あるふたつのものが存在する
意識して思考を続ければ続けるほど、新たな驚きと畏敬の念に満ちた心を持つようになる
それは、私の上なる星空と私の内なる道徳心だ
――イマヌエル·カント
イゴール·ネヴィリエヴィチ·ランダウは、実験室の気密扉のドアノブを握った時ふと、20年前にツィオルコフスキー教授とワシリー島の環道を歩いた午後を思い出した
古風にいうなら、その日は「雲ひとつない快晴」だった
その日、制御室の小型実験炉の熱が精製された冷却水によってネヴァ川へ運ばれ、湾の奥深くへ少しずつ消えていったことも思い出していた
更にその日の制御室の椅子の肘掛けが茶色の合成皮革だったこと、キセノンランプの光、学生や作業員のひそひそ声、拘束具の警報音、モニターに映る人影まで覚えていた
あの午後から夜までの彼の時間は、その全てがタイムラプス映像のようだった
今彼がいるこの街は、彼が所属したあの街と同じく川がくねくねと流れ、上流から運ばれて堆積した泥砂によって豊かな平野が広がっている
しかし、違う点もある。夜になれば、街の中心部で満天の星を見ることができるのだ
ランダウが星空に手を伸ばすと、輝く星の光が彼の指の隙間を滑り落ち、彼の口の端に残る酒の上に落ちて微かな光を放った
あれは宇宙を何百年何千年も旅して……地球にやっとたどり着いた光だ
あの星が見えるか?ほら、あっちの方に……おそらくアークトゥルスだ。我々からだいたい40光年の距離にある
40光年だ……乙女のダイヤモンド……
ランダウは太古の星の光を握った手を引っ込めると、瓶の酒を一気に飲み干した。大きくゲップをすると、隣にいる研究員に向かってにっと唇の端を上げ、朗らかに笑った
大都市の光害がないから、ここは星を見るのに最適な場所ですね
研究専用の衛星都市だから、住人がほとんどいないからな。正直、ここは荒野みたいなもんだ
科学院の建設にあたって、商会は元住民に相当な額の退去補償と転居費用を払ったとか。螭吻衆の友人は計上された準備金で新しいLHCが建てられると言ってましたよ
退去補償金だけでも、家族3人がどの都市でも不自由なく暮らせるほどの金額だと……土地を買って家も建てられるそうです
ハハ、そりゃいい。だがここの土地にそんな値段がつくとは思えないが
そりゃそうでしょう、人も引っ越しビルも取り壊されちゃ、なんの価値もありません
うーん……あの研究所のビル、取り壊されちゃいないだろう?
だって、私たちが残ってますからね
……なあ、数十光年離れた星にも、我々のように、家の値段について語りながら酒を飲み、星空を見上げている人がいるんだろうか
いるんじゃないですか?我々は天文学者じゃないから、その辺はよくわかりませんけど
ゲフ――
研究員は手すりに寄りかかりながら、大きくゲップをした。この人間だけが出せる音は、静かな荒野でやたらと響いた
もう荷物はまとめたんですか?
ああ、数日前に。あとは持っていく書類が少し残っているくらいだな
任期の話はもうしなかったんですか?
知ってるだろ、私にどうこうできるもんじゃない
彼は空っぽの瓶を逆さにして、なんとかもう少し酒が落ちてこないかと粘ったが、一滴も残っていなかったようだ
飲み干してしまったか……
科学理事会は新しいプロジェクトで人手不足だから、研究所との契約更新はないと聞きました。本当ですか?
ランダウは頷いたが、その目はまだ空の瓶を見つめていた
実際に何をするんだか……私にもよくわからん
研究所はあなたを手放したくないでしょうに
仕方ない、どうしようもないさ
ランダウはため息をつき、酒瓶をごみ箱へ投げ入れると、また夜空に向かって手を伸ばした
まるで……脳みそと一緒だな
何がですか?
星空が、だ
……
実をいえば、私はアルゴリズムエンジニアになんてなりたくなかったんだ
今やこの分野のトップクラスのあなたが?
