Story Reader / 叙事余録 / ER11 遂生再始 / Story

All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.
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ER11-4 VI

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空気が急速に吸い出されて窒息するような痛みが、脳内に伝わってくる……

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ドレイヴィさん――ドレイヴィさん

意識が急速に目覚め始めた

鼓膜が痛むほど激しく咳き込み、荒い息遣いに喉が掠れる。胸は大きく上下し、空気を全て吸い込もうとしているかのようで、呼吸が苦しい

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ドレイヴィさん!大丈夫ですか!?

感覚が戻ってきた。神経安定剤の骨まで凍えるような冷たさと鋭い痛みが、体から脳にまで広がっていく

目に映ったのは、魂を失った抜け殻を閉じ込める、棺のような実験カプセルの内壁だ。ガラスカバーがゆっくり開くと、焦りを滲ませた、見覚えのある女性の顔が現われた

よかった、ご無事でしたか!

……ヘルタ

沈んだ記憶の中にちらつく断片を掬い上げ、目の前の人物が誰なのかをぼんやりと思い出した

ゲホッ……

7時間25分のサンプリング時間……あまりに危険すぎます。 これ以上続ければ、神経系に取り返しのつかないダメージを負うことになりますよ

ヘルタは承服しかねるように、ユイのバイタルサインを記録する機器を見つめた

……私は大丈夫です。カプセルは?

こみ上げる咳をこらえながら、ユイは機械意識モデルのカプセルを探した

機器の傍らに、前腕ほどのサイズの楕円柱の物体が静かに横たわっていた。サンプリングの度に生成されるモデルの雛形は、全てこのカプセルに保存される

あそこに……あら?

III & IV & V

ゴロゴロ……

猫たちが機械意識モデルのカプセルの周りに集まっていた。興味津々にカプセルを覗き込み、何かを見つめている

不思議に思ったヘルタが、カプセルを確認しようと何歩か歩いた時、背後から鈍い音が響いた――

ドレイヴィさん!

しばらくして、ラボでは――

実験カプセルに寄りかかっていたユイの意識は次第に戻りつつあった。ラボ内は人工の暖かな光に満ちている

検査の結果、長時間のサンプリングのせいで、一時的に神経系が麻痺したようです。次回は、サンプリング時間の延長はやめてください。せめて休息を少し取るべきです

え、ええ……

はっきりとは答えず、ユイは機械から送られてきたレポートをめくり、ヘルタにカプセルを持ってくるよう合図した

モデルデータに何か異常はありましたか?

いいえ、全てドレイヴィさんの予測範囲内です……

これまでの全てのカプセルと同じように、このカプセルも、そっとユイの腕に抱えられた

モデルの状態にもデータにも異常はない。出力ポートをラボのマトリクスインターフェースへ接続した――

あらっ?

照明システムの不具合かしら?

改めてまたカプセルの外側にそっと手を添えると――

おかしいですね。ラボの光源はマトリクスによる制御のはず。まさか、マトリクスに異常が?

照明システムの問題じゃありません

ユイはふっと眉をひそめた

照明は、生まれたばかりの赤ん坊が瞬きをしながら笑うように、明滅を繰り返している

もしかして、照明システムがモデルの状態をフィードバックしてる?

でも、ドレイヴィさんはまだ指示も、誘因設定もしていないのに……

なぜマトリクスが光源を制御しているのだろう?

肘から伝わる痺れたような感覚のせいで、腕の力が抜け始めた。ユイは仕方なくカプセルを一旦置いた

照明が元の状態に戻る……

…………

力の入らない両手をぶらぶらと軽く振ってから、またカプセルを抱き上げた

また照明が明滅し始めた

ユイは黙々と、明暗の周波数と変動の幅を記録した。正弦波、余弦波、方形波、三角波……

どれでもない。どれにも当てはまらない。光の明滅パターンは、ユイが知るどの周期関数にも一致しなかった。それはまるで……

光で遊んでいるかのようだ

ユイ……

??!

