ある人は言った。学生は世界で最も好奇心旺盛で、創造力に溢れた存在だと
彼らはいつだってある程度決められたコースの中であっても、自分だけのルートを見つけて切り拓く
この壁の少し窪んだところ、ここを踏んで登って
八咫の言う通りに塀を上った。足下の壁は朱塗りが剥げ落ち、角のレンガがむき出しになり、その長い歴史を物語っていた
遅刻した生徒は、正門から行くと風紀委員に捕まるから、皆塀を越えてたんだ
塀から飛び降りると、着地したのは雑草が青々と茂った土手だった。顔を上げると、遠くに校舎がぼんやりと見えた
こちらが安全に着地したのを確認した八咫は、軽々とジャンプして塀を飛び越え、ふわりと体を翻して自分の隣に着地した
そりゃね……前はここで違反者を見張ってたから
校則違反をする生徒がここに集中してたから、楽勝で捕まえてたんだ
御園学院の風紀委員としての貴重な経験を披露しながら、八咫は背後の低い塀を指差した
さっき会った森田のおっちゃん、昔はあの塀の向こうに店を出してたの。その料理があまりにも美味しいから、昼休みになると、生徒がダッシュでここまで買いに来てた
学院は飲食物の持ち込みは禁止じゃなかったけど、昼休みの外出は禁止。だからそれって校則違反にあたるんだよね
でも、森田のおっちゃんの店の料理は本当に美味しかったな……
……ったく、風紀委員は食欲と戦うデイリータスクがあるなんて、誰も教えてくれなかったっつの
彼女はぶつぶつとそう言いながら前に進み、機械のアームで枝を払いながら、こちらのために道を切り拓いてくれていた
なんだか自分は塀を越えて入った生徒であり、風紀委員の彼女がこっそり手助けしてくれているような、そんな錯覚に陥った
おっちゃんと話し合ってね、校内の購買部と提携して、学院の中で出店をしてもらったんだ
生徒は大歓迎だったけど、校内ってスペースに限りがあるじゃん。先生たちはいい顔しなくてさ
だから、私が生徒を率いて、先生と賭けたんだ——
陸上部が御園学院の代表として島を一周する長距離マラソン大会に出場する、優勝できたら生徒の要求を呑んでもらうってね
とーぜん!終盤はデッドヒートになったけど、無事に優勝トロフィーを獲ったよ。生徒は森田のおっちゃんの料理を堂々と食べられるようになった
ゴホン……結果的に皆、ハッピーエンドだし!公私混同じゃないわよ?
その言い方、なんか先輩みたいで鼻につくんだけど
褒められたと思っとくよ、[player name]ちゃん
……ゴホン
[player name]ちゃん、風紀委員にガン飛ばすのは校則違反だから
まーね、この道を最初に見つけたのは私だし、外のあの穴だって……
あっ……
八咫はふいに足を止めてこちらを振り返ったが、目を合わせないようにしている
その目がしばらくキョロキョロと左右に泳いでいたが、最終的に「何でも訊けば」と開き直るような、なんともバツの悪い表情になった
実はさ……もともと風紀委員じゃなかったんだよね。時々?ホントたまーに遅刻してて、捕まらないようにこういう近道をたくさん見つけてたの
八咫は怒られた子供のよう顔を横に向けて、昔を思い出しながら人差し指で髪の毛をくるくる巻いていた
でも、風紀委員たちから色んな理由で減点くらってさ。もうダルくなって、敵に回すより仲間になれって思ったんだ。そしたら……あっさり風紀委員に入れちゃった
そうすると、模範にならないとダメになるじゃん。昔のことでケチつけてくるやつらもいるし
ちょうどその時、風紀委員に私みたいな武闘派がいなかったんだ。だから私が入ったのはナイスタイミングだった
最初は馴染めなかったけど、学院の雰囲気が少しずつよくなっていくのを見て、ちょっと誇らしくなってきて
なんだ、コッチ側も悪くないじゃんって思い出して……校則違反をする連中を捕まえるのなんて、私には楽勝だったし
改心とは違うよ?そんなに立派な動機じゃなくて、単なる暇潰し。ダルいことが起こらないように事前に色々してただけ
でも、その後は暇潰しどころか……面倒しかないような毎日だった
言うまでもないよね。じゃなきゃ、上層部が私をアンタに付ける訳ないでしょ?
