Story Reader / 叙事余録 / ER11 遂生再始 / Story
マトリクス物理中枢
ゲシュタルトのコア構造を参考にしてはいるものの、目の前のこれはあくまでゲシュタルトの分岐端末にすぎず、本体と同じ機能を発揮できないことは、誰もが理解していた
だが今日ここには、マトリクス同士の接続でより大規模なアルゴリズムネットワークを構築し、ゲシュタルトを超越した領域へ向かおうとする研究者たちがいる――
あるいは、彼らの道具たちが
執行官殿、こちらがマトリクスに存在する全てのモデルです
彼はどこかに向かって、滑稽ともいえる姿勢で頭を下げた。45度ほども腰を曲げ、決して頭を上げようとしない
得意げにへつらう邪悪な笑みが入り混じったその表情。誰かが彼を下から見上げたなら、彼の表情はさぞ見物だったことだろう
ヒャハハハハハハハハハハハハハ！
年配らしき執行官は、突如腹を抱えて笑い出した。耳をつんざくファンの轟音よりも異様にキンキンと響く彼の笑い声に、周囲の者は思わず顔をしかめたほどだった
グウィンプレン様、あの――
ヒャハハハハハハハハハハハハハ！！！
ホルストは気まずそうにその場に立ち尽くしていた
ヒャハハハハハハハ……ごめんごめん。私の笑い声、怖かった？謝るよぉ
いえ、とんでもないことで――
ヒャハハハハ……いくつになってもこうなっちゃうんだ。理由もなく突然笑い出しちゃって
ホルストは恭しく頭を下げたままの姿勢を保ち、執行官がもう笑っていないことを視界の端で確認してから、慎重に口を開いた
会社が141号分区の検査をグウィンプレン様に託されたということは、グウィンプレン様は我々にとって重要なお方です
我々の研究進捗をご覧いただき、ぜひアルゴリズムリソースの申請にお力添えを。更に多くのアルゴリズムを得られれば、我々研究者も安心して研究を続けられます……
リーボヴィッツにはまだ空いているマトリクスがいくつもあるよね。君たちの端末を他の分岐端末に接続するの、カンタンじゃない？
で、では――
うーん、でも……単独のマトリクスでももう桁外れのアルゴリズムを持つからね。これだけのリソースでロクな成果が出せないなんて、さすがに怒っちゃうかな……
は、はい、仰る通りで……
私はもうヨボヨボだけど、リーボヴィッツ社はまだまだ働き盛りってところだから
年寄りは見て見ぬふりをするかもしれないけど、他の執行官たちは私のようにボケてないよ～
は、はい……では、ご覧になった中で、お気に召す個体はございましたか？
……「天に選ばれた人」と「VI」とかいうのかな？
老人はぐっと寄せた眉の下で目を細め、ずらりと並べられたカプセルを凝視した
君たち、天に選ばれた人とVIのカプセルを中枢に入れ、刺激性テストの準備をしてくれ
しかし、VIはまだ孵化したばかりです。この段階で刺激テストを行うのは、モデルに悪影響を及ぼす可能性が……
いいから、言われた通りにするのよ……
反論しようとした同僚を制止し、女性研究員はホルストが怒りだす前に、天に選ばれた人とVIのカプセルを取り上げた
巨大な中枢装置は冷たい機械音を響かせながら、ふたつのカプセルをその腹の中に飲み込んだ
テスト開始
なんだ？照明システムはどうなっている？中枢制御に問題がないか確認しろ
明かりは一瞬消灯してすぐに光り出したが、その後、高速で明滅し始めた
警報が鳴り響き、耳障りな警告音が実験室全体を包み込む――
主任、マトリクスが暴走しているのでは――
暴走だと？ふざけるな！あのカプセルと出力装置の接続が切れていないからだ、今すぐ切断しろ！
突然切断すれば、モデルのオーバーロードを引き起こします――
VIのトラウマ反応が強すぎます。模擬痛覚信号が閾値を超えている……
……まあまあ、落ち着きたまえ
混乱する中、グウィンプレンは慌てふためく研究員を制した
皆が不安げな視線を向ける中、彼は耳をつんざく警報音に合わせて――ワルツを踊り始めた
明滅する光の中で軽やかに跳び、くるくると回転する。巨大なマトリクス中枢を背に、老いて丸みを帯びた体が舞い、異様な光景を作り上げていた
ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハ！！！
ホルストでさえ、その笑い声が歓喜に満ちていることがわかった――そしてその笑いはモデルの「苦痛」の上に成り立っていることも
警報音はますます耳障りになり、それとともにホルストの心も昂り、今にも飛び上がらんばかりだった
あの太って年老いた執行官はこの状況に大いに満足しているようだ。検査さえ通過すれば、他のマトリクスのアルゴリズムの獲得はもはや既定路線だ
主任、テストを一時中断すべきです。このモデルは未調整のまま刺激性テストを受けています。このままではデータが汚染される可能性が……
ホルストは研究員の言葉を無視し、奇妙な執行官をじっと見つめていた――彼はまだ警報音に合わせて手足を振り回し、ウロウロと歩きながら高らかに笑い続けている
重要なのは執行官殿を満足させることだ。モデルなどいくらでもある。ダメになればまた新しいものを用意すればいい
アルゴリズムを獲得できるチャンスはこの1度きりなんだぞ……
しかし、あのVIは……「奇跡」と呼ぶべきモデルです。こんな実験サンプルは滅多に得られず、簡単に代替できるものではありません。このままでは……
余計なことは考えるな。データをしっかり監視し、自分の仕事を果たせ
はい……
データを監視していたもうひとりの研究員が、緊張した声で叫んだ
23.33%、19.45%、13.21%……ダメです、感度がどんどん低下しています！
感度とは、モデルがトラウマに対してどれほどの強度で反応するかを示す。安定したモデルは刺激に対する反応が強くなり、不安定になればその反応は弱まる
言い換えれば――モデルの「生命力」を示すデータだった
チッ……
あの老いぼれはまだ踊り続けるのか？このままでは……
ホルストは執行官があの醜いワルツを踊り終える前にモデルが崩壊しないかどうか、それだけを気にしていた。モデルが崩壊すれば検査の通過は絶望的だ……
警報音がだんだん小さくなっていく……モデルはもう崩壊寸前だった
マトリクスのパルス振幅を弱めろ……
ええ？
執行官が疑うように一瞥したの見て、ホルストは指示通りに操作しようとした研究員を慌てて制止した
どうすればいい？
10%！10%です！数値が安定しました！！
それは、変化率が急激に上昇した瞬間だった。下降し続けていたグラフが、突如水平に伸びたことを見れば一目瞭然だ
何かがパルスを遮ったのだ
どういうことだ？
天に選ばれた人の信号波形を検出しました！！
天に選ばれた人だと！？刺激性テストに一度も反応しなかったモデルが！？
天に選ばれた人がVIのためにパルスを遮断しました！
その代償として、今度は天に選ばれた人の感度が低下し始めています！95.31%、87.28%、80.05%……
ホルスト、君は本当にたくさんのサプライズを用意してくれてるね
年老いた男はようやく滑稽なダンスをやめ、興味深そうに相手を見つめた
執行官殿のご要望通りに……で、その、検査の件は……
刺激性テストは、まだ最後の項目が残っている、よね？
は、はい。最後の項目では……モデルに「死」を体験させます……
研究員たちは一斉に固唾を飲んだ
それは言葉の恐ろしさからではない。ふたつのモデルはすでに限界を超えて稼働している。更にパルスを1段階引き上げれば、それは本当の意味での「死」に繋がる
……執行官殿の仰せのままに
彼は歯を食いしばった。「奇跡」と現実のアルゴリズムを天秤にかけ、最終的に後者を選んだ
ホルストの指示を受け、研究員は震える指で最後のテストを開始するボタンを押そうとした――
――お待ちください、執行官殿
扉がバンと勢いよく開き、突然聞こえた声に研究員は思わず手を止めた
……ドレイヴィ、ここは君が来るべき場所ではない
ドレイヴィさんを部屋へお送りしろ。今日はお疲れだろうからな
彼女が来るのを予想していたのか、ホルストは冷静に2名の護衛を前へと押しやった
ドレイヴィ……？ユイ·ドレイヴィか？
そう急がなくていいよ、ホルスト。私の記憶が正しければ、ドレイヴィさんは天に選ばれた人とVIの開発者、だったよね？
開発者本人からのお話はぜひ聞きたいな
