車が83号保全エリアに到着した時、午後の陽光は最も柔らかく、世界を金色の雄大さで縁取っていた。ドールベアは助手席で窓にもたれながら、微かに揺れる夢に沈んでいた
だが突如、奇妙で歪んだヴァイオリンの旋律が強引に夢に割り込んできた。少女は眉根を寄せるとまつ毛を震わせて、不快そうに目を開けた
耳障りね
広場から流れるその旋律は荒く軋んでいる。古びたヴァイオリンは更に年月を経た男の肩に乗っており、その指先は弦を追い、その視線は老いたダンサーをただ追っている
(チューニングの問題か……)
ドールベアは頬杖をつき、しばしその光景を見つめていた。やがて車は静かに停まり、目的地への到着を告げた
物資の中継地に近く、多くの職人たちが集まっていることもあって、この保全エリアはインフラレベルも生活水準も明らかに高かった
着いたの?
丸1日ハンドルを握ってた人間に言われたくないんですけど~
それに私が一緒じゃないと物資配りなんて行かせられないわ。万が一倒れられたら私のせいになるでしょ?
相手を疲れさせるつもりはなかったが、ドールベアは今の自分の意識海の状態ではハンドルから少し離れていた方がいいと理解していた
無言で不安を心の奥に押し込み、ドールベアは姿勢を調整して身体を少しだけその人の方へ傾け、いたずらっぽい笑みを浮かべた
ふーん、そこまで言うなら……
いいわよ。わがままな私があなたをこき使うから、物資配りに行きましょう。私の傍らから一歩も離れず、きちんと働いてね
保全エリアの規模はそう大きくなかった。全域放送が流れると、スタッフと住民たちが案内に従って整然と列をなし、物資を受け取りに来た
最後の1袋の手作りキャンディをドールベアに渡す
本当は自分が食べたいんでしょ、私に罪をなすりつけないで
口ではそう言いながら、ドールベアは素直に2個を取り出し、机の上へ置いた。頬杖をつき、瞳は扉の奥へ消えていく指揮官の背中を追う
やがて彼女は視線を列へ戻した
この保全エリアの物資は潤沢で、人々は整然と並んで静かに前へ進み、穏やかな会話が交わされている。抑制の中にも整った秩序があった
こんにちは……私――
老人がテーブルの前に立ち、静かに待っていた。ドールベアは顔を上げず、すぐに物資配分リストを確認した
ジェラルドさん、通常物資ふたり分ですね。どうぞ
けれどジェラルドは動かず、物資を受け取らなかった。ドールベアが不思議に思って顔を上げると、老人はただ静かにそこに立っていた
広場でヴァイオリンを弾いていた、あの老人だ
衣服は擦り切れているが清潔に保たれており、深い皺が刻まれた顔は穏やかで、髪もきちんとなでつけられていた
老人は少女の視線に気付き、ためらって左右を見回し、戸惑いながら1歩前に出た
私の番、かな?
ジェラルドさん、あなたの物資を持っていって
ジェラルドは無意識に耳をさすり、目を少し見開いて、少女の唇の動きを追った
すまない、耳が悪くてね……今、私を呼んだかな?
長い間、聴力が弱いままなのだろう。そのせいで声の大きさの加減がわからないのか彼の声は場違いに大きく、その直後に自らはっとして周囲を見回した
(なるほど、あの音色の原因は……)
ドールベアは目を伏せてため息を胸に押し込み、テーブルに置かれた物資をそっと押し出した
ジェラルドは一礼したが、すぐには離れず、視線を物資棚に走らせて何かを探しているようだった
他にまだ?
その言葉は老人には聞こえていないようだ。彼の目は机の上のキャンディへと吸い寄せられ、喜びとためらいの色が入り交じった表情をした
これが欲しいんですか?申し訳ないけど、これは子供用なの
老人は必死に少女の唇を読んだ
子供……?いや、違うんです、妻なんだ。妻に誕生日の贈り物をしたいんだが、これと交換してもらえないかな?
老人は物資から食料を取り出し、テーブルに戻した
これと、キャンディひとつと交換したい
……キャンディは子供用の配給なんです
少女は重ねて告げるしかなかった
そうなんです、妻に。妻への誕生日プレゼントに、いいかな……?
耳が遠い彼と、「複雑」な会話をするのは難しかった。ドールベアは広場のダンスを思い出しながら、テーブルの上のふたつのキャンディに視線を落とした
奥様のお名前は?