話しながら歩いている間に小さな森を抜け、目の前に重厚な壁が現れた。この近道は名実ともに、校舎に直結する最短ルートだったのだろう
八咫は先行して校舎の正面玄関の前に立ち、閉ざされた扉をゆっくりと押し開け、薄暗い室内に足を踏み入れた
夕陽がガラス窓から差し込んでいる。部屋全体が長年の埃で覆われて、まるで灰色のベールをかけられたようだった
目の前にそう広くない玄関があった。両側には靴箱が整然と並んでいる
玄関に立った八咫は片手を腰に当てて大きく息を吸い込むと、肩をすくめて安堵の表情を浮かべ、ふたり一緒に中へと足を踏み入れた
うん。でも今は必要ない、廊下もこんなに汚れてるし
安心して、アンタには風紀委員のお墨付き。そのまま入ってもいいって
彼女はひとつの靴箱に歩み寄り、埃を払い落とした。埃まみれの名札に八咫の名前が浮き上がる
次の瞬間、カチャリと音を立てて戸が開いた。埃が舞い上がり、日差しの中で輝いている
ないよ、前と同じ
人によっちゃ、靴箱にラブレターが大量!とかね
私はツイてたんだ。そんな面倒なのをもらったこと、一度もない
もしもらっても断ってたし。だって……ガキのお遊びにすぎないっていうか
アンタは?学生の頃、ラブレターをもらったり?
さすが、空中庭園の人気者じゃん
でも、そっか……私なら1通くらい入れちゃうかも……
ゴホン……いや、果たし状とか、そっち系ね
マジ?私と一緒じゃん
アンタが青春の心残りでラブレターが欲しいっていうんなら、私が役になりきってあげよっか。アンタの人生の願いを叶えてあげてもいいよ
さぁ、そろそろ行こ
探し物はこのフロアにあるはず。ついてきて、ここで一番大きい教室を見せてあげる
木製の扉に華やかな彫刻が施され、横に掛けられた金メッキのプレートに金色の文字で「音楽部多目的室」と刻まれている
八咫が扉を押し開けると蝶番が重々しく軋み、広々とした室内が目の前に広がった
中に入るなり彼女は楽器のロッカーに駆け寄った。機械のアームを駆使して慣れた手つきで棚の扉を開けるその手際のよさは、ここに来たのが初めてではないことを物語っていた
彼女に続いて教室に入ると、傍らのピアノが目に留まった。指でそっと積もった埃を拭うと、その厚みが年月の長さを教えてくれた
過去にここで響いていた楽器の音色や歌声が、今も聞こえてくるような気がする。本来、ここは平和の歌を奏でる場所だったはずだ
カチャカチャ——静寂を切り裂くように、金属のぶつかり合う音が響く。その音の発生源は、ロッカーに頭を突っ込んでいる八咫だった
八咫が見つけた数本の金属の支柱を背中にある機械のアームが受け取り、彼女は更に別の場所を探し続けている
棚の隙間、換気ダクトの中、大型楽器の中……
風紀委員としての長年の勘よ、可能性はゼロじゃない
昔の映画でさ、殺し屋が銃をバラバラにしてギターケースに隠す話があるじゃん?あれ、古典的だけど、けっこう使える方法なんだ……
——ほら、暖房の後ろにも1本
夕暮れの中、ひと通り探し回ったものの、見つかったのはありふれた支柱だけだった
うーん……肝心な物はここになかったけど、これが見つかっただけでも収穫になったかな
それは……最初はここ、陸上部の教室だったから
でもその後、音楽部に取られちゃった。理由は、陸上部は屋内活動が少ないから、この大きな教室を譲れってさ
そりゃそうなんだけど、当時は悔しくて、音楽部とずっといがみ合ってた
結局学院側は音楽部の肩を持って、ふたつの部で教室を交換させたんだ
でも、反撃したけどね。この教室はグラウンドに近いから、音楽部が練習を始めたら私たち、トラックで大きな掛け声を出して、演奏の邪魔をしてやったよ
八咫が窓の外を指さした。そこからはグラウンド全体が見渡せた
八咫の動きはとても慎重だし、移動した楽器や棚の物は全て機械のアームで元の位置に戻されていた。まるで誰も何も触っていないかのように丁寧だ
教室が元通りになったのを確認して機械のアームを引っ込めると、彼女はピアノに歩み寄って、もたれかかった
そりゃそうだ、和解したんだもん
ある時、音楽部のメンバーが苛められてんのをうちの部員が見たの。黙っていられなくて、苛めたやつらをシメてやった
それキッカケでちょっと話してみたら、いくつかの誤解が解けた。お互いに反省して、もう対立しなくなった
それで因縁も終わったと思ったら、音楽部が感謝してくれて、スポーツ大会でわざわざスタンドまで来て私たちを応援してくれたんだ
そうやって顔を合わせて笑い合ってたら、わだかまりもなくなったってワケ
それから、うちに入りきらない物をここに置いてもらったりしてたの。だから、ここに探し物があるはずだって言ってたんだよ
さまざまな感情がその穏やかな口調に溶け込んでいた。辺りを見渡す彼女は、かつての生き生きとした時間を振り返っているかのようだった
彼女の物語に耳を傾けていると、陸上部が張り上げる掛け声や、教室の中で音楽部が外の喧噪に負けまいと必死に旋律を探す様子が目に浮かぶ
ありふれた青春コメディのように、このまったく異なるふたつのメロディは、ひとつに溶け合って調和の取れた楽章を生み出していた
そうそう、それに音楽部の部長がピアノの弾き方を教えてくれたの。聴いてみる?
