ビアンカとともに乗った車は、夜の街を静かに走り抜ける。窓の外には、光と影が交錯する幻想的な景色が流れていた
あと1時間もしないうちに、自らの新作の記者会見が始まる。そこで、新作のヒロインであるビアンカを報道陣に紹介する予定だ
車内は静まり返っていた。隣に座るビアンカはずっと黙って窓の外を見つめていたが、こちらの視線に気付き、ふと振り返って微笑んだ
何かお話になりたいことでも?
あなたのお招きであれば、どのような場でも私にとっては喜びです。それに、こうして傍にいられることは、何よりの光栄なのです
彼女は優しく微笑んだ。しかし、その表情はすぐに変わり、何かを思い出したように問いかける眼差しを浮かべた
私をヒロインに選んでくださいましたが、「グレイレイヴン」を演じる役者は、まだ決まっていないのですね?
私の心の中には、ある期待があります。でも、あなたの口から答えを聞きたいのです
彼女の問いは、まさに核心を突いていた。けれどその瞬間、なぜか少しだけいたずら心が芽生え、すぐに答えを明かさないことにした
彼女はこちらの表情に浮かぶ僅かな「嘘」を見抜いただろう。しかし、それ以上追及されることはなく、そっと手を握られた
ええ、お待ちしています。ですが、あまり長くお預けにしないでくださいね
会場は人で埋め尽くされていた。ビアンカと肩を並べて座る自分は、自然と注目の的となっていた
四方からフラッシュが絶え間なく焚かれ、記者たちは少しでもいい構図でふたりの姿を撮ろうと、シャッターを切り続けていた
その中で、ひとりの記者が手を挙げ、最初の質問を放った
今回の新作は恋愛をテーマにしているそうですが、ビアンカさんの「恋人」役はもう決まっているのでしょうか?
あなたはずっと「グレイレイヴン」という筆名で作品を書かれています。それは作品の主人公の名前でもあり、さまざまな美徳の象徴として多くの読者に愛されています
これまでの作品では「グレイレイヴン」は仮想的な存在でしたが、今回は初の舞台。生身の役者が演じるのは初めてですね
その象徴的な「グレイレイヴン」を演じる幸運な役者は、一体誰なんですか?
その質問はまるで水を打ったように場を鎮めた。記者は鋭いタイミングで、最も注目されていた問いを突きつけたのだった
フラッシュが更に激しさを増し、全ての視線が自分に集まる中、答えを待ちわびる沈黙が訪れた
ビアンカもこちらに向き直り、その瞳には確かな期待が宿っている
<i><size=50>「答えを、今度こそ教えてください」</size></i>
その視線は、まさに先ほど車中で彼女が投げかけてきた、あの問いの続きだった
記者たちに目を向けず、ただビアンカだけを見て、静かに笑みを返しながらその答えを告げた
<i><size=50>「グレイレイヴン」は自分です</size></i>
<i><size=50>自分が「グレイレイヴン」を演じます</size></i>
その答えを聞いた瞬間、ビアンカの表情に静かで深い笑みが花のように咲いた
「あなたの眩き光の下で、私は遠ざかることのない温もりを感じた」
「氷のように凍てついていた百合の花も、あなたの慈しみによって再びその色を取り戻す」
それは自分の書いた詩だった。けれど彼女の声で紡がれると、まるで初めて聞くような新鮮さを伴い、心の奥を静かに震わせた――自分もまさに同じ想いだったからだ
ふたりの間にあった水面が静かに波打つ。周囲の賑わいは遠ざかり、この瞬間、この空間にいるのはビアンカと自分だけのように思えた
自然と口をついて出た詩の後半に、ビアンカは微笑んだ。互いに笑い合い、先ほどよりも強く手を握り合う
無数のフラッシュがふたりを照らし出す。まるでこの一瞬を永遠へと封じ込めるかのように
夜が更けても、会場はなおも賑わいを見せていた。晩餐と舞踏会が続く中、祝福の熱気は一向に冷めることはなかった
数時間前まで激しくポジション争いをしていた記者たちも、今は肩の力を抜き、この時間を楽しんでいる
自分も主役として、笑顔と礼節を忘れずに皆と接していた。しかし、ふと気付くと、ダンスのパートナーであるはずのビアンカの姿が見当たらなかった
人混みを縫うように視線を巡らせていくと、やがて遠く離れた片隅に、あの軽やかな姿を見つけた。彼女はこちらを静かに見つめている
視線が交差した瞬間、彼女はそっと微笑んだ。しかし足を踏み出すことはなく、こちらが歩み寄る前に、またも記者が立ち塞がった
グレイレイヴン先生、サインをお願いできますか?