ドールベアは声を大きく、ゆっくり、はっきりと発音した
ディア。彼女の名前は、ディアです
少女はテーブルにあるキャンディのひとつを取り、ジェラルドの掌にそっと置いた。それは彼女の分だった
じゃあ、これは私からのプレゼントで
自分が倉庫から戻った時、第一陣の物資はほぼ配り終わっていた。ふたりが次の物資を整え、受取の確認が終われば、次のスタッフにバトンタッチできる
今なんて?ジェラルドと、ドリス?
彼の妻は、ディア……じゃないの……?
考えすぎかな……ただのくだらない
幸い変な展開にはならなかった。ほどなくして、ジェラルドは広場で踊っていたパートナーに連れられ、再び姿を現した
女性はリストを確認中の人間に、静かに事情を語った
ごめんなさい、彼は補聴器が壊れたままなんです。ご迷惑をおかけしました
ご心配なく。子供用の配給を割り当てたんじゃなくて、私の分ですから
でもなぜ、妻の名前を偽ったの……?
ドールベアは理解できず、女性の背後に立つジェラルドを見やった。老人は周囲の言葉を聞き取れぬまま、ただ穏やかな微笑を浮かべていた
ああ、嘘ではないんです。私の名前はドリス。けれど私が彼と出会った頃は……まだ「ディア」と名乗っておりましたので
彼は私にサプライズをしたかったようですが、でも……キャンディはいりません。その代わりに、もしよければ……
いえ、違うんです。もし、できれば……半田の松脂と交換していただけませんか?
電子回路の半田付けに使う材料ね
それをヴァイオリンの松脂代わりに使うってことですか?でも、あのヴァイオリンはもう音程が狂ってるし、彼の今の聴力では調律も無理でしょう
率直に言って、あまり意味がないと思います
少なくとも物資と交換するなんて……
かなりもったいない
奥様、本当にそれでいいんですか?
確かにあなたの言う通りですね。でも、私たちの暮らしはまだ何とかなります。そこまで追い詰められてはいませんから
松脂と交換する物資は、もっと困っている人々に届けてください。僅かですが……この「場違いなロマン」に、少しでも意味を与えられますから
もちろん無理強いはしません。おふたりのことは……おふたりで決めるべきですから。でも、多くの半田の松脂には酸が含まれています。弦と弓毛がダメになってしまうわ
そのヴァイオリン、大事なものでしょう?みすみす壊していいのですか?
ドリスは微笑み、ただ静かに首を縦に振った
だからこそ、これはラストダンスなんです
今日は私の誕生日。今夜をもってこのヴァイオリンに別れを告げ、思い出の中に仕舞っておきたいの
……
現実的な価値よりも象徴の意味を重んじたいという執着のために、有用な物を手放すなんて……感情に流されすぎでは?奥様は彼よりずっと理性的に見えますが
ふふ、愚かしくなければロマンとは呼べませんでしょう?
……
ドールベアは思案に沈み、目を伏せた
なるほど。あなたの関心は、楽器そのものよりも儀式なのね
電工用の松脂は、音響のことを考えて作られていません。たとえ塗りたくったとしても、ヴァイオリンの音色はよくならないでしょう
もっと理性的に考えるべきです。この物資はどうぞ持っていってください。彼の補聴器を修理できるか見てみます
あのヴァイオリンを正しい音色で響かせるには、半田の松脂を使うより、絶対にその方が効果がありますから
ドリスは少し驚き、夫を見やった。それからゆっくり頷いて、こちらの提案を受け入れた
そうは言ったものの、保全エリアの資源は限られている。ドールベアはテーブルの上のパーツをひとつひとつ丹念に調べ、不満げに口を尖らせた
内蔵プログラムは調整できた。でも……肝心のハードが足りない。これじゃ補聴器を復元できないわ
ここにあるやつじゃダメ。倉庫を見てくる
倉庫といっても、ただの物置棚が詰め込まれた部屋だった。スペース節約のため、棚には天井までいっぱいに物が積み上げられている
……
少女はつま先立ちで、高い段に置かれた部品箱に手を伸ばした。棚に寄りかかったせいで、棚が少し揺れてしまう
腕を背後から伸ばして棚を支えた。ドールベアがつま先立ちでやっと触れた高さにまで、軽々と手が届く
ふいに肘が触れ、吐息が髪にかかる。温かな気配が一瞬近付いた
……
――ノルマン家の庭には、四季を通して緑を絶やさぬ大樹があった。夏が終わり、その木陰で背を幹に預けると、現実から解放されたような静かな安らぎを得られたものだ
ドッドッドッ――
来ないで!
