黒野特殊作戦班-013班が海沿いの町に到着してから、<color=#ff4e4eff>44日</color>が経過した
出処不明の3名の構造体は全員重傷を負った。しかし、幸いにも彼女たちが守った人々が手を差し伸べ、最前線から引き戻してくれた
彼女たちは2日間難民に囲まれて、修理に修理を重ねた。メンテナンスパーツがなくなり、ナノ補強材を使い果たすまで
負傷したヴィラの腕は完全に上げることはできなくなったが、なんとか命は助かった
「お人形さん」はいい状態ではなかった。爆発だけでなく、侵蝕体に開けられた背中の傷もあった。内部構造が丸見えで循環液が流れ続けているが、どうすることもできない
彼女は生命維持のために休眠と覚醒を繰り返したが、毎回目覚めていられるのは数分だけだった
「誰かさん」の顔が不安で曇っている――狭い空間を何度も行ったり来たりしたあと、彼女はここにいる全ての生存者に、ある決断を告げた
ここ数日、地下要塞を調べた結果……やはりもう一度突破するしかない
古い設計図を見たことがあるわ。まだ貫通していない別の出口に繋がる道がある。前回は目標がなかったから、突破口を見つけられなかったけど、今回は……
でも、爆破装置は最後のひとつしか残っていない
最後の爆破装置を使えば、希望はあるわ
人々は無表情で聞いていた。度重なる侵蝕体の襲来にうんざりしているのかもしれない。物資も尽き、終わりの見えぬ日々の中で、誰もが死を受け入れつつあった
立って!こんなところで座ってたって、なんにもならないわ!
もう疲れたんだ……何日もこんなクソみたいな場所に閉じ込められて……もう何日経ったんだか……
これ以上、無駄なことをしないでくれ。爆破装置はあとひとつだ。もう何回も試しただろ。無意味な探索の成果はどうだ?
……だったら「無意味」じゃない使い方って何?侵蝕体がここまで攻め込んできたら、自爆でもするつもり?
本当にバカばっかりね……そんな言い方じゃ、誰も聞く耳を持たないわよ。あの死相が出てる薄汚れたやつらの顔を見ればわかるでしょ
ヴィラは昏睡状態の「お人形さん」を支えて、少しふらつきながら立ち上がった
人間ってのはふざけた生き物よね。生への執着が弱くて……飢え死にしそうな羊の群れって感じ。きつい鞭を打たないと、動かない
隅にいたヴィラは吐き捨てるように言いながら、ゆっくりと「お人形さん」を背負い、彼女の力のない腕を自分の首にかけた
私たちのお人好しの隊長は「優しすぎる」けど、私は違うわ
私はいつだって柵を突き破る黒い羊よ
ヴィラは足を上げると、力強く鉄製のバケツを蹴った
「ガン!」という大きな音が鳴り、バケツの中の貴重な物資が床に転がり、全員に緊張が走った
一番強いやつが出てきなさい。私と戦うのよ。それができないなら、全員私に従うまでよ!
……
……これっぽっちの度胸もないの?
だったらおとなしく言うことを聞くのね。全員立って、ついて来て!動けない人はここで死を待ってなさい、タダで物資はあげないわ!
ここで死にたくないなら、這ってでもついてくることね!