思い出したんだが、大学時代に学院の天文愛好者協会にわざわざ参加して、宇宙ステーション見学の資格を申請したことがある
想像できるか?100年以上前は、空の十数億の恒星を描いて恒星目録を作成するのに、十数年もかかった
だが今じゃ、私たちは銀河系の数千億の恒星の位置を把握しただけでなく、観測可能な宇宙内における肉眼では見えない数兆もの恒星を確認している
いつの日か、私たちも自分の目でそれを見ることができるかもしれませんね
……そうかもな
ランダウは星空に伸ばした手を引っ込めた。もう片方の手は、すでに捨てたはずの酒瓶を探すように動いていた
宇宙に比べると我々は小さくてもろく、取るに足らない存在だ
しかし我々は……ビッグバン以来の140億年で、宇宙唯一の成果を挙げ、科学の松明を手に少しずつ前進している
そう言い終わった時、ふたつのため息が荒野に響いた
ランダウは底なしの洞穴へ押し込まれるような気分で、気密扉のドアノブを握った。教授に別れを告げ、誰かの湿った手が彼の心臓を強く掴んだようなあの午後を思い出していた
銀白色のノブに残る汗とアルコールが、ツィオルコフスキー教授の最期に間に合わなかった2年前の沈黙と混ざり合い、異郷の夜空へ蒸発していくのが見えるようだ
今日限りで……もうここへは戻ってこれない気がする
そんなに悲観的にならなくても。いつかきっとまた戻る機会はありますよ
所長も言ってたじゃありませんか。ここの席はいつでも空けておくと。九龍の大門は、いつだってあなたに向かって開かれていますよ
彼はふっと笑い、酒の勢いを借りて気密扉を開けた。宇宙の松明が彼らを照らし、積み木の城の中にふたりの子供が迷い込むように、夜の中に彼と隣にいた研究員は消えた
しかし彼は知らなかった。九龍に戻るどころか、ワシリー島のあの昼下がりの日差しを再び浴びる機会すらないことを
科学理事会
本部ビル
科学理事会、本部ビル
彼はこの壮大な建築物の下に立つ度に、永遠に燃える蝋燭のような巨大な石の彫刻が轟音とともに倒れ、自分を粉々に圧し潰す様子を幾度となく想像した
そうなれば、頭の中で解決を急かす無数の問題に苦しめられることもなく、悲鳴も上げずにこの世を去れる
彼の思考はそこまでに留まった。なぜなら、松明を掲げる偉人たちの列に、自分が加わるなど思いもしなかったからだ――
科学理事会の壮大な高層ビル、パンテオンのようなファサードには巨大なレリーフの壁があった
乳白色のシンプルなトスカーナ式の7本の石柱が、レリーフの壁がある淡い黄色の三角アーチを支えている。その後方には科学理事会の主要建物を象徴する青灰色のドームがある
レリーフは、まるでいつ頭上に崩れ落ちてくるかわからない危うさだ。さながら、彼らの時代の新たな「アテネの学堂」だった ――
燕尾服を着てその階段に座る、体格のよい男性はバベッジだ。足下には精巧な円柱形の機械がある。内部に嚙み合う歯車やレバーがある機械は階差機関の原型となったものだ
彼は手で糊の効いた襟を掴み、もう片方の手で計算用紙を振り回しながら、小さな帽子を被ったダ·ヴィンチと何やら論争をし、背後を気にしている様子だ
ふたりの側には、ラヴォアジエがぽつんと座っていた。彼のシャツは血に染まり、緊張しきった様子で首をしきりに触り、他の人のことは目に入っていないらしい
彼の後ろにはファインマンやフェルミと議論するジョン·フォン·ノイマンがおり、その左側には空中の光源に向かって穴あきテープを測定しているチューリングがいる
これはまだこの石壁の一角にすぎない。遠くにはオイラーとニュートン、ボーアとディラック、アインシュタインとプランク、ガウスとバイヤー……
偉大な学者たちの中心には巨大なステンドグラスの窓があり、そこにこれまでの数多くの人類文明の科学成果が刻まれているといわれていた
ランダウは今、この危なっかしいレリーフの下で、ブリーフケースを下げたままその五色に輝く窓を静かに見つめていた
なぜ科学理事会の人間を刻まなかったんだろうな?
