2頭の駿馬が霧に包まれた森の中を抜け、やがて目立たない小さな家の前にたどり着いた
まだ完全に回復していないバンジは手綱を引き、馬をゆっくりと古びた門の前で止めた
……ここは僕が設立した孤児院。僕の仮住まいでもある
ここにいるのは、近くの村から助け出した子たち。彼らの家族はほとんど天災で亡くなってる
バンジは少しの間考えたあと、覚悟を決めたように隣の人間へと話を続けた
……ここに来るまでに、ちゃんと話せなかったことがある。今のうちに正直に話しておきたい
人間は頷き、彼と一緒に小さな庭に足を踏み入れた
「列車奪取事件」の数日前――
「列車奪取事件」の数日前――
朝、小鳥のさえずりで目を覚ました青年が腹部に手を当てると、裂かれるような痛みが消えていることに気がついた
不思議に思い上半身を起こすと、視線の先で、どこか見覚えのある人物がベッドの縁に腰掛けていた
灰色の衣を纏った人間は彼に白湯を差し出し、冷え切った体を温めてくれた
ありがとう。君は、その……
まだ口にしていなかった疑問は、自然と解消された
人間は袖を捲り、傷と血痕だらけの腕を見せた
……そうだ、古城の子供たちは……!
その言葉が、青年の脳裏にある断片的な記憶を呼び起こした。彼は激しい頭痛に耐えながらも立ち上がろうとした
リビングデッドしか……いなかった?
彼は困惑しながら、その言葉を繰り返した
儀式の場所には……
人間は歩み寄り、地面に置いていたランプをバンジに渡した
祭壇の火はすでに消えていて、暗褐色の血にまみれたそこには、ひとつの粗雑な木彫りが埋まっていた
それは山羊の姿をした彫像で、四肢を折り曲げて祭壇に伏し、まるで処刑を待つ生贄のようだった
……間に合わなかった……止められなかったんだ……
彼らは子羊じゃないのに……
バンジは木彫りを掘り出し、台座にこびりついた血を丁寧に拭うと、慎重にバッグにしまった
……もう手がかりはなさそうだ。行こう
逃げた司祭が、ここに戻ることもないだろうし
彼は俯いて数秒考えたあと、振り返って背後の人間を見た
グレイレイヴン、君に助けられた命だ。僕は君についていく
ただ、出発する前にやらなきゃいけないことがある
ここには多くの罪なき命が眠ってる
もう誰にも利用されないように、彼らが静かに眠れるように……この祭壇を破壊したい
人間が腕を振り上げると、どこからともなくワタリガラスが舞い降り、肩に止まった
大将、用事か?
これをぶっ壊すには結構な魔力が必要だな。騎士と血の契約を結んだばかりだし、もう少し休んで――
おい!頭をつつくんじゃない!わかった、やりゃあいいんだろ!
ワタリガラスが嘴をパクパクさせ、文句を言いながら飛び去っていった
白髪の騎士は隣の人間を見つめた。その表情には、どこか申し訳なさそうな表情が浮かんでいる
……無理しなくていいよ
君は僕を助けて、契約まで結んでくれた。そして狂信者たちを憎んでいるようにも見える
人間に向けられたまっすぐな澄んだ目に「探る」意思は一切なく、ただただ本心を知りたいようだった
どうしてこんな偶然が?……それに、どうして僕を?
頷くバンジに驚いた様子はなく、むしろその答えを予想していたようだった
聖堂を倒す方法を見つけるために、天災の発生地に近付いたってことだね
……
彼は静かに深呼吸し、何か大きな決意を胸に刻むと、グレイレイヴンに手を差し出した
僕の目標は天災を終わらせて、世界に安らぎを取り戻すこと
聖堂が引き起こす災厄で、多くの命が奪われた。もし君もこの世界を救おうとしているのなら……
僕は喜んで君とともに、この「毒された世界」を浄化する旅に出る
時は再び現在へ――
時は再び現在へ――
青年が髪を靡かせながら馬から降り、正門を開けた瞬間――元気な子供たちが歓声を上げながら、リスのように飛び出してきた
バンジ兄ちゃん、おかえり!