…………
ここまで辛うじて生き残った人々は構造体に先導されて、互いに助け合いながら、再び出口に向かって歩き出した
……
薄暗く狭苦しい空間をどれだけ手探りで進んだかわからない……後ろを歩く難民たちの息遣いと、摩耗した機械の関節が軋む音だけが聞こえた
今は……何時だ?夜か……それとも……
誰も答えなかった。静まり返った中で「お人形さん」の弱々しい声だけが響いた
……ひる
!起きたの?しゃべらないで、体力を温存して
しかし、「お人形さん」は手を僅かに上げて、ヴィラに壁に近付くように合図した
<i>……私の聴覚モジュールは感度が高いからわかるけど、多分、皆には聞こえてない</i>
ヴィラは立ち止まり、「お人形さん」の言う通りに耳を壁に近付けた
すぐに、ヴィラは目を見開いた――波の音が聞こえる
<i>潮がここまで来てるから、夜が明ける</i>
<i>光は見えないけど、波の音は聞こえる……</i>
<i>多分この方向で合ってる、外に近付いてる</i>
ザザーン……
疲れ切り、寄り添うように歩く人々は、誰も波の音に気付いていなかった――夜がすぎ、地下要塞の外が平穏な光に包まれていることを誰も知らなかった
<i>こんな平穏の中で死ねるなら、それはそれで悪くない</i>
つまらないことを言わないで
ヴィラは少し苛立ちながら「お人形さん」を背負い直した
彼女は侵蝕体をおびき寄せた犯人を突き止めたかったが、侵蝕体から引きちぎった追跡装置が反応しなくなったため、これ以上追及することができなかった
たとえヴィラが「誰かさん」を逃がすつもりだったとしても、現時点で唯一疑わしいのは彼女だけだ
もし「誰かさん」が離反するのであれば、これは自殺行為に近い
……アハ
ヴィラは不意に自嘲気味に冷たく笑った
もし彼女がためらわなかったら、早い段階でさっさと「誰かさん」を片付けていたら、こんな窮地に陥ることはなかったかもしれない
彼女は前方で道を模索する「誰かさん」の背中を見つめ、首を振ってその考えを追いやった――今更どうしようもない。今、最も重要なことは全員を連れて生き延びることだ
ヴィ、ア?みて
ヴィラは混沌とした思考から我に返った。「お人形さん」の子機に、まだ文字が1行残っていた。前を歩く「誰かさん」も微妙な顔でこちらを見ている
<i>どうして黒野に入ったの?</i>
……
「お人形さん」はふたりが何も言わないのを見て、聞き方が悪かったのだと思い、ゆっくりと文字を削除して、新しい文章を表示させた
<i>私たちそれぞれが、013班に入った理由は?</i>
……どうして、いきなりそんな話をするの?
<i>私は、故郷の小さな島を出たあと、黒野が拾ってくれて、強い機体をくれた……ふたりは?</i>
ヴィラは乾いた声で笑った。恐らく「お人形さん」が再び自分の「不安」に気付いたのだと理解した
あなたが故郷の話を始める時は、いつも同じ……バカバカしい
……
「お人形さん」はヴィラの背中にもたれかかり、頬で髪に触れた。子機にゆっくりと新しい文字が表示された
<i>知りたい……話して</i>
ヴィラは顔の冷却液を拭った。今の「お人形さん」はしゃべらずに、できるだけ体力を温存すべきだ
しかし、ヴィラの背中で「お人形さん」が流している循環液は、ゆっくりとヴィラの手を伝い、地面を濡らし続けている
ヴィラは拒否する言葉を口にできなかった
……いいわ、でもあなたが先に話して?「お人形さん」。もっと詳しくね。ちゃんと聞いてるから
<i>私……</i>
ヴィラが歩みを進めるのに合わせて、子機のカーソルが点滅した。「お人形さん」はゆっくりと思い出を語り始めた
彼女の思考は途切れ途切れで、話の辻褄が合わなかった。まるで走馬灯の断片を繋ぎ合わせているようだ
押し寄せる波が、全ての人の過去を洗い流していく
<i>あの時も今みたいな波の音がした……改造前から耳がよかったから、あの日も……異変が聞こえた</i>
<i>パニシングが爆発した時、私はお兄ちゃんと海にいた。港に帰ろうとした時、お母さんが口笛で帰ってくるなって……海岸に侵蝕体が群がる音が聞こえた</i>
<i>私たちは海の上で2日過ごしたけど、まだお母さんから連絡がなかった。だから、他のところから岸に上がった</i>
<i>海岸には侵蝕体がたくさんいて、私とお兄ちゃんははぐれちゃった。2日間お兄ちゃんを探したけど見つからなくて、難民グループに入った</i>
<i>黒野が私に食事を与えてくれて、構造体に改造して、私にだけ子機を与えてくれた</i>
その食事への恩返しは、何だったの?
子機はしばらく静かだった
教えてよ。黒野から要求された恩返しは何だったの?
