コレドールの動きが止まる時折の僅かな隙を突いて、彼女は再び悪夢に包まれたエレベーターへと足を踏み入れた
隠しフロアに入った途端、赤潮は主人とともに暗闇を越え、トンネル内を猛然と駆け抜けた
異合生物の数は減っているものの、赤潮と異重合塔から生まれたコレドールは依然として倒すのが困難な相手だ
…………
カイウスは暗闇の中からトンネル内で戦うふたりを見つめ、もう一度助けに入りたい衝動を必死に抑え込んでいた
今のあなたは衰弱しています。何があろうと今の状態で0号代行者と戦ってはなりません
彼女は慎重にならなければいけない。攻撃のひとつひとつが命懸けだからだ
おわかりですか?私はこれほど楽しいと感じたのは初めてです
コレドールは微笑みながら、ルシアの電光石火のような斬撃をひらりと躱した
あなたの「鍵」はもう使えなくなったのでは?あなたたち――3人の内、誰かひとりでも殺されれば、フォン·ネガットの計画は破綻します
私が「鍵」を失えば、コアに近付く0号代行者の阻止が難しくなり、以前のような方法で彼女を反転異重合塔から放り出すこともできなくなります
これは彼女ひとりの命の問題ではない。フォン·ネガットの計画が「破綻」するなら、全員が払わなければならない代償だった
僅かに残った異合生物が一斉にルシアに襲いかかる。狭いトンネル内に逃げ場はなく、一瞬の隙にルシアは吹き飛ばされた
スラスターで即座に体勢を立て直していなければ、赤潮の中に突っ込んでいたかもしれない
……これを使えばあなたの機体には大きな負荷がかかります。1度の使用くらいでは致命的とはいえませんが、繰り返せばあなたが耐えられる限界を容易に超えるでしょう
――カイウスはフォン·ネガットが言わなかった言葉を正しく理解していた。彼が与えたものは、使う度に深淵にずぶずぶと足を踏み入れていくことになる
誰からにしましょうか?ルシア……まだあなたを完全に殺したことはありませんね。ここはあなたには不利な地形ですし、せっかくの機会ですからあなたに決めました
深淵から伸びた魔物の手が飛ぶ鳥を掴むように、足下から尖った檻が勢いよく突き出した
パニシングでできた棘状の結晶が交差して急激に膨れ上がり、一瞬でルシアの関節を拘束する
結晶は収縮し、圧迫し、グレイレイヴン隊長の全ての行動も束縛してしまう
……かかってきなさい!
暗がりの奥で、カイウスはギュッと両手を握りしめた
知っていますか、私がなぜ「鍵」を作るのにクローンを選んだのかを
……ふふ……
障害となる者が新たな困難に陥ったのを見て、コレドールは悠然と目標を切り替えた
朽ち木に火を……
唯一の転機、唯一生還の可能性がある賭けは、ユウコが残した汚染に僅かに束縛する効力があることだけだ
騙されましたね。本当は、あの指揮官をもう一度殺したいのです
……もし賭けに勝てば彼女はここで死なず、負ければ、死ぬのは彼女ひとりだ
――冷静になれ。出てはいけない。これはもっと長期的な計画だ
――いや、もうチャンスはない、なくなった!ここで誰かひとりでも死ねば、何もかも取り返しがつかない!
……どうして、誰かを犠牲にして私の意識を補完しなければならないの?
コレドールは裂け目に触れようとする人間に向かって、大鎌を振り上げた
どうして……私ひとりではできないの……!
赤い光が飛び散った
指揮官!
……
おや?
