汽船の長々しい汽笛の音が聞こえた
黒い人影が次々と目の前に立ちはだかり、騒々しい声は耳の中でわんわんと響き続け、張り詰めた神経を押し潰していく
怖い……逃げ出したい……でも一体どこへ逃げればいい……?
父がまた発狂し、家の家具をほとんど壊してしまい、自分を家から追い出した
と、通して……
どっから来たガキだ?俺のチケットを横取りする気か!?
お前みたいなクソガキ、侵蝕体が来たら真っ先に連れていかれるさ!
背後から響く難民たちの怒声の恐ろしさに、今にも涙がこぼれそうだった
以前の執事が親切心で書いてくれた住所のメモを握りしめ、人混みの中を右往左往した。 大人の顔を直視するのは怖い。でも目を凝らして探さなければ……
速く走るのよ、もっと、もっと速く……見つけなきゃ……
母は……母はここにいるのだろうか?まだ自分のことを覚えているだろうか?どんな顔で私を迎えてくれるだろう?
優しく抱きしめてくれるだろうか?また、あの可愛いぬいぐるみをくれるだろうか?
それとも……見知らぬ他人のように冷たく、あの難民たちのように罵るのだろうか。あるいは、父と呼んでいたあの男のように、自分を乱暴に突き飛ばすのだろうか?
母の表情を想像したいのに、どんな表情を想像すればいいのかわからない。不安と焦りが胸を締めつけ、涙がこみ上げる
人混みをかき分け、誰かとすれ違う度に、慎重に手元の写真と目の前の顔をこっそり見比べた
違う、この人も違う……一体どこにいるのだろう……
ドンッ――突然、誰かにぶつかられ、体ごと地面に倒れ込んだ
うぅ――
人々が一斉にがやがやと押し寄せ、視界から陽の光を遮った。黒くうごめく影が押し潰さんばかりに迫ってくる――
慌てて起き上がろうとしたが、またしても後ろの通行人にぶつかられ、そのか細い体はまた倒れ込んでしまった
お母さん……お母さん……
どこにいるの…………
……ユイ?
その時、優しい声が響いた。短く穏やかな響き。 この世界で、この名前を呼ぶのはたったひとりしかいない
ユイなの?
再び名前を呼ぶ声が聞こえ、避難しようとする人混みの中で、白衣の女性が傍らに屈んだ。涙のたまった目を大きく見開き、大切な写真と女性の顔とを必死に見比べる――
――お母さん!
どうしてここに……
やせ細った影が、弱々しい陽光を遮った。母の表情はよく見えないが、やがて少し冷たい手がそっと自分の額をなでた
ユイ……
お母さん……お母さん……
こらえきれない涙と、喉の奥から張り裂けるような叫び声が一気に溢れ出した
どうして自分を置いて出ていってしまったの?
どうしてお父さんはあんなに冷たいの?どうしてお酒ばかり飲んでいるの?
どうしてお父さんは、贈り物を気に入ってくれなかったの?お母さんがくれたウサギのぬいぐるみだったから、怒り狂って自分を家から追い出したの?
どうして――
……もう、こんなに大きくなったのね
そっと優しく背中をなでる手の温もりに包まれた時、長い旅の疲れが全身にじわじわと広がっていった
大丈夫……大丈夫よ……
そう、もう大丈夫……もう何も心配はいらない……母の腕の中にいるだけで、全ての苦しみが消えていく……
耳元に響く穏やかで温かな母の鼓動は、まるで子守唄のように、意識を静かに夢の世界へと引き込んでいった……
「ひとりだけ……お願いします……」
「ゲートが開き……地上の客……抑えきれない」
「……なんとかしていただけませんか?」
「……許可証……ひとりだけ……わかるな?」
うっすら聞こえる声で目が覚めた。母は誰かと交渉しているらしい……
お母さん?
目覚めた瞬間、慌てて母の服の裾をぎゅっと握りしめた
では……お願いします
母は船窓から外をじっと眺めていた。しばらくするとゆっくりしゃがみ、服の裾を握りしめていた自分の手をそっと開かせた
ユイ、荷物を持って、先に船を降りて待っていて
お母さんは?
……まだ少し荷物があるの。片付けたらすぐに行くわ
母と離れたくなかった。やっと見つけたのだから、もう離れたくはない
だが……母は、どこか浮かない顔をしていた。これまでの父との経験から、言うことを聞いてさえいれば、大人は喜んでくれる
母に言われた通り、荷物を持って船を降り、港へと戻った
船から降りてきたら、お母さんはどこへ遊びに連れていってくれるだろう?長い間ケーキを食べていないから、大きなケーキを頼もう。一番甘いクリームのケーキを
もちろん、最初のひと口はまずお母さんに!ずっと私を探し続けてくれたんだもの。これからは、ずっとお母さんと一緒に……
汽笛が轟き渡った
クソッ、このボロ船、本当に出ちまうのかよ!まだ乗れてねえぞ!
