「情報」の蓄積は、止めようがない
異重合塔はコレドールとフォン·ネガットの支配で、絶え間なく積み上がり、新たな層を無限に生み出していた
そして、カイウスはその混乱しきった異重合塔を整理することに執着していた
意識海は無限ともいえる「情報」の奔流に呑まれ、自分の力を徐々に制御できなくなっていた。翼は脊椎を貫き、無数の瞳は苦痛の中で必死にもがく
暗闇が津波のように押し寄せてくる
時を紡ぐ糸を整えながら、無数の喜怒哀楽を目にした――
虫<//自分>は、泥でぬかるむ大地を這いまわっていた
殻が割れ、翼が生えた。灰色の鴉<//自分>は、空の高みへと舞い上がった
暴風が吹き荒れ、翼は空中で折れた。青い狼<//自分>は、地を這い、四方に流れる赤潮から身を隠した
漁師<//自分>は、侵蝕されたロボットに刺されて命を落とした
侵蝕されたロボット<//自分>は、覚醒したあと、鮮血を目にし、深海へ飛び込んだ
深海の鯨<//自分>は、尾びれを揺らして泳ぐが、巨大な異合生物に丸呑みにされた――
数え切れない「情報」がカイウスの意識海になだれ込み、そのたびに引き裂かれるような苦痛や、誰のものとも知れない人生を経験し続けていた
…………
あなたにはできない
彼女は静かにそう言ったが、カイウスにはもう彼女の「声」は届いていなかった
それぞれの糸は、異重合塔のひとつの層と結びつき、異なる「世界線」の情報が凝結していた
神ですら、これほど多くの「時間」を吸収できないのに……
このまま「情報」を吸収し続ければ、糸に刺し貫かれ、消滅してしまいますよ
ピンク色の髪の女性はため息をつき、静かに背を向けた
もうこれ以上見続ける必要はない
空中に浮かぶ本はゆっくりと閉じられた。彼女はすでにこの文明の黄昏を見届けている
鍵杖を掲げて裂け目を作り、イシュマエルはこの文明の本を手に、観測室へ戻ろうとしたが――ふいに動きを止めた
あら?
彼女が振り返った瞬間、カイウスの体を覆っていた赤い糸の一部がふっと消えた
ほんの数本にすぎなかったが、この文明をずっと観測してきたイシュマエルはそれを見逃さなかった
これは……
少し驚いて振り返ると、本のページが再びめくられた。最後の数ページの金色の文字が薄れ、消え始めている
カイウスはまだ異重合塔の情報を吸収し続けている。イシュマエルの推測では、全てを吸収し終える前に、カイウスは過剰な情報の衝撃により理性を失うはずだった
ひとつの「文明」全ての情報を背負える生物など存在しない。それが、たとえ高次元の生命体であっても
だが、今……
面白い……
しばらく思案して、イシュマエルは再び鍵杖を掲げて別の出口を描き出し、銀白色の金属に覆われた部屋の中へゆっくりと足を踏み入れた
宇宙船内
宇宙船の中では、疲れ切っていながらも、なお元気いっぱいのナナミが部屋の中央に立っていた
んん?怪しい構造体!あなた、誰?
うーん……あれ?どうして突然ディスカバリー号に現れたの?何しに来たの?
ナナミは疑わしげに、どこからともなく現れたイシュマエルを睨んだ
連絡もせず、突然お邪魔してごめんなさい
ある人からの伝言を届けに来ました
地球上のある指揮官から、天航都市の全ての研究資料をあなたに渡すよう頼まれました
イシュマエルは、「情報」を凝縮させて鋭い異重合コアの欠片に変え、ナナミにそっと差し出した
わあっ――これ、指揮官からのメッセージ!?
やった~!
灰色の髪の少女は興奮して飛び跳ね、異重合コアの欠片をサッと受け取った
指揮官、ナナミに何か言ってた!?
全てその「資料」の中に入っているはずですよ
ふふ……
ナナミは異重合コアを宝物のように大切にしまいこんでパンパンと手を叩くと、イシュマエルの方を見た
他に何か用ってある?ないんだったら、ナナミ、自分の用事に戻るね
指揮官の近況を訊かないのですか?
