長い夢の狭間で、人間は自らの意識が無理やり引き剥がされ、別の記憶の中へと押し込まれていくのを感じた
それは痛みと、無念と、激しい憎悪に満ちた記憶であり、
しかし記憶の主は外部からの侵入を強く拒み、
今度の記憶は温かく穏やかで、まるでゆりかごで眠っていた幼き日の無垢な時を思い出させた
人間が目を開けると――揺れる夕陽の中、そこにはこの大地にかつて生きていた人々/ハルカ>の姿があった
広々とした平原を、数人の「タンコン」がキヌアを抱えて裸足で歩き、燃えるように赤い夕陽の中で穏やかな笑みを浮かべていた
彼らは皆、動物の頭骨を被り、互いを獣の名で呼び合っていた。身分や年齢による差もなく、大地が授けた恵みを平等に分け合っていた
それは涼やかな晩秋の日――空にはワタリガラスが舞い、森にはナイチンゲールの歌が響いている
抱える穀物は、冬を越すに足る十分な量だった。民は部族を見守る神に感謝を捧げながら、帰途に着いた
当時、ハルカと呼ばれたこの部族は、この土地/カルクサ>に神々が宿っていると信じていた
草木や砂石のひとつひとつに神の魂が宿るとされ、必要な分だけをいただき――
それ以外は決して穢すことを許されなかった
これから何が起こるか知ってるでしょう?
背後から問いかけられたが、人間は振り返らなかった。それが夢の終わりの合図だとわかっていたからだ
誰もがそう願っていたわ
背後に立つ者は軽くため息をついたあと、人間に近付き、後ろからその喉を掴んだ
でも……夢なら、そろそろ目覚めないとね
細い指に強い力が込められ、爪が深く肌に食い込む
鋭い叫びが魂を貫き、意識を虚構の楽園から無理やり引き戻した
――目を覚まして、グレイレイヴン
瞼を開くと、そこはまだ薄暗い森の中だった。鋭い刃が喉元に突きつけられ、眠っていた肉体が無理やり引き起こされる
部族の聖女は血の契約者を木の下に縛りつけ、その襟首を掴んで
挨拶はいいわ。さっき、私の記憶を盗み見ていたようだから
わざわざ私の後を追ってここまで来たのなら、私の目的もわかってるんでしょう?
それで、あなた自身はどう思ってるの?命を捧げてくれる?
ほんの一瞬の沈黙の後、人間は深く考えずに、率直に本音を口にした
ふふふ、ずいぶんと都合のいい話ね。こっちの意思も訊かずに、ともに平等に生きるだなんて
少女は反論せずに少し考えた。そして、不意に刃先を反転させ、グレイレイヴンの胸元に突きつけた
私にはもっといい選択肢があるわ
あなたをリビングデッドにするの。どうせ儀式に必要なのはあなたの血だけだし
異郷の民の血で聖壇を穢したくないけど、絶好のチャンスを逃すわけにはいかない
刃先は首筋に沿って下へ滑り、やがて肋骨の上――絶えず鼓動する心臓の前で止まった
何万年も伝わる神託には、強力な鮮血で復讐の「死の聖神」を召喚できると書いてあった。でも、召喚は一度きりとはどこにも書かれてないわ
「死の聖神」が全ての同胞/ハルカ>を復活させたら、私たちは再び軍を編成し、聖堂と人類に戦いを挑む
そしてあなたには……私の傍で、儀式の「生贄」になってもらう
素直に従ってくれたら、あの大天使たちも一緒に片付けてあげてもいいわ
……挑発のつもり?
少女は灰色の瞳を細め、敵意を嗅ぎ取ったかのように背を丸めた
カナリーは骨製のナイフを下ろし、人間の襟元を手放すと、ニヤリと笑った
認めてあげる。あなた、あの臆病で自己中心的な人間たちよりは、ちょっとだけ面白いかも
……いいわ、「死の聖神」が降臨するまで生かしておいてあげる。その目で人類と聖堂の終焉を見届けなさい
人間はほっと息をついた。だが、直後に赤い血の光が視界を掠めた
あなたがちゃんと「生贄」としての役割を果たせたら、ね
血の契約者の胸元を切り裂いた聖女の手に、鮮やかな赤い血液がどろりと滴った
カナリーは手を掲げ、その手の平から滴る液体を地へと落とした。目を覆いたくなるような赤色が、魔法陣全体を瞬く間に染め上げる
さあ、一緒に見届けましょう……「焦土の辺境」の終幕を
一方、その頃――
白髪の騎士はねっとりした血の沼に足を取られながら、ランプを高く掲げ、次々と襲いくる部族のリビングデッドを浄化し続けていた
リビングデッドの攻勢はとどまることを知らず、ランプに吸い込まれる魂の数が増えるにつれて、彼の精神の負担も増していく
立ち込める腐臭の中でも、森の中にいる血の契約者の気配をはっきりと感じる。その気配に導かれるように、白髪の騎士が再び沼の中から立ち上がった
(これ以上、足止めを食うわけには……)
(早く……突破口を見つけないと)
騎士は左手でランプをしっかりと握ると、右手に銃を具現化させて灼熱の弾丸を放ち、森の中に道を焼き拓いた
バンッ――
眩い閃光が消えると、バンジはその焦げた道筋をたどって前方へと駆け出した
グレイレイヴン!
