風に翻ってピンク色の旗が舞ったのは僅か30分だった。黄金時代の美学を極めた洒落たマシンは、無情にも途中でエンストしてしまったのだ
人けのない山道。空は薄く霞み、山脈が静かに連なる。エンジンルームからは断続的な金属音――ドールベアが沈黙のマシンに語りかけていた
「邪魔しないで」と追い払われ、ただそこに立ち尽くすしかなかった。「天才エンジニア修理中」の立て看板の心づもりだ
ドールベアはエンジンに寄りかかり、真剣な表情を浮かべていた。羽毛のような雲を透過した澄んだ光を受けて、まさに工兵部隊副隊長としての檜舞台といった出で立ちだ
トランクから、冷えたさくらんぼ味の電解液を1本取り出した
原因はこの部品……うーん……あんたね?なるほど、犯人当てゲームってわけ?
意味不明な独り言を呟きながらも、構造体の手つきは真剣そのものだった
え?
自分の声を聞いて、独り言を言っていたドールベアはエンジンに手を置いたまま空を見上げた
鉤状雲ね。氷の粒でできた高空の雲。小さな羽根みたいで、ふわふわしてる
彼女の頬と鼻先には汗が滲み、いつの間にか顔についた油汚れが目の下に木漏れ日のような影を作っていた
温かな空気が冷たい電解液の缶の壁に触れ、細やかな水霧を生む。さくらんぼ味の電解液を少女に渡し、指先に残った雫で彼女の目の下の「木陰」を拭い去った
……
彼女の睫毛が一瞬だけ震え、その瞳は紫の水面のように揺れて、深い渦を形作る
ドッドッドッ――
もう、どんだけ時間かかってるの?まだ直ってないの?
ありえないわね
突然現れたディアベアはさくらんぼ味の電解液を抱え、ドールベアの目の前で、人間の肩にどっかと腰を下ろした
セカンドペルソナのぬいぐるみが意識海の外に現れた。視覚モジュールのハッキングだとわかっていても、目の前の人間の安全に関わるかもしれない。ドールベアは眉をひそめた
今度は、何が目的?
だって、直せないんでしょ?
ふん……それ、私の真似?威圧感でも出したいの?
ゴクゴクゴクゴク――
ディアベアがさくらんぼ味の電解液をがぶ飲みする動きが一瞬止まった
おとなしくしてなさいって言ったでしょ。どうして出てきたの?
作り物の威勢はドールベアにあっさりと見抜かれた。それでもディアベアはなお勇ましく、毅然とした面持ちを崩さずにいた
私の心を感じさせてあげるって言ったでしょ。私の出現タイミングはルールで決められてる。私がどうこうできるもんじゃないわ
ゴクゴクゴクゴク……じゃね
人間の肩の上に座るディアベアは、嵐に呑まれる寸前にかろうじて皮肉を残すと、さくらんぼ味の電解液を一気に飲み干して儚く消えていった
……
え?
遅れて気付いたように缶を振ってみると、中身はすでに空っぽだった。そこでようやく、ドールベアはあの狡猾なぬいぐるみが現れた理由を理解した
……なんなのよ、もう!
身体は確かに電解液を飲んだのに、味はあのシミュレーション意識に奪われている。彼女は唇を噛みしめた
いい。もう……十分飲んだから
(ルール……そういうことね)
その時、彼女はようやく気付いた。人間の額にも汗が滲んでいた
今すぐには直せない
いつもの彼女らしくなく、それ以上の説明はない
一般的な乗り物の故障をドールベアが解決できないはずがない。そうなると、ごく自然に部品が足りないのだろうという判断に至った
しかし、彼女は答えをはぐらかした
レオナルドのやつ……ほんと、詰めが甘いんだから
またしても意識海の底に鈍い震えが走った。ドールベアは眉根をぎゅっと寄せて、拳を固く握った
これでまた計画おじゃん、ってわけ。まあいいわ、じゃあ次……
ビーッ――その言葉は、けたたましいクラクションに掻き消された。年季の入った輸送車がふらふらとふたりの前で停まった
エンコかい?手を貸そうか?