訊かなくてもわかるもん。指揮官も、きっとナナミみたいに頑張ってるに決まってる!ナナミにはわかってるから、訊く必要がないの!どうだ!
ナナミはチッチッというように人差し指を振った
ナナミ、異重合塔の中が変化してるのを感じてるんだよね~。「情報」が減ってってる……
それは指揮官が向こう側で情報を紡いで、全てを正しい道に戻そうとしているからです
でもあなたも知っていますよね?そんなことは不可能だと……
やっぱね~!ナナミと指揮官、考えがおんなじ!えっへん、今回は絶対間違いないってわかってた!
クソッ――負けか!
やったぜ!機械オイル50リットルいただきだ!
ちょっと!ナナミのプランで賭けをしないでって言ったのにぃ!もう、許さないよっ!
ナナミが少し離れたホールに向かって声を上げると、ホールのぼそぼそとした声が逃げるように遠のいていった
もう、あのふたりってば……ナナミのプランが一番正しいんだっての!
プラン……あなたも何かで忙しそうですね?
あなたの意識と機体……とても上手く融合していますね
イシュマエルはナナミの機体を観察した
もっちろん!ナナミは無敵だからね!どんな困難なことだって、やり遂げちゃうんだ!
……因果を収束しているのですか?
ナナミの機体に刻まれた傷を眺めながら、イシュマエルは少し微笑んだ
彼女は見つけた――あの本の、消えかけていた最後のページに関する答えを
うん、そうだよ――
灰色の髪の少女は、当然のように頷いた
指揮官からの物をちゃんと届けてくれたから、あなたを信頼して話すね。他の人には絶対に言っちゃダメだよ
彼女は目で示すように、宇宙船の窓の外に目を向けた
もちろんです
自分の言葉を証明するため、イシュマエルは鍵杖を召喚した。ふたりの周囲にぼんやりとした薄いベールが浮かび上がる
うん、あなたを信じるよ
え~っと、どこから話し始めればいいかな……
ナナミは懸命に正確な因果を思い出そうとしているようだった……それも無理はない。これほど多くの因果を収束させて理性を保ち続けるのは、簡単なことではない
じっくり考えてみたの――たっくさんの演算の世界を経験して、ナナミ、ついに全部を解決する方法を思いついたんだ!
人類文明は、異重合塔が崩壊すると消えちゃうでしょ?だったら異重合塔を出現させなければ、人類文明も消えないってことだよね?
ふふん、ナナミはずーっとその「演算」を最初の状態に戻そうと頑張ってるんだ!
時間の流れが最初の状態に戻って、あなたたちが「情報」って呼ぶものが少なくなれば、世界はナナミが最初に見たあの姿に戻るんじゃないかなって!
ナナミは興奮して手を握りしめ、イシュマエルからの肯定的な答えを期待した
…………
そうともいえますね
よっしゃー!でしょ、でしょ!?
ナナミと指揮官の考えはおんなじなの!今度こそ、絶対間違いないんだ!
傷だらけの少女は嬉しそうな笑顔を見せた
指揮官が頑張ってる!ナナミも頑張ってる!このままいけば――
ナナミがこっちで指揮官を手伝って、情報を束ねて、指揮官は向こうでそれを編み上げる……
そうすれば、指揮官の負担もきっと軽くなるはずだよ
ナナミ、もっともっと頑張らなきゃ!
ナナミと指揮官が一緒に頑張れば、必ず勝利の日は訪れるんだよ!えっへん!
彼女は指揮官と再会したあの日を、再び思い浮かべているようだった
…………
イシュマエルは、無邪気に喜ぶ少女を探るような目で凝視していた
うわ……すごい目でナナミを見てるね?ナナミ、あなたには全然興味ないんですけどぉ
ナナミは警戒して1歩後ずさった
いえ、ただ考えていただけです……あなたが、なぜこんなにも人類文明を助けることに熱心なのかを
理由なんている?
もちろん、ナナミは人類と指揮官のことが好きだからだよ!