顔を出したばかりのディアベアは、メインペルソナに容赦なく押し戻された
うん、それ……ありがとう
少女は指揮官の手から部品を受け取り、しばしその場に立ち尽くしていた
そこ塞いでると、私出られないんだけど?
指揮官が身を引くと夏の残像はふっと遠ざかり、ドールベアは視線を部品へ戻した。補聴器の修理へと思考を研ぎ澄ませ、手の中の部品を凝視している
長い沈黙ののち、少女は首を振った
これもダメ……この規模の保全エリアで、適合する部品がある方が変よね
内蔵システムのプログラム設定は非常に精密で安定してるけど、部品がない。これじゃ機能が発揮できない
直せない
人間は深く息を吐いた。現実は、映画のように都合よくは運ばない
狭い倉庫を後にして、ドールベアは指揮官の後に続いた。その人はジェラルドとドリスのもとへ歩み寄り、事情を説明した
その時は光も風も柔らかく、辺りは穏やかさに包まれていた
ほんと、お人好しすぎる……やっぱり、私が言うべきね)
まるで心が通じたかのように、彼女が一歩踏み出そうとした時、その人が手招きした
彼女が近付くと、ジェラルドはすでに補聴器を再び装着していた
ええ、大丈夫です。気になさらないで
こんな世界で、生涯をともにできる相手に出会えただけで十分に幸せです。私はその幸せを守り、残り少ない日々を彼とともに過ごせれば、それ以上は望みません
それ以上のものは、もはや贅沢でしょう……私はもう、何もかもを望む年齢ではありませんから
音楽があろうとなかろうと、誕生日を祝えます。ふたりで一緒にいられればそれでいい……むしろ、あなた方のお陰で、無意味な執着を手放せました
会話が聞き取れぬジェラルドは、終始柔らかな笑みを浮かべて、妻の髪を優しくなでている
音楽は私たちが用意しましょう。私たちの車に音響システムに繋げば、端末から音楽を流せます
せめて……おふたりがもう一度踊れるように
その場にいた誰もが、微笑んだ
物資配布を終えたあとの時間は全て、ドリスの誕生日会場の準備に費やされた
広場に積まれていた物を片付けると、さくらんぼ味の電解液を1本、ドールベアの手に押し込んだ
あなたは?休ま――
少女が顔を上げた瞬間、その鼻先を指でギュッとつまんだ
ないの……って、何するのよ!
鼻をつままれてくぐもった声で抗議しながら、怒った少女はパシンとこちらの手を払いのけた
ドッドッドッ――
またしても、その人は背を向けて去っていく姿だけを残した。ドールベアはその影が人の群れに溶けるまで見送り、小さく息を吐いた
はぁ……
その吐息がディアベアの声と重なった。ドールベアは呆れ顔で半分減った電解液を振り、現れた分身の耳をぎゅっと引っ張った
甘いような、苦いような……これは、何の味?
ドールベアは、その含みのある言葉に冷ややかな一瞥を投げた
確かに反省の必要ありね。いつも皮肉ばかり言ってたら、そりゃ嫌われる
自分まで巻き込んで皮肉るあんたの言い方も、かなりイヤ
嫌だから何?嫌々ながらやらなきゃいけないことなんて、毎日、山のようにあるでしょ?
で、今度は誰に噛みついたわけ?
ドールベアは広場で会場の準備をしているジェラルドとドリスを顎で示した
見て。世界がこんなにもぐちゃぐちゃなのに、まだ「ロマン」なんてものにしがみついてるの
キャンディも、松脂も、ヴァイオリンも、ダンスも。どれひとつ、生き残るためのものじゃないでしょ?
役には立たないけどさ……楽しそうに笑ってるね。生き残ることだけにこだわる人生ってのも、少し哀しいじゃない?
