序曲、霧にて
>霧が身を包み、妖しい冷気が肌に染み入ってくる。吸い込む息のひとつひとつが、氷の刃のように胸を刺す
ビアンカが手にしたオールが静かに水面を裂き、ふたりを乗せた小さなボートは、果ての見えぬ地下の暗い川をゆっくりと進んでいた
濃密な霧が視界を覆う。船首のランプでは僅かな範囲しか照らせない。数m先で流れる霧がまるで影のように蠢いている
グレイレイヴン殿、まもなくここを抜けられます
不気味なところですが、どうかもうしばらくご辛抱ください
必ず、あなたを無事に連れ出しますから……
彼女は振り返り、後ろに座る灰色の服を着た人物に穏やかな声でそう告げた。その人もまた、柔らかな微笑みを返した
その人の服に飾られた灰色の羽根は、霧の中でもはっきりと見える。それは彼女の心を落ち着かせる道標のような存在だった
いつの間にかオールは見えぬ力に絡め取られ、動かなくなっていた。次第にボートの進みは鈍り、完全に止まってしまった
水底に潜む何かが目覚め、水中からふたりを覗き見ているような気がする
……何かがいるようですね
あなたの安全が最優先です。ここは私にお任せください
ビアンカは手伝おうとする相手を制し、ランプを掲げて水面を照らした。慎重に水の中の様子を探る
先ほどボートが切り裂いた水面が、今は鏡のように静まり返り、彼女の顔を映し出した
だが、その水面に映ったのは彼女の顔ではなかった。そこに浮かぶ微笑は、存在しないはずのものだった
……!!
恐怖がビアンカの顔に広がる。しかし、水面に浮かぶ「ビアンカ」は妖しい笑みを保ったままで、瞳に宿る冷気は霧よりもなお深く凍てついていた
それは彼女自身の影ではない。未知の何かが、そこに存在していた
もう手遅れです。
あなたの隣にいる人を、私に渡してください
理解できない混乱が、心に渦巻いた。なぜ「それ」が自分と同じ顔をしているのか――理由の見えぬ恐怖で胸が震えた
彼女は本能的に身を引き、「グレイレイヴン」を庇おうとした。しかし、そこには誰もいない。一瞬でビアンカの心は恐怖に呑まれた
グレイレイヴン殿!?どこですか!?
返事をしてください!
しかし、返事はなかった。ただ彼女の声が濃霧に虚しく響くだけだった
霧は一層濃くなり、やがて形を持ち始める。無形の気配が触手のようにビアンカの首へ絡みつき、呼吸を奪っていく
だが今、彼女が恐れているのは己の死ではなく、「あの人」がこの霧の中で危険に遭うことだった
やめて……
視界の白が、酸素を失った暗黒へと変わる。重い幕がゆっくりと降り、理性も意識も、少しずつ呑み込まれていく
そして、全ては絶対の静寂へと還った
ビアンカ……こんな舞台裏で眠っちゃうなんて。風邪ひくわよ?
ちょっと、起きて……ビアンカってば!
