意識が長い夢の奥底から少しずつ離れ、やがて現実へと戻っていく。静かに目を開いたビアンカの目に映ったのは、真っ白な部屋だった
ここが現実なのか、それともまた新しい夢なのか、一瞬わからなかった
グレイレイヴン殿!
たまらなくなり、その名を呼んだ。声は虚ろな空間に反響し、孤独な残響だけが返ってくる
誰もいない。応える声もない。ただ夢に囚われた牢の中で、彼女と「あの人」との絆も、今は微かに霞んでいる
彼女は立ち上がった。その歩みには、これまでにない確かな決意が宿っていた
どうか、待っていてください
必ず、あなたのもとへ戻ります
ビアンカは扉を押し開けた。だが扉の向こうにも、同じ真っ白な部屋が広がっている。静寂が、彼女の意志を阻むようだった
……ここではありませんね
別の扉を開けたが、その先も変わらぬ虚無の白が広がっているだけだった
どの方向へ進もうとも、開かれる扉の先は同じ光景。まるで永遠に繰り返される輪廻のよう
しかし、その異様な光景にも、彼女は恐れなど微塵も感じなかった
ここで立ち止まるわけにはいきません
グレイレイヴン殿との誓いを、違えるわけにはいきません
数えきれないほどの扉を開けても広がる光景は変わらない。純白の迷宮は、永遠に彼女を閉じ込めようとしていた
どれほど歩いたのか、疲労が重く体を包み、視界が歪む。暗影が再び白の中へと滲み始めた
それでも、彼女は足取りを緩めなかった
幻に惑わされてはなりません……私は、グレイレイヴン殿のもとへ戻ります
どうかお導きください……どんな形でも構いません、あなたの居場所を教えてください
お願いです、私を再びあなたのもとへ……
その祈りに応えるかのように、1羽の雪色の蝶が虚空から現れ、彼女の周囲を舞った。羽が擦れ合う度に柔らかな音が奏でられる
これは……
手を伸ばして触れようとした瞬間、蝶ははらりと崩れ落ち――
彼女の足下で白い紙片へと姿を変えた
その紙には見覚えのある筆跡が見えた
「あの人」が情熱を込めて書き記した文字が滲んでいる
それらの原稿用紙は、かつてあの人の部屋に散らばっていたもの
彼女はそれを1枚ずつ拾い上げ、丁寧に皺を伸ばしたことがある
ビアンカはそれを拾い上げようとしたが、指先が触れる前に紙の端が焦げ、灰へと崩れていった
いつしか蝶は無数に増え、方向もなく飛び回り、そして次々と命を失い、落ちていく
無数の白い紙がビアンカの周囲を埋め尽くし、埋葬するかのように積み重なっていく。そして、彼女の動きに合わせるように黒い炎が音もなく広がった
駄目です、それは……グレイレイヴン殿の情熱の証……!
彼女は必死にその不気味な炎を消そうとした。だが、彼女の指は透き通り、何にも触れられず、何も掴むことができなかった
……!!
その時、あの聞き覚えのある妖しい声が、白い空間に響き渡った。まるで神秘的な「ファントム」が再び静かに降り立ったかのように――
もう疲れたでしょう?少し眠ってもいいのですよ
「ファントム」の声が耳元で響いた。頭の奥で鈍い痛みが広がる
いいえ、あなたは幻……私の心が見せる影にすぎません
……あなたなど、存在しない
私はあなたの中にいます。私はあなたの心の闇、あなたが隠してきたもうひとりの自分……私がいなければ、あなたも存在できない。知りませんでしたか?
それでもまだ、私を否定するのでしょうか?あなたひとりが残り、「あの人」だけを守るつもり?
問いかけは鋭く、胸の奥に抑えきれない感情を湧き上がらせた
……守れます。絶対に
なぜなら……あの人は、私にとって何よりも尊い存在だから
まったく同じ声の「ファントム」は、その言葉を聞いて、くすりと笑った
そう、それがあなたの答えですか……でも、本当にそう?