もしよければ、ツーショットも……ずっと夢だったんです!
再び歓声の渦が「グレイレイヴン」を包み、その渦がビアンカとの間に境界を生み出していく。人の群れの外に立つ彼女は、まるで月光のように静かだった
彼女は宴の光から1歩距離を取り、静かにバルコニーへと身を置いている。夜の涼しさをその身に纏い、煌びやかな室内には戻ろうとしなかった
遠くからの視線に気付いた彼女は、それに応えるように柔らかく微笑んだ
今夜の本当の主役は、あなたです
私はこうして、遠くからあなたを見つめているだけで十分です
ビアンカは空を見上げ、西に沈みゆく月を眺めた。月は流れる雲にゆっくりと覆われ、彼女を照らしていた光も次第に薄れていく
ずっと多くの視線に晒されていたせいか、少しずつ疲労が押し寄せていた。ビアンカはそっと目を閉じ、思考を闇の中へと委ねた
夜空には重たげな雲が広がり始めていた。湿った風に乗って、遠くから嵐の気配が近付いている
ビアンカ……
こんな場でも、本当の主役にはなれない……
……!!!
幽かに聞こえるその声は虚空から響いていた。ビアンカは戦慄とともに目を開けたが、周囲は相変わらず賑わっている。何も変わったところはなかった
幻覚……?
かなり疲れているのかも……
今この時でさえ、あの人を独り占めしないなんて
それなら、
これからは私が、あの「主役」の隣に立つ……
あなた……!
ビアンカは震えるほど驚いた。その声は悪夢を鮮明に蘇らせた。「グレイレイヴン」とともに乗っていた小さなボートの下に潜んでいたのは、まさにこの影
その瞬間、会場の窓ガラスの周囲に黒い泥のような不気味な影が滲み始めた。だが、酒と会話に酔う人々は誰も気付かない
ビアンカだけが、その存在に気付いていた。影の中から嘲るような笑い声が微かに聞こえ、目に見えぬ圧迫感が押し寄せる
顔を向けると、影の中に人ともつかぬ奇怪な姿が浮かんでいるのが見えた
一瞬の混乱を振り払うより早く、彼女の体は本能のままに動いた。その存在が向かう人のもとへ、ビアンカは駆け出した
危ない、グレイレイヴン殿……!
その声が響いた瞬間、轟音が鳴り響いた。ガラス窓が一斉に砕け、無数の鋭い破片が四方八方に飛び散った
考える間もなく、ビアンカはその人の体をしっかり抱き締め、走り抜けた勢いのまま一緒に床へと倒れ込んだ
それと同時に強烈な風圧が顔を掠め、ビアンカの頬に鋭い痛みが走る
床に倒れる瞬間、ビアンカは己の体を盾にして、腕の中にいる
ガラスの破片が無慈悲に雨のように降り注ぎ、四方から悲鳴が上がる
ビアンカは懸命に抱き締めた腕を緩めず、懸命に全身で、この突然の災いから
な、なんだ!?窓が全部割れてるぞ!
救急車を!スタッフを呼んで!
混乱と叫びの中、人々はようやく事態に気付き、互いの無事を確かめ合った
ビアンカに守られて無傷だった「グレイレイヴン」はすぐに体を起こし、彼女の無事を確認しようと焦っていた
私は大丈夫です。あなたはご無事ですか?