青白い光が弧を描いて凶暴な攻撃を打ち消した――致命的な一撃の力が徐々に消えていく
…………
人形は前方にフィールド障壁を展開した。彼女の手はぶるぶると震え、細い腕には無数の傷が刻まれている
ルシアはようやく囚われていたパニシングの水晶を打ち砕き、矢のように飛び出した
まあ、いいでしょう
少女は大鎌を振り上げ、上方に光の弧を描いてルシアの進路を遮った。その刃が狙うのは、もはや抵抗する力もないカイウスだ
鮮やかな赤い光に切り裂かれた人形の体が、視界を横切り、空中で無数の赤い光の粒となって消え去っていく
断面の血肉は生々しく、結晶の表面には驚愕する自分の目が映っていた。散乱する光の痕は、まるでカイウスの意識がバラバラになったかのようだった
…………
ああ、賭けに負けてしまった。彼女はまたしても、この無情な結末に向き合わなければならない
カイウスは死にゆく視界の中でルシアを見た。彼女はコレドールを飛び越え、指揮官をしっかりと抱きかかえた——裂け目まであと1歩だ
あなただけでも……
処刑人の刃が彼女の胸に振り下ろされ、何のためらいもなくその体を貫いた
カイウスは微笑み、危機を脱したあの人間が無事に塔へ帰還したかを確かめようと、裂け目に視線を向けた
――だが、そこには誰もいなかった。その代わりに背後から久しぶりに感じる温かさが伝わってきた。誰かがすでに壊れ果てた彼女の体を素早く抱きとめたからだ
……!?
ぼんやりとした意識の中で、カイウスのかすむ視界にひと筋の眩い白い光が広がり、コレドールの不満げな声が聞こえた。その直後……
裂け目は、撤退する3人を瞬く間に漆黒の中へと呑み込んだ
足音が空虚に響いていた
コレドールはもう追ってこなかったが、抱きかかえたカイウスの傷はあまりに深刻だった。人間の身である自分が彼女を抱えているのに、侵蝕症状すら起きない
更に、この残骸とともに消えようとしているのはカイウスの命だけでなく、この反転異重合塔もなのだ
激しく揺れて振動し、足下の道は歪んで変形している。周囲は今にも崩れ落ちそうだ
駆け寄ってきたルシアが、突き出した結晶の塊を粉砕した
彼女の様子は?まだ生きていますか?
……それはユウコが……
わかりました、彼を探しましょう。飛行モードを使うのでしっかり掴まってください、指揮官
腕の中のカイウスに視線を落とすと、彼女の体は砕けた陶器の人形のように大きく欠けていた
コレドールを抑え込んでいたリンクが消えつつあるのを感じ取ったのか、彼女と同源である異合生物たちも拘束が解かれたように、赤潮の両側から次々と姿を現した
異重合塔最深層
コアが震え、流れる光が明滅しながら砕け散っていく
フォン·ネガットはきつく眉根を寄せて、カイウスを産着でくるむように結晶の中にそっと置いた
彼は何度もそっとカイウスの名前を呼びかけたが、彼女からの反応はない
フォン·ネガットが答えるより先に、背後からのんびりとした足音が響いた。3人が振り返ると、再び現れた少女が彼らを睨みつけていた
またお会いしましたね、フォン·ネガットさん
笑うように細めた目を見開いたが、その瞳にまったく笑みはない
名前を変えてお呼びすべきかもしれませんね。どの名前がよろしいですか?グルート教授?7番?それとも……ニモでしょうか?
……
過去の記憶を取り戻しましたか、0号代行者
ええ。あなたがカイウスに残した記憶の賜物ですね
ですが、まだ私の質問に答えていません
でもどれももう、重要ではありません。「鍵」を失ったあなたにもうなす術はない。私の<phonetic=異重合塔>子供</phonetic>は、再び私の腕の中に戻ります
あなたのフィールド障壁も解除してみては?今日まで生き延びたあなたという孤独な男性がどんな記憶を持っているのか、味わわせてください
私に名を刻まれて取り込まれる方が、完全に消え去るよりもずっといいでしょう?
