その日の早朝。空中庭園、科学理事会――
空中庭園の住人なら誰もが科学理事会の評判を耳にし、人類の長い科学の旅に日夜取り組む「伝説の科学者たち」を知っている。だが、一般人が彼らと会うことは通常ない
しかし、白衣の科学者たちがコーヒーを手に穏やかに議論し、ホワイトボードに演算を書き込んでは全てを消し、あらゆる精密機器を慎重に操作する姿はすぐに想像できる
少なくとも空中庭園の科学の教科書にある、「エウレカ!」と叫んで風呂から飛び出したという大昔の科学者の話は、子供たちの心に科学者への印象を植えつけていた
しかし、そういった好意的な印象は印象のままで、ずっと維持されている方がいい――
あなたは?
あら?何、見てわからないかしら?
ヒポクラテスは胸に下げていた認識票を掲げ、彼女を呼び止めた研究員の前で振ってみせた
スターオブライフのヒポクラテス先生?すみません、一瞬誰かわかりませんでした
おーい、センセイを呼んだのは誰だ?
え?センギョって鮮魚?誰が注文したんだ?そういやお腹すいたな
知るか。起動するまでステージ4からもう一度全部やり直せ!
コーヒーを……コーヒーはまだありますか?
え?これ何だ?データ保存?保存、あれ?これは何だ……
先生だ!スターオブライフの先生!誰かスターオブライフに連絡したか?
確かに、あなたたち全員に今すぐ医師が必要ですね
ヒポクラテスは首を横に振り、科学理事会の研究室に足を踏み入れた。しかし、その足取りがラボに一歩入った瞬間に、少しためらいを見せた
そこのあなた、工兵部隊の人たちを呼んできてもらえません?
どういう意味で……
任せなさい、私は医師ですよ
ヒポクラテスは研究員の肩を叩き、ラボへと入った
広いラボの床ではケーブルが巨大な網を形成している。その網には数段ごとに光る端末がいくつも鎮座し、傍らに座る研究員と酸化したコーヒーを従えていた
明るかったラボの電灯も今は不気味に、瞬く青い光が睡眠不足の者たちの顔を照らす。たまに動く血走った眼球とキーボードを叩く指だけが、室内の全員の生存を証明していた
あなたたち、ちゃんと鏡を見て自分の顔色がどれほど酷いか確認した方がいいですよ
スターオブライフの病室もそこまで快適ではなかったはずだがな
アシモフは聞き覚えのある声にも仕事の手を止めず、測定値を何度も確認してから振り返ってヒポクラテスを迎えた。コーヒーを飲もうと手を伸ばし、その手が空を切った
もう手にあるようですよ
あ、そうだ。ミスだ、うっかりしていた
何日寝てないんです?
2日か?いや、はっきりとはわからないがおおよそ1、2時間程度しか寝ていないな
それで一体何があったのです?こんなに忙しくしているのは久しぶりに見ましたよ
う、ちょっと酸っぱすぎるな……何って、あれ以外にあるか?
アシモフはすでに冷えたコーヒーをひと口飲むと、背後にある青く光った画面を指さした
画面では巨大な円形の装置の上に太さの異なるケーブルが差し込まれていて、その周りに集まっている同じ科学理事会の研究員たちの姿が映し出されていた
ゲシュタルト?ここに来る途中のニュースで聞きましたが、あなたたち、検査してるんですか?
ああ、検査に見えるかもしれんが、厳密には検査ではない
そちらは原因不明の昏睡状態の患者を治療しているのではなかったか?
この件と何か関係が?
まあな、だが説明するには複雑で、いろいろと非人道的な神経学の問題もある
その時ヒポクラテスは、アシモフの机の上に「計算神経科学」の分厚い本が広げられたまま置かれているのを見た
そういう分野のことなら私に訊けば済むことでしょう?
必要ない、結局はゲシュタルトの問題だ。それを解決すれば昏睡している患者も回復するだろう
ならこれ以上は訊ねません。あなたが解決できるならそれで構いませんから、これをどうぞ
そう言って、ヒポクラテスは重そうなギフトをアシモフの手に持たせた
重い!何だこれは?
新年の贈り物です
……
科学理事会、工兵部隊をお呼びで――何だこの臭い!?
ラボの入り口から驚く声が聞こえてきた。ひとりの工兵部隊の構造体が眉をひそめて入り口に立っている
あ、工兵部隊の方ですか?ここは空気の循環に問題があるようですね
確かに、この臭いはマジですね……
どうした?何か問題があるか?
十数人が2日間部屋に閉じ込められ、しかも換気もされていなかったのですよ、問題がないと思いますか?
何が問題なのかはもうわかっています。梯子で換気シャフトに行ってきます
……そこまで大袈裟なことか?