……
彼女の目が微かに揺れた。しかし、すぐに明晰さを取り戻した
旅の始まりは順調ではなかったが、幸いにも「天の助け」が届いた。この帰路を走る輸送車のお陰で、ふたりは保全エリアに戻ることができた
陽光はじわりと熱を帯びている。2台の連結ロッドがしっかり固定されていることを確認し、長時間黙っているドールベアの隣に立った
……別に
「別に」と言った次の瞬間、彼女は足下の小石を不機嫌そうに蹴り飛ばした
座る場所を空けたから、乗っていいよ。もう出発できる
ふたりはサンルーフの真下、仮設の席に案内された。古い金属コンテナで作られた粗末な席だった。輸送隊員たちは、じろじろと無遠慮な視線をこちらに向けている
おいおい、じろじろ見るな。この人たちはノルマングループの客人だぞ
その言葉に、ドールベアの眉間が僅かに寄った
再び警戒して、車内を見回した。貨物室に入りきらなかった荷物の他は、ほとんどが私物だ。残り僅かなレーション、色褪せた写真、古びた社員証……
ああ……昔のものだ。そういえば君らの車、レオナルドさんが準備したやつだろ?あれは俺が管理してたんだ。確か、10-43号倉庫に置いてあったやつ
ずっと置きっぱなしだから、もう誰も取りに来ないと思ってた。やっぱり……こういう高価な物は、丁寧に使ってやらないとダメになってしまうから
……
ノルマングループは俺を信頼してくれてて、たまに仕事を回してくれるんだ。今はこんなざまだけど、昔はノルマン様の運転手をしてたこともある
またその話かよ、ボス。もう耳タコだっての
いっそ録音すればいいんじゃない?インタビュー番組みたいにしておけば、毎回同じことを話さなくて済むのに
いやいや、エドワード·ノルマンさ。エドワード様……ハハハ、若い頃の話だ
ドールベアの指が微かに動き、まるで蝶の羽のように自分の小指をかすめた
話、盛ってない?
なんだよ、盛るって?視察での運転手だって運転手だろ?お前ら細かいんだよ、ノルマン様の度量を見習え
ノルマン様はとても気さくでね。ご自身の子供の話をよくしてくれたよ。子供とはどう向き合えばいいかとかさ……
はいはい。で、娘ってのはいいぞーって話だろ?娘はおとなしくて優しいとか……オチまで毎回同じなんだから
ドールベアは静かに息を吸い、サンルーフのスイッチに指をかけた。ガラスが開き切る前に、彼女は素早く屋根の上へと姿を消した
それでも運転手はおかまいなしに話を続けた。エドワード·ノルマンとの会話を、何度も繰り返し続けている。仲間たちの顔には、もう聞き飽きたと書いてあった
運転手の思い出の中では、その若い父親はいつも娘のことを話していたようだ
いわく、娘は間違いなく天才で音楽好きで、大人になったらきっと歌が上手いに違いない。もしかしたらノルマン家で初の音楽家として大成するかもしれない
いわく、娘は科学者としての才も目覚ましく、すでに専門的な課程を学び始めている。父親としては、彼女に好きなことをしてほしいと願っている
いわく、聡明なお嬢さまでありながら手を抜くのも上手い。効率よく時間を管理できるのだから、将来きっと誰にもいじめられたり振り回されないだろう
遠い追憶の中の、父から見た小さなドールベア。それは、自分にとって未知で初見の姿だった
サンルーフは開いたり閉じたりしていたが、話の途中からもう開かなくなった
ついに運転手の話も尽き、車内は静寂に包まれた
ふと見上げると、ガラス越しのドールベアの指先が窓にそっと触れていた。人工皮膚が軽く押し潰され、小さな楕円を描いている
つられるように、自分の手も窓に重ねた。その薄く冷たい隔たり越しに、彼女の手に手を添えてみる
その動きで、ドールベアがこちらを見た。そこにあったのは、予想外に冷静なまなざしだ。そこに悲しみや寂しさは感じられない
彼女が少しだけ手を上げると、窓がゆっくりと開いていく。ふたつの手を隔てていた透明な障壁は消えた。ドールベアの手は、静かにそのまま宙に残っている
その手はまるで空に咲く一輪の花のようにしなやかでか細く、けれど確かに、誰かが手を伸ばすのを待っている
体勢を整えて開いたサンルーフから車の屋根へと飛び乗り、ドールベアの隣に腰を下ろした
運送車の揺れが、目に映る景色を古い映画のように震わせる。屋根の上の風は思ったよりも穏やかで、サンルーフがまたゆっくり閉じ、世界全体がのんびりと揺らいでいた
誰も言葉を発さず、耳に届くのはドールベアの微かな呼吸音だけだ
いつからかその呼吸は更に軽やかで緩やかになり、薄雲が散り消え、再び蒼穹の青空が現れる情景を思わせた
ドールベアは片膝を立てて自らの膝を両腕で抱え込み、顎をちょこんと乗せていた