年若く、やや中性的で僅かに軽蔑を含むような声がランダウのすぐ側で聞こえた
九龍式の長袍を身に纏い、東洋風の顔立ちをしたその人物は、ランダウと同じように鞄を手に提げていた
私たちは黄金時代や科学の建物に、ただせっせとレンガを積むだけにすぎない。レンガを積むだけの者に、自分の名を刻む資格はないからだ
ハッ、なるほど……
本当の理由はこうだ。自分の成果が、彼らが成しえたことに匹敵すると誇れる者が誰もいないのさ
ランダウは穏やかに笑い、隣にいる九龍の人間に手を差し出した
ランダウだ
……ヴィリアーだ
ヴィリアーと名乗った若者は一瞬ためらったが、形式的にしぶしぶランダウと握手を交わすと、すぐに手を引っ込めた
君は……九龍の人か?流暢に九龍語を話せるようだが
いやあ、そうでもない
ということは、ここが科学理事会なんだな?てっきり博物館かと思った
ここは科学理事会の本館だよ。後ろの区域も全て、科学理事会のものだ
ひとつの街ほどの大きさはあるだろう
こんな場所だとは……
ん?というと、見学に来たのか?
いや、働きに来た
ヴィリアーは首を振り、ランダウへの敬意など微塵も見せずに、さっさとひとりで科学理事会の長い階段を上がっていった
まったく、近頃の若者ときたら……
ランダウは最後にもう一度朝日に輝くステンドグラスを眺め、階段を上がり始めた
そうしてふたりは、相次いでその広大で静かな大理石の中へと身を委ねた――
この広大なホールの50mの高さにドームがあり、目に見える光源がひとつもないにもかかわらず、常にホール全体を青く冷たい光で満たしていた
この小さな領空を小型の輸送機と軌道車が行き交い、空中で整然と交差しながら定められたルートに沿って、壁に設けられた穴へと消えていく
その下では異なる肌の色、異なる顔立ちで同じ制服を着た人々が行き来し、数人で小声で議論したり、思索に耽っている
彼らの思考が渦巻くこの場所の中心に、青い星の彫刻がある。透明なガラスで囲まれた円形のインフォメーションカウンターが、この彫刻の下にあった
こんにちは
ランダウはカウンターに歩み寄り、ガラスの向こう側の小綺麗な身なりの白い服の女性に挨拶をした。その女性も温かな笑顔を返してくる
こんにちは、何かお手伝いを?
イゴール·ランダウだ。出勤手続きをお願いしたい
ランダウ博士ですね、少々お待ち下さい
ガラスの向こうの女性の姿がゆらめいて消えたかと思うと、すぐまた淡い閃光とともにガラスの向こう側に現れた
ようこそ、ランダウ博士
博士の着任手続きと理事会本部の関連書類はすでに手続き済みです。必要な書類と唯一の身分証明書はアシスタントがお届けします。埋め込み型の身分証明は必要ありませんね?
ああ
承知いたしました。博士が不在の間、理事会では博士のオフィスをそのままにしております。第三開発部へ移動させましょうか?
ああ、頼めるかな
承知しました。手続きは以上で完了です。3分ほどで博士のオフィスモジュールを第三開発部にお届けします
ありがとう
ランダウがそう言うと、彼の側にふわふわ浮かぶ菱形十二面体が漂ってきた
この浮かぶ小型機械には、瞬時に表情を表示する画面が正面に取りつけられていた。黄色い塗装は、科学理事会の淡く青い天幕の下では場違いに見える
^_^
ああ……42ね……うむ……
わかったよ……
彼は機械体の画面をスワイプし、それがぶら下げて運んできた端末や紙の書類、そして小さな名札を手に取った
博士が離れていらした間に、理事会の多くの部門構造と地理的位置が調整されています。ご説明いたしましょうか?
いや結構、こいつに案内させてくれ
わかりました。お役に立てて光栄です。ランダウ博士、お仕事がはかどりますようお祈り申し上げます
アーチ状のガラススクリーン上の受付担当者は眩しいほどの笑顔を見せたあと、跡形もなくぱっと消えた
ランダウは近くのカウンターの前にいる九龍の若者をチラリと見た。受付担当者と何か言い争っているようだが、少し離れているためはっきりとは聞き取れない
?_?
行ってみるか
ランダウは空中に浮かぶ小さなロボットに向かって頷き、九龍の若者のもとへと歩いていった
やあ……何かお困りかな?
こちらの方の年齢に少々疑問がありまして、九龍の事務官に連絡し、解決するために相談しています
フン、無礼にもほどがある……
ほぅ?
通常、特別な証明がある場合を除いて、23歳以上でなければ理事会の重要研究開発許可が得られないのですが
君たちのところじゃ、年齢に科学のハードルを設けるのか?
いえ、そういう訳では……
何のプロジェクトに参加しに来たんだ?