幾重にも呼びかける声が、暗闇の底からビアンカの意識を引き戻した
耳元で響く焦った呼び声に促され、彼女はなんとか目を開けた
うっ……
鈍い頭痛が波のように押し寄せる。視界が徐々に焦点を結ぶと、そこには心配そうに覗き込む女性の姿があった
混沌とした意識が収束していく。ここは、劇場の舞台裏――積み上がった道具の山に寄りかかっている。幕の向こうから、舞台音楽が微かに聞こえてくる
団長はビアンカの目の前でしゃがみ込み、彼女を覗き込む。その瞳には深い憂いが滲んでいた
現実の記憶が少しずつ繋がり、先ほどまでの悪夢の霧を拭い去っていく
鈍く痛むこめかみを押さえながら、ビアンカは小さく息を吐いた。稽古の合間に道具の陰で眠ってしまったのだ。幕の向こうでは、他の団員が練習をしている
手にしていた本の角は、冷や汗で濡れていた。どれほどの時間、夢に囚われていたのだろう
団長はビアンカの手から本をそっと取り、表紙の「グレイレイヴン」という作家の名前を見て、静かにため息を漏らした
ずっとうなされていたわ。何度も「どこにいるのですか?」って寝言を言って……パニックになっていたみたい
きっと最近、夜遅くまでオーディションの準備に追われていたせいね。夢の中でも役に取り憑かれてしまったのね
「グレイレイヴン」……
ビアンカは慌てて立ち上がり、乱れた衣服を整えると、団長に深く頭を下げた
申し訳ありません。昨夜あまり眠れなくて……少し休憩するつもりが、うっかり眠ってしまったようです……
以後、このようなことのないように注意します
だが団長はその言葉に満足せず、そっと彼女の手を取り、静かに隣へ座らせた
あなたがあの「グレイレイヴン」の作品をどれだけ愛しているか、そして
あなたの実力なら、ヒロインに選ばれるのは当然。でも……あなた、少しのめり込みすぎよ
あなたの作品への愛情が、今やあなた自身を蝕もうとしているわ
他の役者たちは演じるだけ。でも、あなたはいつも完全に「その人物」になりきってしまう……そんな状態が続けば、誰だっておかしくなるわ
その声は思考を手繰る糸のように、彼女の記憶を少し前へと引き戻した。彼女は、スポットライトの下に立っている
それは、彼女が初めて主役を務めたステージだった
スポットライトの中、ビアンカが「暗夜の女爵」として舞台に登場した瞬間、観客の視線が一斉に彼女へ注がれた
物語の中の「暗夜の女爵」は強大な力を振るい、無実の村人たちの命を奪う
そして最後には力を制御できなくなり、「勇者」の剣に倒れることとなる
しかし、村人を屠るシーンの最中、不意に異様な感覚がビアンカの脳裏を掠めた
鋭利な刃が理性を削ぐような痛み。記憶の裂け目が氷上の亀裂のように広がっていく
刹那の眩暈――我に返った時には、どれほどの時間がすぎたのかもわからなかった
流れるようだった演技が、唐突に止まった。ビアンカは無言のままその場に立ち尽くし、劇の旋律を乱すひとつの沈黙となった
……
観客たちの小さなざわめきが舞台下から聞こえてくる。「勇者」を演じる仲間もまた、幕の裏で戸惑いながら彼女に視線を送り、助けに出た方がよいかと訊ねていた
舞台は思わぬ形で中断されて久しく、物語を続けるには即興で切り抜けるしかなかった
ビアンカは僅かに目で「任せて」と合図をすると、すぐさま役柄にふさわしい表情へと戻った
私もかつては人と同じ命を持っていた。たとえ短く儚い命であっても、私は笑い、涙し、愛することを知っていた
けれど今、暗き夜に棲まう私の手にあるのは……孤独で、永遠に終わることのない命だけ
スポットライトがビアンカを照らす。朽ちた「城の大広間」の中、彼女はひとり佇み、まさに絶望と悲哀の「暗夜の女爵」そのものだった
「女爵」自らの抗えぬ運命と孤独を語る。今や彼女は、その悲しき運命の存在とひとつになっていた
彼女の身から静かに放たれた無数の見えざる糸を手繰り寄せるかのように、全ての観客の視線を惹きつけていた
ふふ……かつての甘き恋人は、今では私と敵対する「勇者」となり、そして私の手で命を落とした。残されたのは、この愛しき剣ただひとつ
私には見える……かつて私に永遠の誓いを捧げたその人が、冥き河の彼岸で、今も私を待ち続けている姿が
「女爵」は高く両腕を掲げ、見えぬ剣を天に掲げるようにして、瞳には最後の未練と安らぎが滲んでいた
見えぬ「剣」が彼女の胸を貫き、華やかな衣装を纏った彼女の体は、力なくスポットライトの光の中に倒れた
その瞬間、雷鳴のごとき拍手が巻き起こり、幕が完全に下りるまで鳴りやむことはなかった
彼女は気付いていなかった。灰色の服を着た人物が、客席からずっと静かに彼女を見つめていることに
倒れたままの姿勢を保っているビアンカに、仲間たちは喜びに満ちた表情で駆け寄ってきた
さすが先輩、最高の演出でした!こっちが焦っちゃって、助けに出るべきか悩んじゃいましたけど……
まさかあんなアドリブで乗り切るなんて、天才すぎます!