そのせいで頬には小さな丘のような膨らみが生まれ、紫とピンクの瞳の下で、いじらしく押しつぶされている
彼女はそのまま、首を傾けてこちらを見つめてきた
彼女の目は柔らかな三日月のように細まり、その笑みが光とともにこちらの頬に降り注いだ
その瞬間、世界は深い静寂に包まれた
言葉などもう要らなかった。揺れる車上でふたつの影がゆるやかに寄り添っていく
うん
……
出発した時と比べて、保全エリアは一層慌ただしさを増していた。保全エリアというより、もはや物流拠点のようだ
ドールベアはストライキ中のオープンカーの前に立ち、さくらんぼ味の電解液をひと口飲んで乱れ飛ぶ思考を整理しようとしたが、なかなかうまくまとまらなかった
ほんの一瞬でも心の防壁に隙ができれば、「虚構プログラム」の影響が一気に広がるような気がしていた
けれども、旅を中断して即座に削除し、初期化することもできない
このロジックって……
本来なら明瞭であるはずの情報が、なぜか幾重もの霧に覆われている
頭の中は真っ白で、こんな状況は初めてだ。プシュッという音とともに、手に持っていた電解液のアルミ缶が潰れた。こぼれた液体がドールベアの指を濡らす
ドッドッドッ――
だから、言ったでしょ。直せないって
視界にねじれた色彩が滲み出した。ディアベアがふざけたように小さなドラムを叩きながら、ボンネットの上に姿を現した
指揮官には言えないの?ハードでもない、ソフトでもない。問題はここ……
ディアベアはドラムスティックを放り投げ、さくらんぼ味の電解液を持ち上げて、頭を指した
「悪い病気」なんだよって
見た目が正常だからって、中身まで正常とは限らないのよ
ドールベアは小さく鼻で笑い、余裕のある表情でディアベアの短い爪を眺めた
メインペルソナの危険な視線に、ディアベアはおとなしく爪を下ろし、挑発的な仕草をやめた
さっき道端で気付いたでしょ、思考が鈍ってるって。だから、こんな簡単な故障も修理できなくなってる
ドールベアは思案するように自分の手を見つめ、再びエンジンの制御装置に視線を戻した
まあ、驚くことじゃないわ。そもそも「虚構プログラム」を設計したのは私なんだから。そう簡単に片付くはずがないし
でも、今のあんたの知能は……
ドールベアは手を止めることなくゆっくりと顔を向け、静かな目でこの「軽口」のぬいぐるみを見つめ、口角を僅かに上げた
うん?知能が何?
鋭い視線が、まるで脅しの刃のように飛んでいく
……えっと、今のあんたの分析能力では、自分自身に何が起きているかを理解できないでしょ?
あのハッキングプログラムはただの模倣コピーじゃない。心の中の不安と恐怖を探し出して、何度もその妄想に引き戻し、閉じ込める……
凡人は自らの恐怖を直視できず、天才はそれを慎重に封じ、決してそれに生活を乱されはしない
でもその恐怖が無理やり引きずり出され、世間に晒されたら?
才能を失い、何もできない凡人となって、状況が悪化するのを黙って見ることしかできない……そんな「役立たずのドールベア」になること、それがあんたの恐怖じゃないの?
ディアベアはホラー映画さながらの陰鬱な口調で語りかける。しかし、ドールベアはただ平然とした顔で指先を弾き、ディアベアを横へ払った
演技の勉強のツメが甘いんじゃない?
で?それがあんたの言う「ルール」ってやつ?
彼女は軽く指をほぐし、再びエンジンに向かって作業を続けた
つまり……あんたは私の特定の時の「審美」や「人格」じゃなくて、「恐怖」の具現化ってこと?
6歳以降、そんなもの消えたと思ってた
そんな言い方ってないでしょ!たとえあんたが私だとしても怒るわよ!……って、ちょっと、なんで顔がますます不機嫌になってるのよ!?
だってその姿じゃ当然じゃない。それが私の才能のイメージだとしたら……私の才能なんてしれてるなって
ちょっと、今度は自分ディス!?
ピーッ――起動成功
セカンドペルソナとの子供じみた口喧嘩の最中でさえ、ドールベアは修理の手を1秒たりとも止めなかった
はっ!?どうして!?
低く響くモーターの唸りとともに、ルーフパネルが滑らかに展開し、優美な屋根を作った。エンジンは落ち着いた低音を響かせ、整備が完了したことを告げていた
単純な話。あんたが何であろうと所詮はシミュレーション意識。模倣ってことは……ただの作り物よ
私の才能と知性は、客観的に存在する事実だもの。偽物が本物に勝つなんてそもそも無理な話なのよ
あんたはただのオモチャにすぎない
恐怖の受容っていっても、あんたを受け入れるよりは少しだけ面倒っていう程度ね
「知恵」の力を侮りすぎ。ていうか、私そのものがナメられてる?