ゲシュタルト計画だ
その言葉を聞き、ランダウは一瞬、喜びに目を輝かせた
あの、ランダウ博士……
問題ない。九龍の事務官に協力してもらわずとも、私が特別許可を手配するよ
えっ!?
第三開発部あたりなら、私にもまだ多少の発言権はあるだろう?
それは、もちろん
書類は?私がサインしよう
大理石のカウンターの上のガラススクリーンに書類が表示され、ランダウはサッと目を通しただけで、すぐにサインした
これでいいかな?
手続きは以上です。少々お待ちいただければ、セキュリティ部で身分証明書を受け取れます
42、頼んだよ
!_!
ランダウの側に浮かぶ小型ロボットはくるくる旋回してすぐに上昇し、空中で絶え間なく動き回るロボットたちの流れに混じっていった
……感謝する
少年は口の端からしぶしぶ感謝の言葉を絞り出した。こんな単純な言葉を言うだけなのに彼にとっては不本意で、何百年も埃をかぶっていた難解な本を開くかのようだ
どういたしまして。それで、君は一体いくつなんだい?
17歳だ
そりゃまさに天才少年じゃないか!
知り合って僅か3分ほどにもかかわらず、ランダウは父親が息子に接するように、ヴィリアーの華奢な肩を抱き寄せた
…………
大丈夫、生物学的年齢は思想の障害じゃない、そうだろう?
科学理事会の学者は頭が固いと思っていたが……
そんなことあるもんか!
^_^
42が先ほどと同じように、小さな名札をぶら下げてランダウの側に戻ってきた
ほら、君のだ。この身分証明書には埋め込み式もある。そっちがよければ、いつでもセキュリティ部で皮下埋没タイプに交換してもらえる
物事をいちいち複雑化するのが、あなたたち科学理事会の十八番なのか?
O_o
では……お嬢さん、手続きのことはよろしく頼む
はい、問題ありません
よし、これで大丈夫だ
ヴィリアーか、なかなか興味深い名前だ……ん?君の顔立ち……私はてっきり他の九龍人と同じような――
あなたに関係ない
もちろん、それは個人の話だな
ランダウは頷いて空中に浮かぶ42に手を振ると、ヴィリアーについてこいと合図した
え?
行こう、こいつに案内させる。ここから第三開発部までは、まだ距離があるからな
ちょっと待て、第三開発部って何のことだ……
ゲシュタルト計画に参加しに来たんだろう?
第三開発部こそがその計画の担当部門だ
あなたは一体?なぜ僕に指示を出す?
私か?イゴールかランダウとでも呼べばいい。君の好きな呼び方で構わんよ
だが大抵の場合、第三開発部の者たちからは「部長」と呼ばれているな
ヴィリアーは九龍地下掘削工事の計画に招待され、目の前の文書に大きく描かれたノルマン鉱業グループのロゴを見た時、数年前にこの会社と関わったことがあるのを思い出した
……向こうの、食べかけのドーナツのようなビルが見えるかい?
全て透明なエレベーターの中から、ランダウは10km先に見えるユニークな形のビルを指し示した
あっちは第一開発部先進動力設計局のオフィスビルで、最初は大型ステラレータとして使われていた。だが後に装置を取り外し、第二開発部のためのオフィスビルとして残した
第一開発部は今はもうここにはないけどね
ヴィリアーの目はこの巨大な地下都市を見つめており、ランダウの紹介など一切聞いていなかった
この壮大な地下都市を前にすると、どんな情報も些末なことにすぎなくなる――
交差する枝がこの透明で冷たい鉄のドームから下へ向かって伸び、点滅する巨大な神経節のネットワークとなって、パルス信号を次々と送っている
ドームの下には地上よりも巨大な、真の意味での地下都市が広がっていた。強烈な未来主義と、「古典」であるバウハウスや構成主義が融合し、壮大で合理的な都市を築いている
