科学理事会
実験場
詳細な検査プロセスを経て、いくつもの廊下を歩き、閉鎖された実験室の前で立ち止まった
アシモフは窓に背を向け、実験装置を操作していた。実験台に横たわるバンジは意識海の監視機器に繋がれ、画面には現在の彼の意識海安定度が表示されている
突然、安定していたリンクに不安定な波動が現れ、それと同時にバンジも目を閉じた
グレイレイヴン指揮官に気付いたアシモフがすぐさま近付いてきた
ちょうどいいところに来た。バンジの状況について説明しておくことがある
新しい機体に交換して以来、彼は時折、無意識に封印された記憶データを読み込むことがある
お前がバンジの意識海に深く潜り込み、安定させてくれたから助かった。でなければ、膨大かつ乱雑なデータによって意識海が乱れ、彼は命を落としていたかもしれない
今はその記憶データがバンジに脅威を与えたりはしないが、それでも彼の意識海の波動は観測されている……お前たちも彼から聞いているな?――「一瞬の恍惚」のことを
実際には極めて短時間の制御不能な休眠状態だ
そうだ。日常生活に大きな影響はないが、今後の彼の任務計画のためには重要視する必要がある
詳細に調べたところ、原因は一瞬の記憶データの乱れが引き金となって、彼の記憶データメモリが不安定になる
彼が研究所で意識海の乱れを起こした状況は非常に深刻だ。お前がタイミングよく安定させても、この不可逆的な損傷が発生する……少なくとも現在の技術では修復不可能だ
通常なら方法はふたつだ。最も簡単なのは、一時的に旧機体に戻すこと。これは意識海の偏移を解決するためによく使われる方法だが、バンジには効果がなかった
もうひとつは、外付け記憶モジュールの導入だ。ホワイトスワンのバンビナータが一例だ。バンビナータほど状況が複雑じゃないバンジなら、効果が更に安定する
ただし、外付け記憶モジュールを使えばバンジの記憶データの多くが犠牲になる。少なくとも「自由に思い出す」ことは難しくなるだろう
バンジ自身が、それははっきりと拒否した
監視機器を解除したばかりのバンジが歩いてくるのを見ながら、彼がはっきり拒否したという様子が、一瞬想像できなかった
だがバンジの意識海に深く潜ったことのある者として、彼の気持ちは少なからず理解できた
多くの人々の存在が消された中で、もし彼らに関する記憶データすら外部に保存されてしまえば、それは彼らがこの世界から完全に消え去るということにならないだろうか?
そのふたつの方法以外に……僕とアシモフは3つ目の方法を試そうと思ってる
アシモフはファイルを表示し、あるプロジェクトチームの公開研究課題を見せた
これは、数年前に科学理事会が新たに設立した、さまざまな構造体の意識海の乱れに関する研究を専門に行うプロジェクトチームだ
ただ、これまでの大半の意識海研究とは違い、今回の研究方向は医療的なアプローチが専門だ。スターオブライフとも密に協力している
俺も訊いてみたがバンジのケースは特殊で、プロジェクトチーム内でも今のところ似たような症例はない
そこで、バンジにはある選択をしてもらわなければならない
初めての「ケース」としてプロジェクトチームの臨床実験に協力し、この分野での意識海研究に貢献するか、ということだ
医師のお前なら先刻承知だろうが、最初の臨床例には高いリスクがつきものだ。完全な治癒を保証することもできない
……僕は意識海の偏移による後遺症に苦しむ多くの構造体を見てきた
もしこの機会に、同様の意識海の損傷に対する新しい治療法を見つけられれば、助けられる構造体は僕だけじゃないはずだ
可能性や未来がどうであれ、少なくとも今は、この選択は正しいと思う
バンジの真剣な表情を見て、アシモフも頷いた
いくつか保証できることもあるから、そう深刻に考える必要はない……それにお前もだ、そんなに心配そうな顔をするな
アシモフはファイルをもうひとつ表示した
これは議会で可決された最新の「臨床実験管理規定」だ
この中では、臨床実験において最も重要視されるのは、被験者の権利と安全であることが強調されている
厳格な倫理審査とインフォームドコンセントの実行が必要で――研究を開始する前に、如何なる実験計画であっても必ず倫理委員会の許可を得なければならない
また、関連する監視システムは全ての研究過程に適用される
アシモフがスクロールする度に、関連する文言がゆっくりと流れた。それらは簡潔で、緻密かつ明確であり、全ての者が遵守すべき原則であった
人類はもう理解しているはずだからな――「人類文明の存続に勝る命題は存在しない」と
バンジが関連書類を確認し終えたあと、アシモフは最後にひと言、言い添えた
かつて時代に貢献すべきメスを誤った対象に向けた者がいた。今こそ、そのメスの力を正しく使う者が必要だ
科学は停滞することなく、人類文明に対する是正は決して止まらない
世界という樹の成長は、今までも余分な枝や誤った枝を剪定し、春の新芽の成長を支えてきたはずだ
他に問題がなければ、バンジの治療はじきに始まる
ありがとうございます
気にするな
……過去の意識海プロジェクトが残した「後遺症」を治療することにもなる
あとは……時間薬というやつだ
アシモフはファイルを閉じ、立ち去ろうとした
お前たち、この後はどうするんだ?休むのか?