満身創痍になりながらも、次の「行動」に楽しそうに取りかかる少女を見て、イシュマエルは珍しく言葉を失った
果てしない無辺の時空で、彼女は暗い星河の空間をあまりにも長い間、漂い続けてきた
無数の文明の誕生と滅亡を目にした彼女にとって、「時間」はとうに意味を成さなくなっていた……
好き、ですか……
舌先に微かな甘さが広がった。彼女はもう「好き」という感情がどんなものだったかをとっくに忘れている
長い命は彼女から多くの興味を奪った。それは、自分が「変化」を期待できる文明の中にたまに姿を現すだけだ
例えば……今のように
ナナミが機体をいじるのに夢中になっている間に、イシュマエルは鍵杖を振って裂け目を作り、星々の隙間へ静かに消えていった
観測室
「観測室」――彼女が自分の部屋に付けた名だ――に戻り、薄暗い時間の中で座ると、他の文明の物語を読みながら退屈を紛らわせていた
彼女は変化を渇望していた。虚無の時間を乗り越えるための面白い何かや、暗黒の森をともに歩む「盟友」を求めていた
デスクの前に戻って腰を下ろし、しばらく考えたあと、イシュマエルは人類文明が記されたあの本をもう1度開いた
金色の糸は枝のように分岐し、無数の分岐点が異なる「結末」へと繋がっている
イシュマエルは目を凝らし、「指揮官が塔を出る」時間点を探していた――
紙の船は灼熱の海を進み続ける……
人類の結末――「明日」。人類の文明は、ここで幕を閉じた
天航都市
天航都市の外は、まだ雪が積もっている
変異赤潮は天航都市の外に身を潜めている。積極的に攻撃してくることはないが、衰えることもない
人類の活動範囲は、井の中の蛙のように、天航都市付近の狭い区域に制限されている
変異赤潮は依然として彼らの脅威であり、人類がいつ完全に呑まれるかは誰にもわからない――
それは今日かもしれないし、明日かもしれない
人類の結末――「高き壁」。人類の文明は、ここで停滞した
「観測者」は、星の海と深宇宙を漂い続ける
未知の「未来」をどこまでも探求し続ける
人類の結末――「文明の墓守」
人類の文明は、ここに結晶化した
グレイレイヴン指揮官は権限を巧妙に利用し、出現する可能性のある結末をひとつひとつ回避していた
小舟を操りながら火の海を進むように、その人間は文明全体を背負い、決して諦めずに、存在するかもわからない「正しい」時間を目指して慎重に進み続けていた
あ……
金色の文字が縮み、古びた紙のページは細かな塵となり、はらはらと消えていく
紙の上に記された「情報」は徐々に消えて赤い糸となり、深宇宙に漂うカイウスへと続いている
ここまで進んだのね……
思っていた以上に早い……
イシュマエルはページが消えつつある本を閉じ、じっと考え込んだ
今回は……違う答えが出るだろうか?
グレイレイヴンは赤潮に入ることなく、「扉」をくぐった
次元上昇の後、グレイレイヴンは自らの意識を海底の指揮官の意識に換え、完全なカイウスを孵化させた
カイウスは塔にいるコレドールを倒し、宇宙意識によって選別された存在となったが、それでも諦めることはなかった
カイウスは異重合塔の中で時間を整理し続け、一方ではナナミという名の機械体もまた、因果の糸を逆方向に収束させようと奮闘していた……
今回こそ、この腐敗し無数の傷を抱えた文明は、違う「答え」を導き出せるのだろうか?
イシュマエルは考え込んだ
彼女は……
この文明を助けるべき?
この物語を読み続けるために、何か「代償」を払うべきだろうか?
必要な「代償」を見積もりながら、イシュマエルは思索していた
うーん……
そうね……やはり解決する方がいいかもしれません
本当にそんなものがあるんですか?
ただ投げて……思い悩むことなく、結果に従って進む……
あなたならどうするかしら……グレイレイヴン
銀白色の瞳が奇妙な笑みで煌めいた
見せてもらいましょう……今回の前途が、まだあなたの「心」にあるかどうかを
奇妙な物質に包まれた木製のサイコロが、金属のように光りながらクルクルと回転する――
サイコロがまだ止まらない内に、人類文明を記した本はすでに新しいページを開いていた