大停滞以来この都市だけでなく、科学理事会の建築理念が生んだ建築物が世界各地に建っていた。そして今、ふたりはこの都市の中空を横切る軌道エレベーターに乗っている
来客用エレベーターの他、建築資材や実験器具を満載した機械も往来する。この2m四方の一体型輸送機は一般的な輸送と建築プリンターの機能を兼ね、全てに同じロゴがある――
ノルマン鉱業グループ
前世紀から多彩な分野で活躍するこの多国籍大企業は、採掘、鉄鋼、建設、機械等多くの重工業をほぼ独占しており、多数の請負業者や販売業者を抱えていた
地下500mの深さに、完全なドームを含む、容積1300万立方mの科学研究地下都市を建設するには、土木工事や資源の調達の点でも、ノルマン鉱業グループしか不可能だった
途方もない大きさの都市だ……
こんなの、まだ科学理事会の氷山の一角だよ
ランダウは頷きながら慣れた手つきでエレベーターのホログラフィックパネルを操作した
ここは第一部と第三部の研究基地だ。第二部の研究所があるのは南側の山岳地だ。宇宙放射線信号を遮断するため比較的小さいが、更に地下深い場所に建てられた
建設にかけた金額なら第二部が底なしだと思うが、それだけの価値はある施設だ
…………
おっと、君はまだ知らなかったな
科学理事会には常設の第一開発部と第二開発部がある。第一部はほぼ全ての自然科学の研究領域を扱い、世界政府の要求で社会科学の研究領域がたまに追加されたりもする
第二部は主に星間航行、先進的な推進動力、天体物理学等の分野を担っている。工学にも少し偏っているから、彼らが得る予算は更に莫大だ
もちろん……時代を超越するような開発も、第二部の担当だ
もし機会があれば……きっとあるだろうが、理事会の予算会議や決算会議に一度参加してみるといい。金のことで大揉めに揉める第一部と第二部はなかなか見物だぞ
そんなことは知っている。科学理事会のことを初めて聞いた原始人じゃあるまいし
ただ……第三部があるのは初耳だった
言っただろう、科学理事会に常設されているのはふたつだけだって
特別な時期のみ理事会が他の開発部の設立を決議し、任務を完遂する。必要があれば、三部だけじゃなく四、五、六、七、八部を設立することもある
最近だと……ちょっと前に四部ができたな。今でも恐らくビクター教授が率いているはずだ
ランダウはどこか言いたくなさそうにしながらも、話し続けた
君も知っての通り、四部が開発するのは軍事用機械や武器、装備類だ……
第三部設立の目的はただひとつだけ。その目的を達成したあとは、四部と同様に必要に応じて解散させる予定になっている
君がここへ来た目的だよ――ゲシュタルト計画だ
ルヴィ!ハッハッハ――
ランダウは研究室の入口に立っていた、東洋的な顔立ちの痩せた男性を突然抱きしめた。長身のランダウなら簡単に体を折ってしまいそうなほど、その青年は細く見える
長年の睡眠不足だろう、彼の目の下には濃いコーヒー色の深い隈がある。ランダウに比べると、ルヴィの方が人々が抱く典型的な科学者というイメージにふさわしい
ゴホッ……イゴール……肩が……
おや?まだ痛むのか?13号棟に行って診てもらったらどうだ……
あそこは不治の病を治療する場所だ。私のはただの疲れさ……ゲホッ
ランダウはやっと男性から手を離したが、その顔には再会の喜びが溢れている
あっという間に3年か。どうだ?君もこっちに異動になったのか?
ああ、主に神経動力学の分野で、意識の生成や自己進化のロジックツリーの作成が私たちの担当だ……
いかん、また話しすぎたな
ルヴィは神経質にシャツで眼鏡を拭った
そうだな、それこそが我々の仕事だ
全員揃ってるか?
