静まり返った深夜――夢の中にいた少年は、まるで何かに導かれるように目を覚まし、軋む木製のベッドから体を起こした
災変以来、世界には昼と夜の区別がなくなり、孤児院はぼんやりとした光に包まれていた。部屋にはいつもの寝息が聞こえず、不気味な静けさが漂っている
少年は眠気の残る顔をこすりながら立ち上がり、ふらふらと隣のベッドへ歩み寄った。しかし、そこはもぬけの殻――それどころか、部屋には誰ひとりいなかった
……
キッチンでお菓子を盗み食いしてるのかな……どうして僕も誘ってくれなかったんだろう?
少年は不満げに眉を寄せたが、それ以上は深く考えずに机にあった燭台に火を灯し、薄手の上着を羽織って部屋を出た
孤児院の狭く薄暗い廊下に、少年の足音が響き渡る。深夜に出歩いているのを養母に見つかるのも怖かったが、それ以上に仲間外れにされたパーティに間に合わないのが嫌だった
ブゥーン……ブゥーン……
アンナ?……ヨーセン?
少年は呼びかけてみたが返事はなく、どこからか翅が震えるような音が聞こえてくるだけだった
そのくぐもった羽音は次第に重なり合い、耳を打つような波になって少年に襲いかかる。胸に不快感が込み上げたが、どうすればいいのかわからず、少年はただ立ちすくんでいた
そして、その不気味なざわめきを振り払うように、少年はぐっと足を踏み出した。とにかく、ここを離れたい一心で
注意が足りなかったのか、あるいは考える余裕がなかったのか――少年は、通りすぎる部屋の全ての扉が開け放たれていることに気付かなかった
半開きの扉の向こうにあるのは、誰も眠っていない空っぽのベッドの列――
ブゥゥーン……ブゥゥーン……
音がどんどん大きくなっていく。前方から聞こえる異音は、もはや無視できないほどに強烈だった
小さな人影は手に持った弱々しい光を頼りに、誰もいないキッチンと応接間を足早に通り抜け、孤児院の正門までやって来た
少年は心を決めて大きく息を吸い込むと、爪先立ちになり、重たいオークの扉に取りつけられた真鍮の取っ手に手をかけた
取っ手を手前に引くと、思ったよりもスムーズに、いつもよりずっと軽く扉が開いた
反応する間もなく、彼の目に飛び込んできたのは――
鮮血
空は血のように真っ赤に染まり、不気味な赤い光が庭を照らし出していた
死体
花が咲き誇る庭には子供たちの死体が無残に横たわっていた。巨大な吸血イナゴが足を突き出し、子供たちの首を切り裂き、細長い口器を喉奥へと刺し入れて血を啜っている
天災
扉が開いた音を聞きつけて、天災の執行者たちが一斉に振り返った。鋭い視線が細く開いた扉の隙間をすり抜け、震える少年の琥珀色の瞳へと、恐怖をまっすぐに突き刺した
逃げなきゃ!!
恐怖で全身が震え、手から燭台が落ちた。残っていた蝋がドロリと扉にこぼれ、瞬く間に炎となって燃え上がる。少年と悪臭漂う赤い世界との間に、火の壁が生まれた
少年は後ずさりし、無意識に体を反転させ、イナゴたちがまだ侵入していない方向へと走り出した
そこにいたのね!!こっちよ!!
背後から切実な声が飛んできた。次の瞬間――少年はよく知っている腕に、闇の中へと引き込まれた
その手が、彼の頬をそっと包む。まるで、最後にその姿を確かめるかのように
無事だったのね……よかった、間に合って……
バンジに怪我がないことを確認すると、メルヴィはもうひとりの小さな体をバンジの傍に寝かせた。鼻を刺すような生々しい血の匂いが一気に広がる
メルヴィは燭台を手にして扉の方へ歩き、かかっていたカーテンを勢いよく引きちぎった。カーテンで火を燃え上がらせるつもりのようだ
メルヴィの静かで決然とした行動に、バンジは思わず震えた。これほどまでに険しい表情の養母を見るのは初めてだった
メルヴィおばさん……
今この名を呼ばなければ、もう二度と呼べなくなる――そう感じた
バンジ、アンナを連れて裏口から逃げて!
おばさんは……!?
