市内中心部の百貨店
ホルスト市
9:30
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通りに面したショーウィンドウのディスプレイからは、最新のニュースが繰り返し流れている
ホルスト国際新聞は、12日の国営通信社の報道を受け、一昨日ホルスト市警が、モントルー国際空港を標的とした襲撃を阻止したと伝えています
犯行グループは空港のネットワークシステムに対し一度目の攻撃を仕掛けましたが、ただちに阻止され、その場で逮捕されました。空港は僅か2時間で秩序を取り戻しました
詳細については、本日の特別ゲスト、連合政府の派遣担当員アントゥ氏に解説していただきます
これは間違いなく、『地球議定書』への抗議行動です。しかし、今回は過激ですね!以前のバッカス劇場で起こった事件と同じく……
物資の詰まった箱を抱えて百貨店を出てきたダンデラは、ニュース放送を聞いて無遠慮に鼻を鳴らした。そのせいで、後ろを歩くジョナサンにぶつかりかけて、よろめいた
ちょっと、しっかりしてくださいよ――
後ろにくっついてきたのはあなたじゃないですか……
ぐらつく箱を抱え直し、繰り返され続けるニュースを聞きながら、ダンデラは不機嫌そうな顔をした
「ただちに阻止された」って……そもそもそれ以上の行動なんてなかったのに。ファウンスの話じゃ、あの有害データプログラムの有効時間は10分だけで、自動削除されたそうだし
公共の場ですよ、声を抑えてください……
ましてやニュースが「我々にも何が起きたのかわかりません。でもとりあえず事件は解決しました」なんて、正直に民衆に言えるわけがないでしょう
慎重に周囲を見回し、誰もこちらの会話に注意を払っていないのを確認すると、ジョナサンは低い声で続けた
何にせよ、結果オーライです。ファウンスの計画は成功しました。今朝、連合政府が私たち職員の警備需要を調査し始めました
あなたたちの名前をリストに入れて報告したところ、案の定、ルートや同行者の調整についてあっさり許可が下りましたよ
そうですか
あっ、ところで……空港でファウンスの代わりに囮役になってくれた人はどうなったんです?
急性ストレス性障害の診断書を出しました。そのお陰で、逆に空港側が彼に補償金を支払う羽目になりましたけどね。彼の生活に支障はありません
そんなことまでできるんですね……すごい
ただの後始末ですよ。本当にすごいのは……私じゃありません
ジョナサンは真っ直ぐ前を見据えた。通りの向こうでは、ファウンスとアイリスがオフロード車にもたれかかりながら、物資の確認をしている
ファウンスのことを言ってます?確かに<M>彼</M><W>彼女</W>はすごいけど……もしかしてジョナサン、悔しいとか?
誰だって一度はスーパースターを夢見るものでしょう?
そうですね。<M>彼</M><W>彼女</W>の空港での活躍はかなり派手でしたし。現場は見られなかったけど、きっとスパイ映画みたいな感じだったでしょうね!
……あの時だけじゃありません……
ジョナサンは、無意識に襟元へ手をやった。今でも覚えている……ファウンスが盗聴器を手に取った時の光景を
空港での作戦前――
郊外
ホルスト市
5:00
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ホルスト市 郊外 5:00 スペクトル線幅:2
作戦を間近に控え、ジョナサンは眠れなかった。複雑な思いが何度も渦巻く――彼はまだこの一連の出来事を慎重に推し量っていた。本当に自分がこの件に関わる必要があるのか?
当事者の立場から考えた時、自分の権利をどう守るべきだろう?法律に従うべきか……いや、自分が直面する状況に適用できる法律など存在しない
どうしても目を閉じて夜明け前の時間をやりすごすことができず、冷たい朝の空気で緊張をほぐそうと、ジョナサンは思い切って起き上がった
入り乱れる考えを整理しながら、彼は朝の風の中を歩いた。そして知らぬ間にアイリスが設定した安全圏を越えてしまっていた――
その時、劇場が襲撃された時と同じ怪物たちが目の前に現れた。ジョナサンは、ルアが徹頭徹尾、彼を見逃すつもりなどないことを悟った
助けてくれ――誰か助けてくれ!
だが、彼は別荘から遠く離れすぎていた。明らかにこの距離では、誰にも声は届かない
ここで……死ぬのか……?
迫りくる怪物たちを前に、ジョナサンの顔は絶望に染まった――
反対側から鋭い銃声が響き、怪物たちの注意を引きつけた
ファ、ファウンス!
