最後の血の花が散り、腐った肉塊は水たまりとなって地面に落ちた
森の中で揺らめく温かな灯火の下で、終焉に抗いながら語られぬ悲しみを聞き取り、未練ある魂を彼岸へと導いた
672――おやすみ、カーソン·ドラー……君の物語はわかった、その生涯は決して無駄じゃなかったよ
疫の騎士はランプを掲げていた。その炎は次第に弱まり、やがて赤子がそっと目を閉じるように、音もなく静かに消えた
……皆、おやすみ
彼はランプの蓋を閉じ、静かに呟いた
騎士は血に染まった森に目をやったが、すぐに耐えきれず視線を逸らした
彼らに最後の夢を紡いだ。短い夢だけど、魂はきっと覚えていると思う
そうすれば、彼らが眠る時に記憶の拷問を受けずに済むから
生死の法則が再構築された時、もしかしたらアケローン川に還って、再び人間として生まれ変われるかもしれないし
マスクを外すと、霧の中の薬草の香りはいつの間にか消えていた
ゴホッ、ゴホッ……
白髪の青年はランプを置くと同時に、口元を押さえて咳き込んだ
人間はそっと近付き、ともに木の下に並んで座った
大丈夫……少し休めば平気
彼は平静を装って微笑もうとしたが、額には冷や汗が滲んでいた
バンジは小さく頷き、荒かった呼吸は少し落ち着いたものの、声はまだ掠れていた
ちゃんと意識を制御してみせる
彼はすでに水を半壺も飲み干していたが、それでも動悸は収まらなかった
蒼白な顔が更に青ざめていくのを見て、人間は決意を込めて言葉を紡いだ
琥珀色の瞳に一瞬ためらいが浮かんだが、すぐに信頼の光がそれをかき消した
わかった。でも絶対に深入りしないって約束して
僕は夢の中で君を守る。でも、君も自分で自分を守って
約束を交わしたあと、言葉はいらなかった。人間は木にもたれて瞳を閉じ、夢へと沈んでいった
血、炎、轟音――夢の中で何度も味わった情景が、再び四肢を貫く
魂はまるで柱に絡まった凧のように、暴風雨の中で怯え、震えていた。どれだけ前に進もうとしても動けない
空を覆い尽くす吸血イナゴが視界を塞ぎ、太陽は赤い空の中で力なく脈動する。目に映るのは凄絶な赤のみ――
…………走って………………
早く、走って!!
背後から幼い声が聞こえた。振り返ると、数人の子供が手を取り合い、裸足で原野を駆け抜けている
そのうちのひとりが躓いて倒れると、すぐに吸血イナゴが血の匂いを嗅ぎつけ、集まってきた
早く立って!
仲間たちは少し離れた丘の上で必死に叫んでいたが、イナゴに囲まれた子供は恐怖に凍りつき、動けずにいた
駆け寄ってその手を引こうとするが指先は実体を持たず、彼の体をすり抜け、胸に咲く血の花の中に溶けた
うわぁあぁあああ!!!!
幼い体は瞬く間に吸い尽くされ、痩せ細った干からびた殻だけが地面に残された
肥え太った吸血イナゴたちは口器を引っ込めて翅を広げ、再び悲鳴の響く方向へと飛び立った
嘆きと悲鳴が地に滴る血と溶け合い、ここにまた新たな苦しみが芽生えた
――――
空を覆う赤い光の中、天から降りてきた蒼白の巨大な手が、激しく揺れる大地を押さえつけた
地の底から湧き上がるような苦悶の唸り声が、万物を震え上がらせる
仰ぎ見ると、全身から白い光を放つ巨人が山の間から立ち上がり、赤い血の太陽に向かって咆哮を上げていた
巨人の一歩一歩が荒野を震わせ、木々も山々も揺れて軋んでいた
や、やだ……!今度はなんだよ!
吸血イナゴの次は巨人!?こんな世界、おかしいよ!!!