呼びかけに応えながら、ビアンカは深く息を整えて笑みを浮かべた。自らのことなど気にも留めず、ただ相手の無事を祈るように見つめている
彼女の指先は焦るように相手の体をそっとなぞり、傷がないかを確かめた。しかし、自分の頬から流れる血にはまったく気付いていなかった
ご無事で、本当によかった
「グレイレイヴン」は胸ポケットからハンカチを取り出し、彼女の頬の傷にそっと当てた。ハンカチは瞬く間に真紅に染まり、微かな血の匂いが鼻を掠めた
私は大丈夫です。どうかもう一度、ご自分にお怪我がないか確かめてください
周囲を見回すと誰もが混乱していた。まずはビアンカの応急処置を優先しなければ……
彼女を支えながら会場を抜け、静かな控え室へと向かった
慎重に彼女をソファに座らせ、彼女の背中を支えながら、できる限り優しく水とハンカチで傷口の手当てを始めた
ふぅ……
ようやく痛みが意識に届いたのだろう。彼女は眉をひそめ、反射的にこちらの腕を強く掴んだ
控え室には他に誰もおらず、先ほどの熱気に溢れた会場とは打って変わって冷え込みが激しい。傷ついた彼女の体にはこたえるようだった
上着の前を開き、まるで「グレイレイヴン」の翼のように大きく広げ、ビアンカを優しくその中に抱き寄せた
はい……
疲労が限界に達していたのか、ビアンカは先ほどまでの礼儀や慎みを見せず、腕の中で身を任せ、ただ小さく返事をして静かに目を閉じた
「グレイレイヴン」の温かな「翼」に守られながら、彼女の呼吸は次第に穏やかに整い、深い眠りに落ちていった
窓の外ではいつの間にか雨が降り始めていた。霞んだ灯りの中でビアンカの睫毛が震え、知らぬ夢の中へと沈んでいく
その白い頬には、あの瞬間の傷が深く刻まれていた。血は止まったものの、彼女がどれほどの覚悟で自分を庇ったのかを物語っていた
ビアンカ自身が血を流していたあの時でさえ、その視線はただこちらの安否だけを案じていた
彼女の手をそっと握り、近付く。せめて自分の体温が、その夢を少しでも穏やかにできるようにと願いながら
夢の中でその温もりを感じ取ったのか、ビアンカは無意識に握り返し、ふたりの指が静かに絡み合った
このまま……傍に……
その寝言は今にも消えそうなほど微かな声で、途切れ途切れに耳元で囁かれた
返事はなかった。ただ唇の端が、安らぎをたたえて僅かに弧を描いた。自分の言葉が夢の中へと溶け込み、彼女の見る世界にどんな情景を描いたのだろうか
もう片方の手で、彼女の耳元にかかる乱れた髪をそっと整える。まるで天使のような寝顔――ずっとこのまま見ていたいと思った
窓の外では雨脚が強くなり、夜に淡い靄が降りている。この雨がもう少しだけ続けばいいのにと、心の奥で願った
静寂の中、ビアンカの寝言が再び耳元に届く。雨の音よりも、ずっと近くで
流れ着いた旅人よ、もう意味のない幻影を追うのはやめなさい
ここには何も残っていない。かつての華やかな日々の残響さえもない
セリフを言い終えると拍手が起こり、向かいに立つ人物が称賛の眼差しを送ってきた
素晴らしい。目線の使い方も、感情の流れも完璧ね。やはり作者自身が演じると、感情の深さが違うわ
正直……これほど才能のある人は初めてよ、[player name]
こんな短期間でここまで習得するなんて。転職したくなったら、ぜひうちに来て。冗談抜きで、すぐに看板役者になれるわ
じゃあ、次のシーンに移りましょう。「グレイレイヴン」と「ファントム」が出会う場面よ
団長は「ファントム」の仮面を手に取り、ひと息で役へと入り込む。自分もまた呼吸を整え、心を劇中の人物へと重ねた
この長く深い夜に、私の住処に無断で足を踏み入れたのは誰?あなたは、私が永き夜を越えて待ち続けたあの人ではない
……ちょっとストップ。今のところ、少し違うわ。まだうまく感情が入っていないわね
いいのよ、今日はここまでにしましょう。あまり根を詰めると、かえって演技が固くなるから
団長は「ファントム」の仮面を外し、いつもの穏やかな顔に戻った
正直に言うと、今一番心配なのは……ビアンカなの。彼女はこの役に全身全霊を注いでいるわ
彼女が舞台に立つ姿を見る度に、演技というよりも魂そのものが役に溶け込んでいるように見えるの
その没入ぶりが彼女自身を蝕んでしまうんじゃないかって、時々怖くなるの。以前も同じようなことがあったから
彼女はそのことについて話したがらないけれど……まるで、役が彼女の中にもうひとつの「人格」として存在しているように思えちゃって……
……あ、ごめんなさい。つい変な話をしてしまったわ、どうか気にしないで
もう遅いし、そろそろ行きましょうか。劇場の設備をもう一度点検しておきたいし……あのシャンデリアの事故、本当に申し訳なかったわ
外に出ると、すっかり夜になっていた。細い雨が静かに降り、傘を持たない自分は屋根の下で雨脚が弱まるのを待つしかなかった
雨の向こうを眺めながら、思考は自然とあの夜の記者会見へと遡る。あの時も雨が降っていた。そして、ビアンカは自分の腕の中で静かに眠っていた
あの事故の後、ビアンカは療養のため長い休みを取った。しばらく劇場にも姿を見せていない
最近の「特訓」でひとり芝居を稽古しながらも、心は目の前にいない彼女の幻影を追っていた。ふと、彼女が愛おしげに自分へ想いを語りかけてくる気がして……
雨に滲む思考の中、ふいに聞き慣れた声が聞こえた
そんなところにいたら、風邪をひいてしまいますよ
いつの間にか、彼女はすぐ側に立っていた。手には1本の傘。髪の端と衣の裾はすでに濡れている。いつからここにいたのだろう?