……
相変わらずいささか礼儀に欠ける方ですね、それなら――
少女の背後から、無数の異合生物が現れた
こちらも遠慮はいたしません
コレドールが一歩踏み出すと、全ての異合生物たちも一斉に巣から飛び出した
コレドールの足下に無数の亀裂が広がり、細かくひび割れた床から強烈な赤い光が噴き上がった
深紅の衝撃が青白い盾に激しくぶつかり、へばりつく泥のようにひとつひとつの亀裂の中を這い上がっていく
荒れ狂う怪物の波の中心で、コレドールは両手に力を込めた。ぎりぎりと高まる深紅のエネルギーが、代行者が支える盾に崩壊の亀裂を走らせる
了解
揺るぎない白い光が真っ直ぐに敵群に降り注ぎ、突風が巻き起こった。ルシアは一瞬の迷いもなく空中から斬撃を繰り出し、コレドールが手にしたハープを粉々に打ち砕いた
確かに、こんな広い場所ならあなたの方が有利ですね
コレドールは忌々しそうに舌を鳴らし、その視線はルシアを通り越して、分厚い障壁の奥でカイウスを守る人間の指揮官に向けられた
彼女がほんの一瞬視線を動かしただけで、フォン·ネガットがすぐさま自分の前に立ちはだかり、手を上げて彼女の視線を遮った
カイウスを目覚めさせる方法を考えてください。もしくは彼女と融合する準備を……我々には0号代行者を塔から追い出す手段がありません。このままでは消耗戦になる
代行者は瀕死のカイウスを一瞥し、見たことのない金色の光の刃を握りしめ、手を振り上げた
あなたの構造体に、私に協力するよう指示を出してください
まさか、本当に<phonetic=カイウス>「鍵」</phonetic>なしで、私を止められると――
刃の金色の光が空をかすめ、フォン·ネガットの攻撃がコレドールの言葉の語尾を断ち切った
彼と宙に浮かぶルシアは完璧な対角線を成し、白と金の輝きが交差する場所にいるコレドールに狙いを定めていた
浮かび、停止し、息を詰める
赤紫の異合の波は依然として無秩序に荒れ狂っている
次の瞬間、ふた筋の刃の光が宙を駆け抜けた
無数の剣影と刃の閃光が一斉に放たれ、次々とコレドールの退路を切り裂く
その同時攻撃で、少女は最後に軽蔑の冷笑を残し、粉々に砕け散った
フォン·ネガットは一瞬動きを止めたが、すぐさま振り返って光の刃を一閃させ、いつの間にか背後に現れた幽霊を斬り捨てた
消えていく赤い光が空中で渦巻き、やがて高い場所に悠々と浮かび上がったコレドールは、手にしたハープを再び奏で始めた
凶暴な者は更に獰猛さを増し、赤潮の中にいた異合生物たちもその音で完全に暴走を始めていた
荒れ狂う怒涛が全ての命をこの嵐の中で溺れさせようとしている
轟音と空を切る鋭い音が渦巻きながら何度も響き、幾筋もの光が瞬いて眼前の戦場を照らし出す
――フォン·ネガットと協力しても、コレドールを抑えられないのだろうか?
割れた人形はいまだ何の反応も示さない。魂の抜けた空っぽの体だけがかろうじて生きながらえている
……これが最後のチャンスだ。だがフォン·ネガットが言ったように、ここにいては消耗戦になるだけだ
0号代行者の後継者がいないため、誰もコレドールを殺す決断ができない
どうすればいい?この状況でカイウスと融合する以外、他に方法はあるだろうか?
だがカイウスと融合するとして、人間であるこの体もまだ薬剤による準備が整っていない
絶望と悲しみの問いが心の中で膨れ上がり、耳をつんざきそうになって呼吸すらままならない
ハッと顔を上げると、コレドールは妨害を突破し、反転異重合塔のコアまであと一歩というところに迫っていた
彼女が手を上げると、深紅が逆巻いた
——ダメだ!それは<color=#34aff8ff>リー</color>が数々の困難を乗り越えて皆に残した希望なんだ!
ダメ!!