バンジ兄ちゃん、前に約束したお菓子は?
子供たちは門の側に立つ見知らぬ客人などお構いなしに、わちゃわちゃとバンジに飛びつき、お土産を要求した
リスの群れの真ん中に立つ青年は慣れた様子で、ポケットから次々と飴を取り出し、子供たちに手渡していった
その手つきはまるで手品のようだった。ひとつのポケットが空になると、次のポケットから新しい飴が出てくる。まるで歩くクリスマスツリーのようだった
入って。この子たちが迷惑をかけることはないから
バンジは子供たちの相手をしながら、顔を上げて門の側に立つ人間に声をかけた
バンジは少しだけ口元を上げ、それを返事とした
やがて興奮した子供たちを寝かしつけ、部屋が静かになる頃には時計の針が1周していた
バンジの案内で、血の契約者は地下の秘密工房へと足を踏み入れた。扉を開けた瞬間、壁一面にびっしりと貼られた地図と写真が目に飛び込む
部屋全体はまるで探偵事務所のように整えられており、壁に貼られた資料には吸血イナゴの災変だけでなく、あらゆる地域の殺人事件の調査報告もあった
資料は時系列に沿って整頓されており、犠牲者の死因はいずれも「失血死」と赤い文字で記されていた
資料が貼られた壁以外にも大きな棚が並んでいて、格子状の引き出しにはそれぞれ薬草の名前が書かれたラベルが貼られていた
白髪の医師は髪を束ねながら、無造作にいくつかの薬草棚を開ける
うん。君は適当に座ってて
柔らかな椅子に腰を下ろすと、テーブルの上に湯気を立てる薬草茶がそっと置かれた
舌の先にほのかな甘みが広がった
魂繭菊、銀露草と眠苜花。どれも鎮静効果があるんだ
バンジは頷いて礼を示すと、壁際のメモボードを引き寄せて本題に入った
数年前から、密かに吸血イナゴの災変の起源を追ってきた
吸血イナゴの災変は、本来は数年に一度しか起きないものだ。でも最近は失血死した死体が立て続けに見つかっていて、どれも吸血イナゴに襲われた時の状況と似てる
僕はこれらの事件を「連続放血殺人事件」と名付けた。そして調査した結果、血抜きによる殺人は生贄の儀式と、部族の信仰と関わっていることがわかった
死者と部族との関係を明らかにするために、あの古城にひとりで潜入したんだ。その時、儀式の現場で想定外の天災が発生して……
でも、手がかりになるものは見つけたよ
彼はあの祭壇で見つけた山羊の木彫りを取り出し、光にかざして底を見せた。そこには歪んだ五芒星の紋章が刻まれていた
五芒星の中央には、穴を開けるかのように深く抉られた点の刻印がある
この紋章は、大図書館に記録されている古代部族の遺民が持っていた「旧印」とよく似てる
書物には、これは神託だと書いてあった。部族はこの神託に沿って儀式を行い、聖神と交信していたらしい
そして古城の信者たちの発言から推測すると、あの時はその儀式をやっていた……
このような生贄の儀式を各地で繰り返すこと自体が、儀式の「手順」なのかもしれない
殺人事件が起きた地点を、発生順に地図上で繋いでみると――
バンジは人差し指で地図上の印を指でなぞりながら、宙に星形を描いた
大きな五芒星が浮かび上がる
その星の中心に、ひとつの町がぽつんとあった
人間はその町の名前を口にした
まだ推測にすぎないけど、単なる偶然だとは思えない
連続殺人事件の犯人……それが部族であれ、別の人物であれ、きっと何か目的があってこの儀式を念入りに計画したんだと思う
僕たちが先回りすれば、もしかしたら次の吸血イナゴの災変を止められるかもしれない
そう言って立ち上がろうとしたその時、バンジが手を上げて制止した
……グレイレイヴン。出発する前に、君に伝えておきたいことがある
