冷たい風に窓があおられている
向かって立つ槐南の髪は乱れ、暗く濁った両目からは感情を読み取れない。常羽はあんな冷徹な目をした槐南は初めて見た。まるで氷の吹雪が目から噴き出してくるようだ
ふたりは睨み合いながら立っていた。その間には冷え冷えとした空気だけがある
その通りだ、騙してた
なんでだよ?
「俺を危ない目に遭わせたくないから?それとも自分がTa-193コポリマー適性検査をパスできなかったから、交易会に入るために俺を利用した?」
教える義務はない……
資格が必要だった。そのためには君の身分が一番便利だっただけだ
俺の……身分……?
最初から、僕の目的は売買される資格だった。あの富豪は君に接近するために雇った役者だよ
君に近づくにはかなり時間がかかった。だがうまくひっかかってくれて、努力が実ったよ
なぜ俺なんかを……
俺なんか?誤解するなよ、君はリストの中のひとりにすぎない
目的のためにいくつも計画を立てている。アディレも単なる駒のひとつだ
アディレの商人とはとっくに連絡が取れている。彼らは生きた商品が欲しいから、僕自身が商品になる手段が必要だった
そのためには大いに時間を費やしたよ。リストを作ったり、アディレの悪い噂を流したり、適切な目標を選んだり……
世論がどれほど簡単に人々を騙すか、笑えるよ
根拠もない噂をいくつも立てて、必要な時に少し煽ってやればいい。人は真実より、自分がそうと望むストーリーを信じるのさ
しかし、あの構造体は——!
簡単に人を信用しすぎだ。君の知り合いの物乞いにいくら渡したと思う?簡単に芝居をしてくれたぞ
だから、お前はアディレとの間に……
しつこく聞かれたら、適当に理由を作って誤魔化すしかないだろ
でも感謝してる。君の「流れに乗る」で閃いて今回の計画ができたんだ。僕はただ流れに乗っただけだ
突然の沈黙、妙な質問、数日姿を消すこと……全てに説明がついた
常羽は震えた
なぜ……なぜそこまでしてアディレの商品になりたいんだ……?
商品になれればこの船から離れられる。この化け物から離れられる……
船から……出たいのか……
ずっと前から知っているんだろ。違うか?
船の外は侵蝕体だらけだ。物資と浄化装置がないと生きられないぞ!
じゃあ他所から来た商人は、なぜ陸で生活できてるんだ!
それに侵蝕体を見たことあるのか?それも「枷」がお前に植えつけた妄想かもしれない。今が夢か起きているのか、どうすればわかる?!
し、知らない……きっと見たことはあるけど……思い出せない……
うっ……!頭が……痛い……!
知ってるか?
全てはあの夜からだった。過去を思い出せないことに気づき……世界が本当かどうかを疑い始め、その苦しみから逃れられない
僕こそなぜと聞きたい
まるで機械のように毎日を過ごし、これから数十年経とうが、なにも変わらない
そんな日々を過ごしたいか?
いや……違う……
「枷」は我々の行動まではコントロールできないが、船の人々は「枷」に弄ばれている。皆それに翻弄され、悪魔と化してしまう
それに、その馬鹿らしい独りよがりの正義……
お、俺は……
船にいる全ての人や構造体、君も含めて、みんなそれが事実だと知りながら、その幻想を受け入れている。おかしいと思わないか?
みんな、自分が見たいものを見て、信じたいものを信じているだけ。たとえそれが真っ赤な嘘だとしても、それが一番楽だから
多くの人は華胥の甘い夢に慣れてしまった……むしろそれを喜んでいる
気持ち悪いんだ。皆の運命を弄ぶ「華胥」も、自堕落的に跪いてそれを賛美している人類も……全部が気持ち悪い
「船はいずれ陸に着く」という偽りの希望さえあれば生き続けられるのかもしれないが、もう運命に弄ばれたくない
人の自由意志を食い物にする化け物から脱したい。自分が誰だか知りたいんだ。本当の世界に行って自由を手に入れたい!
槐南……俺は、俺はそれについて深く考えたことはなかった……でも……
君もその同類だ
違う!
お前の話、俺は真面目に聞いている。全部覚えているし、ちゃんと考えている……
もういい、結局君はほかのバカどもと同じだ。真実に背を向け、馬鹿げた未来を信じているだけだ!
槐南、なんで最初に話してくれなかった!
本当は帰りたいけど、仕方なく船に残っている。もしそれを最初に教えてくれれば——
常羽、君はここの生活に満足している。いつか家に帰れるという幻想を抱いたまま、自分が思う正義とやらを貫けばいい。その夢を砕く気はないよ
全て忘れて自分の生活に戻れよ。俺はただの買われた商品のひとつ、僕たちの出会いも君の人生のひとコマにすぎない。今引き返せばいい思い出のままで終われる
無理だ!全てを知ったのに忘れろって言うのか!
選ぶチャンスは与えた。真実と虚りの狭間で、君自身が選んでいたんだ
違う!!
最初から俺を信じてないだろう!俺もその他大勢と同じだと……
本当に疑っていなかったと思うか?
この船では自分の敵を知らないことが一番怖い……違うか?
そんなことを、お前の前で言った覚えはない
常羽……甘すぎるよ
もし、その時に俺が真実を選んでいたら、全てを教えるつもりだったのか?
……それは重要なことか?
これだけ教えようか。もし君が真実を選んでいたら、僕は今日、君を殺さずに済んだ
この愚かなユートピアで暮らしたいなら、その夢をかなえてあげるよ。僕が身代わりになったことは絶対に言わない
槐南は武器を構えた。刀の切っ先が月の光を受けて冷たく光る
誰も信用するな。そう君が教えてくれたんだ
……槐南、お前は……俺の信頼に……値しない!
お前が望むなら、わかった。来いよ