諦めるこった。家財を売っ払って船のチケットを買おうとするやつらの行列は、来世まで続いてんだ。あんたが乗れるわけないだろう
チクショウ……俺もさっきの女みたいにガキを連れて、情に訴えりゃよかったんだ。金をもうちっとばかり積めば、チケットが買えたかもしれねえのによ……
船が出るって……どういうこと?
おや?さっきのガキじゃねえか。あの女、お前を置いてったのか?
お母さんは、ここで待ってなさいって言ったんだもん……!すぐに降りてくる!
待ってなさいったって……今の汽笛が聞こえなかったのかよ?船はもう出航すんだよ
嘘だ――
ウインチが鈍い音を立て、タラップがゆっくりと引き上げられていく
待って!お母さん――!
転がり落ちたスーツケースに目もくれず、ユイは焦燥感にかられて出航する汽船を必死に追いかけた
お母さんが迎えに来るの!きっと下船が間に合わなかったんだ!お願い、待って!
船が母を連れていってしまう!
もう諦めろ。まだわかんねえのか? ガキを連れてりゃ、あの船の君子ヅラした偽善者どもに受け入れられやすいのさ
ハハッ、おおかた、あの女に利用されたんだろ――船に乗るためのダシにされたってわけだ
嘘だ――だって私のお母さんなのに……お母さんがそんなこと……
彼女は自分の母親だ……二度も自分を捨てるはずがない……そんなことはありえない……
お母さんねえ?それがどうしたってんだ
難民は嘲るように鼻で笑った
こんな世の中じゃ、自分が生き延びることが正義だ!父だの母だの、そんなくだらねえもん、誰が気にするってんだよ!
パニシングのせいで、皆自分のことしか考えられねえ。こんな時に誰がガキの面倒なんか見てられるかよ……
嘘、そんなはずない!お母さんはやっとのことで私を見つけたのに。また私をひとりにするはずなんてない……
ハン……お前、自分が唯一の存在だとでも思ってんのか?お前を失ったとしても、新しく作ればいいだけだ!
嘘だ……違う……
弱った心臓が握り潰されるかのようで、何度も大きくゼイゼイと喘いだ。長らく何も食べていないせいで眩暈に襲われ、地面に倒れ込んだが、それでも必死にもがいて立ち上がる
母はきっと間に合わなかったんだ。きっとそうだ……
ユイ……
「母」と呼ばれた女性は甲板に立ち、遠く離れた港へ視線を向けた
人間は、不必要なものを捨ててこそ前へ進める生き物よ
それが、賢い者の選択なの
いつかあなたも、私と同じ状況に立たされる日が来る。その時、きっと私の気持ちがわかるわ
私を恨まないで、ユイ
母と呼ばれた女性は、船とともに遠ざかっていった。その姿は次第に小さく、やがて黒い点となって、深い青色の海の向こうへと消えていった
遠ざかっていく母の姿に体から全ての力が抜け、がっくりと力なく膝をつく
どうして……どうして、お母さんは……
飢えと渇きで視界は暗く朦朧としていたが、それでも意識は妙に冴えていた
どうしてまた自分を捨てて行ってしまったのか……
どうして自分を呼び止め、あの頃のように優しくしたのか。どうして最後になってまた自分を捨てていったのか
「人間は、不必要なものを捨ててこそ前へ進める生き物よ」
母にとって、自分は不必要な存在だったのだろうか?だから捨てられた?
あの……空の酒瓶や汚れたベルベットのカーテン、砕けた鏡と同じように……
全てのものが視界から消え、混乱する人波が光と影になって揺らめいた
一体、何がどうなっているのだろう?
おい、クソガキ。そんなところで膝をついてたって、母親は戻ってこねえぞ。それより侵蝕体が来る。とっとと逃げろ!
……侵蝕体?
……お前、何も知らずにここまで来たのか?大勢の人間がわざわざ遠くから来て並んでたのは何のためだと思う?あの船に乗って、逃げるためさ
侵蝕体がそこまで来てる。船はもう行っちまった。死にたくねえならさっさと逃げるこった
男は忌々しげに睨みつけ、そのまま走り去っていった
「ギャーッ」――。叫び声が聞こえ、続けざまに悲鳴が響いた。背が低いユイには何が起こっているのか見えない。聞こえるのは悲鳴だけだ
群衆が向きを変え、彼女の方へ押し寄せてきた。互いに押し倒しながら前にいる者を踏みつけていく
運の悪い者は悲鳴を上げる間もなく、それどころか侵蝕体に襲われる前に人々に踏み潰されて死んでいった
うずくまってはダメだ。踏み潰されて死んでしまう。走れ、今すぐ走れ!だが、どこもかしこも人で一杯だ。一体どこへ逃げればいい?
