連日ペンを走らせた結果、なんとか本格的な稽古が始まる前に、新たな脚本の推敲を終えることができた
今日はビアンカと一緒に、物語の要となる感情的なシーンを演じる日だ。早めに劇場に入り、準備を整えようと扉を押し開けると、すでに先客がいた
おはようございます、昨夜はよくお休みになれましたか?
こちらの足音に気付いたビアンカが、舞台の上で顔を上げ、微笑を添えて一礼した
丁寧に時間をかけて、あなたと同じ舞台に立つその瞬間を迎えたいと思ったのです
たとえ脚本のためとはいえ、どうかご無理をなさらないでください。決してこの前のようなことは……
自身の言葉に動揺したのか、彼女の声が少し沈んだ。彼女が言っているのは「見守るはずが、いつの間にか先に眠ってしまった夜のこと」だと、すぐにわかった
夢から弾かれるように目を覚ますと、外はまだ夜の色に沈み、ビアンカは穏やかな寝息を立てて隣にいた。夢の余韻が残るうちに机へ向かい、原稿用紙を広げてペンを走らせた
黒夜、幻影、暗闇に潜むファントム、そして決して褪せぬ愛……その全てが、ペン先から原稿用紙へと途切れなく流れ出ていく
時の流れを忘れ、ただ夢中で書き続けた。いつの間にか、窓辺から射す朝の光が紙面を優しく照らしていた
背後から聞こえた寝言で、思考が中断した
大丈夫です……もう少しだけ、お休みになってください
ビアンカは寝返りを打ちながら、まだ夢と現実の狭間で自分を見守っていると信じているようだった
彼女ははっとして目を開け、自らが眠っていたことに気付くと、慌てて身なりを整え、僅かに頬を染めた
申し訳ありません、寝てしまうなんて……あなたを見守るつもりだったのに
冗談めかして場を和ませようとしたが、彼女の表情はかえって曇り、不安の影が差した
私は、あの「ファントム」が再び現れて、あなたを傷つけるのではないかと心配だったのです
そして私は、それを止められないのではないか。あるいは、自分自身を止められないのではないかと……
ビアンカは窓を背に立ち、朝の光が揺らめく中にその身を溶かしていた。光と影の境界で、彼女の表情は判然としない
自分はそっと彼女の手を取り、安らぎの願いを込めてその温かい手を握った
……時折、自分がまるで別の存在に変わってしまうような感覚に襲われます。その「私」が何をするか、それが怖いのです
だから眠るのが怖いんです。夢の中の「私」に、引きずられてしまいそうで
グレイレイヴン殿に、このような話をしても信じていただけないでしょう。幼稚だと笑われるかもしれません。ですが……
その言葉に、ビアンカの強ばった表情がほどけていった。彼女は窓の外に目を向け、昇り始めた朝日を見つめた
柔らかな日差しが窓越しに彼女の頬を照らす。彼女は静かに微笑んだ――朝の光の中で、ようやく現実という名の安らぎを見出したようだ
もしも、いつか私が夢の「闇」に迷い込んでしまったら……その時は、どうか私を導いてください
夢の中に来て、あなた自身の声で、私にそう囁いてください……
ふたりの間で交わされたその「誓い」の言葉は、柔らかな朝の光の中に静かに漂った
静かな足音が耳に届き、記憶の中を彷徨っていた思考が引き戻される。いつの間にかビアンカが舞台から降り、目の前まで来ていた
あの時、自分に誓いを立てた真剣な表情と、今こうして目の前に立つ彼女の姿が重なった
流れ着いた旅人よ。この手を取り、私の夢の中へおいでなさい
こちらの戸惑いに気付いたのか、彼女は微笑みながらセリフを口にし、自分を劇中の虚構の世界へと誘う
舞台の照明が緩やかに落ち、僅かな光だけが残った。霧が立ちこめ、冷気が肌をなでる。迷宮のような舞台装置の中に険しい道が現れた