バンジはメモボードを壁際へと戻し、人間の側に身を寄せた
僕たちが契約を結んだ時……君が見た夢は、僕が小さい頃からずっと見続けてきた悪夢だ
そう。何度目を覚ましても、どれだけ時間が経っても、悪夢の中で僕はいつも同じ場面に閉じ込められる
小さい頃、孤児院に来る前の記憶がなかったんだ。皆からは、僕がひとりで彷徨っていたところを養母が偶然見つけて、孤児院に連れて帰ったと教えられた
でもしばらくすると、僕を引き取った孤児院は天災に遭い、僕だけが生き残った
それ以来、あの天災の日の光景を夢の中で繰り返し見るようになったんだ。そして、その度にあの天使に問い詰められる
時々他の夢も見るけど……それも全部天災と審判に関わるものばっかり
彼の表情は穏やかだったが、語り口からは、それが口にしたくない記憶であることが伝わってきた
でも、君と契約を結んでから……不思議なことに、僕の夢に「経験したことのない記憶の断片」が入り込んでくるようになった
君の夢を覗いてしまったかもしれない
……どれも断片的なものだから、よくわからない
それは……
彼のためらいに気がつき、人間は言葉を付け加えた
……わかった
逃げずに向き合い、白髪の悪魔は指先を上げて、魂に触れる準備を始めた
――
白く淡い光が指先から立ち昇り、人間の額に溶け込んでいく
短い沈黙の後、バンジの琥珀色の瞳がゆっくりと開かれた
……見えたよ。でも記憶がバラバラすぎて、全体像はわからなかった
……君、そこまで過去を知りたいと思ってないでしょ?
……
……ちょっと待って
再び立ち上がろうとした人間の動きを、バンジが止めた
もうひとつ訊きたいことがある。君は記憶がないと言っていたけど……
それならどうして、危険を冒してまで聖堂と戦おうとしてるの?
……天災が終わったら、一緒に君の記憶を探しに行こう
その言葉の後、思いがけず続いたのは――
僕はもう悪魔になった。つまり、ほぼ不老不死ってこと
彼は小さくあくびをしながら、倦怠を滲ませた声で静かに続けた。しかし、その表情はとても冷静で真剣だった
こんなに長い時間をずっと同じ悪夢に縛られ続けるなんて、耐えられないよ
だから決めた。全てが終わったら、僕は悪夢を終わらせる方法を探しに行く。そして、君は記憶を取り戻す旅に出る……
真剣に語っていたはずなのに、バンジの目は次第に閉じていった
でも、その前に……ふわぁぁ……ダメだ、急に眠くなってきた……
たくさんの記憶を見たから……疲れたのかも……
とにかく……今日はゆっくり休もう……
彼は柔らかい抱き枕を人間に押しつけ、ふらふらとソファに寝転がった
ベッド、使っていいから……おやすみ……
テーブルの薬茶ポットが音を立て、自動的に火が消えた
オイルランプの灯りも静かに夜の闇に溶け、部屋は再び静寂に包まれた
人間はそう言ってそっと彼に毛布をかけたあと、柔らかいベッドに横たわった
その夜は誰も悪夢を見なかった。朝の光が差し込む頃、ふたりはもう新たな旅路を進んでいた
数日間立ち込めていた森の霧はまだ晴れず、ニューゾティークへ向かう道の視界は悪く、ふたりはゆっくりと馬を進めた
モリガンは退屈そうに2頭の馬の上を飛び回り、空をぐるぐると旋回した末に、人間の肩に降り立った
この霧の中は絶対に何かいるぞ、ワシの羽全てを賭けてもいい
もしかしたら部族のアジトかもしれないぞ?こんなところに突っ込むなんて、あんたらふたりくらいだ
濃い霧の中、巨木が視界を塞ぐ。森の古木たちは、まるで黙する守衛のように山道の両側にそびえていた
知らないのか?部族ってヤバいんだぞ?巨人を召喚できるって伝説もある
巨人?