ビアンカが床から身を起こすや否や、「勇者」役のエリアンが勢いよく抱きついてきた
けれど、ビアンカはいつものようにその情熱を受け止めず、まだ芝居の余韻に浸っているようだった
私の求める冥き河は、どこに……
先輩?もう舞台は終わりましたよ、大丈夫ですか?
仲間が不安そうにビアンカの腕を揺らすと、ようやく彼女は我に返った。まるで長い夢から覚めたように
……そう、もう終わったのですね。何事もなく済んでよかった
皆さんに、ご迷惑をおかけしました……申し訳ありません
びっくりしましたよ。さっきの先輩、本当にあの「暗夜の女爵」に取り憑かれたのかと思っちゃいました
大丈夫です。少しぼんやりしてしまっただけで……
ビアンカはエリアンの肩をそっと叩くと、舞台裏へ向かった。その途中で団長と目が合う。先ほどの一部始終を彼女は黙って見守っていた
団長、先ほどのアクシデントは全て私の責任です。皆さんにご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありません
ビアンカは団長に向けて深々と頭を下げた
あなたを責めるつもりはないわ。むしろ、あなたは誰も想像だにしなかったことをやってのけた
ただね……あなたのさっきの様子が、あまりにも役に入り込みすぎているように思えて、少し心配になったの
ビアンカはようやく思考を現実に戻し、隣に団長が座っていることに気がついた。団長はまるで我が子を宥めるように、彼女の手を優しく握っていた
団長の瞳に浮かぶ憂いは、あの日とまったく同じものだった
私の謝罪にはもはや意味がないことは承知していますので、行動で示してまいります
明日のオーディションには、最高の状態で臨みます
……わかったわ。なら、今日はもう帰って休みなさい。もっと自分を大切にしてね
団長は何かを言いかけたが言葉を飲み込み、「グレイレイヴン」の本をビアンカに返した。そして彼女の手の甲をぽんぽんと軽く叩き、静かに気遣いを伝えた
ビアンカは深々と一礼し、踵を返して立ち去った――その背中を見送る団長の不安げな表情に気付くことなく
私は、ただ心配なだけよ。あなたがあまりにも役に入り込みすぎて……そのうち役に「支配されてしまう」んじゃないかって
まるで、二度と外せない仮面をつけるかのように
長い沈黙の後、団長はそっと視線を伏せ、小さくため息を漏らした
そんな懸念は、きっと取り越し苦労にすぎない。今は、彼女にもう少しの時間と寛容を与えることが最善なのだろう
ガチャ――家のドアの鍵が閉まる音とともに、外の喧騒は遮られた。ビアンカはようやく静かに息を吐く
手には「グレイレイヴン」の本を握っていた。彼女は本棚へ歩み寄り、その本を大切に元の場所へ戻してから、1歩下がって静かに目の前の光景を見つめた
整然と並んだ本にはどれも読み込まれた痕跡が刻まれている。それは幾夜にもわたる彼女の情熱の証。そして、全ての背表紙に記された「グレイレイヴン」という名前
謎めいた作家「グレイレイヴン」。これまで一度も公に姿を見せたことがなかったが、
主人公は恐れを知らない「グレイレイヴン指揮官」。
ビアンカ自身は戦火も災厄も経験したことはない。しかし、なぜか「グレイレイヴン」の物語には、懐かしさのような共感を覚えた
私の夢に現れる人は、あなたなのでしょうか?
ずっとあなたを探していた気がします。ずっと前から知っているような気もするのですが……でも、何も思い出せません
明日、ようやくあなたに会えるのですね……グレイレイヴン殿
この日を、どれほど待ち望んできたことでしょう
彼女はそっと手を伸ばし、「グレイレイヴン」と記された背表紙に指を添えた
翌朝、まだ陽が昇りきらぬうちに、ビアンカは早足に劇場へと向かった。今日は新作のオーディションの日だ
舞台裏にたどり着く前に、ビアンカの前に灰色の姿が現れた。仮面で顔を覆いながら、どこか芝居がかった口調でビアンカに語りかけてきた
ここで私を待ち続ける愛しい君よ。遠く離れていても、風が運ぶ君の気配を感じていた
長き待ちぼうけに、その身は痩せ細ったというのに……その胸に宿る熱き心は、なおも黄金のように輝いている
ついに、愛しい君のもとへと戻ってこられた……えっと……あれ?次のセリフ、なんだっけ……
目の前の「灰色の服の人物」はそれ以上演技を続けることができず、仮面の下からクスクスと笑い声を漏らしながら、仮面を外した――それは、エリアンだった
あ~あ、雰囲気ぶち壊し!なんで大事なところでセリフ飛ばしちゃったんだろ?