ルシアが飛び出したが、異合生物たちからの激しい妨害を受け、羽を折られた鳥のように墜落していく
フォン·ネガットは身構えて無数の明るい黄色の結晶を作り、コレドールへ一直線に飛ばしたが、その全てが途中で剥がれ落ち、砕けてしまう
彼女にコアを渡し、この時代を汚染させるわけには!
いつも冷静で余裕綽綽といった様子の代行者も、崩壊寸前の怒号を上げた
カイウス!!
――もう退路はない
反転異重合塔全体が激しく揺れ、降り注ぐ光の中、突如現れた赤い光が瞬く間に青の光を侵蝕した
……!
消えゆく青い光の中――障害を全て取り払った少女は、完全に自分の子供を取り戻していた
ついに……
はい!
……なっ……
一瞬の静寂の後、ルシアの姿が皆の視界から消えた。誓焔機体のステルス機能が彼女の行動を隠したのだ
チッ!
コレドールは手に入れたばかりのコアをすぐに手放し、ルシアを引き離すべく矢のように突進したが、その動きはフィールド障壁にがっちりと阻まれた
手を止めてはいけない!
波が押し寄せるような耳鳴りとともに、塔内の壁が再び激しく揺れた
視界が異重合塔のコアから溢れ出す赤い光に覆われ、なぎ倒すような轟音が天地を揺るがす
終局が訪れ、赤い嵐が全てを呑み込んでいった
眩い赤の光を放っていたコアは、今はもう朽ち果てた巨人のように、未知の圧力によって肌も肉も溶け崩れてやがて消失した
お前たち――また我が子を奪ったな!
コレドールは怒鳴り声で叫び、コントロールを失った深紅の乱流を渦巻かせながら融解しつつあるコアへ向かって飛んだ
いいわ……!ならば、ここで死ね!
これまでにないほどの激しい揺れが異重合塔を襲った
ガァン!少女は、隙を突いて斬りかかってきたフォン·ネガットの光の刃を跳ね除けたかと思うと、赤い影はあっという間に姿を消した
下がれっ!
怒声が耳に届いたと同時に、鼓膜を突き破るような風の音が響いた
前に進めと全身に指令を送ろうとした瞬間、体の全ての機能がグラグラと揺らぎ、一瞬で崩れ去った
コレドールの大鎌が人間の腹部を真っ直ぐに切り裂く。やがてコレドールが刃をねじるようにして抜き取ると、血飛沫が宙に舞い上がった
激痛が神経を引き裂き、背後から再び刃がぶつかり合う音が聞こえた
指揮官!
赤い光を突破し、輝く血まみれの鋭い刃を思わせるルシアが、火傷しそうな炎の中で、倒れたこちらの体を受け止めてくれた
ルシアは答えず、切っ先をコレドールに向けた
Ωコアが彼女の機体の中で沸き立ち、宙を漂うパニシングが全て彼女の力となって集まっていく
少し離れた場所でフォン·ネガットも手を高々と上げ、自身を守るフィールド障壁を取り払い、全てコレドールの動きを封じるために集中させていた
よく考えなさい。コアを融解して、ここで私を殺したとして!赤潮に宿る0号代行者をこの世界から根絶することはできません!
ましてや、それを阻止することなど――
亡者に還れッ!
炎が膨れ上がり、めらめらと燃え盛る炎が瞬く間に一切を包み込んだ
抑えきれない怒りや蓄積した苦しみ、傷痕から生まれた憎しみ。ルシアはその全てをこの一撃に込めた
駄目だ!
制止の声と同時に、果てしなく広がる眩い白の光が全員の視界を今にも覆わんとしている
辺りが静まり返った瞬間、漆黒の代行者は手を振り上げ、コレドールの体の残骸を裂け目の奥へと叩き込んだ
すぐさま彼が操るフィールド障壁が、コアが消えたあとの裂け目を一瞬で覆い隠した
白い光はそれに伴いゆっくりと収束した。視界がはっきりすると、裂け目の前に全力でフィールド障壁を維持しているフォン·ネガットがいた