ビアンカはランプを掲げて前を歩き、霧の中で自分を導いていく。その揺らめく光が、彼女のしなやかな輪郭を淡く描き出す
脚本では、彼女は「ファントム」として自分を導き、彼女の地下迷宮へと連れていくシーンだ
彼女の背中を見つめていると、本来の彼女にはない魔力が芽生え始めているように感じた
この美しい夜を無駄にするのは惜しい。私の呼び声に応え、再び私のもとへ帰る時が来た
その声は、これまでとは異なる響きを帯び、霧の奥深くまで染み入るように響いた
まるで彼女の中に潜んでいた別の何かが目を覚まし、蔓のように伸びて舞台全体を覆っていくようだった
その見えぬ蔓がこちらへと伸び、体に絡みつき、静かに締めつけてくる
彼女の後を追っているはずなのに、いつの間にか歩みが重くなり、意識は幾重にも重なった夢の奥底へと沈みかけていた
あなたと私の魂は、今宵、ひとつとなる
ビアンカが掲げるランプの仄かな光が、いつの間にか視界から消えた
気付けば、濃霧の中に取り残されたのは自分ひとりだった。白い霧が体を包み、緩やかに意識へと染み込んでいく
ええ、ここに
柔らかな返事とともに、背後から温かい吐息が首筋に触れ、微かな痺れと熱を残した
背後から伸びた両手がこちらの肩を抱き、そっと制した。耳元で囁く声は、さっきよりもずっと甘く響いた
あなたの魂が、私の魂と結びつく……それだけでは足りません。私は欲深いのです
あなたの全てを私に……「グレイレイヴン」
彼女の吐息が更に近付き、耳朶にそっと唇が触れた
柔らかな指先が頬へと伸び、顎をなぞるように滑り、瞼を覆うと闇が両目を包み込んだ
頬に馴染みのない感触が伝わり、彼女が自分の顔に仮面をつけたことに気付いた。視界が閉ざされた直後、彼女はぴたりと身を寄せて、吐息にかき消されそうな声で囁いた
さあ、私があなたを「終章」へと導いて差し上げましょう
混沌の闇を歩む中、視覚を奪われたせいで他の感覚が研ぎ澄まされていく。足の進む方向から、ビアンカが自分を舞台へと導いていることがわかった
闇に包まれた劇場には、ふたりの他に誰もいない。ふたつの足音が響き合いながら空間を満たしていた
最後の階段を上がると、仮面の隙間から僅かに光が差し込んだ。舞台中央のスポットライトの下に立っているようだ
さあ、あなたと私だけの……夜の楽章を
再び頬に彼女の指先が触れ、仮面が静かに取り外された。強いスポットライトに照らされ、夢から覚めるような眩暈がした
焦点を合わせ、ビアンカの姿をはっきりと捉える。華やかな衣装を纏った彼女は、スポットライトの光に照らされて眩しかった
しかし、いつもの彼女と何かが違っていた。「ファントム」の仮面が、その奥にある感情を覆い隠している
彼女は無数の鏡に取り囲まれている。それは、劇中にて「ファントム」が住まう迷宮の象徴。数えきれない鏡が彼女の姿を映し出している
虚実が交錯し、どれが真の彼女なのか、見分けがつかない
常に光の中にいるあなたは、なぜ闇からの私の愛に応えないのだろうか?これほどまでに熱く、眩い感情に
たった一度、応えてくれさえすればいい。そうすれば私は闇の枷から解き放たれ、ともに私たちの楽章を奏でられる
それがひとつの言葉、あるいは……たった一度の口づけでも
彼女の言葉は誰もいない劇場に幾重にも響き、まるで劇中の「ファントム」そのもののように、人の心を惑わす魔力を帯びていた
彼女は微笑みを浮かべながら、静かにこちらへと近付いてくる
あなたは本当に……私を、この永遠の孤独から救い出してはくれないのだろうか?