先輩もちょっとは合わせてくれてもよかったのに~!先輩が大好きな「グレイレイヴン」ですよ?
ビアンカはただ静かに手を伸ばし、エリアンの乱れた髪を整えながら微笑みを浮かべた
あなたの悪ふざけだとすぐにわかりました。でも、演技は悪くありませんでしたよ
このあとのオーディションも、今の気概で臨んでください
も~、先輩ってばまたそんな真面目くさっちゃって……今日のためにいっぱい準備したんだから、大丈夫ですって!
「グレイレイヴン」に扮した衣装を整えながら、エリアンはどこかいたずらっぽい笑みを浮かべた
で?先輩、今日は恋焦がれてきた「グレイレイヴン」とご対面の日ですね。昨日の夜はドキドキして眠れなかったんじゃないですか?
「恋焦がれてきた」だなんて、そんな不謹慎な言葉を使わないでください。私は……
はいはい、わかってますって。でも劇団の皆が知ってますよ?先輩が「グレイレイヴン」の大ファンだって!
あの人の作品は全部、誰よりも早く手に入れて、稽古の合間でも
また変なことを……
反論の言葉を探しながらも、ビアンカはその無邪気な冗談が心のどこかに響いてしまったことを否定できなかった
静かに微笑むと、ビアンカはそっとエリアンの手を取り、ふたりで劇場の中へと足を踏み入れた。すでにオーディションに参加する他の劇団員も集まり始めている
期待に満ちた面々を前に、団長は手に持った封筒を整えると、それらを高く掲げて皆に示した
「オーディション」の詳細は、先日もう説明しましたね。今日は皆の夢を叶えるチャンスとなる日です
公平を期すため、演目は全て匿名の劇作家によって提供されます。皆さんは、自分の心に従って自由に選んでください
もし選んだ演目がその作家の心に響けば、その新作の主演として選ばれる「幸運の持ち主」となるはずです
さあ、前へ。演目を選んで。今日という日が、皆さんの夢の第1歩となりますように、我が子よ――
役者たちは春の小鳥のように団長のもとへ集い、封筒を開けては目を輝かせ、仲間と相談し合いながら選んでいく
やがて、役者たちはそれぞれの手に封筒を持って控え室へ向かい、準備に入った
賑やかだった部屋には、ビアンカだけが残っている
ぽつんと取り残された封筒がひとつだけあった。中を覗いた者たちは、何も書かれていない白い紙を見て、そのまま戻した
あら、白紙が混ざっていたの?スタッフの手違いかしら……
だが、ビアンカの指先が紙面の隅にある羽根のような紋様にそっと触れると、彼女はそれを胸元に当て、心からの笑みを零した
いえ、ここには立派な「演目」が書かれています。私は出題者の想いを、確かに受け取りました
いくつもの「ひとり芝居」が終わる度に、観客席に座る劇作家たちから拍手が贈られ、見事な演技を見せた役者たちに称賛が送られた
やがて劇場から人の波が引いていき、熱気は屋外へと移っていった。役者と劇作家たちは歓談し、記念撮影に興じている
その中でただひとり、灰色の服を纏った劇作家だけが客席に残り、静かに
ビアンカは舞台裏に佇み、紙に刻まれた羽根の紋様にそっと触れる。そして、それを胸に当てて微笑みを浮かべた
やがて幕が再び上がり、眩しいスポットライトが彼女を照らす。華やかな衣装を纏ったヒロインは、ゆっくりと舞台へと進み出た
スポットライトの強い光に遮られ、客席の人の顔はよく見えなかった。けれど、その衣装に浮かぶ灰色の羽根の紋様を見た時、ビアンカの胸に確信が灯った
それは、グレイレイヴンの作品の細部に現れる印――ほんのひと握りの熱心な読者しか気付かない、秘密の符号だった
ようやくお会いできましたね、グレイレイヴン殿
舞台上の彼女を見つめる観客の脳裏に、ある懐かしい記憶がふと甦った
ええ、実際にお会いしたことはありません。でも、私たちは「すでに出会っていた」とも言えるのかもしれません
あなたはいつも「グレイレイヴン」と作品に署名し、そして物語にその名を宿してこられた……「グレイレイヴン」はあなたの象徴
あなたが公に姿を見せたことはなく、今日もまた、名乗らなかったとしても
どうか無礼をお許しください。もし神秘的な存在であり続けたいのならば、「グレイレイヴン」の印をこうも無造作に晒すのは、少々不用意ではないでしょうか?