焦土の辺境の歴史に詳しいバンジは、興味を示した
ああそうさ。あれは千年前、まだ枢機主神がいた頃の話だ
噂では部族の聖女が白い巨人を召喚して、山や川、谷までも全て踏み潰したらしい。だから、三界にヤツらを敵に回す者はいなかった
でも、その真偽は誰も知らない。部族が大人数で最後に姿を現したのは、もう数百年前の話だからな
まぁ、もしホントにそんな切り札があったんなら、今頃森の中で野人みたいな生活なんかしてないだろうけどな!
さぁな。いまだに謎だ
モリガンは得意げに羽をバサバサさせ、胸を張った
古代部族なんて、もともと存在しなかったって話もある。今の部族は名前だけ拝借してる詐称野郎だってな
別の説では、数世紀前に人間が遠くから焦土の辺境にやってきて、部族たちが暮らしてた土地を手に入れるために、枢機主神に従ってヤツらを皆殺しにしたとか
生き延びた部族は森へ逃げ込み、今は人間に復讐するタイミングを狙ってる……ってな
真実はわからん。今はあんたら人間が天使に殺されてるんだし、昔の殺し合いなんて誰が気にする?
その長話に対して人間は反応を示さなかったが、バンジは少し考え込むように別の話題を口にした
信仰も伝説も、全ては人の祈りから生まれる……あの日倒した教団も「人を神への供物にしないと、伝説にある神託を成し遂げられない」と信じていた
現実がどうしようもなくなると、人は言葉を編んで希望を作り出すんだ
そう話しながら、ふたりと1羽は霧に包まれた山道を、馬の足音を響かせてゆっくり進んでいった
バンジは頷いた。手綱を握る手は落ち着いている
人は見えない存在を勝手に思い描いて、それに支配され、時には同族すら殺してしまうものなんだ
そう言って、彼はふと黙った
あの古城で、信者たちが「カルクサの儀式を邪魔するな」って言っていたような……
あの儀式の指導者で、天災の直前に逃げた司祭がカルクサなのかも
白髪の騎士が話を続けようとしたその時――彼は突然何かを察知し、鳥のマスクをつけた
霧の中から薬煙の匂いがする!口と鼻を塞いで!
モリガンも「カァ!」と叫び、素早く鞍の後ろにあるバッグに飛び込んだ
気をつけて、古城にもあった薬煙だ。幻覚を引き起こす成分が含まれてる
その瞬間、馬が甲高く嘶き、暴れ出した。ふたりは振り落とされそうになりながらも、なんとか耐えた
そして「ドスン!」という音とともに、ふたりの目の前に何かが地面に叩きつけられる。それは朽ちた灰色の木のような塊だった
顔は痩せこけ、四肢が瘦せ細った「物体」――よく見ると、古城にいた黒いローブを纏った司祭の成れの果てだった
その体は血を吸い尽くされ、以前の連続殺人の被害者たちと同じ死に方だった。力尽きて干からび、眼球は空を虚ろに見つめていた
……グレイレイヴン
騎士は銃を抜き、ゆっくりと空に向けて構えた。人間も彼の視線の先を仰ぎ見る
――そこだ
死体が落ちてきた方を見上げると、木の幹に繭のような何かがぎっしりぶら下がっていた
天を覆う巨木の枝々には、いつの間にか干からびた死体が群れをなして揺れていた。ハエのように、アリのように――数えきれないほどの死が森を満たしていた
驚いている暇もなく、四方から不気味な叫び声が響き、腐臭と骨が軋む音が迫ってきた
……ガガ……グオオ……
押し寄せる屍の群れが、全ての道を塞いでいる。まるで血の壁のようだった
疫の騎士は右手をかざし、黒いランプを召喚した
血の契約者は馬から飛び降りて武器を構え、騎士の隣に立つ
腐敗度合いからして、リビングデッドになったばかりみたいだ
悪魔の騎士はランプを持ち上げ、芯に血の糸のような魔力を編み込み、リビングデッドを終焉へと導くべく火を灯した
慎重に進もう