる?
ねえ、私たちのかわいいルシア。大人が間違っていたわ。あなたを今すぐ連れて帰る。もう絶対に置いていかないって約束するわ
………………
全てを知ったαの唇が震える
でも私は……どうやって、あなたたちを救えばいいの……?
「王冠」を被れば、あなたたちを……家に連れて帰れるの?
――キメラの最後の命綱は、もはや人のものとは思えないため息を漏らすだけだった
霧域の中で、帰る場所を失った全ての者たちが共鳴した
ああああああああああ――
キメラは絶叫した
キメラの上へずしりとのしかかる「王冠」は、キメラに僅かに残っていた理性を引き裂き、完全なる「理性の喪失者」へ変えようとしていた
そう――帰ろう――帰りたい、帰りたいのよ!
こんなに長い苦難の旅は、もうたくさん。終わりにしたいの!
αは捕えられながら、キメラの背後にあるファウンス宇宙船を見た――ファウンスは甚大な被害を受け、今にも崩れ落ちそうだ
船体の上では、小さな白い蛾がまだ羽ばたき続けていた
あれに接近します!掩護を――うっ!
ルシアは刀を手に追い縋る。しかし、霧域の亀裂から次々と溢れ出す「敗者」たちが縦横無尽に突進し、跳び上がったルシアを再びファウンスの船体へ叩きつけた
その人は飛び出し、落下してきたルシアを抱き止め、彼女の刀を船体の外殻へ突き立てた。致命的になりかねない滑落を、落下寸前で食い止める
私は大丈夫です!あれにαを連れていかせるわけにはいきません!
ルシアはすぐさま跳ね起き、人間を引き起こすと、再び全力で駆け出していった
彼女の機体は唸りを上げ、同時にその意識海も激しく揺らいでいた
直感が彼女に告げていた。もし、αがキメラにさらわれてしまえば、取り返しのつかないことになるだろう、と
彼女は即座にファウンス宇宙船へ通信を繋いだ
全員、もう1度私の掩護の準備を……
……!
ルシアは顔を上げた。果てしない虚空の中でふたりのルシアが向き合い、視線が交わった
片方のルシアは、全てを見透かしたように乾いた笑みを浮かべた
霧域の中で予想外の視界からあまりにも多く得たせいか、過剰な情報が彼女を妙に冴えさせると同時に、酷く疲れさせていた
あるいはこの世界の先遣隊が、自分たちの運命が「失敗に終わる」ことを知らずに、まだ必死にもがいているのを目にしてしまったからかもしれない
直視するの、この世界の苦難の旅は、まだ終わっていない
αはついにはっきりと悟った。自分には抗うことをやめる選択肢などないことを。他の世界の意志を引き継ぎ、永遠に止まることなく、もがき続けなければならないのだ
それが彼女の運命、「ルシア」としての起点だ
「王冠」を受け継ぎさえすれば、チャンスはある、そうよね?
その代償が、あなたたちであっても?
キメラはすでに完全な混乱に陥り、支離滅裂となって慟哭することしかできない
αは覚悟を決めた。狂気に堕ちたかつての仲間の腕の中で刀を強く握りしめ、もがき始めた
彼女は歯を食いしばり、片腕を引き抜くと、その腕でキメラの見覚えのあるいくつもの顔を押しのけた
そして、刀でキメラの腕を断とうとした。キメラの胸の亀裂にある「核」――「王冠」――をえぐり取ろうとした。だが、刀はキメラに弾き飛ばされてしまった
くっ!
……刀なんかなくたって!
αは手に力を込め、キメラの胸を突き刺した。青紫色の中から、求めるものを掴み取ろうとする
!!!!
キメラはふたつの頭を低く下げ、それぞれがαの両肩に噛みつき、引き裂いた
問題ない、こんな痛み、どうってことはないわ。皆が歩んできた苦難の旅に比べれば、取るに足らないものよ
キメラはαの両腕をへし折り、αもまた、キメラの首筋や胸元に食らいつき、噛み千切った
その様子は原始の人類が生肉を喰らうかのようだった。そしてどちらも血の涙を流していた
ルシアはαが突然狂気じみた反撃を始めたのを見て、ほんの一瞬呆然とし、それから更に速度を上げて走った
大丈夫です!落ち着いて!私たちもいます!
ルシアの叫びはαの耳には届いていない。彼女は刀を横に構え、斬撃の剣波を飛ばした
しかし距離があまりにも遠く、剣波は到達せず、虚無に侵蝕されて消え去った
……くっ!
ルシアは突然、胸が締めつけられるような感覚を覚えた。Ωコアのエネルギーの稼働も、意識海に渦巻く感情のせいで滞り始めている
早く……何とかしなければ――指揮官!