アイリスから渡された武器は想像以上に扱いやすかった。怪物に致命傷を与えられるわけではないが、足止めするには十分だ
ジョナサンの肩を引っ掴み、反対方向へ全力で走った
ど、どうしてここに……
銃では怪物を威嚇することしかできない。アイリスが、ジョナサンと自分がいないことに気付く前に、逃げ切らなければ――
都市郊外を迂回して森に入った。ジョナサンの体力が尽きる寸前で、ようやく怪物たちの追跡を振り切り、磁場シールドが張られた安全圏の別荘へと戻ってきた
ジョナサンの心臓は、口から飛び出しそうなほど早鐘を打っている
ハァ……ハァ……君は……ハァ……
どうしてこんな……時間に……ハァ……あそこにいたんです……
まさか、作戦会議で大見得を切ったのはでまかせで、実際に全貌を知って、ファウンスも「逃げる」ことを考えていたのか?
わけのわからない感情が心の奥底から沸き上がり、彼は悪意と疑念を込めた目で、目の前の傭兵を自称する人間を睨んだ
い……いつの間にこんなものを!?
そんなわけがない!私たちが接触したのは、ほんの1回だけだったはず……
……なぜこんなことをする必要が?
不確実な状況下では、どんな手段を使おうとも、戦場の動きを自分の手で掌握することが最善――これはファウンス士官学校の必修課程のひとつだ
じ、じゃあ、なぜ今になって……
余計な情報を精査する必要はない。ただ、ともに戦う仲間に悪意がないとわかれば、それでいい
盗聴器を折って壊し、戦術ポーチにしまった
…………
君は傭兵じゃありませんね
では、なぜ……
なぜ、この事件に関わる必要があるんです?なぜ、わざわざ命の危険を冒してまで私を助けたりしたんです?君には何のメリットもないのに……
……あれは建前では?あんなに漠然とした理由で、ここまで厄介な事態に首を突っ込む人がいるなんて、信じられません
せ……世界を救う?
歴史の奔流は全てを巻き込んでいく。ルアの横暴をこのまま放置すれば、今回はボン、次は別の都市――そして、いずれその波は自分にも及ぶだろう
…………
ファウンスの背中を見つめながら、ジョナサンは無意識にポケットの中の携帯電話を触った
画面が消える前に映っていたのは、ある人物とのチャット履歴だった
ジョナサン、モントルー空港での事件を聞いた。やつらの行動はますます過激になっている
<size=30>この状況で任務を続けるのは、君にとってフェアなことじゃない。私が話を通しておくから、もう少しホルストに留まっていてくれ</size>
君のために、この件を取り下げてもらえるよう、私も尽力する
————先生
ご心配なく、先生。私はボンへ向かいます
————ジョナサン
ボンの人々には助けが必要だ……
何か言いました?
何でもありません。青です、行きましょう
ああっ!ちょっと!こんなにたくさん持ってるんですから、押さないでくださいよ!
街路を渡ったジョナサンとダンデラが、物資をオフロード車に積んでいると、アイリスたちの相談する声が耳に入った
このルートを通るなら、ホルストからボンの境界にある都市ヨトゥンまで4日、首都までは4日半というところですね
私が運転しましょう
「最も早くて効果的な方法を選ばない」だけじゃなく、「運転ができない」ようにも見えますか?
そう言ってアイリスはウインクした。先日、ふたりで食事をして以来、彼女の態度はますます親しげになっていた
これでも構造体なんですよ。運転するだけなら何日だって稼働していられます。それに、途中で皆さんと休憩も取りますから
ということで……ファウンスには警備をお願いしてもいいですか?
助手席に乗り込み、最後に街を見渡してシートベルトを締めた
ボンへ向かうルートの主要区間は高原地帯だ。草木が生い茂っており、雨季に入っていたため、シトシトと小雨が降り続いていた
道中、反対方向へ向かう旅人と遭遇した。車のタイヤが故障したらしい
車を降りて手助けしたところ、相手はお礼にこの先のルートついての情報と詳細な注意事項を教えてくれたほか、眠気覚ましのキャンディまでくれた
再び車に戻り、後部座席でぐっすり眠るふたりを一瞥してから、アイリスに向かって声をひそめて話しかけた
わかりました
助かりますね
ええ……
でも、手が離せません
……
アイリスは何事もないような顔で前方を見つめたまま、微動だにしない
この話をさらっと受け流そうとした時、アイリスが再び口を開いた
キャンディを食べたいのですが、運転中なので手が離せなくて
キャンディの包みを剥がし、アイリスの口元へ差し出した
ありがとうございます
低く抑えた声に、キャンディを口に含んだ不明瞭な音が混ざる。その声は窓の外の雨のように気怠げだった
何か聞こえたのか、後部座席のダンデラが小さく唸り、もぞもぞと態勢を変えた。それを見た自分とアイリスは、同時にカーオーディオに手を伸ばした
ふたりの指先が触れ合い、思わず目を見合わせてくすりと笑った。眠気覚ましの音楽が止まり、車内にはただシトシトと雨の降る音だけが聞こえている
……ええ、さっきまでは
真剣そのものという声の中に、隠しきれない微かな笑いが混じっている
休まなくて大丈夫ですか?