<i>戦場の最前線に立って、ただ突き進むだけでいいって</i>
……やれって言われたら、何でもするの?口が回らないだけじゃなく、頭も回らないのね
ふたりのやりとりを前で黙って聞いていた「誰かさん」が、突然口を開いた
特殊作戦班に入るのは、そんな人だけかもね
彼女は痛覚がないだけじゃないわ。もっと大きな意味で「痛み」を感じないのよ。あらゆる意味で……小隊でずっと彼女を見ていたからわかるわ
あの時、彼女は体の一部を失った負傷者にどれくらい痛いか訊いて回ってた。彼女は混乱の種を蒔くから、適したところ……つまり特殊作戦班に連れていくしかなかった
当初、彼女は道端で死んでいく人が目に入らなかった。だから、彼女は常にためらいなく前に進むことができた
最終的な結果がこれよ。人の痛みを学んだゆえに「火傷」を負う……これも予想できたことかもしれないわね
「誰かさん」は「お人形さん」の傷だらけの体に目をやった。そして、すぐに顔を背けた
<i>あなたたちは?どうしてこの小隊に入ったの?</i>
前のチームメイトは全員死んだわ。この話、本当に詳しく聞きたい?
チームメイトのふたりが反対しないのを見て、ヴィラは前に進み、狭い岩壁をすり抜けて話し始めた
簡単よ。私は自分から改造を受け入れて構造体になった。たまたま集団作戦で侵蝕体を殺して、ひとりだけ生き残った。それで黒野に誘われたの
黒野に所属したあと、またいくつかの作戦で侵蝕体を殺して、毎回ひとりだけ生き残った……
「いくつか」の具体的な数は?
そんなに多くないわ。今年はまだ10数回程度よ。上層部も損傷率を気にしてるから、今年に入ってからはあまり団体任務を与えられていないけど
……じゃあ、一番最近の013班に加入する前の任務は……
あの時は少し複雑だったわね。チームメイトがふたりとも離反しようとしたから――
ヴィラは一瞬言葉を切った
ふたりは私を殺して、口封じをするつもりだった
私たちは高い崖に行ったわ。ふたりは私を脅して、自分でここから飛び降りろ、ケリをつけろって言ったわね
追い詰められたからって、崖から飛び降りるわけないでしょ?私はふたりを返り討ちにして、あいつらが引き寄せた侵蝕体も全部殺した
ヴィラは「誰かさん」をちらりと見た
私は誰にも殺されないわ
……
す、ごい
「お人形さん」は「褒めた」が、「誰かさん」の表情は曇っていた。ヴィラが「生き延びた」ことを心から喜んでいる「お人形さん」をよそに、微妙な沈黙が広がった
ほら、次はあなたの番よ
語ることなんて何もないわ。私の「物語」は大したものじゃない
言いたくないの?それとも――
たいちょうは……すごい
チームメイトのふたりが親睦を深めるチャンスだと思ったのだろう。「お人形さん」は辛そうに息をしながら、ゆっくりと「誰かさん」について知っていることを話し始めた
<i>ヴィラは知らないかもしれないけど、隊長はすごい人なの。私は、彼女のことを前から知ってた。彼女はすごく几帳面で、任務の時も……</i>
もうしゃべらないで。「ドッグ」を歩くのに集中させてあげて
<i>特殊作戦班に入る前からすごい努力家で、いつも高い目標を持ってた</i>
<i>前に私の子機が故障した時は、すぐに修理の人を見つけてくれたし、隊長が発声装置に適応する方法を教えてくれたから、私はたくさん話せるようになった</i>
<i>それから、これは聞いた話だけど、故郷は……</i>
……「モス」、もう黙って
「誰かさん」は立ち止まり、ふたりの方を振り返った。顔は暗闇に隠れている
全部どうでもいいことよ。黒野の構造体には「出身」も「自我」も必要ない。ただ仕事をこなす犬であればいいの
こんな血も涙もないところでやっていけるのは、生まれつきこの仕事に向いている人だけよ。もしくは、これまでの道徳やルールを全部捨てられた人
あなたたちは……ひとりは「死神」の名を背負い、もうひとりは痛覚がなく戦い続けられる。だから、決死隊として利用されているだけ
……でもある意味、私もそうやって生きてきた
彼女はヴィラに向かって少し顔を下に向け、ヴィラの胸元のライトと真正面から向き合った
彼女の表情がはっきりと見てとれた。そこに浮かんでいたのは、典型的な「悲しみ」だった
「モス」、「ドッグ」……こんな生活を終わらせたいと思ったことはある?