誰かが自分を呼んだ。「ユイ」という名で。彼女の人生の中で自分をそう呼んだのは、母と称していたあの人物だけだ

ドレイヴィさん、大丈夫ですか?何度声をかけても返事がなくて……あまり驚かさないでくださいよ……

誰かが……私の名前を呼んでる……

……きっと疲れすぎているんですよ。少し休憩しましょう

ヘルタは振り返り、カプセルを受け取ろうとした

ユイ……だっこ……

その呼びかけは、赤ん坊の舌足らずな、幼くか細い声だった。しかし、ユイにはそれが何を言いたいのかが理解できた

力が入らないせいで抱き上げられず、ゆっくりと体を横たえた。せめてこうして寄り添おうとした

ヘルタさん、実験台は私とモデルの遠隔リンクをまだ繋いでいますか?

はい、いきなり切断するとドレイヴィさんのニューロンに負担がかかる可能性がありますから、バッファ処理中でした。 もう切断できるはずです。切りますね

いいえ……今はまだダメです。私を呼んでいるんです、このモデルが

……呼んでいる?……モデルが?

ヘルタはユイの言葉をそのまま繰り返した

でも、これまでの天に選ばれた人モデルで、こんな現象が起こったことはありません……

天に選ばれた人は……自意識を発現させたことはありません

天に選ばれた人モデルは極めて複雑で、毎回さまざまなレベルの問題が発生していた

実際に運用する前に、一時的にデータをクリアにし、神経ネットワークの構造を単純化することで

モデルの汎化能力を向上させるしかない

しかしその結果、モデルの隠れ層にあるニューロンが削除され、ただの「抜け殻」となり

如何なる自意識も持たない存在になってしまうのだ

照明はまだゆっくりと明滅を繰り返していた

記憶データをフィルタリングしたあとに現れた新たな変数でしょうか?

ヘルタはユイを助け起こすと、彼女が寝ながら抱えていたカプセルを脇へと置いた。すると、照明はすぐに正常な状態に戻った

…………

ともかく、まずはこれに名前をつけましょう

名前……

疲労のあまり、ほとんど頭が回らなかった

<phonetic=1号>I</phonetic>、<phonetic=2号>II</phonetic>、<phonetic=3号>III</phonetic>、<phonetic=4号>IV</phonetic>、<phonetic=5号>V</phonetic>……

彼女は何を数えているのだろう?ヘルタの視線は、近くにいる毛玉たちへと向かい……そういうことかと理解した

……<phonetic=6号>VI</phonetic>と呼ぶのがいい

照明がふいに暗くなった。まるで不満を示しているようだ

……適当すぎませんか!

そうでしょうか……

では、<phonetic=/ヴィー/>VI</phonetic>にしましょう

発音以外、何も変わっていない――ヘルタは力なくため息をついた

照明が少しだけ明るくなった。しぶしぶ納得したようだ

ヘルタさん、モデル検証のプログラムを準備してください

ドレイヴィさん、まずは休まないと――

そう言いかけた時、扉の外から権限認証の小さな電子音が響いた

ほう……ちょうどいいタイミングに来たようだな

痩せた男が、冷たい風をまといながら扉の前に姿を現した

新しいモデルの出力は順調だったようだ

彼は、背後に控える2名の研究員に顎をしゃくった

……これはまだ初期サンプルです。引き続き検証が必要で……

その必要はない

2名の研究員はユイの前に立ちはだかるヘルタを押しのけ、横に置かれたカプセルに手を伸ばした

――ダメ!

弱りきった体から思いがけない力が湧き上がる。ユイはさっとカプセルを抱き寄せ、しっかりと腕に抱いた

サンプリング直後にモデルを他の部署に引き渡した例は、これまで1度もありません!