揃っている
いつまでボサッと突っ立ってるんだ、さあさあ行くぞ
人の多い場所は苦手だ……ああもう、知ってるくせに……しょうがない、行こうか
ランダウはヴィリアーに向かって頷いた。高いガラスの扉の前に立つと彼の前で微かに赤い光が点滅し、3人はガラス扉の向こうの世界へと入っていった――
ようこそ、イゴール·ネヴィリエヴィチ·ランダウ博士、ルヴィ院士、ヴィリアーさん
科学理事会内の他の研究部と同様に、第三開発部内部も清潔で、どこか冷え冷えとした印象だった
ここも青空と海の間を思わせる、深い青と白がメインカラーになっており、巨大な演算ユニットが鉄のカーテンのように整然と並んでいる
ランダウとルヴィのふたりが入ってきたのを見て、端末を操作していた研究員たちが次々とやってきて取り囲む。ルヴィはさりげなくその研究員たちの中に紛れ込んだ
ランダウさん!やっと戻られたのですね
そうだ、戻ってきたぞ
出張に出てから戻るのに、5年もかかるとはね
その……我々の部門について、話してくれないか
おっと、そうだったな……
そう言われて、ランダウは自分の胸につけた身分証明タグの意味を思い出した――
科学理事会第三開発部部長
それでは……話すとするか
皆の手元に、第三開発部に関する説明書類があるはずだ
そう言いながら、ランダウは持参したブリーフケースからファイルを取り出し、皆の前でバサバサと振った
我々第三開発部は、「ゲシュタルト計画」の全ての研究任務を担当する。もちろん、これらの研究内容は全て最高機密だ
うむ……理事会がわざわざ説明書類を紙に印刷したのも、それが理由だろう
人々からどっと笑い声が上がり、ランダウも笑いながら手を振って、そのファイルをブリーフケースに戻した
「ゲシュタルト計画」の最終目的は、将来的に全世界の公共事業の統括管理、計画、学習で、未来の基礎科学発展を支援する自己適応、自己反復、自己学習型の汎用AIの完成だ
この仕事の意味、皆ならよくわかっているはずだ
我々は神の創造主となる……
ひとりの研究員が小さく呟いた
その通り
それと同様に、この仕事がどれほど困難なものかもよくわかっていると思う
この「マルチバック」を実際に完成させれば、おそらく後世にさまざまな恩恵をもたらす。この「マルチバック」完成のための重荷を、私は皆とともに背負うつもりだ
さて、与太話はここまでだ。仕事の配分についてだが、皆の職位と仕事内容をまとめたファイルが各自の手元に届いているだろう
彼はまた手に持ったファイルを振ってみせた
質問があればいつでも私のところに来てくれ。人材も揃い、リソースの準備も万全だ。明日からさっそく始めるぞ
ランダウはコクコクと頷いて、目の前の沈黙している数百人に、話はこれで終わりだと示した
ざわざわと議論を交わしながら、集まっていた人々はそれぞれ戻っていく
人込みにまぎれた緑色の髪をした九龍の青年を、ランダウはひと目で見つけた。彼は何か迷っているようで、手にしたファイルを何度も見ている
ランダウは隣にいる小さな機械にブリーフケースを渡した。電子スクリーンのみのその機械はブリーフケースを持ち上げて浮かぶと、ランダウのデスクに向かった
どうした青年、何か問題でも?
いや……別に
ヴィリアーはこのランダウという男性に少しばかり無礼を働いたことになる。なのに彼の下で働く自分の立場に、珍しくバツが悪い気持ちになっていた
君の資料を見た。16歳で九龍中央大学の物理技術学科を卒業して博士号を取得、17歳で科学理事会に加入。君は今、ここで一番若い学者ということになるな
何か問題でも?
まさか。若いからって子供扱いはしないよ。私たちは生物学的年齢で人の本当の「年齢」を判断したりはしない
でもまだ何か疑問がありそうだ、そうだろう?
ヴィリアーは少しためらい、ファイルを開いて言った
「ゲシュタルトマルチコアアーキテクチャ総制御、認知モデルアーキテクチャ総制御」の……
ふむ?
……いや、やっぱりいい
君の履歴書を見るに、君は汎用人工知能、数理論理学推論、機械工学製造についての造詣が深いようだ
この重荷は私が君たちとともに背負うと言った
理論から検証、そして成功に至るまでの間に多くの障害が立ちはだかる。君ならとっくにわかっていると思うが
宇宙と真理はまだまだ遠いが、君は十分に若い
ランダウはヴィリアーの肩をポンと叩いた。ランダウと並ぶとヴィリアーは本当に子供のように見える
我々ふたりとルヴィ博士、リーボヴィッツ博士が、コアアーキテクチャの総制御を担当することになる
リーボヴィッツ……その名は聞いたことがある
そりゃあ当然そうだろうさ。彼は量子コンピューター分野の第一人者だ。君が彼の教科書を読んだことがあっても不思議じゃない
さあ、一緒に行こう
コアアーキテクチャ会議がもうすぐ始まる。初めての会議には首席技術者のドミニクも参加するんだ
ヴィリアーは第三開発部の巨大な鋼鉄のドームを見上げた時、少し寒気を覚えた
天才と称された彼だが、この科学の巨匠たちの前においては天の星々のひとつにすぎない
この鉄のカーテンの上に無限の星の光や無数の人々がひっきりなしに現れ、壮大な交響曲のようにそれぞれ忠実に自分たちのパートを奏でている
この鋼鉄の空の下、人類の知恵はその冷たく静かな宇宙と真理に向かって進んでいた