この雨は、まだしばらくやみそうにありません。どうか、私にお送りさせてください
……そんな顔をなさらないで。長く待っていたわけではありませんから
夜の雨に包まれた通りには、もうほとんど人影がなかった。狭い傘の中、ふたりは自然と肩を寄せ合った
街灯の光が雨粒に屈折し、ビアンカの横顔を淡く照らす。彼女はこちらの視線に気付き、優しく微笑んだ
もう1本、持ってくるべきですよね。けれど、私のわがままをお許しください。こうしてひとつの傘の中で、あなたと並んで歩きたかったのです
彼女は少し身を寄せてきた。服越しに体温が伝わってくる
この距離で見ると、あの夜にできた頬の傷跡がはっきり見えた。けれどビアンカはそれを気にする様子もなく、微笑んでその傷跡に触れた
そんなに見つめられると、どうすればいいかわからなくなってしまいます
あなたが無事なら、それでいいんです。この傷は、私にとってあなたと過ごした夜の「記念」みたいなものですから
何を言ってもこの穏やかな瞬間を壊してしまいそうで、ただ黙って傘を少し傾け、雨から彼女を守った。ビアンカは微笑みながら、そっとこちらの腕に手を絡めた
ふたりは言葉を交わさず、雨音だけを伴って歩いた。やがて、自宅の明かりが見えてきた。いつもの道が短く感じる――別れの時がすぐそこに来ていた
別れの時が迫る。けれど、できることならもう少しだけ、この夜が続いてほしい。そんな想いを口にする前に、彼女の瞳は察していた
まだお別れしたくありません
記者会見の夜、あなたは私を守ってくださった……だから今夜は、あなたの傍にいさせてください
彼女は「ファントム」の話題には触れなかった。だが正体を知らず、またいつ現れるのかもわからないそれが、暗雲のように頭上に垂れこめていることをふたりともわかっていた
ここ数日、劇場での「特訓」に明け暮れていたせいか、自宅のドアを開けると、部屋には微かに埃の匂いが漂っていた
未完成の原稿が床に散乱している。「ファントム」事件以来、新たな閃きを得て、何度も脚本を推敲し直していた。よりよい物語を紡ぎたい、その一心で
あなたは休んでください。あとのことは、全て私にお任せを
ここに来たのは初めてのはずなのに、ビアンカはまるで以前から知っているかのように部屋の中を動き回り、手際よく整えていく
書き散らされた原稿を丁寧に揃え終えると、彼女は窓を開け放った。雨はすでにやみ、夜風が冷ややかに流れ込み、重たかった空気を一気に洗い流す
不思議なのです。まるで、ここに何度も来たことがあるような気がして……こんなことを言うと、あなたは気味悪く思うかもしれませんね
時折、わからなくなるのです。現実なのか、夢なのか……見知った出来事が繰り返されているようで、まるで夢の続きに生きているように感じます
その境界が曖昧で……今の私は、本当にここにいるのでしょうか。それとも、また別の夢の中にいるのでしょうか?