しかし、執行官殿！ドレイヴィは以前からモデルテストに偏見を持っています。もし実験に口を挟まれれば……
執行官が楽しみにしていた「死の演目」が台無しになる
グウィンプレンはチッチッというように指を振ってホルストに黙るよう合図し、ユイに向き直った
ホルストの発言には一切取り合わず、ユイは息を切らしながらも研究員たちとグウィンプレンに軽く一礼した
執行官殿の寛大なお心に感謝いたします。要点だけ申し上げます
彼女はゆっくりと口を開いた。口調は穏やかで冷静に見えたが、視線は大画面の感度曲線に釘付けだ――VI-9.23%、天に選ばれた人-43.59%。まだ急下降中――
一貫してテストに反応を示さなかった天に選ばれた人が、なぜ今日突然反応したのか？なぜVIのデータが約10%で安定しているのか？……理由はまだわからない
だが、直感が警告を発していた。今すぐこのふたつのカプセルを中枢から取り出さなければ、本当に「死んで」しまうと
執行官殿、VIは1時間前に私の意識をサンプリングして生成されたばかりです。全てのパラメータは未調整で、まだ雛形の状態です
天に選ばれた人も多少の準備は施されていますが、VIと同様に、十分な反復をする時間があったわけではありません
この状態でテストを無理やり行えば、84.23%の確率でデータ汚染が発生します。一度汚染されれば、ふたつのモデルのデータは一切使用不能となります
ドレイヴィ！
ホルストは遠くから鋭い声で制止した
このふたつのモデルは確かに君が開発したものだが、実質的には会社の財産だ
個人的な研究欲に駆られて、実験の正常な進行を妨害するな
天に選ばれた人-23.52%……VI-8.45%……
抑えがたい焦燥感が募る
焦燥感に駆られながらも、研究者としての頭脳は冷静だった
ホルストさんの仰る通り、このふたつのモデルは確かに会社の財産です。しかも、非常に貴重な財産です
だからこそ拙速な実験で無駄にするより、成長の余地を与える方が、会社にとってより価値のある選択肢になるのではないでしょうか
先ほどのテストで執行官殿もご覧になった通り、ふたつのモデルは痛みを伴う刺激に対し、正常な恐怖と反応を示しました
この事実が確認できただけでも、実験は十分な検証結果を得たといえます
しかし、長時間このような極端な環境に置かれることは、ふたつのモデルに深刻なダメージを与えます――特に、彼らは生まれたばかりのモデルですから
開発者として、執行官殿に本実験の一時中断を強くお願い申し上げます。もし十分な時間をいただけるなら、より完成度の高い実験成果をお渡しできます
グウィンプレンはしきりに髭をなでつけていた。つばの大きな帽子を目深に被っているせいで、その表情は帽子の影に隠れている
ドレイヴィさん、君が登場してきて場が盛り下がっちゃったの、わかる？
低く陰鬱な口調にホルストはゾクリと背筋を凍らせた
執行官殿、彼女の意見など気になさらないでください。我々はただちに実験を続行し――
グウィンプレンは軽く手を振り、彼を制した
――「死」は、あらゆる個体が直面する命題だ。もし彼らが極限状況に対し適切な反応を示せないなら、人類がそんなモデルを信頼できるはずはなかろう？
「天に選ばれた人-12.22%、VI-5.67%」
ユイ……
それは彼女を呼んでいた――この上なくか細く、弱々しい声で。ユイの心臓がギュッと締めつけられる
この声は彼女にしか聞こえない。カプセルは依然として、彼女との遠隔意識リンクを切断していない……
猛烈な速度で思考が巡る
はい。仰る通りです
照明の明滅と鳴り響く警報……先ほどの外部出力装置の反応を見る限り、ふたつのモデルが痛みの刺激に対して示した反応は「恐怖」だけでしたよね？
蒸気船の汽笛、下水道で聞いた水滴の音……
――しかし、人類があらゆる極限状況を生き延びたのは、恐怖だけではなく、それに伴って生まれる勇気があったからではないでしょうか
冷たく硬い侵蝕体の手、ふくらはぎから伝わる鋭い痛み――
うん？
彼の陰鬱な声に、僅かに興味が混じった
……そう、勇気です。このふたつのモデルはまだ生まれたばかりの幼年期です。危険に直面しても、今は本能的な恐怖しか持ち合わせません
