臨時キャンプには重苦しい雰囲気が漂っていた
シリアの遺体は運ばれ適切に処置されたが、「どこかに敵がいる」という事実が、いまだに全員の神経を尖らせている
アンジェ、まだ話す気にならない?
……
眼鏡の女性は黙りこくっている
任務の前、念の為にあなたたちの経歴を調べさせてもらったわ
空中庭園打ち上げの前夜に誕生。空中庭園での成績は非常に優秀、卒業後はノルマングループのタンタル研究室に入り、すぐに責任者に昇任……
あなたが空中庭園以外の勢力と手を結ぶ理由が見当たらない。ノルマングループがそうさせたんじゃない限りはね
……
私たちを信用して。ノルマンの研究員はすでに別の場所に隔離したわ。ここには空中庭園の者しかいないから、あなたの不利にはならない
アンジェの表情は少し和らいだが、それでもまだ話す気はないようだ
……はぁ、こんなことしたくなかったんだけど
ブリギットは無表情でため息をつき、立ち上がった
トロイ、後はお願い
だから言ったでしょう。裏の人間には裏のやり方じゃないと。あなたたちのやり方じゃ効かないんですよ
トロイはカーテンを開けて、気怠く歩いてきた
はいはい、後は引き受けましたよ
えっと、これが最後のチャンスですからね?私はさっき言ってたような、いい人って訳じゃないですし
アンジェがそれでも頑なに口を閉ざすのを見て、ブリギットはどうしようもないように首を振り、簡易テントを出ていった
まだ口を割らない
尋問は支援部隊の必修項目じゃないし、口がカラッカラになるまで話しかけたけど、全部無視されたわ
ああ、ビール味の電解液疑似酒が飲みたい……
すぐ側の岩に腰掛けると、ブリギットは大きく伸びをした
私がお願いしたの。アンジェと同じノルマン鉱業の人だし、彼女に尋問を頼んだ方が合理的でしょ
でも実を言えば、トロイに尋問させるのが正しい判断だったかどうかはわからないわ
茶髪の構造体は考え込んだ
昔の出来事のせいで、彼女にはずっと疑念を抱いてきた。でも今の彼女を見ていると、私の「疑念」に満ちた態度が彼女を傷つけているのかもしれない
確かに、昔は一方的に彼女のことを親友や教官だと思っていたけど……当時の彼女は私のことをどう思ってたんだろう
当時の彼女は一体どの立場の人間だったのか。そして今の彼女は……本当にただのノルマンのスタッフなの?
私には……わからない
多分、コンスタンティン鉱場のことが私にとって心のしこりになっているからかもしれないわ
ブリギットは率直に答えた
私はコンスタンティンの街で育ち、この鉱場で両親を失った。両親の痕跡を探そうとした時には、更に多くのものを失ったの……
謎が謎を呼び、彼らが必死に真実を隠せば隠すほど、それがいかに人々に見せられないものであるかを確信していくばかりよ
先ほどのラボでは、実験に失敗して積み上げられた構造体の死体や、ゾッとする血濡れの記録、更には明らかに子供が描いた「地図」が、ここで犯された罪を物語っていた
ふふ、ありがとう
茶髪の構造体はぐっと親指を立てた
グレイレイヴン指揮官の後押しなんて、貴重だわ
そう話している間に、トロイが背後のカーテンから顔を覗かせた
中にどうぞ、知りたいことがあるんですよね
トロイの「表にできない」やり方は、間違いなくアンジェに脅威を与えたようだ
彼女の目から頑なさは消え、意気消沈した顔に絶望が滲んでいる
……今回の任務は黒野から要求されたものです
何度も圧力をかけられた黒野はしばらく鳴りを潜めており、最近はその名を聞くことはなかった
はい。彼らは私のノルマン研究員の権限を利用し、ラボからTa-異形コポリマーの研究資料を持ち出すようにと
Ta-異形コポリマー?
推測ですがTa-異形コポリマー合成に成功すれば、適応性範囲がTa-193コポリマーより拡大します。つまり、Ta-193コポリマー不適の人々も構造体に改造できる……
……私にはあまりよく理解できないけど、続けて
以上が全てです
?
実験が成功したかどうかはわかりません。この推測はそうできる可能性がある、と示しただけです。さっき複製した資料を私はまだちゃんと見ていませんから
あなたを信じるに足る理由は?
……
一瞬呆気に取られ、アンジェは苦笑いを浮かべた
黒野の要求は「私が資料を持って」坑道から出てくることではありません
彼らが欲しいのはその資料だけ。黒野の兵士の任務は……資料を手に入れたら、この件を知る全員の口封じをすることです
坑道内のラボは黒野とノルマングループが共同出資で建てたもので、あそこに廃棄されていた実験体も、黒野が捨てたものです
議会はすでに違法ラボと違法研究を根こそぎ摘発する案を可決しています。ここでの実験が暴かれると、黒野の勢力にとって更に大きな打撃となる……
だから、彼らは私の助手を見殺しにしたんです
彼女はその後に起こったことは隠したままだった
私は研究員の権限を利用して彼らを撒きましたが、坑道内の侵蝕体からは逃れられず、培養カプセルに閉じ込められてしまったという訳です
ともかく、助けていただきありがとうございました
……どういたしまして
じゃあ、私たちが坑道に入った時に見たあの研究員たちも、黒野のやつらが殺したってこと?
……それはわかりません
しばらく考え込んでから、アンジェは答えた
今回黒野が私の「任務」を手助けするために派遣したのは、兵士2名だけのはず。彼らが私にコンタクトを取ってきたのは、私たちが鉱井に入ったあとのことです
坑道の爆破と通信の切断は黒野兵士がやったことですが、あの研究員の死体については……
彼らにその「仕事」をこなす時間はなかったはず
脳内に、坑道で見たあの異様な足跡が浮かぶ。ブリギットもおそらく同じことを考えているらしく、こちらを見た
坑道内にいる敵は、黒野だけじゃない
わかったわ
アンジェから渡された資料を持ってテントを出ると、ブリギットはふと足を止めた
これは……
資料の最初のページにはグループごとにまとめた実験体のリストが並んでいた。担当の研究員が確認しやすいよう、それぞれの名前の後ろに簡単な顔写真が添付されている
研究プロジェクトは……Ta-異形コポリマーの人体耐久性、研究責任者は……ハイド?
彼女は何かに気付いたようだった
リストをざっとたどっていくと、名前の部分が特に強調されている青い髪の構造体が現れた
そんな……
彼女はその簡略化された資料を急いで読み進めた
時間がなかったせいか、アンジェが複製した資料は不完全で、簡単な情報だけが乱雑に記載されている
トロイ、性別、女性、素材入手先、流民より購入、担当研究員、ハイド
第1次Ta-異形コポリマー適応性培養時間記録……
第2次Ta-異形コポリマー適応性培養時間記録……
第X次Ta-異形コポリマー適応性培養時間記録……
適応性良好、構造体改造の実験開始を決定
……【規制音】!
常に礼儀を弁えたブリギットの口から、珍しく口汚い言葉がこぼれた
実験データに名前、写真。それを見た彼女は「ありえない」「絶対に何かの間違いだ」と自身を欺くことはできなかった
彼女は認めざるを得ない――選択せず、全員を救うことを信条にする自分が、かつて「親友」だと思っていた彼女を救えなかった事実を
ブリギットは相手の異常に気付いてすらいなかったのだ
あの時……坑道内で彼女が殺そうとしていた研究員……
ハイドという名前だった
私が間違っていたの?
彼女は呆然とその資料を見つめ続けた