ドールベアはゆっくりと瞬きをした
こんな世界で、現実の傷より「心の持ちよう」が大事なんて宣うのは、ホルモン周期を神とあがめる連中だけよ
ラブロマンスや悲劇を追いかけるために荒唐無稽な発想を並べ立てるなんて、本当に、無駄で……意味のないことだわ
でもね……妙なのは、そんな意味のないことを、なぜか成就させたくなってる自分
……意味のないことをやるには、勇気が要るんだよ
手の中の電解液が空になると同時に、ディアベアは夕陽の残照に溶けて消えた
もうひとりの自分が消えた瞬間、ドリスがそっとドールベアの隣に腰を下ろした
お邪魔しても?
はい?ええ、ご自由にどうぞ
ありがとう。そして……ごめんなさいね
なぜ謝罪を?
あの補聴器は私が設計して作ったものなの。あなたに託す前から……ここじゃ直せないってわかってた
あなたが……?ダンサーだと……ばかり
あれは趣味よ。私は物理学者だったの
だから半田の松脂なんて代用品を思いついたわけね。もしかして……ご出身は応用物理か、それともエンジニアか何か?
ドリスは微笑み、否定しなかった
だったら、どうしてここに?もっと必要とされる場所があるはずよ
パニシングが発生した瞬間、私の研究は意味を失ったの。もちろん、私が必要とされる場所へ行って、できる限りの協力をする選択肢もあったけれど
でも、私は凡庸な才しか持ちえない。科学という大山にとって、私はただの砂粒よ
その砂粒でも、果てしないブラックホールを僅かに埋める助けにはなれたかもしれない……でも、星が欠けた世界を持つある人を見つけてしまったから
私の愛する人にとって、私は唯一の星だった
私は利害や得失も、大義、合理というものをも捨てて、ただのロマンの星でありたいと願ったの
……なんてもったいないことを
あなたにもったいないって言われるのはもう2回目ね
ごめんなさい
でも事実だわ。あなたは浪費の天才なのね
あなたがエンジニア、本来なら――
(本来なら、もっと意義のある場所で輝けたはず……)
もったいないって、何が?私の人生?でも、生きてるのは私自身よ
私が意味を見出すなら、それはもったいなくなんかない
……それに、本当に意味はあるの?
それなら、人生の意味って何かしら?私にとっては、日々を生きることそのものに意味があるの
もし科学にとって、あなたが欠かせない星だとしたら……それでも、同じ選択をする?
……残念ながら、その仮説を裏付けるデータは今のところない。だったら、その星自身の気持ちを訊いてもいいじゃない?どう生きたいの、って
……
そんなの意味ないし、選択する必要もない。私は……きっとあの人の星じゃないから
そうなの、「その人」はもういるのね?自分が星なのかどうか、心を悩ませる人が
ドリスの視線が一直線に遠方のある人物へ注がれ、悟ったような微笑を浮かべた
でも時にはね……問いかけそのものが、答えだったりもする
エンジニアなら、プランクを当然ご存知よね
原子論とエントロピーの矛盾。それは古典物理学の危機であり、同時に現代物理学の誕生の引き金となった。そしてその扉を開いたプランクは、古典物理学の忠実な信者だった
彼の最も偉大な業績は、皮肉にも、自らが信じた古典理論の枠組みを神壇から引きずり下ろすことだった。そして彼はそのあと、科学的信念を守るための葛藤に苛まれる
どれほど慎重に抗おうとも、量子力学の時代の到来は止められなかった
誰もが知っていた……疑念と抵抗が芽生えたその瞬間に、量子理論の扉はすでに開かれていたのよ。そして、その力の奔流はもう何者にも制御できない
心の秩序を揺さぶる何かがあるなら、それこそが答えなんじゃないかしら
ドールベアの口元が僅かに引きつり、苦笑とも呼べぬ短い弧を描いた
奥様、ありがたいお話をありがとう。でも、なぜわざわざ私に?
え?あなたに話した理由は、そうね……さっき、あなたがもったいないと言ったでしょう。あの時、私、若い頃の自分を思い出したの
ふと思ったのよ。もし娘がいたら……きっと「心に従え」と教えるんだろうなって
ごめんなさい、余計なお世話だったわよね?