血の契約者の気配が徐々に濃くなっていく。契約者がすぐ近くにいるのを、騎士ははっきりと感じ取った
その時、天の彼方に突如として光の柱が立ちのぼった
赤黒く濁った光が空を覆い、焦土の辺境全体が唸り、揺れる――
木の形をした光の柱が森の中から現れ、枝分かれした光の線が地面に降り注いだ
その「光の枝」が触れた場所では、木々も動物も瞬く間に枯れ果て、腐敗し、生気を吸い取られていった
そして「木」の幹の中心には「生き物」が蠢いている
「それ」は内側から肉の繭を破り、白い指先を伸ばして「木」の表皮をゆっくりとなで、血肉に濡れた胎嚢を引き裂いて出現した
……白い巨人?
彼は夢でも見ているかのように呟いた
天を支えるかのような白い巨人が、荒野に静かに立つ。その歩む先では万物が枯れ、滅び、バンジが何度も見てきた悪夢と寸分違わぬ光景が広がっていた
巨人の足下に立つ騎士は顔を上げ、その姿を凝視した。悪夢がいつか現実になるとは思っていたが、まさかこのタイミングで起こるとは……
しかし、彼はすぐに我に返った。視線の先にある遠くの木の下に佇むふたつの人影が、これが夢ではないことを彼に知らせていた
グレイレイヴンから離れろ!カナリー!
漆黒の銃口が彼方に立つ少女を捉えるが、彼女は気にも留めず、ただ無邪気に笑っていた
私の勝ちね
カナリーは胸元が血まみれの人間をふたりの間に突き出し、戦利品を誇示するかのように手を広げた
「カルクサ」の儀式は成功し、「死の聖神」が現れ、ハルカの民が復活する――これで人類と聖堂の30年にもわたる戦争も終わる……
あなたたちにとっても、これは納得できる結末でしょ?
それは違う。殺し合いは繰り返される……この世界に更なる苦しみを増やすだけだ
疫の騎士は銃を下ろした。その背後では白い巨人が、なおも大地の命を吸い取りながら、赤い太陽に向かって歩を進めていた
君がやっていることは、あれと何が違う?
無念の死者に正義を、罪人に裁きを……確かに僕もそれを望んでる
でも、君がやっていることは完全に道を外れている
彼らが対話する中、無数の枯れ葉が山々に舞い落ち、リビングデッドの血の沼に溶けて泥底へと沈んでいく
彼らは本来生き延びるはずだった。自身の運命を選ぶ道があったはずだ
復讐のために命を燃やす以外の選択が
……うるさい!あなたにはわからないのよ、彼らがなぜこの道を選んだのか!
カナリーは激しい怒号を上げると、瞬く間に嵐を呼び、黒い霧を操って舞い散る枯れ葉を吹き飛ばした
私だって……あなたが言うような、明るくて清らかな方法で全てを解決したかった
でも、私たちは悟ったの。この世ではその苦しみを経験しない限り、他人の苦しみを理解することはできないって
私たちの目的も、私たちの願いも、あなたに認めてもらう必要なんかない
彼女が10本の指をぎゅっと握ると、荒れ狂っていた風は一点に収束し、指先から気流となって天へと伸び、巨人の頭部へまっすぐに飛んでいった
風の刃は混沌を突き抜け、巨人の耳奥に届き、天に繋ぐ1本の橋を作った
私は、私のやり方で、この全てを終わらせる!
突如気圧が下がり、人間の心臓が締めつけられ、口から汚れた血を吐き出した
血液中の魔力は地面に描かれた真紅の魔法陣に吸い尽くされ、白い巨人を操る動力へと変換される。その魔力は本人の意思とは無関係に、空中へ「流れ」ていく
迫りくる重圧に抗いながら、血の契約者は必死に口を開き、自らが察知したことを騎士へ伝えようとした
動かないで!何が起こるかわからない!
騎士は血の契約者の前に立ち、混乱する光の中で懸命に目を開けた。その視界の中、カナリーは顔を上げ、巨人に向かって大声で叫んでいた
「死の聖神」よ、私はあなたの民!あなたの同胞!
どうか願いを聞きたまえ、我らの部族を復活させ――
彼女は骨製のナイフを抜き、自分の手の平を切りつけ、儀式に必要な最後の1滴の「聖女の血」を魔法陣へと捧げた
――我らの全ての仇敵を踏み潰せ!
ドガァァァン!
地面の魔法陣が一瞬にして猛炎となり、大地の血を燃料として烈火が燃え上がった
雷鳴のような轟音ののち、空の彼方の巨人はゆっくりと振り返り、燃え上がる魔法陣に目をやった
巨人は焦土と化した数百里の荒野を1歩で越え、血の沼のほとりに立ち、少女のもとへと身を屈めた
地面に向かって差し出された大きな手に向かって、カナリーは敬虔な表情で両腕を広げ、走り出した
ああ……!聖神様、この日をずっと待ち詫びていました……
彼女の顔は、命を捧げることを覚悟した喜びで満ちていた
この時のために、私はずっとずっと長く、耐えてきました。お願いです、どうか……
我らをこの地獄からお救いください!!