断っとくけど、昔も今も人前でピアノを弾いたことないから。だから、アンタが初めて聴くの
それに、複雑なのはムリ。知ってるのは簡単な音楽理論だけで、なんとか楽譜が読める程度だから……
八咫はピアノの前に座って蓋を開けると、そっと白い鍵盤を押した
ポーン——
八咫は深く息を吐いて校歌の楽譜に目を落とすと、ゆっくりと鍵盤を指で押した。柔らかな音色が教室に響き渡る
最初は途切れがちな試し弾きだったが、次第に滑らかな旋律へと変わっていった
八咫の指が鍵盤の上を跳ねるように動く。彼女は在りし日を思い出しながら演奏していた
背中を向けてピアノの右側の鍵盤に集中している八咫の、その脇の空いた席には、きっとかつては仲間が座っていたのだろう
陸上部も音楽部も、彼女が関わった全ての過去が今、彼女の魂の一部となっている
夕陽に照らされた彼女の細い影は、こちらと僅か1歩の距離にあった
ゆっくりと八咫の隣に座り、そっと手を持ち上げて鍵盤に乗せる
校歌のメロディはそう難しくはなかった。ふたりで奏でるピアノの音色が少しずつ広い教室を満たしていく
八咫はピアノを弾き続けながら、ふと視線をこちらに向けた
視線が交わりそうになった瞬間に八咫は再びピアノに視線を戻し、最後の高音を弾いて連弾を締めくくった
余韻が教室に響き渡り、自分も静かに手を止めた。窓から吹き込む風が穏やかに流れ込み、夕暮れの光が互いの身体を包み込む
八咫はこちらに向き直り、黙ってこちらを見つめている。銅色の瞳に、自分の姿が映っていた
アンタってさ……
マジで、人をドキッとさせんのが上手いよね
思わず1歩前に進み、夕陽の中に足を踏み入れた。しかし理性がその行動を抑え込み、おとなしく八咫の背後に立って演奏に聴き入ることにした
校歌の旋律に複雑さはなく、八咫の奏でる音楽が広い教室を少しずつ満たしていく
彼女は感情の全てを音楽に注ぎ込み、まるで精神的なマラソンをしているようだった
全神経を集中させて没頭している彼女は、長い間、過去の記憶の中に忘れ去っていたものを掘り起こそうとしているようにも見えた
次の瞬間、突然、機械のアームの指が鍵盤に加わってメロディが変わる。6本の手で弾く音色は、曲のテンポを一気におし上げた
まるで……過去の思い出の中から、混乱しながらもなんとか新しい道を切り拓こうとしているかのように
そして激しいメロディの中で、唐突に演奏が終わった
それ以上、八咫の指が鍵盤に触れることはなく、彼女は振り返ってこちらを見つめてきた
……ピアノを弾くの、私には複雑すぎる
でも、アンタがここに一緒にいて、私の演奏を聴いてくれたのが、すごく嬉しい
ふぅ——よし、スッキリした
[player name]ちゃん
この夕陽が沈むまで、もう少し昔語りしてもいい?