彼女は俯き、言葉を選ぶように沈黙したが、やがて静かに顔を上げた
これがあなたとの「初めての出会い」のはずなのに、私は夢の中で、あなたに何度も会っていたような気がします
でも、どうであれ、今はこうしてあなたの傍にいられる……それだけで十分です
彼女の言葉は、長く眠っていた感情を呼び覚ますように、心の奥深くに響いた
彼女の表情を見つめるうちに、ふと「誓い」という言葉が心に浮かんだ
劇中で「グレイレイヴン」と恋人が交わす誓い。片方の手で彼女の手を取り、もう片方の手で、その手の平に小さく印を描く。それはふたりだけに通じる「印」
その意味をビアンカはすぐに理解した。そして、その心の通い合いを確かに感じ、彼女は静かに微笑んだ
「あなたの愛の証として、ふたりの間に誓いを刻みましょう」
「たとえ時が巡り、月日が流れても……」
彼女のセリフに続けて言葉を紡ぐ。ビアンカは微笑みながら肩を寄せ、静かな安らぎのうちにそっと目を閉じた
互いの呼吸が重なり合うその静謐な時間は、気付かぬうちに深夜を迎えていた。時計の音がそれを告げるまで、ふたりはただ寄り添っていた
その瞬間、頭に浮かんだのは――「原稿を1行も書いていない」という事実だった
小さくため息をつき、台所に向かう。濃いコーヒーで夜を乗り切ろうとしたその手を、ビアンカがそっと押さえた
脚本よりも、まずはあなたの体を大切にしてください。無理をなさらないで
いいえ、今夜はちゃんと休んでください。あなたは物語に、こう書いたでしょう?「疲労は、戦士の最大の敵だ」と
そう言って、ビアンカは温かいハーブティーを淹れた。湯気とともに柔らかな香りが立ちのぼり、疲れた心身を優しく包み込む
彼女は寝室の厚いカーテンを閉め、カップを手渡しながら微笑んだ
いい夢を。私がずっと、あなたの傍にいますから
ここ数日、きちんと生活リズムを整えて、今日の昼も休みましたから。さあ、目を閉じて。今夜は安心してお眠りください
促されるままにベッドに横たわり、目を閉じると、すぐに柔らかな感触が体を包んだ。彼女がそっと毛布をかけてくれたのだ
彼女の髪先が頬を掠め、少しくすぐったい。そして、彼女の手がまるで「守る」ようにこちらの手をしっかりと包み込んだ
手の平に伝わる繊細な動き――彼女の指がこちらの手の平に「あの印」を描いている
部屋は静まり返っていたが、眠気は訪れない。彼女の指が動く度に時間の感覚が遠のいていく。やがて、その動きがゆっくりと止まった
ビアンカの寝顔がすぐ目の前にあった。彼女は椅子に腰かけ、片腕を枕にして、もう片方の手でこちらの手をしっかり握ったまま、穏やかに眠っていた
「ずっと見守る」と言ったものの、実は眠気に抗えないほどに疲れていたのだろう
苦笑まじりに呟き、彼女を起こさないようにそっと手を抜いて、ベッドから降りた
彼女を抱き上げ、ベッドの奥側に下ろす
彼女をベッドに寝かせた瞬間、まるで夢に怯えるように、彼女は小さく震え、身じろぎした
……行かないで……私の傍から……離れないで……
……外……戦場……危険です……
彼女は無意識のうちに呟きながら、こちらの襟を必死に掴んだ。夢の中で、燃え盛る戦火の只中にいるようだった
どうか……私に……あなたを……守らせてください……
指揮官殿……
それは、彼女の口から初めて聞いた呼び名だった。「グレイレイヴン」の物語の中に幾度となく記した言葉
自分の物語が、彼女の夢を作っているのだろうか。あるいは、彼女は同じ夢の中を彷徨っているのだろうか
夢の中の彼女は、戦火の中を揺るぎない信念を抱いて歩んでいるのだろうか?
……ようやく……見つけました……指揮官殿……
彼女は微笑んでいた。その穏やかな表情は、安らぎそのものだった。まるでそこが彼女の港であるかのように、こちらの腕の中により深く身を寄せる
その体をそっと抱き直し、彼女に毛布をかけると、自分もその隣に身を横たえた
彼女の手を取り、そっと指を絡めた。あの雨の夜と同じように
ビアンカは微かに反応したが目を覚ますことはなく、穏やかな眠りの中でそっとこちらへ身を寄せた
薄暗い中、その横顔にまだ癒えきらぬ傷跡がうっすらと見える。脳裏に、あの夜、彼女が命を賭けて自分を庇った瞬間が蘇った
心の中で静かに息を吐く。あの時のビアンカは、まさに自分の作品に登場する、指揮官に永遠の忠誠を誓い、身を投げ出して守る仲間そのものだった
柔らかな毛布の下で、隣で眠る彼女の温もりが伝わってくる
やがて、眠気が意識を静かに包み込む。音のない闇が、ふたりをひとつの夢の中へと誘っていった
その瞬間――夢と現実の境界が、静かに溶け合い始めた