隣にいる友人は大量に出血しており、すでに意識が朦朧としている。少年は必死に友人の傷口を押さえながら問いかけた
いいから、すぐに逃げて!全速力で!!
メルヴィは燭台を高く掲げ、その小さな火を吸血イナゴの大きく開いた口の中へ力強く突き立てた
早く行きなさい!!!
怒りすら含んだ命令が響く。その声に少年の迷いは吹き飛び、友人を支えて反対の方向へ走り出した
背後で炎が大きく燃え上がった。焼け落ちたカーテンとイナゴたちが割ったガラスの破片が宙を舞い、天災の序章を描いていく
少年はひたすら頭を低くして、友人を支えながら必死に走った。それが養母からの最後の命令であり、今、自分にできる唯一の行動だった
アンナっ……!まだ走れる……!?
うっ……
少女は苦しそうに呻き声をあげた。少年が顔を向けると、いつの間にか彼女の腹部は血で真っ赤に染まっていた
じっとしてて、すぐ手当てするから……!
少年は慌てて自分の服を破り、細く裂いて傷口に巻きつけた
血を止める薬草を取ってくる。メルヴィおばさんから教わったから大丈夫だよ、だからもうちょっと我慢して……
な、なんで……血が……止まらな……
少年が血を止めようとするほどに、血は勢いを増して溢れ出す
彼女の体が次第に重くなっていく。焦った少年は彼女の腕を掴み、立たせようと必死に引っ張った
……寝ちゃダメだ、起きて!
だが、返事はない。彼女の瞳孔は、すでに焦点を失っていた
……
まだ手の平に残る温もりが冷めきらぬうちに、再び背後から羽音が聞こえてきた。吸血イナゴの翅が空気を震わせている
1匹の巨大な吸血イナゴが、ふたりのすぐ側に舞い降りた。その精巧な複眼で、ただひとり生き残った少年をじっと見つめる
そして足を伸ばし、少年の首筋を挟み込んだ。そのまま動かず、大きなふたつの目で少年を見つめ続ける
くっ……
すると、突然興味を失ったかのように、少年の体を地面へと投げ捨てた
ケホッ、ケホッ……!
少年の体は落ち葉の積もる林に叩きつけられた。目眩で視界が歪む――呼吸もまだ整わぬうちに、炎が目前に迫ってきた
枯れた林の中、炎は天に届きそうなほど高く燃え上がっている。孤児院から吹き出した炎が、空の半分を吞み込もうとしていた
群れをなすイナゴたちは炎の中を飛び交い、次なる餌を探していた
ッ……!
その瞬間、少年の心に言い表せぬほどの激しい怒りが芽生えた
なぜイナゴはいとも簡単に命を奪うのか、なぜ天災はいつも突然やってくるのか、なぜ巻き込まれるのはいつも心優しい人ばかりなのか――
この理不尽な「運命」を、彼は決して受け入れたくなかった
……メルヴィおばさん……アンナ!!
この出来事は、幼い彼の心にひとつの種を残した。全ての真実を知りたい――その想いが、静かに芽吹いていった
この災変で命を落とした人々のために、公正さを見つけなければならない
はぁ……はぁ……
少年は風の向きを頼りに、枯れた林を走り続けた。小石で足の裏が裂け、血が点々と続く道を描く。それは記憶に染みつく軌跡となった
振り返ることが許されないのであれば、生き残った者として誰よりも遠くへ走るしかなかった
これが、8歳の少年がたどり始めた終わりなき旅路の始まりだった
――!!