いいえ。あなたと話せて……楽しかった
そう口にしながらも、ドールベアはそれ以上言葉を重ねず、静かに沈黙した
私の人生には、一度だけどうしても選ばなくてはいけない岐路があったの……すごく苦しかったわ。願わくば、もう誰も同じ苦しみを背負わないでほしい
――命の灯が弱る愛する人を支えるか、もう見込みのない研究理想を追い求めるか
若き日のドリスにとって、それは想像以上に苦しい選択だった
そうね……私もそう願います。もう誰も、苦しい選択を迫られないことを
ノルマン家の厳しい躾が、ドールベアに隙のない応答をさせた。同時に、心に高い壁が築かれていく
彼女は軽やかさを装って立ち上がり、ドリスに礼儀正しく一礼した
補聴器の修理に失敗したなんて、エンジニアとして汚点だわ。もう一度挑戦させてください。ドリス夫人
お話を聞かせてくれて、ありがとう。お礼に、あなたのラストダンスを叶えられるよう全力を尽くします
意識海の奥深くに再び重いハンマーが響いた。前よりも激しい眩暈が少女を襲い、一瞬視界が曇った
再び正気に戻ると、彼女は眉をひそめただけで、先ほどの眩暈を忘れたかのように振る舞った
心はすでに決まっている。ドールベアは車へと向かった
自分の心をかき乱す人の側を通る時、やはり思わず立ち止まり、相手を頭から足まで堂々と「スキャン」した
だって……そこに突っ立ってるんだから、見るくらい自由でしょ?
そこに謎があるなら、ついまじまじと観察したくなる
夕闇は古びた広場にベルベットの幕を引いた。車のヘッドライトはステージを照らすスポットライトになり、漂う塵が光に照らされて星々のように瞬く中にドリスは立っていた
……うん、これがいいな
ドールベアが車のスピーカーを起動すると、ゆるやかなチェロの調べが夜空に流れ出した。旋律に包まれ、ドリスは腕を広げて愛する人へと手を伸ばした
『愛の挨拶』
黄金時代初期に生まれたその楽曲は、時の流れに埋もれることなく、今も歌い継がれている
月明かりの下で光に伸びる影は長く、老いた夫婦は寄り添ってゆるやかに旋回する。その一歩一歩が、歳月を重ねた契りと愛を刻んでいた
……
ふたりは目を合わせると、暗黙の了解で車の陰へ歩き、腰を下ろした
プシュ――
冷えたさくらんぼ味の電解液の缶を開け、そっとドールベアの頬に当てた。少女は自然に手を伸ばして、それを受け取った
小さく声を潜め、自分の缶をドールベアの缶に軽く当てた。かちんと澄んだ音が響く。少女は両手で缶を抱え、少しずつ口をつけた
飲み下す度に頬が僅かに膨らみ、笑みの弧が浮かぶ。この発見は少し新鮮だった
そろそろよ
ドールベアは突然車の陰から顔を出し、前方の「ステージ」を見て、こちらの「攻撃」をかわした
車のスピーカーから耳障りな雑音が流れ始めた。最後の悪あがきのようにいくつかの音を響かせたあと、完全に音が途切れた
ドールベアは落ち着いた様子で、いたずらっぽくウィンクした
すると、繊細でしなやかなヴァイオリンの音が響いた。柔らかく澄んだ高音は月の糸のように漂い、空間を織り上げていく
驚いてドールベアの視線の先を追うと、あの古びたヴァイオリンを奏でるジェラルドの姿があった
ほら、聴力がちゃんと機能すれば違うでしょ。きちんとキャリブレーションしたら音が綺麗になった
ふふん~
少女は両手を重ね、大きく伸びをした。自分の腕前に満足している様子だ
トラブル後のサプライズ。ふふふ……これぞカタルシス、ロマンよね
……あなたが言ったのよ、私は優秀なエンジニアだって。補聴器くらい直せないはずがないわ。部品がなければ他から流用すればいいの。私をなめないでよね
彼女は答えなかった。ヴァイオリンの旋律に身を委ね、小さく鼻歌を紡ぎ始めた。すでに音楽に夢中になっているようだ
この旋律、間奏にぴったり……これを私の曲に入れても、ジェラルドは許してくれるかな?
そうよ。今の私にとって、一番大事な作品だから
ヴァイオリンの旋律は途切れることなく流れ続け、深夜まで続いた。疲労に耐え切れず、音がやむより先に眠りに落ちてしまった
ドールベアは何本もの電解液を空にして頬を赤く染めながら、眠るその人の顔へ手を伸ばした。指先は触れぬまま、空気越しにその輪郭をなぞっていく
……
ドッドッドッ――
ゴクゴクゴク――
ディアベアが出現しても、ドールベアはもう驚かなかった
これ電解液よね?なんで電解液を飲んだだけで、カクテルを飲んだみたいな感じになってるの?