照準……完了!
通信の向こうからバネッサの声が途切れ途切れに響いた。ついでに弱々しい皮肉が混じる
……お笑いだ。私が一生あいつらの支援だとでも?
――ふざけるな!発射!!
爆発的エネルギーがキメラに叩きつけられ、αを連れて逃げようとした進路を数度ずらした
ルシアと人間はともに飛び上がり、進路を阻む「怪物」を何体も斬り倒した
怪物を斬った瞬間、彼らの情報がルシアに流れ込み、無数の失敗の記憶が彼女の意識海に痛みを与えた
そう……霧域には、帰る場所を失った者たちしかいない
でも私はもうこれ以上、帰る場所を失いたくない
ハァッ!
白い蛾は高速で宙へと舞い上がり、燃え盛る刃をキメラの体へ振り下ろした
痛い、痛い!
うっ!
キメラの腕が痛みで緩み、αはキメラの懐から転がり落ちた
人間はしっかりとαを受け止めた
――キメラに食い荒らされ、全身傷だらけになったα
αはまたもや見覚えのある顔を目にすることになった……彼女は苦しさで思わず目を閉じ、自分を抱きしめる両腕の感触を感じていた
(私は、どんな顔であなたと向き合えばいいの……?)
……!
その人はαの頭を抱え、額を押し当て、耳を引っ張って叫んだ。霧域はあらゆる情報を劣化させる。声も例外ではなかった
だが、αはぼんやりと思い出していた。とうに消え去った世界で、ふたりが重い宇宙服を着て、宇宙の中でぎこちなく寄り添い、互いに想いを伝えていたことを
――通信チャンネルを切り、何の声も届かないまま、こんな風にただバイザー同士を押し当てていた
それでも「情報」は、確かにお互いの心へ届いていた
額と耳が声に共鳴し、彼女に目を開かせようとする
その人は彼女の目の前で、どこか見覚えのある口の動きをしていた。ルシアもまた、必死に彼女の傷を処置している
…………
……そうよ
もう二度と……帰る場所を失わないために……家に……帰るために
……私はまだ、抗える
大丈夫……
私は、やれる!
αはふらつきながら体を起こし、ルシアが差し出した刀を受け取った。腕の傷は霧域の侵蝕に抗いながら、再び力を沸き上がらせた
バネッサはデッキに立ち、空中の複数の人影をじっと見据えている
直後、彼女はひと筋の赤い光が閃くのを目にした。キメラが大きなダメージを受け、すぐさま悲鳴を上げて後退している
キメラは溺れるように手足を振り回し、周囲の霧を切り裂いている。亀裂からは更に多くの「失郷者」が溢れ出し、小さな虫たちに襲いかかった
少し離れた場所、灰色の中に漂う人類の方舟の上では、通信塔が粘り強く光を瞬かせていた
通信塔は守り切ったし、空中庭園からの信号も受信した……ルシアとあの命知らずをキメラのもとへ送り出せた……
バネッサが細々と数え上げて現状確認をした直後、宇宙船が揺れ、彼女はよろめいた
彼女はなんとか体を支えた
ハッ、順調なのに、支離滅裂だ
次は何を?そう、起動だ……記念碑のビーコンを、再起動して……メインエンジンを再起動……くっ!
彼女は腕の傷口を強く押さえた。それでも血は激しく流れ出している。命も同じように流れ出し、意識が薄れていく
彼女はなんとか顔を上げ、2匹の小さな蛾がキメラに向かって飛んでいくのを見つめていた
そして、皮肉混じりの声で笑った
やっとわかった。生まれながらにして、星の果てへ向かう使命を持つ者もいる
一方で、人生を地上やデッキに縛られ、ただ「惨めに」誰かの背中を見上げるしかない者もいる
彼女は空洞になった眼窩に触れた
だが、それこそが私たちの役目だ――私たちの他に、誰が君たちみたいな馬鹿で狂った連中を支える!?
彼女はゆっくりと無傷の腕を上げ、空にいるグレイレイヴン指揮官とルシアに向かって頷いた
アリアナに……よろしく
彼女は全体通信を開いた
群星に……よろしく
彼女は、次に命を賭けて成し遂げるべき目標――記念碑に向かって歩き出した
――総員訊け!
広場の記念碑付近にいる者は、全力で碑内のビーコンを起動せよ!
それ以外の、生きて動ける者は全員、メインエンジンの再起動へ向かえ――中央制御室に向かうか、あるいは直接エンジンによじ登っても構わない!
我々は、全力でグレイレイヴン指揮官とルシアを支援する!