暗く湿った悪夢から、バンジは突然目を覚ました。頭上では、相変わらず太陽が容赦なく照りつけている
バンジは眩しさに目を細め、睫毛の影で太陽を遮りながら、記憶を意識の奥底にそっと押し戻した
今……何時かな
そう呟きながら、バンジは懐中時計を開く。針はちょうどいい時刻を指していた
今出発すれば、恐らく3時間ほどで次の中継地に着くだろう
バンジは気怠げに空を仰ぎ、大きくあくびをした。そして、野営地の荷物をひとつひとつ背負い直す
それからリボルバーのシリンダーを引き出し、指先でくるっと回転させて元の位置へ戻した。カチリという滑らかな音を残して、それは銃身とぴたりと噛み合う
武器も問題なし
バンジはリボルバーをホルスターに戻し、獣除けの焚き火にそっと土をかけて消した。そして薬草の匂いが染みついた鳥のマスクをつけて、再び歩き出した
「吸血イナゴの災変」から10年以上経った今でも、バンジはなお孤独な旅を続けていた
彼は、かつて小さな足で残した血の跡をなぞるように成長した。今はオイルを染み込ませた皮のコートを纏い、縫合と治療の道具を揃え、霧の中を進む灯りを携え……
そして、顔には薬草を詰めた鳥のマスクをつけている
かくして、黙して語らぬ「疫病の医師」ができあがった
彼は冷静かつ手際よく手術用のメスを扱った。しかし時には、命の灯火が消えるのをただ見守るしかない瞬間もあった
それでもこの医師は、ひとつでも多くの命を救うため、歩みを止めることはなかった――
おい、聞いたか?隣村の子が何人か、またあの古城に連れていかれたらしいぞ
その日、道を歩いていた疫病の医師は、ある会話を耳にした
聞いたわよ、森の部族でしょう?生贄にするために子供を攫ってるとか!
天使たちは、なぜあんな連中を野放しにしているのかしら。真面目に生きている私たちを苦しめるなんて、おかしな話じゃない?
それを聞いたバンジは、そっと顔を上げて農民たちを見た
生贄……?
生贄だけじゃないわ。あのイカれた連中は古城に籠って、奇妙な黒魔術を研究してるとか。天災も吸血イナゴも、きっとあいつらの仕業よ!
バンジの眉間に深い皺が寄った
夫婦に別れを告げた彼は、進路を変更することを決めた。目的地は――古城だ
部族の悪行を止めるためにも、まだ形の見えない「真実」のためにも……
全てを確かめるために、彼は行かねばならなかった
……ここか
マスクをつけた青年は、朽ちた古城の前で足を止めた。城の庭の周りには白い骨が突き立てられており、それは柵のようでありながら、侵入者への警告のようでもあった
予想通りと言うべきか、その骨は紛れもなく人間の大腿骨だった
……まともな会話はできそうにないな。最悪の事態に備えておこう
バンジはホルスターから武器を抜き、慎重に安全装置を解除して右肩越しに構えた
時間がもったいないな……さっさと終わらせよう
そう言うや否や、朽ちた扉をひと蹴りで蹴破った
なっ――
薄暗い玄関ホールには、ボロボロの服を纏った数人の信者が床に座り、何やら呟いていた。突然の襲来に、跪いたまま呆然としている
誰だ?
今日の見張り役は俺じゃねぇ……知らねぇよ
じゃ、殺っちまっていいよな
ふたりは目配せをすると、地面に置いていた武器を拾い、バンジに向かって勢いよく襲いかかった
「カルクサ」の儀式を邪魔するとはな!その血で代償を払え!
あいつを捧げよ……あいつを捧げよ!
バンジは身を翻して振り下ろされた棍棒を躱し、すぐさま反転してその信者の首筋を鋭く指で突いた。信者の男は白目をむき、床に崩れ落ちた
無駄な抵抗はやめた方がいい
漆黒の銃口が、目を血走らせた信者たちに冷たく向けられる。しかし、彼らの狂気は静まることなく、むしろ昂ぶった
恐れるな!救済の道には試練がつきもの……これは我々に課せられた試練だ!
こいつも生贄にしちまえ!
正気じゃないな……あの薬煙のせいか
バンジは重苦しい空気に混じる奇妙な煙に気付き、片手でマスクをしっかりと押さえながら身を屈め、興奮状態の信者の群れに突っ込んだ
興奮した信者たちは次々とバンジに襲いかかったが、全員が首筋に一撃を食らってその場に崩れ落ち、気を失った
およそ10秒が経った頃、立っているのは最後列にいたひとりの信者だけだった。彼はバンジの姿に怯え、後ずさりした
わ、私は自身を生贄とします。カルクサよ、どうかご加護を――
そう叫んだかと思うと、自ら胸に短剣を突き立て、血を噴き出しながら倒れた
疫病の医師の手が宙で止まる。彼はこの愚かな「自己犠牲」を止めることはできなかった
……
バンジは眉をひそめながら身を屈め、暖炉の火を消し、炉の中から炭化した植物の塊を掴み出した
ムーンベラドンナ、シルバーヴェインポピー、デリリアムミント……興奮作用と幻覚を引き起こす薬草ばかりだな
薬草使いがいるのか……聞いた話より状況は厄介そうだ
ガタッ――
背後から物音が聞こえた瞬間、バンジは銃を抜いて振り返った。山羊の頭骨を被った少女が、隠し扉の奥から這い出てきた。両手を縛られたまま、体を縮こませている
た、助けて……
少女の声は弱々しく、その瞳にははっきりと恐怖が浮かんでいた。それは、あの信者たちの狂気とはまったく別のものだった
バンジは銃を収め、すぐに駆け寄り、縄を解いてやった
いつからここに?