ここのルールを決めるのは、君ではない

ホルストは研究員たちに目配せし、ユイからカプセルを奪わせた。端末に表示されたデータを確認すると、ホルストは満足げな表情を浮かべた

念のため言っておくが……今日は、執行官殿が視察にいらっしゃる日だ。この件は、前にも伝えたはずだが?

…………

日々の研究業務に追われ、ホルストが時折尊大な態度で下す命令のことなど、彼女たちはすっかり忘れていた

全ての研究成果は、事前検証の必要がある。執行官殿にこのマトリクスへの投資を続けてもらうために、これは必要な準備だ。彼の興味を引くものがひとつあればそれでいい

ただの運試しのつもりだったが、今日は大当たりのようだ。ユイ、君は我々に奇跡の「卵」をもたらしてくれたんじゃないか?

彼は、先ほど奪い取ったカプセルをニマニマと眺めた

カプセルがユイの腕から離れた瞬間、室内の明るさが僅かに変化した。当然、ホルストがそれを見逃すはずはない

ユイ……やめて……やめて……

行かせないで……

ユイの体がビクッと震えた

……ダメです。それはまだ初期モデルなんです……

ユイはふらつきながら必死に立ち上がり、カプセルを取り戻そうとしたが、研究員にどんと突き飛ばされた

問題ない、これだけでも十分だ。君たちの進捗が遅いことは大目に見ようじゃないか

扉が重々しく閉ざされた。ホルストはカプセルを持って意気揚々と去っていった

暖かみのある光の下で、ユイは数式を書き続けている。止まることなく、ただひたすらに

数学的マトリクス、偏微分、畳み込み演算……神経内外科が専門のヘルタに理解できるのはその一部だけだった。それ以外の数式は、彼女がまったく踏み込んだことのない領域だ

ドレイヴィさん……

ヘルタには、ユイが何を計算しているのかはっきりとはわからなかったが、彼女でもわかることがあった

複雑な数式なら端末に任せれば済む。わざわざ人の手で計算する必要などまったくないはずだ

逆に、それがユイの目的なのだろうか……あるいは、単に解を得るために書いているわけではないのだろうか……?

水性マーカーのキュッキュッという音がラボの中に響いている。数式は床や壁、実験台にまで続いている……

ヘルタはふと、初めてドレイヴィに会った時も、ラボが数式で埋め尽くされていたことを思い出した

これから……どうすればいいのでしょうか……

どうしようもありません

ホルストの側にいたふたりの体格は、私の1.5倍、それに彼らは格闘技の心得もあります。奇襲しようが強奪しようが、成功確率はどちらも10のマイナス30乗以下です

そんな低確率なのに、まだ成功の可能性があるんですか?

マトリクスの総合的な故障確率に等しいですね。しかも、ふたりがホルストの安全を優先し、カプセルの確保を放棄するという前提で、やっと取り戻せる可能性がある

そこまでしっかり考えてるということは、やっぱりドレイヴィさんも――

だからこそ、こんなことで時間を無駄にするつもりはないんです

ヘルタさん。普通の人は、成功確率が10のマイナス何十乗とかで表わされることをやろうとは思いませんよ

でも、ドレイヴィさんは研究開発者じゃありませんか。マトリクスの中で、あなた以上にVIを理解している人はいません。その立場で交渉しちゃダメなんですか……?