白紙の題目、纏う衣服の紋様……どちらも、あなたが自らを示した「自己紹介」に他なりません。きっと、これもあなたの「テスト」の一部なのでしょう
観客席の劇作家は、納得したように微笑んだ
ビアンカはほんの短い沈黙ののち、静かに顔を上げた。その瞳には、もはや先ほどの澄んだ光はなく、代わりに不思議な艶やかさが宿っていた
では、あの日――私たちが初めて出会ったあの姿で、もう一度あなたのもとへ参りましょう
彼女の囁きとともに「暗夜の女爵」が再び静かに現れ、自らの運命と孤独を語り始めた
まるで別世界の悲劇の幻影が、静かで華やかなこの舞台に降り立ったかのようだった
彼女は舞台を下り、観客席にいる「グレイレイヴン」のもとへと、ゆっくりと歩み寄る。その瞳に宿る想いは、冥河にて待つ恋人への「女爵」の祈りのようだった
愛しい人よ。あなたは……幾千年の時を越えて、冥き河の岸辺で、ずっと私を待っていたのね?
「グレイレイヴン」はビアンカの面差しをじっと見つめた。その瞳には、先ほどとは異なる光が宿っている。彼女が近付くにつれ、不思議な魔力のようなものに心を奪われていった
おーい、[player name]大先生。外で皆が記念撮影をしたいって……
突然、若い男性の声がその空気を破った。劇場のドアを開けた青年は、首を突っ込むようにして中を覗き込んでいる
おっと、これは失礼。バッドタイミングだったかな?出ていくべきか、それとも君たちが……
ふむ……3秒待っても返事がない。君のその表情から察するに「外で待つ」が正解のようだね
またしても君の表情が変わった。右眉が2mm上がり、口角の動きから察するに「こいつ鬱陶しいな」と思っているようだね
返事がなかったため、ヴィルドはターゲットをビアンカに切り替え、まっすぐに向き直った
お嬢さん、君の演技はとても素晴らしい。ふたりの距離と反応を見る限り、「恋人」を演じれば最高のカップルになれる
「グレイレイヴン」は軽く咳払いしながら立ち上がり、ビアンカに手を差し伸べた
だが彼女は舞台に背を向けたまま立ち、その手を取ることはなかった。薄暗い照明の下では、その表情を読み取ることはできなかった
私の姿は陽の光に照らされるよりも、影の中の方が似つかわしいでしょう
意味ありげなひと言を残し、ビアンカは静かに闇の奥へと溶けていった
なぜか胸の奥に言いようのない違和感が湧き上がる。彼女の背中に、消えぬ影が寄り添っているように感じた。だが引き留める言葉を発する前に、別の声が割り込んできた
君の選択は正しい、彼女こそ君の新作のヒロインだ。適合率は間違いなく100%だろう
「推理」だよ。私が書いた全ての探偵小説に誓って断言しよう……君の彼女を見つめる眼差し――それが、彼女が君の運命のヒロインであることを如実に物語っている
とはいえ、ここへ足を踏み入れた時からどうにも妙な気配が……
言葉が終わるより早く、漆黒の劇場の天井から軋むような金属音が響いた。「グレイレイヴン」はとっさに天井を仰ぎ、音のする方を見た
ふふ……
暗闇の中で起こっていることを見極める前に、突如、重く鋭い威圧感が上空から降りかかった。まるで見えない獣が襲いかかってくるようだった
狭い劇場の客席では逃げる隙間もなく、その重圧は風を裂く轟音とともに姿を現した
ヴィルドは後方の席に激しく叩きつけられた。「グレイレイヴン」もどうにか、頭上から襲いかかる衝撃を避ける
ズバアァァァーーーンッッ!!!