ふたりで育成センターに行ってきます
今日は空中庭園の休日だ。学生たちも授業がなく、ホールにいる育成センターの子供たちは慣れた様子で構造体の側を走り回り、時折立ち止まって挨拶することもあった
ひとりの人間とひとりの構造体がホールの長椅子に座り、人工天幕から降り注ぐ晴れやかな「陽光」を楽しんでいた
昔はここで構造体を見かけることなんて、ほとんどなかったんだけどね。今ではよく見るようになった
いいことだ
……シュトロールが初めて育成センターに来た時は、僕でも警戒したよ
研究所にあったシュトロールの持ち物は、全部ヴァレリアに渡した
シュトロールの名前が出て、ふと地上にいた時のスカラベ小隊のヴァレリアとの通信を思い出した
あの時は皆、臨時拠点で忙しくしていたが、スカラベ小隊からの通信が届いたのですぐに応答したのだ
投影が激しくちらつき、かろうじて彼女の黒髪が見えた。恐らくヴァレリアは任務の遂行中なのだろう
通信が繋がると投影はほんの数秒間安定し、すぐにすらっとした姿が皆の前に現れた
ヴァレリアは人間の周囲の状況に一切構うことなく、単刀直入に問いかけた
シュトロールの情報があったって?
前置きはいいから正直に教えて、シュトロールは死んだの?
隊員の死亡を確認すると、画面の向こうのヴァレリアはしばらく黙り込んだ
つまり、あの時私が見つけたシュトロールの四肢は、離反者が外したものだったということ?
恐らく君をおびき寄せるためだろうね
いつの間にか側に来ていたバンジが、ヴァレリアに答えた
バンジ……あなたが終わらせたの
……シュトロールが残したキャンディがある。戻ったら渡すよ
キャンディ?
前に、君が彼にあげたもの
……わかった。空中庭園に戻ったら受け取りに行く
訊きたいことは訊けたわ
ヴァレリアは移動速度を上げ、次の任務へ向かい始めた
待って、こっちにも訊きたいことがある
話して
ずっと前……君が話していたシュトロールの映像のことなんだけど
それが、シュトロールが失踪する前にバンジが聞いた、彼に関する最後の情報だった
ヴァレリアの移動速度が再び遅くなった。彼女はバンジの顔をじっと見つめたあと、通信終了を選んだ
通信を終了する寸前、彼女はひと言だけ言い残した
何でもない……つまらない悪ふざけだとでも思っておいて
僕は一歩一歩進んで、彼と別れる場所にたどり着いた。だから、僕よりも彼の物を必要とする人がいると思った……特にヴァレリアとの通信の後、それを確信したよ
ヴァレリアは受け取ってくれたよ、相変わらず口数は少なかったけど
何か考えているのか、バンジはうつむいた
うーん……
そうやって、バンジを重い話題から引き離した。バンジは少し考え込んだあと、何かを思い出した
最近、シヴァは輸送機の操縦を練習してるらしいよ
ふわぁぁ……僕も他のことはよく知らないんだ
ふたりが雑談していると、ひとりの少女がバンジの前に駆け寄ってきて、無邪気に挨拶をした
バンジお兄ちゃん、いらっしゃい!
ん……?ああ、君か。こんにちは
見覚えのある子供に会い、バンジは無意識に自分のバッグの中のお菓子を探し始めたが、突然ピタッと動きを止めた
前に子供たちにお菓子を配ったら、奉仕員に怒られたんだった……
バンジの頭頂部にあるひと房の巻き毛がシュンとしおれ、彼は少し申し訳なさそうに少女に説明を始めた
……今はお見舞いの規則が多いんだ。今度、君たちの先生にお菓子を渡してもらうよう頼んでおくから、皆で分けて食べて
バンジッ!!
バンジと一緒に振り返ると、目を大きく見張った女性奉仕員が叫んでいた。バッグの中にまだ手を入れているバンジに指を突きつけている
バンジ!その子、虫歯だった乳歯が抜けたばかりなの!甘いものをあげちゃダメよ!
ナタリーはロッカーから奉仕員のロゴが印刷された制服を2着取り出し、前方のふたりに投げ渡した
育成センターで一緒に育った友人だよ。君もスターオブライフで見たことがあるかもしれない、彼女はそこの医師なんだ
数年前、志願医師のナタリーは前線の戦火を生き延び、空中庭園に戻ったあとに新たな修習期間を経て、構造体整備部門の医師になった
たまに整備を受ける時にストライクホークのメンバーが彼女に声をかけることもあった
あんなに仕事が忙しいのに、どこにボランティアする時間が……わっ!