もし性急に死を経験させれば、反応は予想通りのつまらないものになるでしょう。所詮、それは誰にとっても想定内の事象にすぎません
もし執行官殿がモデルたちに成長の機会を与えてくだされば、それらの<color=#ff4e4eff>覚醒</color>が、きっと新たな驚きをもたらしてくれるはずです
…………勇気……
長年耳にしていなかった言葉を噛み締めながら、グウィンプレンは僅かに目を細めた
いい！いいぞ！ヒャハハハハハハハハハハハハ！
まさか、こんなつまんないカタブツばかりの中で、こんな面白いアイデアが出るなんて
ドレイヴィさん、君は会社の本部にふさわしい、十分な才能があるよ。私が推薦してあげようか
でもぉ……最初のモデルの「死」から得られるデータも、大きな実験価値があるし……
彼はそっとハットを持ち上げ、白い髭の間から血が滴るような笑みを浮かべた
もちろん今すぐモデルたちを取り出してもいいよ。でも、データ収集は中断するよね。もし君が本当にそうするなら、さっきのアイデアはもうちょっと練る必要があるかな
君を本社へ推薦するか、141号マトリクスのアルゴリズム拡張を承認するかどうか――また別の日に、仕切り直しってことだね
だってさあ……君が言ってた「覚醒」が実現するかどうかには、完全なデータが必要になるでしょ
（この……死にぞこないめ）
執行官殿のご理解とご厚意に感謝いたします
VI-1.51%、天に選ばれた人-7.89%
待て、ユイ！141号マトリクスのアルゴリズムのことは考えないのか？君はずっと本社を見に行きたいと言ってたじゃないか！
ホルストの叫び声に耳を貸すこともなく、ユイは足早にマトリクス中枢へ向かった
停止――回収
貴様――！
ユイはホルストの怒声を無視し、ふたつのカプセルを抱えたまま早足でその場を離れた
ガンガンと耳鳴りが脳内を埋め尽くし、あらゆる音を鼓膜から押し出していく
僅かに残る理性が彼女をラボへ連れ戻した。再び体から力が抜け、彼女は膝から崩れ落ちた
心配しないで……私が何としても守る
奇妙な空間
約1時間前
直感だけで判断できる。ここは決して友好的な場所ではない。もし夢に例えるなら、間違いなく悪夢に分類されるだろう
だが、なぜ自分が夢の中にいるのか？何をすべきなのか？そもそも自分は誰なのか？――何ひとつわからない
ギィ！！！
恐ろしい怪物が現れた――しかし、怪物はこちらに向かいはせず、片隅で震える光源を取り囲んでいた
あああッ！
一度、二度、三度……高く振り上げた刃が勢いよく振り下ろされる
ギャアアアッ！
こうして、このループは繰り返され続けた
もともと微かだった光源はますます弱くなり、怯える小動物のように必死に逃げ惑っても
結局は振り上げられた刃に何度も何度も斬りつけられる
ついに光源は走れなくなった。角へと追い詰めた刃が振り上げられ、勢いよく下ろされる
赤い光源は泡のような光の粒を散らし、震え続けていた
誰も助けないのか？あれはまだ――
<size=40>子供なのに</size>
奇妙な思考がいきなり自分の心を強く締めつけた。ここには光源以外、自分しかいない
ウウウ……ウウ……
またもや刃が光源に振り下ろされる瞬間――心の奥の善意が、自分の体を突き動かした
だが、伸ばした両手はまるで赤ん坊のように幼く細かった。この夢の中では、自分はこんなに無力な存在なのだろうか？
怪物たちは他者の存在に気付き、こちらを目がけて刃を次々と振り下ろしてきた
小さくか弱い体では、逃げることも防ぐこともできない。ただ、刃が自分の体に食い込むのを見ているしかなかった
胸や腹を裂かれ、喉を斬られ、血肉がかき混ぜられる。1度では終わらず、ひと太刀、またひと太刀……延々と繰り返される
心臓と骨は真っぷたつになり、筋や靭帯、肉が引き剥がされ、凄まじい痛みが襲う。だがすぐには死ねず、体は再生し、再び凶刃の洗礼を受ける
避けるべきか？もし身を引けば、「光源」が再び刃の前に晒され、自分が痛みを感じることはない――
怪物たちは光源を見つけた――しかし、自分のことも見逃さず、刃は何度も何度も振り下ろされた
