ボン首都
ユーヒンホテル
5:50
スペクトル線幅:2
レトロな装飾と上品な調度品が並ぶ客室で、淡い常夜灯の光が静かに揺らめきながら、ベッドで眠る人を見守っていた
ん……
額を軽く揉みながら、アイリスはベッドから身を起こした。窓の外はまだ夜明け前の深い闇に包まれている
久しぶりに深い休眠状態になった彼女は、布団を抱えたままベッドの上に座り直した。そして窓の外をぼんやり眺めながら、ゆっくりと考えを整理した
昨晩、4人は無事にボンの首都へ到着した。道中、指揮官が巧みに変装を使い分けたお陰で、ルアどころか、連合政府でさえ彼らの行動を掴めなかった
今のところ、連合政府は「ジョナサンはすでに入国したはず」という時間的な推測ができるだけで、彼の正確な居場所は誰も知らない
そう考えたアイリスの口元は思わず緩み、彼女はまたゆっくりと体をベッドに横たえた
すごく嬉しい……
彼女は肩にある模様に手を伸ばし、指でそっとなぞった
あなたが傍にいてくれると……
綿密な作戦計画を考えなくてもいい。いつも一歩先を進んだあらゆる戦術が細部まで用意されている。まるで……
肩を並べて戦ったあの頃のよう
思いに耽っていたアイリスは、ふたりに次に訪れる光景を思い浮かべずにはいられなかった
この後は……
本来なら美しい言葉で約束されるべき未来だが、この後に待っているのは、心を凍えさせるような冷たい現実だ
この後とはつまり「最後」だ。どんなに身を隠そうとも、ジョナサンは最終的には現地政府と接触しなければならない
そして、彼が公の場に姿を現した瞬間、それに呼応するようにイノ·ルアの複製体がやってくる
イノ·ルアの複製体を倒し、彼女本人が到着する前にコンダクターを送り出す。これがふたりの今後の展開の全てだ
自分とコンダクターに、これ以上の「未来」はない……そもそも最初からなかったのだ
アイリスの口元の微笑みは、ゆっくりと消え、ぼんやりとしていた瞳も明晰さを取り戻した
のめり込みすぎては駄目よ、アイリス……運命が哀れんで最後に温情を与えてくれた。そう、これは求めても手に入るはずのなかった幸運
静かに呟き、アイリスは勢いよく起き上がった。疲労や気怠さがすっかり消えた顔つきで、すぐに身支度を整え始めた
窓に背を向け、髪をまとめているアイリスの背後からうっすらと朝の光が差し込み、部屋の調度品を淡く照らしている。アイリスの目はベッドサイドに置かれた便箋に向けられた
無意識に彼女の動きは緩慢になった。ふと脳裏にある考えがよぎった———— 別れの前に、コンダクターに手紙を書くべきか?
指先でそっと便箋に触れた時、理性と感情が対峙した
手紙……<M>彼</M><W>彼女</W>に、自分の正体を明かすべきか、それとも何も言わず、<M>彼</M><W>彼女</W>と別れるべきか……
左側の理性が厳しく警告する。あなたは多くの犠牲を払ってきたのは、全てコンダクターの平穏のためではなかったの?余計なことをして何かあったらその結末にどう責任をとる?
右側の感性は、彼女の髪をそっと引く。予想外のことなど起きない。これほど多くのものを捧げてきたのに……コンダクターの心に痕跡ひとつ残せないなんてそれでいいの?
迷いと葛藤の中、また疑問が浮かぶ
もし書くとしたら……何から書き始めればいいのだろう?「セレーナ」として書くべき?それとも「アイリス」として?
軽いノックの音が、彼女の葛藤を遮った
ごめんなさい、コン……いえ、ファウンス。少し待ってください
そう応えた瞬間、アイリスの全身から力が抜けた。目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。再び目を開けた時、彼女の瞳には何の迷いもなかった
ひと言……ひと言だけを残そう、コンダクターへの言葉を。だけど、<W>彼</W><M>彼女</M>の目には触れないように
これは彼女のささやかなわがままであり、最後の希望だった……
<size=40><i>小夜啼鳥は朝に嘆息し、バラは燃え、月の光は姿を隠す</i></size>
<size=40><i>この旅が終わりを迎えたとしても</i></size>
ロイヤルブルーのインク、いつも通りの繊細な筆跡。最後にもう一度便箋を見つめると、彼女は迷うことなく背を向け、部屋を出た
しばらく話したあと、ようやくアイリスが何の反応も見せないことに気付いた。顔を上げると、彼女は身を固くしてただこちらをじっと見つめていた
<size=40><i>朝焼けの光の中で時間を引き止め</i></size>
<size=40><i>鏡の中で、そっと別れを告げる</i></size>
アイリスはじっと見つめたままだった。彼女は何を説明するでもなく、ただ小さく微笑んだ
……ええ、聞いていますよ。続けてください
その姿を目に焼きつけようとするかのように、アイリスは目の前にいる人を見つめ続けた
<size=40><i>だけど、どうか許して、愛しい人</i></size>
<size=40><i>どうか悲しまないで、愛しい人</i></size>
ボン首都
市政庁
7:30
スペクトル線幅:2
市政庁広場の向かい側に立ち、ジョナサンは徹夜して仕上げた署名意向細則を強く握りしめた
『地球議定書』の署名は一朝一夕で終わるものではない。多くのチームが連日議論を重ね、時には数カ月かけて方向性を定め、更に何年も費やしてようやく実行となる
しかし今日、ジョナサンの手にある意向細則と、彼自身の振る舞いが、ボンがこの計画を推進するのか、あるいはどのような態度でことに臨むのかを決定付けるのだ
ジョナサンはいつもの習慣で、深く息を吸い込んで気持ちを奮い立たせようとした
リラックスしてくださいね
ふいに耳元でダンデラの声が響き、彼女はそっと手を伸ばして、ジョナサンの襟元を整えた
アイリスとファウンスが全て片付けてくれます。安心してご自分の役目を果たしてください
……わかりました
ジョナサンはゆっくりと重々しく頷くと、携帯電話を取り出し、歩き出した
こちらは連合政府法律事務所ボン代表団専用回線です。どのようなご用件でしょうか?
こんにちは、私は……
ジョナサンの後ろ姿を見送りながら、ホルスターに添えていた手で、セーフティを静かに解除した
じきに来ます。そしてこれまでとは違う方法で現れるはずです
準備を整えたイノ·ルアなら、自身のフィールドごと時間を超えられます。ですから……
ジジッ――
話し終わらぬ内に聞き覚えのあるホワイトノイズが耳を突き刺し、その直後、白い霧が立ち込めた
返事をする余裕もなく、ダンデラは外側へ向かってまっしぐらに駆け出した
突如、劇場が降臨した