ナタリーはバンジの背中をドンと叩き、そのままぐいぐいと前に押し出した
あなただって忙しいのによくここに来てるじゃないの。ほら、急いで!マカが待ってるわよ
ナタリーは振り返り、グレイレイヴン指揮官にも声をかけた
あなたはバンジと一緒にマカに会いに来たの?予約はしてる?
コゼット?地上から連れてきたあの子ね。マカから何度も話を聞いてるわ、ついてきて……
ナタリーが言い終わらないうちに、隣の部屋の扉から男の子が飛び出して、バンジに飛びついた
バンジお兄ちゃん!
!そんなに走っちゃダメじゃないか
バンジお兄ちゃん知らないの?前の手術が終わって、ナタリーお姉ちゃんが走ってもいいって許可をくれたんだよ
今の僕は昔の映画に出てくるスーパーヒーローとそっくりなんだ!すごいでしょ?
マカは胸を張って、自分の胸にある特殊な装置を指差した
バンジ、マカはもう一般の健康な子供と変わらないわよ
ナタリーは腕を組み、目の前で元気にはしゃぐ男の子を満足そうに見つめた
先生たちですら手を焼く病気だと思ってたけど、臨床でこんなに早く新しい解決策が見つかるなんて、運がよかったわ
……そっか
思ってたよりもかなり早かったね
いい知らせが届くのは、いつもバンジの想像よりずっと早い
――空中庭園に戻る前の短い時間、ストライクホークは偵察任務を受け、揃って行動していた
特にバンジは任務の遂行中、絶対に集団行動をするようにと隊長からきつく言われていた
なんで急に、バンジをそんなに「大事」にするんすか?
ロゼッタが空中庭園に資料を持ち帰ったあと何者かが、バンジが構造体医師だった頃に巻き込まれた構造体離反事件に関心を持ち、再調査を要求してきたらしい
……
何かを隠すためか得るためか……彼らは本当に何でもやる。当時の粛清部隊の記録を引っ張り出したり、バンジが一時的に改造された時のことまで調べているという話だ
バンジを利用してよからぬ目論見があると?
……今は任務の遂行が先だ
クロムは最後に付近のパニシング濃度を確認すると、端末を操作し報告した
報告します。前方に残っていた異合生物は全て排除され、輸送隊の前進を再開できます
ただしチームの志願医師は、全員しっかり防護服を着用するよう伝えてください。前方の道はまだパニシング濃度がやや高い
通信の向こう側から何かの具体的な指示があったようで、クロムはバンジの方を見た
バンジですか……?
?
クロムは通信を終え、少し驚いた様子を見せた。こんなに早くいい知らせが届くとは思わなかったようだ
グレイレイヴン指揮官が今得た情報だ――皆、空中庭園に戻れるらしい
ビアンカからの伝言もある……バンジは粛清リストには載らないらしい。もう安心していい
それから、彼女があの離反事件に関する音声データを渡してくれたと
音声データ……?……わかりました、とりあえずお礼を言っておきます
戻ったら処理しなきゃいけないことが山積みだが……やっといい知らせがあった
クロムはようやくほっとしたように笑った
っしゃ!ついに帰れる~!バンジ、お前の休眠カプセル、片付けといてやったんだ!戻ったら使ってみろよ!
また中に何か詰め込んでないよね……
フン、変な枕を持ち込む度胸はないだろ。こってり絞られたあとだからな
カムイの歓声が響く中、少し離れた場所で輸送隊が動き始め、次々とストライクホークのメンバーの前を通りすぎた。車には空中庭園から来た技術者や志願医師が乗っている
周囲の景色を見る多くの若い顔には好奇心と興奮が浮かんでいた。廃墟でさえも、彼らにとっては新鮮だった
地面を踏むのは本当に初めてなんだ……やっぱり映像で見るのとは全然違うな!
また新しい人が地上に来たんだね
ああ。今回、空中庭園で一番対応が迅速だったのは志願医師たちだった。以前の手配スピードと比べてもずっと早い
今は志願医師の安全保障が大幅に向上している。奉仕員も支援部隊の隊員が率いるようになり、犠牲率が大幅に下がった
クロムはある支援任務を思い出したようだ
以前と比べて、状況はかなり改善した
輸送車が通りすぎた。任務を終えたストライクホークは後ろを振り返り、次の守るべき方へ向かって歩き出した――彼らは最前線に立つ者たちだから
早く早く!この先のことをパパっと片付けて帰ろーぜ!
しかしバンジはその場に留まり、地面に残る車輪の跡と、新たに来た者たちの背中をずっと見つめていた
バンジは手を伸ばした。「今」という瞬間から、遠い過去や未来に触れようとするかのように
バンジ?何を見てる?
……僕が望んだ未来だ
人として構造体として、一生をかけて前に進んだ……僕はこんなところにまで来ていたのか
おい、またボーッとしてるが本当に大丈夫なのか?
うん……大丈夫、心配しないで
バンジは手を下ろし、振り返って仲間たちに追いついた
さあ、行こう