たとえ全身傷だらけになっても、光源の前に立ちはだかり続けた。こちらの無力さを感じ取ったのか、光源は背後からギュッと自分を抱きしめた
ふたりの命が刻一刻と失われていく。肉体の再生は怪物の斬撃の速さについていけず、自分も光源も次第に透明になっていった
意識は朦朧とし、痛みすらも感じられない
霞む視界の中で、今度は光源が自分を庇うように前へ出るのが見えた
しかし、凝縮した無数の刃が夢の境界を覆うほど巨大なギロチンとなり、逃げ場のないふたりの頭上に高々と掲げられた
落ちてくる―― ――しかし、巨大な刃は体を斬り裂く寸前、突然砕け散った
優しく広げられた両手が、光源と自分を守るようにそっと包み込む
「心配しないで……私が何としても守る」
暖色の人工照明が、びっしり書き込まれた数式を静かに照らしている。広々としたラボの中では、高速でキーボードを叩く音だけが響いていた
合計324例の敵対サンプルの位置は全て特定した……
極端なテスト環境からは脱したものの、依然としてデータに不可逆な汚染が残る可能性がある。それは更にネットワークの深層へ広がり、拡大し続けるかもしれない
入力層から中間層、そして出力層まで、5度にわたって徹底的に確認し、目に見えるノイズを全て特定し、排除した
長針はすでに1周していたが、ふたつの意識カプセルはまだ何の反応も返さない
モデルの複雑さは人間の脳に匹敵する。技術的にできることは全てやった…… 後は、モデルたち自身に委ねるしかない
ふぅ……
深く息を吸い、焦燥や不安を頭の中から追い払った。負の感情を向こうに伝えるわけにはいかない。遠隔リンクは安定を補助するためのものだ
カプセルを抱き寄せる。データの汚染はまだ除去されておらず、彼女にはモデルたちの苦しげな泣き声が聞こえるようだった
まだ反応がないのはなぜ？また焦燥感に駆られ始めた。 彼女は無意識に砕け散った過去の中から、「子供」を安心させる動作を探し始めた
そうだ
大丈夫……大丈夫よ……
彼女はあの時の母親の仕草を真似るように、ぎこちなくカプセルの表面をトントンと優しく叩いた。そうして長い時間が経った……
「ユイ……ユイ……」
か細く弱々しいが、確かに存在している。監視モニターに表示される感度曲線がゆっくりと上昇した。VIの声だ
ここよ……ここにいるわ！
よかった、モデルは生きている
彼女は顔を上げ、報告書を整理していた女性に急いで声をかけた
ヘルタさん、VIの意識が目覚めました。修復作業を次の段階へ進めます
緩和剤とブドウ糖をもう少し用意して、遠隔リンクの神経インターフェースを137番から198番まで起動してください。それから、出力を更に20%上げてください
彼女は膝の上にカプセルを置いて両手を空けると、新たに発生した汚染ポイントを確認し始めた
「ユイ……ダメ……ないで……」
またVIの呼びかけが聞こえた。何と言っているのだろう……「行かないで」？
ここにいるわ、離れたりしない
彼女は左手でカプセルの外殻をトントンと叩き、傍らを離れないことを伝えた
「ユイ……ダメ……ないで……」
それでも声は止まらない。夢の中の呟きのように、何度も呼びかけてくる
彼女は思わずキーボードを叩く手を止め、身を屈めてそっと耳を傾けた
一体何を伝えようとしているのだろう？
<size=60>ユイ……泣かないで……</size>
え？
幼い声が一瞬で全ての理性を打ち砕いた
視界が滲み、熱い何かが頬を伝い落ちた
ポタ、ポタ……
彼女は今までにないほどの力で強く、しっかりとカプセルを抱きしめた。昔のボロボロになった自分自身を抱きしめるかのように
主任、この実験体たちはもう限界です。これ以上続けたら……
黙れ！黙れ黙れ！私の言う通りにしろ！
お前らに想像できるか！？アルゴリズムの拡張はもう目の前なんだぞ！！あの女さえ邪魔しなければ……！
お前らがまともなものを作れないから、我々は執行官の前でこれほど肩身の狭い思いをしてるんじゃないか！
ですが彼らは皆、141号都市への受け入れと引き換えに実験に参加しています……もし死んでしまったら……
余計なことを考えるな。問題が起きたら私が責任を取る。さっさとサンプリングを続けろ