突然、見知らぬ記憶が人間の脳内に流れ込み、胸に貫かれるような痛みが走った。しかしそれも、温かな白光にすぐさま引き剥がされた
意識を取り戻した人間は、ある子供が命を落とす直前の記憶を読み取っていることに気がついた
しかし、悪夢の再生は止まらない。群れをなすイナゴは疲れを知らず、血に染まった大地を繰り返し蹂躙していた
周囲の子供たちが、ひとり、またひとりと倒れていく。イナゴに引きずられていく者もいれば、その場で息絶える者もいた
……ごめんなさい、私が食い止められなかったから……
荒野の真ん中で、白衣を着たひとりの女性が変形した燭台を握りながら、血だまりの中で膝をついて何度も子供たちの亡骸に謝り続けていた
至高の御方でも、悪魔でも……誰でもいいから、どうかご慈悲を……せめてひとりだけでも生き残らせてください……
この子たちは……何も悪くありません…………
吸血イナゴが祈りの言葉を理解するはずもなく、再び蠢き始め、巨人の向かう方向へと群れをなして飛び立ち、その巨体にまとわりつく――まるで黒い甲冑のようだ
そして巨人の足下に立ち尽くしていた子供/人間>は、ただただ額を押さえて激痛に耐えながら、呆然とその光景を見つめるしかなかった
その時、耳元で微かなため息が聞こえた
何度もこの光景を目にすると、もはや人類という種族に未来があるのかすらわからなくなるんだ
もし今日、運よくこの血の牢獄を抜けて生き延びたとして……明日は?
1年後、10年後は?こうした絶望の中で、家族や伴侶が血だまりに沈むのをずっと見続けなければならないのか?
虫のように何度も喰われ、そしてまた新しい命が生まれ、同じ苦しみを味わい続ける……それが、人間の未来?
もしも目の前で起きている全てが、聖堂が下す人間への審判だとするならば
神よ、我々は一体どんな罪を犯したというのか。どうすればその罪を償えるのか?
我々はただ、ひと筋の明かりを求めているにすぎません。救われなくてもいい
せめて、甘美なる死に向かう道をお示しください――
バンジが長い眠りから目を覚ますと、人間が彼の傍で静かに夢の中に沈んでいた
そっと肩を揺すってみたが、人間はただ眉を深くひそめるだけで、目覚める気配はない
意識を取り戻したばかりの騎士は、それ以上起こそうとはしなかった。血の契約者にそっとコートをかけ、オイルランプを掲げて木の下から離れた
…………
森の中央に倒れている男は、なおも虚ろな目を開き、醜く歪んだ顔で天を睨んでいた
その周囲の木々には、無数の「仲間」たちの姿があった。皆痩せ細り、生前に血を吸い尽くされていた
白髪の青年はそっと膝をついて男の瞳を閉じてやり、指先を額に静かに当てた
瞬時に、乱雑で錯綜した記憶の奔流が読心者の脳を駆け抜ける
どこかの暗い地下にある儀式の場。部族の装束を着た数十名が篝火を囲み、口々に呪文のような言葉を唱えていた
その中心にいたこの男は厳かな表情を浮かべ、燭台を高く掲げると、激しい叫びでその詠唱を遮った
時は来た!
我々の身は再び深淵に沈み、その魂は「カルクサ」が持つ矛に鍛え直される!
我に答えよ――贖罪の道を選んだことに、後悔は?
祭壇に集った者は一斉に両手を挙げ、熱狂的に応えた
悔いなし!我に悔いなし!
では儀式を始める!
司祭は縄で縛られた少女の前に歩み寄り、鋭い刃を掲げた
縛られた子供は口を封じられ、涙を溢れさせながら必死に後ずさろうとするも、まったく身動きが取れなかった
来世に、大地の祝福があらんことを
信者たちは次々とローブを脱ぎ捨て、五芒星の紋章を露わにした
今こそ、生贄の儀を――!