じゃあ、適当におしゃべりでもしましょう
あなたの趣味や、好きな音楽、楽しいと思うことを教えてください
私の質問には答えてくれないんですか?ファウンスも自分のことがよくわからないとか?
いいですよ、何でもお話します
<size=30>何度でも……</size>
いえ、キャンディが歯に当たっただけです
何気ない会話は雨の帳に染み入り、車が進むにつれて、高原の木々の間に溶けていった
夜が更ける頃、4人は無事に04号高原長距離道路の廃棄されたサービスエリアに到着した
ここはもともと単なる補給地点にすぎなかったが、後に高原長距離道路が建設されたことで、サービスエリアとして拡張された場所だ
このサービスエリアを拠点に小さな町へ発展する可能性もあったが、連合政府の平和行動があまりにも多くのものを変えてしまった
高原長距離道路は荒れ果て、それとともに沿道の多くの拠点も次第に衰退していった
見通しがよく、何が起きてもすぐに対応できる場所に車を停め、3人がテントを設営するのを手伝った
テントの設営って、結構いろいろなコツがいるものなんですね
適当に場所を決めて、ペグを打ち込めば終わりだと思っていました
お疲れさまです。夕食は私とジョナサンで準備しますね。さすがに全部おふたりに任せるわけにはいきません
あら?アイリスさんは?
なんだか、変な言い方ですね……
ジョナサン!食事の支度をしますよ!
……インスタント食品を2箱ほど買っておくべきでしたね
そこまで差し迫った状況じゃありませんし、美味しい料理で自分を労ってもいいんじゃないですか?
…………
ほらほら、旅行だと思って
ジョナサンはため息をつくと、署名意向の細則を作成していた手を止め、肩をすくめながらしぶしぶ焚火の方へ向かった
本当の旅行なら、少なくともガイド兼通訳と、ドライバー兼シェフを連れてきてますよ
その分、いろいろ勉強になるでしょう?
……私がそんなセリフを吐きたがると思いますか?
キャンプの外れへと向かうと、ふたりの雑談は次第に遠のいた。買い集めた金属部品を組み合わせ、簡易警戒装置を設置する
作業を全て終えると、地図を取り出し、先ほど車を停めた際にアイリスに指示をした地点へ向かった
廃墟となった建物をいくつか迂回し、立ち並ぶ木々の間を何度か抜けると、一気に視界が開けた
そこには錆びついた巨大な舞台が広がっていた。周囲には苔むした道具が無造作に積み上げられ、片隅には老朽化したピアノが静かに佇んでいる
アイリスはピアノの側に立ち、指先で鍵盤をそっとなでながら、舞台奥の傾いた鉄の骨組みをぼんやりと見つめていた。かつては舞台セットを支えるための柱だったのだろう
足を止め、舞台の下から静かに声をかけた
それで、このルートにしたんですね……
アイリスはクルリと振り向き、口を尖らせ、少しムッとした表情でこちらを見た
それ以外に理由はないのですか?
……
ファウンス
アイリスは言葉を遮るように言った
私の観客になってくれますか?
荒れ果てたガラクタの中から見つけた椅子を丁寧に拭き、背筋を正して静かに座った
最初に舞台に現れた役者は、光だ。アイリスの背後から差し込む光が、生い茂る木々の枝葉を浮かび上がらせ、まるでこの瞬間に夜という時間が訪れたかのように思わせた
次に登場したのは、音。古びてはいるが力強さのある鍵盤から生まれ、舞台の片隅から流れるその澄んだ音の響きの中には、優雅さや品格があった
続いて、衣の裾を軽やかにはためかせ、手足が伸びやかに広げられた。夜風にそっと寄り添うアヤメの花のように、しなやかに揺れ動く
衣の裾が揺れる、その遅れてやってきた柔らかさに、突然心が満たされていった。微かにあった隔たりは、いつの間にか消えていた
雑然としていた思いは一瞬で遠ざかり、アイリスの姿はまるでスローモーションのように、ゆっくり、ゆっくりと目に映った
もしかすると、これは使命を負った旅ではなく、ただの心地よい旅だったのかもしれない
全ての美しさは今、花開いたばかりだ。全てのロマンは、これからひとつずつ訪れる