私たちは構造体だとしても「生きている」のよ。こんな運命を受け入れるべきじゃない
黒野が私たちを縛りつけているなら……そこから抜け出すのも、ひとつの案じゃない?
暗いトンネルの中で誰かがランタンを掲げた。微かな光は沈黙した顔をほのかに照らしただけだった。鬱々とした思考は闇の中を漂っている
ヴィラは答えなかった。隊長の探りを入れるような目を見て、それが離反の扇動なのか、それとも真情の吐露なのか判別できなかった
そしてもっと重要なのは、ヴィラ自身が目を背けてきた心の奥深くに触れられたような感じがした――だから、どう反応していいのかわからなかった
すると、「お人形さん」の子機がカタカタと音を立てた
<i>考えたことなかった</i>
「誰かさん」の目に宿っていた微かな光が消え、彼女は無理矢理に口角を引き上げて笑った
そうよね。あなたは黒野に向いてるもの
その時、「お人形さん」は突然ヴィラの背中で動き始めた
ヴィラは予想していたかのように、その「生命の消耗を加速させる」行動を止めず、「お人形さん」が自分の肩越しに手を伸ばして隊長の腕を掴むのを黙って見ていた
!
<i>違う、隊長。私が黒野に向いてるからじゃない</i>
<i>黒野に拾われてなかったら、チームメイトもいなかったし、あなたたちにも出会えなかった</i>
……
「お人形さん」はヴィラと隊長を見て、必死に笑顔を作った
<i>家族も友達も全て過去のこと……私はずっと前にお母さんとお兄ちゃんを失った</i>
<i>隊長とヴィラは……私に優しくて、たくさん……教えてくれた</i>
<i>隊長は知り合いに連絡して破損したパーツを修理してくれた……ヴィラは私に最前線から逃げる方法を……たくさん……たくさん教えてくれた……</i>
<i>……この世界には私たち以外に、誰もいないかもしれない</i>
…………
「誰かさん」は一瞬唇を震わせて何かを言おうとしたが、結局それを口にせず、ただ謝った
……ごめん
「誰かさん」は「お人形さん」の手を取り、そっとヴィラの背中に戻した。それからくるりと背を向けて、前に踏み出した
……
「お人形さん」、もう少し……口笛語を教えて
ヴィラは背中の「お人形さん」がどんどん重くなるのを感じて、初めて自分から話しかけた
……なに……しりたい……
「お人形さん」の意識が朦朧とし始めたようだ
「帰る」以外。何か吹いてみて、覚えるわ
ほかの……?ほか……
……
じゃあ「帰る」でいいわ。「帰る」だけで十分よ
うん……
「お人形さん」はゆっくりと手を上げ、口元に当てた
ピロ……
「帰る」音は、もはや長く高く、よく通る音ではなかった
こんな音では、打ち寄せる波の音にかき消されるだろう。もしかしたら、この列の最後尾の人にすら聞こえなかったかもしれない
「お人形さん」は短く1回吹いただけで、力を使い果たしてしまった
……ふぅ……
ヴィラはわかっていた。「お人形さん」は今、ゆっくりと故郷の海に沈んでいるのだと
……かえり、たい
何?
<i>……あなたたちと……帰りたい</i>
子機は途切れ途切れに文字を表示させた
ヴィラは力強く彼女を支え、その腕を引き寄せて自らの首に回した。しっかりと掴むように――まるで、沈みゆく者に差し出す最後の浮木のように
わかったわ。さあ帰るわよ、あの極楽浄土へ
……ちょっと、前の人。彼女がなんて言ったか見ないの?