涙に濡れた少女が巨人の手の平に飛び込もうとした、その刹那――蒼白の巨手は引っ込められた
彼女はその突然の出来事に呆然と立ち尽くし、巨人はただ無言で立ち上がり、動かなくなった
な、なんで……?神託には……
血の沼の中の汚れた血は徐々に燃え尽き、魔法陣の炎の勢いも少しずつ弱まっていく
炎が完全に消えると、白髪の騎士が血まみれの血の契約者を支えながら、煙の向こうから現れた
……バンジ
巨人が膝をつくと、その肩に座す黒い翼を持った少女が身を乗り出して姿を現した
その声は空間を震わせるような荘厳さを持ち、まるで神託そのものであった。言葉のひとつひとつが、その場にいた者全ての胸を打つ
血の契約者の心臓を縛っていた束縛はその瞬間に解け、人間は大きく息を吐き、自身の力を取り戻した
そして名前を呼ばれた青年はまるでこの状況を予想していたかのように、静かに人間から離れ、ひとりで前に歩み出た
……君は誰?
我が名はウリエル……枢機主神に仕える「四大天使」のひとりです
あなた様は崇高なる「御子」……あなた様の真の記憶を目覚めさせるため、導き手として現れました
ウリエルは巨大な玉座にでも腰かけているかのように、前屈みの姿勢で語った。巨人の躯体が赤い空を半分覆っている
崇高なる「御子」よ……全てを思い出す準備はできていますか?
バンジは振り返り、人間の方を見やった
人間は僅かに残る血を凝縮して血弾とし、バンジの隣に立った
白髪の青年は人間と肩を並べ、巨大な存在に向かってはっきりと声を上げた
なぜ僕を御子と呼ぶ?なぜ僕のことを探していた?
僕はただ、この世の中にはびこる疫病と苦難の本当の理由を知りたいだけ
「苦難」?
ウリエルの顔に一瞬の疑念が浮かんだが、侮蔑の色はなかった
「御子」よ……まさか自らの最初の使命すら忘れてしまわれたのですか?
世界がこのような事態に陥ったのは、全て人間が自ら蒔いた咎ゆえ
……まさか「僕のために」、別の真実が用意されているとでも?
ウリエルは何も答えず、ただ静かに手を広げてみせた
それは、あなた様自身の目で確かめねばならぬ「真実」……我が口から語ることはできません
ただ……予想が正しければ、あなた様は自分自身に対して拭えぬ疑問を抱いているはずです
あなた様が探し求めている答えも、思い出せない記憶も、全てはこの先にあります
巨人はふたりの前に手の平を差し伸べ、「足場」を作った
さあ、お登りください。あなた様が追い求める終着点へと導きましょう
全ての疑問は「琥珀」の中で解き明かされることでしょう
……
突然、温かく力強い手がバンジの背中を押した
背中に添えられた手から力が流れ、バンジの全身を巡って枝のように伸びていく
その枝はまるで導かれるように巨人の方へと向かっている。バンジは人間とともに、前へと踏み出した
巨人の手の平は彼らを拒まなかった。その大きな手の中に、しっかりとふたりを受け止めた
巨人がゆっくりと立ち上がり、その動きに合わせて大地が轟音を立てて揺れた
――カン!
ボロボロの骨製のナイフが投げ上げられ、巨人の手の平の上でくるりと回転したあと、人間の足下に落ちた
なんで……なんでよ!?
一族の血を捧げてようやく召喚した神が、なぜ卑劣な異郷の民に跪くのよ!?
嘘つき……聖堂も、人類も、全部嘘ばっかり!
地上に立つカナリーは、彼らが去っていく方角へ向かって怒声を上げた
絶対に許さない……ハルカ/部族>も、あなたたちのことを絶対許さないわ……
たとえ何百年、何千年……何万年経ったとしても!
覚えてなさい!いつか必ず、誰かが私の代わりに復讐するわ!あなたたちの命も、そう長く続かないから!
灰色の衣を纏った人間は刃をそっと拾い上げ、何も言わずに彼女から視線を逸らした
カナリー……
まだ終わってなんかない。僕たちは「真実」を持って帰ってくる
指の隙間から見せる景色は、どんどん上昇を続ける。巨人は数歩歩いて、「木」の前で足を止めた
かつて「胎嚢」があった場所には、今や巨大な血紅色の琥珀が息づくように脈打っていた
巨人は指を広げ、その先を「道」のように形作り、進むように促した
「御子」以外の者は、本来この真なる歴史を覗き見ることは許されません……
ですが、それが「御子」の意思であれば……ウリエルはそれに従いましょう
……行こう
白髪の騎士と血の契約者はともに、ゆっくりと脈動し続ける真紅の中へと足を踏み入れた