理性の抑制で自分の不完全さを受け入れれば、彼女が「真理」を見極めるのを妨げていた霧も自然と晴れ、修理作業は再び最も単純な「積み木遊び」に戻った
悪いけどね、セカンドペルソナ。私を怖がらせたいなら努力が足りないわ。理性を保ち続ける限り、私は必ず自分を救い出せる
ドールベアは身を乗り出し、ディアベアの手からさくらんぼ味の電解液を奪い取ると満足げに飲み干し、心地よさそうに指を鳴らした
じゃ、もう消えて
パチンと指を鳴らすと、ディアベアの姿が水に溶ける絵の具のように消えた。現実の視界で、さくらんぼ味の電解液の箱を抱えた馴染みの姿が近付いてくるのが見えた
その眼差しに触れ、勝利に満ちていた少女はようやく強がりの態度を緩め、心から安堵の吐息をもらした
気が利くわね。賞品は用意してないけど車は直したから。ご褒美として、今回の旅行のエースドライバーに任命してあげる。コンステリアまで直行でよろしくね
冗談よ。あなたを運転で疲れさせるつもりなんてない――
台風9号は、3日以内に本エリアの南東沿岸に上陸予定。大型~超大型台風に発達する見込み。各輸送隊は任務情報を確認し、ルート調整を行ってください
保全エリアに響く放送がドールベアの声を遮った。警告を聞き終えたドールベアは、ウィンクを寄越した
ノープロブレム。私たちの予定ルートは台風の影響の範囲外だから
返答する間もなく、再び全域放送が響いた
輸送車両故障のため、78号任務が支援を要請。現在任務中でない輸送小隊の協力を求めます
あっ……そこのふたり……!
助けてくれた輸送車の運転手が遠くから走ってきた
よ……よかった、まだ出発してなくて。ある保全エリアで急性の感染症が出て、薬の支援が必要なんだ。うちが招集されたんだが使える車両がなくて……車はもう直った?
その意味をすぐに悟り、ドールベアの表情が渋くなる
そっちの輸送車は?
うちのは最古の型でね、もともと78号任務に割り当てられた輸送車よりも遅い。本来なら、整備に出さないといけない代物だ
あのポンコツが走るスピードじゃ到底間に合わない……今ここにある車の中で、任務に使えるのはレオナルドさんの車だけのようなんだが
ドールベアは迷いなく振り返り、こちらの穏やかながら確固たる視線と目が合った
指揮官、私たち――
すぐに薬を持ってきて。車はもう直ってるからいつでも出発できるわ
あ、ありがとう!すぐに皆に知らせてくる
ドールベアの隣に立ち、そっと肩に手を置いた。その温もりに彼女は僅かに表情を和らげた
あーあ、また誰かさんの悪運を背負わされたみたい。さすがは全員抽選で10名しか当たらないくじ引きで、見事に当たるグレイレイヴン指揮官の本領発揮ね
あなたの失敗談は数少ないんだから、特別に記憶モジュールに保存する価値あるでしょ?
でもまあ、誰かを助けられるなら、それは「運がいい」ともいえるか
どうせ、次のバケーションもあなたは私と一緒になんだろうし
雑踏と喧騒のただ中で、彼女がこちらを仰ぎ見た瞬間だけ時が止まった。せっかくの旅がここで終わっても、この共鳴と理解こそが何物にも代えがたい贈り物だ
薬は確認済み。すぐに積み込める
隊長、私物も持ってきたぜ。整備中は車内に置けないって……あっ――
写真を踏まないように、ドールベアは1歩下がった。背中がこちらの胸に当たる。手を伸ばしてドールベアの肩を支えようとした瞬間、写真が視界に入った
古い写真だったが保存状態はよく、汚れも色褪せもない。写真にはスーツ姿の男性と若い運転手が白い建物の前に並んで立ち、レンズに向かって笑顔を向けていた
……
エドワード·ノルマン。クリスティーナ·ノルマンの父親だ
ドールベアはその写真を拾い上げて、差し出した
輸送車の運転手は気付かぬまま、自然な仕草でその写真を受け取った
これはエドワード様の写真だ。視察の最後の日に撮ったんだ。行程の締めくくりが物理学者の記念館だった
プランク……
え?お嬢さん、どうしてそれを?
10-43号倉庫の壁に描かれた人物の落書きが、記憶データから浮かび上がった
10-43号倉庫、10のマイナス43乗秒、プランク時間。人類の認知で定義できる最小の時間単位……この話、レオナルドにも教えたんだけど
プランク時間は宇宙進化の起点。プランク時間のスケールでは、人類にとって馴染み深い時空の概念はもはや古典的な定義を失い、そこが物理学的認識の絶対的な境界となる
境界の内は理解可能な世界だ。境界線の外側は理解できず、定義できず、触れることもできないのだった