前を進む隊長の後ろ姿が暗闇の中にぼんやりと見えていたが、彼女は何も答えなかった
今更逃げても無駄よ……まぁいいわ。「モス」、寝ないで話を続けて
あの島や、あなたの家族、口笛、それと……レインボービーチ?のことを話して
話してくれたら、帰れるわよ
「お人形さん」は焦点の定まらない目で、ぼんやりと隊長の後ろ姿を見つめている。子機には再び文字が流れてきた
これが「お人形さん」が、できる限りの力を振り絞って極楽浄土を描写した最後の時だった
<i>お兄ちゃんは毎日漁に出てた……私は町の学校に行って、お母さんは時々……町に買い物をしに行った</i>
<i>学校が休みの日は……家で皆でお昼ご飯を食べた。お兄ちゃんの作った塩漬けの魚が最高に美味しかった。お母さんが作ったケーキも……美味しかった</i>
<i>午後は……ビーチに行く。サンゴと魚が綺麗で……小さな魚が足の指をつついてきた。1匹の魚が浅瀬に取り残されてたから、海へ帰してあげた……</i>
<i>観光客もいなくて……あるのはただ……</i>
<i>静かで穏やかな生活……</i>
<i>……</i>
……止めないで、続けて
私たちは今から、そこに行くのよ。ちょっと、起きて。一緒に「お兄ちゃん」を探しに行くのよ
たとえ、逃亡してでも――
逃亡という言葉に、前を行く姿が一瞬止まったように見えた。しかし「誰かさん」が反応する前に「お人形さん」は再び弱々しく話し始めた
痛、い……
<i>お兄ちゃんは探さない</i>
どうして?
<i>お兄ちゃんが……痛いって</i>
<i>あの時、お兄ちゃんが侵蝕体の群れに囲まれて……聞こえたの</i>
焦点の合わない瞳が何かを探していた。しかし、最後にはそっと諦めた
「お人形さん」はヴィラの肩に頭を乗せたまま、ゆっくりと目を閉じた
<i>痛いって、聞こえた</i>
……
<i>あの時……ヴィラが痛いって言った時も、聞こえた</i>
ヴィラの歩みが止まった。激しく揺れる通路の中、「お人形さん」が必死に彼女を引っ張って進んだ光景が、まるで昨日のことのように蘇った
チッ……こんなに酷い怪我をしてるのに、私の側で何してるの!?
だって……痛い、言ってた
「お人形さん」は必死に顔を上げ、ヴィラに微笑みかけた。同じように傷だらけの子機も再び反応した
<i>あなたが痛いって言ったから</i>
<i>痛みが何なのかわからない。でも、あなたたちが痛いって言うのを聞くのは辛い</i>
……
2日前の記憶が突然蘇り、ヴィラはあの時のことを思い出した
侵蝕体に襲われ、ぼんやりともがいていると、蛾のような影が飛びかかり、何かを食い止めた
そして少しずつ彼女を外へ引っ張っていった
……そんな理由で、私を助けたの?
<i>あなたたちが痛いのはいや……生きていてほしい</i>
…………
ゆっくり、とてもゆっくりと……
ヴィラが前進を続ける中、「モス」は静かに息を引き取った。まるで小さな虫が蝋燭の炎に落ちるように、灰のように、静かに消えていった
呟くように、「モス」は子機に最後の言葉を残した
<i>……痛みって、こういう感じなんだね</i>
<i>ヴィラが言った通り……印象深くて……なんだか……「分離」するような感覚</i>
子機は所有者とともにその機能を停止し、完全なる静寂へと沈んだ
飛んで炎に向かった蛾の運命はここで終わった。「死神」の背に、またひとつ去りゆく影が加わった
……まったく、重いわね
「誰かさん」は気付いたようで、振り返ってヴィラの向こう側を見た
一瞬だけだったが、ヴィラは彼女の顔に深い悲しみを見た。この人はすでに「お人形さん」の末路を知っていたはずなのに、今はその現実を受け入れられないようだった
……何、ぼーっとしてるのよ。前を見て歩いて。突破するなら私が代わりに行ってもいいわよ
……
「ドッグ」、着いたわ
出口は確かにある……想像していたよりもかなりマシよ。扉もあるし
でも……
「誰かさん」は埃を払いのけ、長い間使われていなかった非常口の扉を肩で押して隙間を開けた
久しぶりの新鮮な空気が隙間から一気に流れ込み、ヴィラの前髪を吹き上げた
――そして扉が開くにつれ、命の道への扉の向こう側で、眼下に広がる異様な赤い光が見えた
2つ、3つ……いくつもの赤い光が繋がり、一面を埋め尽くしていた
ヴィラは不意に、波に乗って岸辺にやってくる夜光虫を思い出した
……「ドッグ」、私たちは……賭けに負けたのね
薄暗く、全てがぼんやりとしている中で、彼女の頬に一筋の涙が光った
「モス」も……ここに置いていくしかないの?