人体における分解の化学反応を真似して、論理演算で再現しただけよ。簡単なこと
なるほどね……人間は喜びや苦しみを感じた時に酔いを求めるっていうけど、今の私たちはどっち?
どっちも。そして、どちらも違う
欲しいのに手に入れられない……なら、取り繕う理由がいるでしょ
ふん、一流の科学者だったのに、たった数日で三流の詩人に落ちぶれたのね
本当に怖いよね。ホルモン、ドーパミン、オキシトシン
……あんた、ホントに病んでるわね。まぁいいわ……詩人に乾杯
現実と虚構のアルミ缶が、空中で軽やかに触れ合った
今日は1回しか悪口言わないの?どうしたの?ブキミなんだけど?
ドリス夫人の世界では、下手なヴァイオリンの音も不完全な聴覚も許される。理想も責任も、不要ならいつでも捨てられる
愛に飾りはいらない。不完全さをロマンが包み込むから。見えない壁をひょいと1歩跨げば済む話……とてもシンプルよね
じゃあ、私たちを縛ってるのは何よ?
そうね……「ドールベア」としての私たちは賢明で、理知的でなくではならない。そして何より、感情に支配されるのは決して許されない
今の世界で必要とされているのは「役に立つドールベア」。「愛されるドールベア」じゃない
あの人の前でも、私は「頼れる相棒」でいる方が性に合う
やめちゃえばいいんじゃない?
檻の中の熊なら檻を破ればいい。ノルマン家に掲げられたあの熊の首は、最も勇敢だったその瞬間に斬り落とされ、栄光の象徴として高々と吊るされている
家人が変わり、壁は剥がれ、炉の火も絶えて繁栄はすぎ去った。それでも首はそこに残り続ける。そのことを考える度に、思うの……
何を?
今まで深く考えたことがなかった。今こうしてドリスとジェラルドの白髪を見て……心の中で渦巻くこの虚しさの正体を、知りたくなかった
ディアベアは眉をひそめ、真剣に考え込んだ。やがて腑に落ちたような表情を見せた。その瞬間、ドールベアにもひらめきが走った
そういうことか。あの空っぽのものは……私から奪われた人生なんだ
その声は、ため息と変わらぬほどにか細かった
それでも構わない。私は「ツール」としての自分が好き……この世界のために役に立てることは、私の誇りよ。熱狂や盲信に落ちてただ愛されるより、世界に役立つ方がいい
たとえ私がノルマングループから離れて過去を封印しても、ノルマンが私に刻み込んだ観念とは一生戦わなければならない
壁の熊の目がずっと私を見てるの。「可愛い」より「役立つ」方が安全で、「愛される」より「価値がある」方がいい……それが、私にかけられた永遠の呪い
あんただったっけ?それとも私が言ったのかな――意味のないことをするには……勇気が要る
……
私は永遠に愛されることはできなくても、永遠に「役立つ」ことならできる
結局、私はノルマン家のやり方で生きてる。あーあ、嫌になっちゃう
「役立つ」って立場は、不完全だけど安全。距離があるけど、確かな存在だわ
これがベストな落としどころね
だから車の部品を外したの?旅が終わったら、ちゃんと「役立つ」立場に戻れるように?
ドールベアは目を見開いた。紫色の泉のように澄んだ瞳は、戸惑いをたたえて、底知れぬ深淵へと姿を変えていく……
ドールベアって、私たちにキツすぎよ
車は再び満載の物資を積み、次なる拠点へと出発した
ドリスはふたりを保全エリアの境界まで見送りに来て、ドールベアの耳元で囁いた
道を求める者は自らを囚え、惑いを解く者は自らを苦しめる
母のような仕草で、彼女はドールベアの頬に手をそっと添えた
「ディア」でも「ドリス」でも、何でもいいの。名前もあり方も、全て自分で選んで、定義していい
過去は私を定義できない。私の選択こそが、私を形作るのだから
どうか自分を縛りすぎないで、ね?
高くたなびく積雲はまるで空に放たれた群れのように、悠々と無限の青空を散歩していた。雲を通してこぼれる陽光は柔らかく、どこか夢のように霞んでいる
この穏やかな空が、あとどれほど続くだろうか