言葉が終わると同時に、信者たちは一斉に刃を自らの喉元に向け、ためらいもなく気管を切り裂いた
シュッ――
鮮血が地面に激しく飛び散り、祭壇の溝へと流れ込み、奇妙な赤褐色の紋様を描き出していく
幾十もの体が意識の束縛を断たれて地面へと崩れ落ち、新たなる「供物」と化した
その瑞々しい肉体は瞬く間に命を失い、死物となったが、儀式の場はただ静寂を保ち、何の変化も起こらなかった
…………?
なぜ自分は殺されなかったのかと戸惑う少女の前に、黒の静寂を割って、もうひとつの細身の影が現れた
ヒース、今回の儀式も失敗ね
これからどうするの?
白髪の少女は頭骨の仮面を持ち上げ、無表情で清らかな顔を露わにした
聖女様……恐らく血に宿る魔力が足りていないのでしょう。しかし問題ありません、我々にはもうひとつの生贄がありますから
あの子は、私が丹念に選び抜いたのです。魔力の濃度も極めて高い。あと1度試せば結果が出ます
「ヒース」と呼ばれた男は祭壇の下に縛られた少女を指差した。少女は「ううっ」と悲鳴を漏らし、必死にもがき始めた
もういいわ。あの古城であれだけの異郷の民を殺したのに成果も得られず、むしろ災厄を招いたでしょ
ヒースに「聖女」と呼ばれたカナリーは静かに膝をついた。慈愛に満ちた表情を浮かべながら、地面に倒れた同胞たちひとりひとりの瞼を閉じた
この聖壇を、異郷の民の穢れた血で汚さないで
……かしこまりました
では聖女様、この私が生贄となりましょう
黒いローブの男は骨製のナイフを抜き出し、今度はその刃先を自らの胸に向けた
……ヒース!
部族の聖女は動揺を滲ませたが、記憶の主は1歩も退かなかった
聖女様、もはや迷っている時間はありません
古城が陥落した今、やつらがここにたどり着くのも時間の問題です。それまでに我々は正しい召喚方法を見つけなければなりません
聖壇が穢れてはならぬのなら、私自身が生贄となりましょう
そう語ったあと、ヒースは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、強い責任感に駆られて言葉を続けた
……聖女様。あなたはどうか部族の最後の「灯火」として、この偉大なる使命を成し遂げてください
…………
白髪の聖女は彼を見ようとはせず、ただまっすぐに顔を上げて、その想いを受け取った
……わかったわ。私はあなたたちの意志を継いで、進む
どれだけの時間がかかっても、私は必ず「カルクサ」に繋がる方法を見つけ出してみせる
ハルカ/部族>は……再び、この地に栄光を築くのよ
ヒースは黙って頷き、それ以上の言葉を交わさず、ナイフを自らの胸に迷いなく突き立てた
体が崩れ落ち、視界がぐるりと回転した。倒れる時、手の平から温かな血液が溢れ出し、赤褐色の液体が再び地面の紋様を刻む溝へと流れ込むのが見えた
祭壇の上で燃え盛る火が視界の端に入る。その火は記憶の主の死に呼応するように、ほんの一瞬だけ強く揺れた
……火が!祭壇がヒースの血に反応してる……!