ギィ――
運命はふたりの会話を嘲笑うかのように応えた。「誰かさん」の言葉が終わらない内に、出口の外に群がる侵蝕体たちが動き出し、全体が揺れ、頭上から土埃が落ちてきた
ヴィラも懐から微かな振動を感じた。彼女が隠していた追跡装置だ
……
もういい……もういいわ……彼女を降ろして
後方の難民たちも、ふたりの構造体の会話を聞いていた。絶望感は先頭から最後尾まですぐに伝わり、悔しさに溢れた泣き声が聞こえてきた
やっぱりな!こんな構造体についていくべきじゃなかった……もうおしまいだ!
ヴィラは炎に焼かれた蛾をそっと降ろし、隅に座らせた
フン、こうなったら任務なんてどうでもいいわ。黒野の扱いには慣れてる……本当はあなたを見逃すつもりだった
……
特殊作戦班……黒野に入ったばかりの頃は私も若くてわからなかった。今になってわかるのは、外の噂通り……それは、善人を悪鬼に変えて、生きた人間を歩く死体に変える集団
あなたは崖で私を追い詰めたふたりとは違う。仲間を売って自分の道を切り開くようなことはしない
この子の死は割に合わないけど……彼女の「隊長」という発音は一番綺麗だった
ヴィラは追跡装置を取り出し、点滅する光をじっと見つめた
それは?
追跡装置よ。侵蝕体から奪い取ったの。襲撃に遭ったのはこれのせい
そんなことありえない
だったらどうして、人けのない出口に侵蝕体が群がってるの?
ヴィラが腕を伸ばし、無表情な「誰かさん」の胸元に触れた瞬間、点滅していた光が点灯に変わった
答えは明らかだった
ヴィラは歪んだ笑みを浮かべる。即座に行動を起こす準備はできていた
ありえない……私を疑ってるの?
これ以上ためらっている余裕はないの。ちゃんと誠意を見せて、よく話し合ってから結論を出してもいいわよ
ヴィラはゆっくりとサリエルを抜いた
……話し合いにも色んな方法があるわよね?
次の瞬間――2本の刀がぶつかり合い、空気を震わせた。前回の衝突と似ていたが、今回は違った意味合いが含まれていた
ふたつの刃に、それぞれの歪んだ顔が映っていた
ありえない!あなたたちを巻き込もうなんて、これっぽっちも思ってないわ!
私を殺せば、あなたの証言は真実になるわよ――うっ!
「誰かさん」が隙を突いてヴィラの負傷した腕をねじ上げた。ヴィラが顔をしかめている間に、地面に押し倒した
ギィン――
「誰かさん」の刃がヴィラの喉に向けられた。先制攻撃を仕掛けた結果、彼女が優位に立った
これ以上、怪我を痛めつけたくないの!おとなしくしてて!
……上等よ!
ヴィラは鋭い刃の先端に怯むことなく、突然体を起こした
次の瞬間――
循環液が飛び散った。刃はヴィラの左目に深く突き刺さり、視覚モジュールを完全に破壊した
イカれたの!?
ったく……痛いわね!!!
叫ぶと同時にヴィラはすかさず手を伸ばし、彼女を押さえつけていた「誰かさん」の腕をへし折った
「誰かさん」は折れた腕を押さえて後ろに倒れ、激痛で痙攣を起こした。更にヴィラに首を踏みつけられ、地面に押さえつけられた
はぁ……はぁ……おあいこよ!見事な犬の喧嘩ね!
ヴィラは「誰かさん」を押さえつけて微笑んだ。そして、目に刺さった刀を掴んで引き抜き、循環液まみれの刃をこの大胆な離反者に突きつけた――攻守逆転だ
出発前から、あなたに離反の意志があることは知ってたわ
この狂犬め、黒野の狗……これが本当の任務なのね……!?