私が欲しているのは、ただ一度のあなたの口づけなのに
ふたりの距離は、互いの吐息が触れ合うほどだった。同時に額に馴染みのない感触が伝わってくる。それは彼女の仮面が、自分の額に触れた感触だった
だが、彼女の仮面に触れた瞬間、手首に抵抗できない強い力がかかった。彼女は己の素顔を見せることを恐れるように、手でこちらの目を覆い、口づけをしようとした
目の前のビアンカは、いつもとは違う気配を纏っていた。その変貌ぶりに、心が本能的に抗い始める
その時――錯覚かもしれないが、周囲の鏡に映るビアンカたちが、一斉にこちらを振り返ったような気がした
それはかつて見たことのない、彼女の独占欲に満ちた視線だった。まるで別の「人格」が宿ったかのような眼差し
初めての出会いでの消えるような別れ、ともに踊った夜の別人のような振る舞い、雨の夜の寝言……これら全てが疑念となって絡み合っていく
彼女は動きを止め、優しく微笑んだ。それは、抗えぬほどに自信に満ちた笑みだった
物語の結末に……「ファントム」の恋人は自ら闇に身を投じ、時の終わりまで、彼女とともにいることを誓います
恋人は口づけという形で、永遠の契りを彼女に告げるのです……ちょうど、今の私たちのように
私が願うのは、ただひとつ。あなたと、永遠にともにいること
胸の奥には抗う意志はなく、ただ無条件の慈しみと受容だけがあった。沈黙の中で、暗がりから揺らめく意識の鼓動が伝わってくる
それは、彼女が決して口にはしなかった渇望。長い祈りにも似た願い。抑え込まれた想いが影の中で暴れ育ち、清らかな魂を呑み込もうとしていた
そして、純白の魂は夢と現実の狭間で声なき叫びを上げ、自らの居場所を求めていた
1歩、彼女の前へと踏み出し、その手を取る。幾重にも重なった夢の奥底で眠る「本当の彼女」を呼び覚ますために
あの朝、ビアンカと交わした誓いの言葉が、今鮮やかに記憶の底から甦る
もしも、いつか私が夢の「闇」に迷い込んでしまったら……その時は、どうか私を導いてください
夢の中に来て、あなた自身の声で、私にそう囁いてください……
その言葉をひと言ずつ、はっきりと口にする
その言葉はまるで呪縛を解く祝詞のように響き、彼女の動きが一瞬だけ止まった。眠り続けていた秘め事の記憶が、静かに心の底で煌めいたようだった
彼女は夢から覚めたように、静かにその場に立ち尽くした。言葉こそ発しなかったが、沈黙の中で、確かに何かが芽生え始めていた
……
仮面の下の表情は見えない。だが、彼女はそっと手を差し出し、こちらの手の平に重ねた。その仕草は、正しき光への導きを求める祈りのようだった
安堵が胸を満たす。緊張が解け、彼女の手を握り返した。閉ざされた夢の迷宮から、彼女を導き出すために
彼女の手からランプを受け取り、再び迷宮の小径を進む。揺らめく炎が霧を払い、ふたりの進む道を照らしていた
長く歩くうちに意識が次第に曖昧になり、ここが迷宮なのか、それとも夢の奥底なのか区別がつかなくなっていく
やがて彼方に微かな光が差し、迷宮の出口が見えた
その時、手の中に違和感が走った。ずっと握っていたビアンカの手が、突然するりと離れた
驚いて振り返ると、彼女は立ち尽くしていた。動かず、ただ静かに
返事はなかった。仮面がその表情を覆い、瞳の色を隠している
朦朧とする意識の中で気付いた――ここは出口ではない。無数の鏡が立ち並ぶ、「迷宮の最深部」だ
彼女はようやく笑った
私は、目を覚ましたくないのです。もちろん、あなたにも目覚めてほしくありません
考えたことはありますか?人はいつ、自分が「夢」を見ていると気付くのでしょう。どうやって今が「夢」だと見分けるのでしょう?
あなたは迷いました。なぜならあなたも今、夢の中にいることを知らないから……ここは、私の夢の中なのです
あなたは自分が目覚めたと思っていた。私を夢から連れ出したと思っていた。でも本当は……私があなたの夢を使い、私の夢の奥底へ導いたのです
あなたはまだ目覚めていません。ですが、永遠に夢の中にいたとして……何か不都合がありますか?
なぜ、美しい夢が覚めたあとの寂しさに耐えねばならないのでしょう?ここにいれば、全てが永遠に続くのに
ここに残りましょう。ここはあなたと私だけの……永遠の美しい夢なのです。この瞬間のまま、美しく終わらない夜をともに生きましょう
あなたに、私の本当の気持ちを知ってほしい……
……あなたを愛しています
彼女はそっとこちらを抱き締め、耳にもう一度、氷のように冷たい口づけを落とした。その瞬間、全身が凍えるほどの寒さに包まれた
彼女の腕の中で、ともに堕ちてゆく。夢の奥底へ、底なしの暗影へ――四肢も意識も、冷たい闇に沈められていく
視界は霞み、濃い霧が幕のように降りて、物語の終焉を迎えようとしていた
夢の終わりの果てに、全ての形が影に溶け、消えていく
意識が深い夢の淵に呑まれていくその刹那、心に浮かんだのは、その想いだけだった