耳元にカナリーの喜びに満ちた声が届く。しかし、もはや彼女の表情を確認する力は残っていなかった
体温がゆっくりと失われていく。けれどその代わりに、胸の内に灯った喜びは、むしろ激しさを増していった
(よかった……我々はようやく、救済への鍵を見つけた……)
記憶が終わる直前、地面に縛られた少女の姿が見えた。少女は恐怖に満ちた目で記憶の主を見つめている。彼女の顔は血の気を失い、世界への絶望を刻んでいた
673、ヒース……狂気に満ちた記憶だ
おやすみ……僕には君の罪を赦す資格はない。でも、君の人生はもう終わった。アケローン川の渡し守がその罪の重さを裁くだろう
悪魔の騎士がランプをしまい、立ち上がろうとした時――木々に吊るされている死体が、記憶の中で見た信者たちであることに気がついた
しかし、連続殺人現場で見た死体と異なり、彼らの首には自ら切り裂いた明確な痕跡があった。その傷の位置も深さも、まるでひとつの魂を共有していたかのように一致していた
バンジは目を閉じて思い返した。脳裏に、古城で目にした光景が鮮やかに蘇る
ムーンベラドンナ、シルバーヴェインポピー、デリリアムミント……興奮作用と幻覚を引き起こす薬草ばかりだな
薬草使いがいるのか……聞いた話より状況は厄介そうだ
精神に異常をきたした信者、繰り返し漂う薬草の香り、そして突然古城の隠し扉から現れた少女……
彼は頭の中で、点と点を結び合わせていく
カサッ――背後で枯れ葉を踏む足音がした
危機を察知したその刹那、彼は素早くリボルバーを構え、音の方向へと振り向いた。濃霧の中、ゆっくりと歩み出てきたのは、以前一度だけ対面したあの白髪の少女だった
「疫の騎士」
彼女は初めて出会った時と同じように、素直で従順な笑みをその顔に浮かべてみせた
こうなるとわかっていたら……あの時、あなたを始末したのに
リボルバーのシリンダーが回る音が響く――彼女を迎えたのは、かつてとはまったく別の敵意だった
君の目的は「カルクサ」となって天災を招くこと?
いいえ。誤解してるようね、「カルクサ」と天災は最初からなんの関係もないわ
少女は首を傾げながら、無造作にゆったりとした足取りで近付いてくる。その体からは薬草の香りが濃く立ちのぼっていた
「カルクサ」と天災を結びつけるのは、あなたたち異郷の民の勝手な思い込み
「カルクサ」はそんな穢れた血に理解され、触れられるような存在じゃないの
じゃあ、「カルクサ」って一体何?
罪のない鮮血に染められた、この大地そのものよ
カナリーは足を止め、山羊の頭骨の下に隠れていたその瞳に、初めてあからさまな殺意を露わにした
ここに立っても、まだ思い出さない?ここで、何が起きたのかを
何世紀も前、部族/ハルカ>も同じように、地に膝をついて懇願した。手を出さないでと、せめて何も知らない子供たちだけでも助けてくれと……
でも時は流れ、法則は崩れ、天災が襲い、あなたたち/異郷の民>が狩られる側になった途端、ようやく気付いたの?この全てが不公平だってことに
あはははは!……人間/異郷の民>って本当に身勝手な生き物だわ!
狂気に取り憑かれた少女は被っている山羊の頭骨を両手で押さえ、大声で笑い続けた。その背後からは幾筋もの黒い霧が噴き出し、銃を構える青年に襲いかかった
毒草の香りを含んだ黒い霧がバンジの体を取り囲み、渦を巻くように絡みつく――だが、長くは続かなかった
次の瞬間、青い光が霧の中心から放たれ、騎士の手にあるランプが黒魔術の濃霧を全て吸い尽くした
君たちがどんな過去を背負ってきたのか、僕にはわからない。でも、死で問題を解決しようとするなら……
騎士は手に持った銃を掲げた
僕も、刃をもって応えるしかない
それよ、それが私の目的よ!
少女は身を屈めて5本の指を鋭く曲げ、獣のように唸りながら青年に向かって突進した
バンジは身を翻し、銃身をかざして空気を裂く爪撃を防ごうとした。しかし少女の体は彼の脇をすり抜け、そのまま霧の中へと姿を消した
――グレイレイヴン!
即座にカナリーの狙いに気付いたバンジは、振り向きざまに霧の中へ数発の銃弾を放った。だが、全て空を切っただけだった
カサッ……
濃密な霧の中、遠ざかる足音が微かに響いた
霧はほどなくして晴れ、空気が澄み渡る頃には、木の根元で眠っていたはずのその姿はどこにもなかった