あの人に危険が迫った時、あなたはどこにいた?あの人があなたを探し、夢の果てで迷った時、あなたは
認めなさい。自分の至らなさと弱さを。どれほど強くあろうとしても、完璧ではない
あなたは光の中に立ち続けることを願っている。裏を返せば、誰にも弱さを見せたくないだけ……あの人には特に
けれど、暗影はすでにあなたの心の奥に芽生えている
夜空の満月を思い出してごらんなさい。光が最も美しい時こそ、影もまた最も濃くなるもの
事実を受け入れなさい……あなたの執念が、この夢を生み出したの
私は執念から生まれ、あなたの夢の中に眠っている。あなたが私の存在を否定すればするほど、私はより現実となる
……
さあ、改めてあなたの答えを教えて、ビアンカ……もうひとりの私
あなたは本当に、私の存在を否定できるの?
私は……
言葉が喉の奥で詰まり、答えられなかった。問いの意味は、あまりにも真実を突いていた
「ファントム」の声はそれ以上響かなかった――「ファントム」など、そもそもここにいない。この部屋には彼女以外、誰もいないのだ
それは彼女の意識の中に存在する影。否定などできはしない、自らの一部
ビアンカは少しずつ透けていく自分の手を見つめた。まるで自身の存在そのものが薄れていくようだったが、同時にひとつの決意が生まれた
彼女は、自身の存在を追放すると決めた
行くべき場所がわかりました
お許しください、グレイレイヴン殿。これ以上、私のせいであなたを危険に晒すわけにはいきません
長い沈黙ののち、ビアンカは立ち上がり、再び扉を押し開いた。すると扉の向こうには、果てしなく続く雪原が広がっていた
白の世界へ1歩を踏み出した時、自らの進むべき方向をはっきりと認識していた
振り返ることはない。背後で舞い散る雪が足跡を消し去っていく。まるで初めから、彼女がこの世に存在しなかったかのように
長い旅路を経て、雪原の果てに、ようやくあの人と初めて出会った劇場の輪郭が見えた
広大な雪原に、それだけが静かに聳えている
ここで、終わりにいたしましょう
懐かしい扉を開けると、誰の姿もなかった。ただ、壁に並ぶ燭台の炎だけが穏やかに揺れている
扉を閉めて吹雪を遮り、燭台をひとつ手に取った。柔らかな光が足下を照らす
観客席に腰を下ろし、かつての自分がスポットライトを浴びた舞台を静かに見つめた。しかし、もうそこは彼女の居場所ではない
朝、あなたは夢から目を覚まし、澄んだ空気の中で新しい1日を迎えるでしょう
午前中、陽の差す机に向かい、心のままに物語を紡ぐでしょう
劇場の重厚な扉の傍らにある燭台の炎がふっと消え、闇に呑まれた
午後は、忙しい仕事の合間に束の間の休息をし、公園のベンチで鳩を眺めながら、静かな時間を過ごすでしょう
夜の街を散歩している時に、雨が降るかもしれません。それでも、雨に濡れる街の美しさを楽しむのでしょう
劇場の廊下の蝋燭がちらりと揺れ、闇に消えた。来た道は全て闇に消えていった
ただひとつ残った光――それは、彼女の手にある小さな炎
夜が更けると、あなたは穏やかに眠りにつくのです。明日もまた、美しい1日となることを期待して……
あなたが静かで幸せな日々を過ごしてくださるなら、それだけで十分です
私はただこうして、ここに留まります
彼女は燃え尽きそうな蝋燭を見つめた。蝋は涙のようにぽとりぽとりと流れ、熱い滴が手の甲に落ちて痕を残す。しかし、彼女はそれに気付かなかった
炎が小さく揺れ、徐々に弱まっていく
長い夢の中で必死に燃え続けていた彼女の意識もまた、静かに消えようとしている
おやすみなさい、グレイレイヴン殿
これで、ようやく眠ることができます