2日前……私は大丈夫……でも、タンコンとサシビが連れていかれた……
きっと儀式の生贄にされる……お願い、彼らを助けて……
バンジは素早く少女の状態を確認した。体は弱っているが、命に別状はなさそうだ。少女を壁にもたれさせ、持っていた薬と食べ物を与えた
儀式の場所はわかる?
少女は頷き、地面に指を走らせて簡単な地図を描いた
バンジはその情報を瞬時に頭へと叩き込み、立ち上がった
ここの信者たちは全員眠らせてある。立てるようになったら、すぐにここから逃げて
……わかった
少女は小さく返事をした。そして、バンジがその場を去ろうとした時、少しだけ声を張った
私、カナリー!ハルカ族のカナリー
この恩は、いつか絶対に返すから……
少し離れた場所に立つバンジは、マスクを軽く押さえて静かに頷き、その約束を聞き届けたことを示した
鳥のマスクをつけた疫病の医師はオイルランプを掲げ、朽ちた古城の奥へと走り抜けた
廊下のそこかしこに、儀式の道具や白骨が散乱している。見る者の心を凍らせる光景だ
祭壇に近付くにつれ、腐臭と酸味が入り混じった匂いが濃くなっていく。オイルランプの光が揺れ、壁の影が這い寄るように揺らめいた
バンジは銃を抜き、前方の暗闇に向かって構えながら慎重に進んだ
グアアアッ!
次の角を曲がったところで、血みどろのリビングデッドが1体、奇声を上げて飛び出してきた――
バンジは一瞬の迷いもなく発砲し、リビングデッドの頭を撃ち抜く
……リビングデッドか!
腐臭が漂ってくる方向へと進みながら、バンジは銃を連発し、次々と現れるリビングデッドを壁へと打ちつけていく
だが、やつらは恐れることなく、倒れた仲間を踏み越えて、次々と迫ってくる
耳をつんざくような濁った叫び声が古城の中に反響する。思わず耳を塞ぎたくなる声だった
……うるさいな
死を恐れぬ生ける屍に、弾丸では埒が明かない。バンジはすぐさま銃を収め、リビングデッドの頭部へと右足を高く振り上げた
グシャッ――リビングデッドの恐ろしい顔が腐った肉ごと壁に叩きつけられ、ねっとりと張りつく
死体を踏み越えてまで喰らいつく……それが君たちの「生きる」ってこと?
哀れだな……でも、もう赦してあげるよ
おやすみ
言葉を終えるより早く、もう1体のリビングデッドが襲いかかってきたが、再び医師の前で砕け散った
激しい戦闘の中、リビングデッドの群れの奥で、異質な影がちらりと動いた
バンジはそれを見逃さなかった
逃げられないよ。いっそ僕の前に出てきたら?
バンジはその姿が隠れた暗闇へと駆け出し、即座に放血用ナイフを抜いて闇の中へ投げた
!!
闇の中の人影がびくりと震えたかと思うと、鋭い勢いで飛び出し、バンジに襲いかかってきた。ナイフがバンジの頬を掠め、風切り音を残して通りすぎる
……
バンジに反撃の意思がないのを見て、人影は即座に背を向けて祭壇の方向へと走り出した。バンジもすぐにその後を追いかける
地下深くにある祭壇には、つい先ほど命を絶たれたばかりの「供物」が並んでいた。血の臭いが空間に充満し、いくつかの炎が供物台の上で揺れている
中央には黒いローブを纏った男が立ち、何やらぶつぶつと唱えていた
――逃がさないよ!