……

今日は執行官が視察に来ます。ホルストが、彼を失望させる真似をするはずがありません

ホルストは私の目の前で傲然とVIのカプセルを奪った。執行官の前でそれを返すなんて、なおさらありえません

彼はこの日を待ち望んでいましたから。検査を通過し、もうひとつのマトリクスのアルゴリズムを分けてもらうためにね

…………

…………

結局は、あれもモデルのひとつにすぎません

ユイは冷静さを取り戻したらしく、数式を書く手を止め、実験台の側でコーヒーを淹れ始めた

ただの人工物です。失ったら、また作ればいいだけ

機械体もAIも、もとは人類に仕えるためのものです。 あれは、もう十分にその価値を発揮しました

単一のマトリクスにはアルゴリズム不足の問題があります。ハードウェアはその処理が追いつかない……だから、私は常にサンプリングと最適化を繰り返しているんです

しかし、十分な計算資源を得られれば、今後の研究もスムーズに進みます

あのモデルが上層部を満足させ、マトリクスのアルゴリズム拡張に繋がるのなら、私がそれを止める理由はどこにもありません

そう……あれは、ただのモデルだ。誰かにとって特別な存在というわけでもなく、ただのありふれた実験産物だ

天に選ばれた人のように、何度もサンプリングをして生成したわけではない

たった一度のサンプリングで生まれたランダムなモデル。心血を注いで作られたわけではない

あれと引き換えに将来の昇進のチャンスを得られるなら、割のいい取引では?

逆に言えば、たかが人工物のために、なぜ自分の将来を犠牲にする必要が?

しかし、何かが引っかかる……

そういった理屈は、あなた自身、すでに理解しているはず……わざわざ口に出したのは、私を納得させるためではなく……ご自身を説得するためじゃありませんか?

ええ、その通りです

ユイがあまりにも素直に答えたことにヘルタは驚いた。ユイはついでのようにコーヒーをひと口飲んだ

リーボヴィッツ社製のエスプレッソは、ほんのひと口が身震いするほど苦い。だが、ユイは表情ひとつ変えずに飲み下した

人間は感情的な生き物です。しかし、感情的な思考では目的は果たせず、むしろ、深淵へ足を踏み入れるだけです

自分に言い聞かせるかのように、彼女はもうひと口、コーヒーを飲んだ

同じ轍を踏むわけにはいきません

マトリクスに足を踏み入れたその日から、私の運命はここに縛りつけられました。ここは私の灯台であり、牢獄でもあるんです

私はここに囚われていますが、この場所こそが私の存在意義なんです……

彼女はイレーザーを手に取り、床の数式をひとつひとつ消し始めた

部屋の照明が、再び激しく点滅し始めた。灯りの連続性はほぼ失われ、絶えずスイッチを切り替え続けているかのようだ

空気中を漂うノイズがふいに大きくなり、赤ん坊の甲高い泣き声のように響き渡った

あの人たち、出力装置とカプセルの接続を切断していないんじゃ……!

……

VIが助けを求めている

しかし、ユイは数式を消す手を止めなかった。むしろ、その動きはますます速くなった

刺激性テストを始めているようですね。このままで大丈夫なんでしょうか……

あのテストでは、戦争や病、死別といった痛みを伴うシナリオをシミュレートされますが……

……

落ち着いて

行ったところで、何も変わらない

あの時と同じだ。大切なぬいぐるみを差し出し、無謀にも母を探しに行った、あの時と……

それで結局、何が変わった?全てが悪化しただけだった

先ほどの判断は間違っていない。今できることなど何もなく、下手に動けば逆効果にすらなりかねない

ここに留まることが、正しい

しかし……

ユイ……嫌だ……行かせないで

ペン先が滑るように、無数の数式が脳内を埋め尽くしていく

ふぅ……

やはり、ここに留まろう

キャッ!

ラボ内のあらゆるものが揺れ始めた

何か変です、なぜここまでの出力が許可されているんでしょうか?

恐らく、執行官が許可したんでしょう

ガシャン――パリン!

壊れていく。何かが砕け散っていく……

これは、コーヒーカップが砕けた音だ

酒瓶が割れた時のような鈍い音と、液体の飛び散る音――これはヘルタの薬剤瓶が割れた音……

次は冷却液の容器が、ペン立て、人工光源のガラスカバーが……

砕けていく……あの時と同じように

彼女はこれ以上座っていられなかった

あの子が壊されてしまう――

彼女は勢いよく扉を開けて飛び出した