人が美しい瞬間を記憶に刻むのは、日常の些末な出来事と比べて、そうした瞬間があまりにも儚いからだ
太陽が空の端に横たわる頃、この旅も終わりを迎えようとしていた
ヨトゥン市
郊外
17:30
スペクトル線幅:2
丘の上に立って望遠鏡を掲げ、遠くに見えるボンの境界領地を観察した。都市というより街と呼ぶべきだろう
ひと晩くらい休みませんか?
ファウンスは、イノ·ルアが先に動くことを警戒しているんでしょうね
ヨトゥンから首都までは、車で移動してもまだ1日近くかかりますよ……?そこでイノ·ルアが先回りして待ち伏せなんてするでしょうか?
……確かに、その可能性はありますね
イノ·ルアは、私たちがどのルートでボンに到着するかは把握していません。もしかしたら、私たちが通る可能性のある境界都市全てに前哨を配置しているのかも
……ずいぶんと手の込んだことをしますね。私は本当に彼女の追撃リスト、堂々の第1位のようだ
ともかく……街には長く留まらない方がいいでしょう
買い出しが終わり次第、すぐに出発しましょう……申し訳ありませんが、もうひと晩野宿になります
ヨトゥン市
市内街道
18:45
すぐに必要な物資の補給を終え、甘いデザートもいくつか買い足すと早めに店を出て、街の通りに停めたオフロード車へ戻った
アイリスと一緒に食べようと、声をかけるために車の窓に近付いた瞬間、手は宙で止まり、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ
夕暮れの霞んだ陽光に、木々の影が揺れている。彼女は運転席のシートにもたれ、深く「眠って」いた
左手はぎこちない角度のまま留まっており、僅かに寄せられた眉には、うっすらと憂いが滲んでいる
窓越しでは、彼女の呼吸の音は聞こえない。だが、不規則に上下する胸の動きが、その心の奥に隠された不安を物語っていた
「最も早くて効果的な方法を選ばない」だけじゃなく、「運転ができない」ようにも見えますか?
これでも構造体なんですよ。運転するだけなら何日だって稼働していられます。それに、途中で皆さんと休憩も取りますから
ということで……ファウンスには警備をお願いしてもいいですか?
……連日の運転で疲れたのだろうか?そんな馬鹿げた考えがふと頭をよぎったが、それはすぐに打ち消された
彼女は構造体だ。適切な休憩さえ取れば、4日と言わず、40日間運転し続けても疲れが出ることはない
い、いえ……ただ……どう説明すればいいのか考えていただけです
私は空……別の時間の連合政府に所属しています……番号は654、作戦コードネームは……アイリス
私たちが、最初にイノ·ルアの存在を察知しました。そして彼女が歴史を捻じ曲げるのを阻止するために、長い間戦い続けています
アイリスをまどろみに沈めている真の理由は、恐らく自分が目にしていない、昼夜問わず繰り返されてきた無数の4日間なのかもしれない
ため息をつき、手に持っていたデザートを置いた。そして、ホルストで買った携帯電話を取り出し、ジョナサンにメッセージを送った
その後、そっと窓に手をかけ、迷った末に車の鍵を取り出した
音を立てないように車のドアをそっと開け、シートベルトを外し、運転席からアイリスの体を抱き上げた
うーん………
アイリスの反応に、起こしてしまったかとドキリとした。構造体の警戒システムは人間の比ではない
しかし極度の疲労からか、それとも別の理由からか、腕の中のアイリスは驚くほど静かで、先ほど寄せられていた眉の緊張も幾分和らいでいた
彼女の体を慎重に後部座席に横たえた。そのままドアを閉め、車に背を預けた。空の向こうの夕焼けを見つめ、ぼんやりと考えた
無意味な呟きや感慨にふける中で、時間は静かに流れていった。ほどなくジョナサンとダンデラも店を出て、車に戻ってきた
ふたりに静かにするよう合図を送ると、ジョナサンとダンデラは事情を飲み込めないまま、足音を抑えた。ジョナサンは手に持ったビニール袋を開き、声を潜めて言った
<size=30>頼まれた耳あてを買ってきましたよ</size>
耳あてを受け取ると、ゆっくりとドアを開け、眠るアイリスの耳にそっと装着した。ジョナサンたちも状況を理解し、自然と静かに動いた
ダンデラは忍び足で後部座席に乗り込み、ジョナサンも静かに助手席のドアを開けた――
運転席に座り、シートベルトを締めた時、ふと思いついてコップにお湯を注ぎ、それをダンデラに手渡した
<size=30>はい</size>
夕暮れの残光がアイリスの眠りを邪魔しないよう、サンバイザーの位置を調整し、エンジンをかけた
車は夕陽に向かって走り出し、やがてジョナサンとダンデラも眠りに落ちていった。感じるのは、僅かに揺れる車体の振動だけだ
長時間走り続ける間に、口の中の眠気覚ましのキャンディは溶け切った。もうひと粒食べようとした時、包み紙を剥がしたキャンディが口元に差し出された
……
後ろから両腕が伸び、自分の首にふわりと巻きつけられた。耳元にアイリスのささやき声が聞こえた
誰が私を後部座席に運んでくれたんです?
まだ目覚めきっていないのか、声もはっきりしていないアイリスは、頭を前に傾けてこちらの肩に乗せてきた。まぶたは半開きで、開いているのか閉じているのかもわからない
だったら、私はすぐに目を覚ましたでしょうね
ダンデラはあの見た目ですが、意外と動作は荒っぽいですから
こちらの嘘への意趣返しなのか、柔らかな息が耳元にかかる。アイリスは頭をもたせかけたまま僅かに頭を揺らし、よくわからない鼻歌を歌っていた
その旋律で眠気を誘われ、思わずあくびが出た
車を停めてください……
停めてくれますか、少し歩きたくて
アイリスは回した両腕に頭を埋め、少しくぐもった声で言った
じきに夜になります
車を路肩に停めて外に出た。アイリスは軽く伸びをしながら、こちらの視線に気付き、微笑みながらウインクした
警戒用の装置を設置し終えると、アイリスとふたりで、少し先にある花が咲いている丘へと向かった
夏の空はゆっくりと暗くなる。もし朝に間に合わないのなら、夜が訪れる前に会いましょう……
アイリスはアヤメの花を引き寄せ、そっと香りをかいだ
夕暮れは好きですか?
私も好きです。黄昏の光は、人の心にさまざまな思いを呼び起こさせますから
私のインスピレーションや想いの多くは……そこから生まれます
アイリスは髪をそっとかきあげた
まるで、少しずつ定められた終わりへと近付いていくように。抗うことはできず、ただ受け入れるしかない
あなたはいつも揺るがない人ですから、外の景色くらいで気持ちが揺れたりはしないのでしょうね
でも、わかっています……
アイリスはまた髪をかきあげた
今、見えているものがあなたの全てではないのですよね
ファウンス……家が恋しいですか?
……ええ、そうですね。あなたを信じています
アイリスは優しく微笑むと、少し身を起こしてこちらと指を繋いだ
彼女の意図を理解し、草の上に並んで腰を下ろし、ふたりで遠く沈みゆく夕陽を見送った
ふいに肩に重さを感じた。アイリスが身を寄せ、ゆっくりと寝息を立てていた
とうとう彼女も眠りについたようだ
手を伸ばし、風に乱れた彼女の髪をそっと整えると、指先が彼女の頬に触れかけた
そのまま彼女の顔を照らす夕暮れが、だんだんと翳っていくのを眺めていた