バンジの声よりも弾丸の方が先に飛んだ。しかし、どれも黒いローブの男が軽くナイフを振るっただけでことごとく弾かれ、金属片として床に落ちた
その光景を見たバンジは攻撃をやめ、距離を取って構えたまま、次の動きを見極めた
……偉大なるカルクサよ、我々の祈りに応えたまえ
男はバンジの存在などなかったかのように、儀式の場の中央に立ち、祈祷文を唱え続けた。祭壇の炎が突然燃え盛り、天井に向かって大蛇のように巻き上がる
それを見たバンジは武器を収め、今度は体当たりで男を止めようとした。しかし、男は踊るような軽やかさで、バンジの攻撃を受け流していく
これは何の儀式?「カルクサ」って?
バンジの連続攻撃の前でも、男の動きには寸分の迷いもなかった。祈祷文を唱える間に、彼はただ短く、ひと言だけ返した
いずれわかる
ゴォォォォ……
祭壇の炎はどんどん勢いを増していく。無情にも「供物」を呑み込み、血肉を炭へと変えながら容赦なく燃え続けた
その光景に眉をひそめたバンジは意を決して、内ポケットから1本の銀の針を抜き取った
聞く耳を持たないなら……寝てもらおうか
しかしその瞬間、背後から鋭い殺気が迸った
!!
バンジが殺気に気付き、振り向こうとした刹那――影に潜んでいた刺客が飛び出し、鋭い刃を疫病の医師の懐に突き立てた
冷たい刃が皮のコートを貫き、人間の青年の柔らかな内臓へと達した。そして、骨の下にある内臓を分断するように裂いた
刺客は長くは留まらず、仕留めたことを確認するとすぐに刃を抜いた。血が宙に飛び散る
ぐっ……
バンジは膝をつき、刺客の姿を見ようとかろうじて顔を上げる――しかし、すでに視界から消えていた
ッ……
バンジは両手で傷口を押さえたが、温かい血はとめどなく流れ出てくる
医師でありながら自らを癒せない。彼にとって最も無力なことが、とうとう現実となってしまった
意識が薄れていく。視界は捻じれ、世界が回る
カナリーが言っていた……ふたりが……まだ……
バンジは口元の血を拭いながら、狂信的な男に向かって必死に声を張った
……僕を……生贄に……
……
ひとりだけでも助けられるなら……
……代わりに僕を生贄にして。抵抗なんかしない……そんな気力もない……
彼は脳内で交渉の手札を必死にかき集め、目の前にいる男の僅かな良心に賭けた
子供に罪を償わせる方が……よっぽど罪深い
お前に何がわかる――
黒いローブの男が僅かに口を開き、何かを言おうとした瞬間、顔色が一変した。まるで想像を超える「何か」を目にしたかのように
バンジは男の視線の先を追おうとしたが、霞んだ視界では何も見えなかった。はっきりと見えたのは、男の顔に浮かんだ恐怖と動揺だけ
ブゥーン……ブゥーン……
バンジの鼓膜に、羽音が届く
彼はゆっくりと首を回し、窓の外に目をやった
ブゥーン……ブゥーン……
視界の端に赤い光が閃いた。次の瞬間、空が鮮血に染まり、血の雨が世界を覆い始めた
遠くから吸血イナゴの羽音が轟く。遥か彼方の空を天災の執行者が埋め尽くし、地上へと押し寄せていた
吸血イナゴが通りすぎた場所には何も残らない。地中に潜むネズミでさえ掘り起こされ、皮一枚になるまで貪られる
馴染みあるその「波」が、また彼を追いかけてきた。記憶の中の悲鳴とともに、夢の中のあの終末が現実に迫ってくる
最初から、運命には「交渉の余地」なんてなかったのかもしれない
……子供ひとりを救うことさえ、叶わなかった
彼は静かに目を閉じ、力を抜いて、体を地面に預けた
こんな結末を……受け入れるしかないのか?
最後の言葉を吐き終えると、意識が完全に途切れ、混沌の底へと沈んでいった
………………
長い時間の中で、運命の糸車は止まることなく静かに回り、時の流れを1本の糸へと織り続ける
それは命の樹の根元で足を止めたような一瞬でもあり、無数の蕾が咲き、枯れていく瞬間を全て見届けたかのような永劫でもあった
夢はゆりかごのように、再び彼を柔らかな繭で包む
口を開けると、胎内に戻った赤子のように泡の息が漏れた
その瞬間、彼は「思い出した」――彼の魂の奥に刻まれていたはずの痛みを
苦痛と理性は常に寄り添っている。彼が意識を取り戻した瞬間、抱かれていた琥珀の繭が砕け散った
彼は目を開け、目の前の全てを見た
……
天使の少女が聖座に静かに座り、十字架に磔にされている彼を無表情のまま冷たく見つめていた
それは彼が幾度となく夢に見た光景。そして、瀕死のこの瞬間でも、なお逃れることのできない悪夢だ
ゲホッゲホッ……見送りかい?