もう結構です、リーフを探さなければなりませんので、私は行きますね
あなたがなぜ残業するのかに興味はありませんが、医師の指示です。ゆっくり休んだ方がいいと思いますよ
ヒポクラテスは手を振り、ひとりでラボを出ていった
アシモフは一瞬ためらったが、ヒポクラテスがドアから出ていくと、呆然とコーヒーカップを机の上に置き、疲れた体を引きずるようにしてラボから出た
廊下からの新鮮な空気が即座に彼の肺に流れ込み、無表情だった顔に少し生気が戻ったが、やがて襲ってきた鋭敏な嗅覚のせいですぐに顔が歪んだ
ぐっ……
ラボの入り口で、アシモフはヒポクラテスと同じように一瞬迷った
しかし、科学者の精神とは一意専心、猪突猛進が常なのだ――
――彼は勇気をもって、地獄のような空気が漂うラボに足を踏み入れた
ぐふっ……それで、進度状況はどうなんだ?
まだ第4段階ですが、80%以上の演算モジュールがフルスピードで稼働しており、最下層には余剰演算力ユニットを挿入するよう緊急通知しています
少なくとも、ゲシュタルトに入った者たちが安全に外に出られるようにするのが先決だ。ゲシュタルトがどうしようと俺たちにできるのは外側のセキュリティ対策だけだからな
ところで、進入データはあるか。クリーンアッププログラムにはどれだけのアルゴリズムが必要で、クリーンアップの完了にどれだけの時間がかかるか計算する
こちらに。実際の進入人員のリストや干渉範囲なども含めて、議会とも同期されています
264名ということは、残りは約10%……何?グレイレイヴン小隊も入っているのか?
はい、それにグレイレイヴン小隊だけでなくニコラ総司令もです
まあそれはいい、今はそれほど多くのことはできないからな。ゲシュタルト中枢のアルゴリズムモジュールの物理的な挿入作業が終わったら、皆で一度休憩しよう
アシモフがそう告げた瞬間、ラボにいた全員が一斉に手を止めて真っすぐにアシモフを凝視した
ほ、本当に終わらなくても大丈夫ですか?
……あの人たちの安全を保証しなければならないのでは
いや!ああ、そうだそうだ、おっと、違う違う……そうだ?
……
まずゲシュタルト中枢が演算力ユニットを完成させない以上、ここで俺たちにできることは今の段階ではほぼない
クリーンアップが速いか遅いかはゲシュタルトに入っている者たちに依存するしかない
しばらく休んでおけ、俺が見ておく
アシモフはいつも通りの口調で話していたが、それがむしろ周囲の研究員たちを安心させた。仕事のひと段落によって、張りつめていた緊張が少しほぐれたようだ
アシモフもひと段落とばかり、ヒポクラテスから贈られた重い贈り物の包装を解いた
『意識海システムの汎用原則(第3版)』
それは、アシモフが初めて筆頭著者として出版した本だった
それで鮮魚は?
何の鮮魚だ?
よくわからんが、今食べに行けばまだ間に合うんじゃないのか
ロンさん、あなたが注文したデリバリーなら一昨日届いてますよ、ここです
でも……今はこの箱から酷い臭いがしてるんだけど、どうしましょう?
ハセンのオフィスは、彼のプライベートキャビンと同じくらいシンプルで洗練されている。長年下向きのまま机上にあるフォトフレームを除いて、部屋には私物や装飾品が一切ない
写真は遠い昔ハセンが軍隊にいた頃のもので、そこに写っている人物が時の激流に流されて久しいことをうかがわせた
ハセン自身も同じように時とともに磨耗している、もう若くはない
ハセンの視線が手の中の書類から離れ、深夜の静けさに思わずあくびが出た
遅刻か?ニコラらしくないな
議長?
聞いている、どうした?
科学理事会はゲシュタルトの影響を受けた人々のリストを入手し、私から議長にも送りました
アシモフさんいわく、これまではゲシュタルト自身が行っていたクリーンアップに今年は外部データのサポートが必要なようで。発生している小規模の進入も安全で害はないと
それとは別に、余剰データのクリーンアップを完了するにはあと1時間ほどあれば十分だろうとアシモフさんが判断しています
ですが……
通信機の中のセリカは突然泣いているような、または笑っているような複雑な表情を浮かべた
見たぞ、ニコラ、そしてグレイレイヴン指揮官、多くの者が影響を受けたようだな
はい。ニコラ司令のキャビンに向かう途中、アシモフさんからニコラ司令は長い間ゆっくり休んでいないから、スターオブライフに検査に行かせたほうがいいと言われまして
なるほど、ならこの件は任せよう。ご苦労だったな、セリカ
眉根を寄せていたハセンの表情が、少し和らいだように見えた
とはいえ、やはり直接スターオブライフへ行って彼らを待つべきか
終わりよければなんとやらだ
立ち上がって座席の後ろに掛けられたコートを羽織ると、彼は黙ってフォトフレームをひっくり返した