轟音が空っぽの劇場に響き渡り、耳をつんざくような衝撃音に思わず鼓膜が痛む。いくつもの鋭利な破片が飛び散り、体のすぐ側を掠めていった
襲撃の「犯人」は、天井から落下してきた巨大なシャンデリアだった。凄まじい衝突音とともに椅子は薙ぎ倒され、砕けたクリスタルと歪んだ金属が床一面に散らばった
少しでも逃げ遅れていれば、今頃あの破壊された椅子と同じ運命をたどっていたに違いない。物音を聞きつけて駆け込んできたスタッフも、目の前の惨状に言葉を失った
こ、これは……お怪我はありませんか!?申し訳ございません!
どうかおふたりとも、すぐにご退出ください。あとは我々が処理しますので!
劇場を後にし、あてもなく街を歩いた。だが、「シャンデリア事件」が頭から離れない
誰にも言わなかったが……シャンデリアが落ちてきた瞬間、暗闇からファントムのような妖しい笑い声が確かに聞こえた
しばらく考えたのち、踵を返し、再び劇場へと向かった
昼間の喧騒が消えた劇場では、シャンデリアも応急処置を終えて元の位置に戻されていた。だが、床に残るクリスタルの欠片が、少し前の出来事を静かに物語っていた
昼と同じ席に腰を下ろし、誰もいない劇場を見渡した。空間は静寂に包まれていたが、どこからか微かな笑い声が聞こえたような気がした
なぜかわからないが、突然に創作意欲が湧いてきた。未完成の脚本を取り出すと、自然とペンが走る。今日の出来事をきっかけに、物語はまったく新しい方向へと流れ出した
文字がページの半分を埋めた頃、背後から小さな足音が聞こえてきた。それでもペンを止めず、振り返らなかった
今宵の夜空はとても美しい。なのに、あなたはひとりきり
どこか聞き覚えのある声。そして、今日目にしたあの姿。彼女は再び劇場の階段を降り、数歩先で立ち止まった
そんなものに縛られて、自らを孤独という檻に閉じ込める必要はありません
「ファントム」の登場を待つ必要もありません。あなたが本当に待つべきなのは、この私……あなたの「ヒロイン」です
彼女は答えず、ただ唇に人差し指を添え、沈黙を求めた
何も言わずに、この美しい夜に、心を全て預けてください
夜の影に包まれたビアンカの表情には、昼間には見られなかった自信と決意が宿っていた。唇には、静かな微笑が浮かんでいる
彼女は、こちらの手から未完成の脚本を花を摘むように優しく、けれど抗えぬ力で取り上げると、そっと手を重ねてきた
ビアンカはそのまま手を引いて舞台へと導いた。肩に手を添え、そっと寄り添ってくる
私の小さなわがままです。ふたりきりの時間を、誰にも邪魔されたくなかった……でも今は、私たちだけの夜
こちらがダンスの誘いに応じないのを見て、彼女の声は更に柔らかくなった
どうしました?私とふたりきりの時間は、お嫌ですか?
誰もいない劇場。淡い照明の下、距離は近い。彼女の吐息は感じられるのに、表情だけはなぜかうまく見えなかった
ふと、昼間に起きた異変が頭をよぎる。突然に打ち切られた、あの不可思議な出来事
ふふ、「積極的な私」に驚いておられるのですね?
あなたの作品の主人公は、いつだって全てを懸けて運命を掴みにいくでしょう?私もそう在りたいのです
例えば今、こうしてあなたの手をしっかりと握ることも、私の選んだ運命
彼女は更に1歩、近付いた
もう、言葉はいりません。あなたに求めるのはただひとつ。「ヒロイン」とともに踊ること
「ファントム」の物語を続けましょう……今宵限りの物語に登場するのは、あなたと私のふたりだけ