言葉を口にしようとしても、肺はただ泡を吐くばかり。鮮やかな赤い液体が口元から滴り落ちる
天使の少女は無言のまま聖座から立ち上がり、手の平を掲げた
金色の輪から光が放たれると、空中に無数の鉄釘が浮かび、十字の形を作った
バンジは質問をやめた。静かに目を閉じ、自らの運命を受け入れる覚悟を決めた
鉄釘が降り注ぐ直前、少女はまるで別れの言葉のように囁いた
……全ては終わりました
運命の糸車がぴたりと止まり、琥珀の内側から眩い光が溢れ出す
濃い闇の中で彼は再び目を開けた。煌めく光の中に、ある人影が浮かび上がる
驚愕、困惑、歓喜……あらゆる感情が胸に渦巻いた。だが、言葉にできるものはひとつもなかった
彼は地の底に潜み続けた越冬の虫のように、春の光を見た瞬間、それを抱きしめたくなった。だが、同時に怖くもあった。その眩しい光が、自分を燃やしてしまうのではないかと
落ち着いた、強い意志を宿した声が響いた。彼は反射的に頷く
彼は固まった四肢を動かそうとしてバランスを崩し、地面に倒れ込んだ
琥珀の外の声はあまりにも優しく、まるで泣いている赤子をあやすようだった。そして彼自身も、初めて歩こうとする子供のように、よろけながらもう一度立ち上がる
……どれくらい経った?
その答えは、彼の心に温かな流れを生んだ。新たな力が心の底から沸き起こる
全部、間に合う?
肯定の返事とともに、光の中から手が差し出された
光
その時、彼の体を包んでいた薄い殻が砕け、地の底から伸びた新芽が絡みつく。そして瞬く間に枝を伸ばし、蕾を結び、白い花を咲かせた
開花
その瞬間、彼の耳に鈴の音が届いた。魔除けに吊るされた鈴が、彼の世界に高らかに鳴り響く――
それが幼い頃にベッドの脇にぶら下げていたものなのか、それとも自らが「悪魔に堕ちる」という証なのか、彼にはわからなかった
ただひとつわかっているのは、自分が夢から目覚めたこと
新生
泥濘から体を起こし、彼は遥かなる光を見据え、光に向かって問いかけた
来し方を訊かずに、ただ進むべき道を訊くのみ――
僕をどこへ連れていくつもり?
人間の声が静かに響く
来たれ!
……
しばし立ち尽くしていたが、彼は決意を固め、差し出されたその手をしっかりと握った
君が見ているその光景へ、僕も一緒に行くよ
ドガァン!!!
突如飛んできた何かに、聖堂の丸天井が打ち破られた。人影が十字架の前に立ち、降り注ぐ無数の鉄釘をその肩で受け止めている
灰色の衣を纏った者が、青年の手首に打ち込まれた釘を外した。そして、新たな自由を手に入れた彼に両手を広げた
夢から目覚めたばかりの受刑者は、ゆっくりとその胸に倒れ込む。僅かに開けた目に映ったのは、混沌の中で言葉を交わした命の恩人だった
人間は新生を得た「神の子」を受け止め、契約を結んだ
真紅の糸がふたりの血脈を貫き、心臓へと届く。それは鼓動となり、共鳴し始めた
魔力で編み上げられた銃がふたりの手の中で形を成す。重ねた手はためらうことなく、空に浮かぶ天使に狙いを定めた
「疫の騎士」の名において……
彼がそう呟くと、人間も続けた
グレイレイヴンの名において
お前たちの運命に、我らが終止符を打つ!
聞け、窓の外に吹き荒ぶ嵐の咆哮を。それは、正義の喪失に怒る太陽と月の怒りの声――
その目を開き、見届けよ。天地が覆され、万物が再び創られる光景を