だから何?今は犬が吠えるのを聞くしかないのよ。「おとなしく」、私の質問に答えて
ヴィラは刃の先端を「誰かさん」の口の中に差し込んだ。もし彼女が叫べば、その瞬間に鋭い刃が彼女の口を切り裂くだろう
ダイダロスから何をもらったの?特殊作戦班を献上して、バカみたいな難民たちまで巻き添えにして
……
愚かね……ダイダロスはあなたを利用して黒野の構造体の力を削ぐだけよ。絶対に命は助けない。この大量の侵蝕体が証拠よ
あなたがしたことはチームメイトを殺しただけじゃなく、町にも危害を加えてる。この規模の侵蝕体が拡散したら、近くの保全エリアは全て危険に晒されるわ
……
ポタッ、ポタッ……
ヴィラが刀を引き抜いた目を細めた。真っ赤な循環液が滴り落ちる
……あなたを見逃すつもりだったのに
「チームメイト」を信じると、おままごとの美しい幻想で溺れ死ぬことになるのね
……確かに私はダイダロスと接触した。でも、彼らの誘いには乗らなかった
私はただ自由が欲しかった。この過酷な生存競争も、生き残るための「報酬」を求めて小隊に入るのも全部嫌なの。黒野から逃げたい、ただそれだけ
……
私はあなたと「モス」を巻き込むつもりなんかなかった。彼女はまだ子供同然だし、あなたも……当時は卒業していない学生だったと聞いたわ
黒野から逃げたいという思いを抱いただけで、いつか逃げるチャンスがあればと考えただけで、こんな事態を引き起こすなんて思ってもみなかった
「鍵」を見つける任務も……あれだけ大騒ぎした割にあっさりと手に入った。しばらく疑ってはいたけど……結局、あれも嘘だったのね
いいえ、「鍵」の任務は本物よ
……どういうこと?
侵蝕体から引きちぎった追跡装置が地面に落ち、光を点滅させている――ふたりは同時にそれを見た
……
「鍵」を取り出して……早く!私の胸元にあるわ
ヴィラは事態を察知して、素早く「誰かさん」の首に手を伸ばし、小隊の任務目標物を引っ張り出した
シンプルな権限カード。ほとんど価値のない小さな装飾品のよう
「誰かさん」が憎しみを具現化したような目で見つめる中、ヴィラが追跡装置を「鍵」に近付けた。すると、光が急速に点滅し始めた
……
……はは
あははは!
ヴィラが手の力を緩めると、「誰かさん」はその手をすぐに振り払った。彼女は立ち上がって「鍵」を奪い取り、力いっぱい握りしめた。微かに割れる音がした
あの闇市で「鍵」を買った時のことを今でも鮮明に覚えている。今となっては、あのいとも簡単な値段交渉がバカバカしい
あの時、偽物と地獄への片道切符が013班の手に渡ったのだ
最初から最後まで仕組まれていたのね。私たちを手の平の上で転がして……
彼女は笑い出した。自分の愚かさを狂ったように嘲笑った
あはは……私たちを疑心暗鬼にさせて、不信感を抱かせて……消耗させて、こんな惨状に追い込んだ
もううんざりよ、終わりにするわ
追跡装置はふたりを嘲笑うかのように光を放っていた。彼女はその嘲笑をしっかりと握りしめ、懐に戻した
「ドッグ」、まだひとつだけチャンスがある
彼女はヴィラを見つめた。その瞳にははっきりと狂気が宿っていた。今の彼女は「013班」の名にふさわしい存在だった
最後の任務を……遂行するのを手伝ってくれる?
……
この小細工を逆に利用してやるのよ。あなたは「羊みたいな」難民たちをしっかりと率いて。この最後の努力が無駄にならないように
そう言って「誰かさん」は強く扉を蹴り開けた。侵蝕体が気付き、赤い光が一斉に上を向いた
あなたは私を監視するためだけにこの小隊に異動させられたんでしょ?だったら本来、この任務は私と「モス」が執行するもの。あなたは巻き込まれただけよ
「生き延びる」べきなのは、あなたよ