おい、チビ!こっちだ、こっちに来い!
少年が地面のマンホールの蓋を押し上げ、力ずくでユイの体を引きずり込んだ。マンホール内は異常に狭く、子供しか入れない場所だった
少年が懐中電灯をつけると、微かな灯りの中に浮かび上がったのは、いくつもの痩せこけた顔――他の子供たちの顔だった
本当に運がよかったな、新入り。ここを真っ直ぐ行けば、侵蝕体の群れを迂回できるんだ
でも、みんな……どうしてこんなところにいるの?
ここに入り込んできたやつが、迷わないようにするためさ!
ここは143号都市で一番大きな地下迷宮なの。うっかり侵蝕体がいる辺りに出ちゃったら大変だもの!
全身ドロドロに汚れた子供たちが、賑やかに新入りを囲んだ
彼らの体はとても汚れている。全身が下水の泥まみれだ。汚いけど……とても温かい。父や母と呼んでいたあの人たちよりも、ずっと温かい
あんたもパパやママに捨てられたの?大丈夫だよ、私たちもみーんなそうなんだ……私たちと一緒にいればいいよ!
そうそう、ここにいるのは全員みなしごなんだ。俺たちと一緒にいれば大丈夫さ!
少年は頼りなく光る懐中電灯を掲げ、他の子供たちを導くように水たまりを避けながら進んでいった
でも今も危険な目に遭っている人がいる。まだ助けなきゃいけない人が、たくさんたくさんいるんだ。お前みたいにさ
それから……俺たちは新しい「家族」になるんだ!大人がいなくたって、兄弟姉妹がいれば生きていけるだろ?
そんなこと……本当にできるの?
当たり前でしょ。私たちはそうやって生きてきたんだから
少女は粗い生地でできたマントを脱ぎ、ユイに着せかけた。少年もユイが道を照らせるよう、懐中電灯を手渡した
着いた……ここだ。ここを登れば、侵蝕体どもを避けられるんだ
新入り、お前が先に行けよ。上の方が安全だ。後ろは俺たちが守っててやる
う、うん……
ポタッ、ポタッと水が滴り落ちる音だけが響いている。ボロボロの小さな革靴は、静かに下水道の中へと踏み込んだ。光だ。あそこが出口だろうか?
赤錆まみれのはしごを掴み、登っていく
鉄パイプがギシギシと不穏な音を立てて軋んだ
大丈夫、もうすぐ……もうすぐ上半身が出せる――
ギィ!!!
鋭い何かがふくらはぎに突き刺さった――痛い!!
突然、はしごの側に潜んでいた侵蝕体がユイの足を掴み、その指が肉に深々と食い込んだ
キャアアッ!!!
「た、助けて!!!」――ユイは来た道の方に向かって必死に叫んだ
「ほらな?この道は通れないって言っただろ?」
「でも、誰かを生贄にして調べてみないとわかんないじゃん」
「これでわかったろ?行こうぜ、次の道も誰かで試さなきゃ」
子供たちの冷たい笑い声が、少し離れた場所から聞こえてきた
どうして……?新しい家族になるって言ってたのに……どうして……
グガァ!!!
ああ――痛い、痛いよ――助けてと叫びたい――
でも、誰を呼べばいいの?父、母?それとも、さっきの「兄弟姉妹」?
誰も呼べない……
だが、生きてやる。何としてでも
噛みしめた下唇から、じわりと血が滴った。右手を振り回し、何か掴めるものはないかと必死に周囲を探り――
指先が鋭利な石に触れた
渾身の力を振り絞り、全身全霊でその石を握りしめる。そして――
振り下ろせ!!!ひたすら振り下ろせ!
1回、2回、3回……ふくらはぎから血肉が飛び散る。侵蝕体の手の力が、僅かに緩んだ気がした。一瞬安堵した瞬間、侵蝕体は再び彼女の足首をがっちりと掴んだ――
痛い――!!
ふくらはぎが引き裂かれた血肉で見るも無残な状態になった頃、侵蝕体は再び手を伸ばそうとしたが間に合わず、滑り落ちていった
ボロボロになりながらも、上半身の力だけで必死に下水道から這い出した
壊れていく。何もかもが砕け散っていく
父も、母も、「友人」も……全ての「感情」的な繋がりなど、所詮人間が作り出した戯れ言
誰も信じられない、もう二度と誰のことも信じない……
握りしめた手の平から、鋭い痛みが脳へと伝わる。意識を覚醒させようとしたが、結局暗闇へと落ちていった
これから先、頼れるのは自分だけ
ユイ·ドレイヴィだけ