夜も更けた頃、オーロラ部隊の兵士たちが前方の森へ忍んで行くのを見た。彼らを見張るため、簡易テントを張って監視することにした
ここで足を止めたということは、基地も近くにあるはずです
怖くはありません
ただ……近付けば近付くほど、記憶が鮮明になってきて
あれは、セシリア姉さんが死んですぐ……
お父様、どうしてあんなことを!?
おや?アリサ?急にどうしたんだ?
わかった、10分だけ時間をあげよう……
白衣を着た博士はちらっと時間を確認しながら、優しく微笑んだ
誰かが規範に背いたことを言いつけにきたのかい?それともまた誰かがアリサのルールに逆らったのかい?
……セシリア姉さんのことだってわかってるでしょう!
善と愛にその全てを捧げ、公理を欺くべからず……驕らず弛まず、道理を推しはかるべし……
全部お父様が決めた規範じゃないですか!
なのにセシリア姉さんを実験台にするなんて……それが善と愛だっていうの?公理と正義だっていうの?
もちろんだ、アリサ
ピークマンは鷹揚に笑った
あそこは今のユートピアよりもずっと美しい場所なんだよ
あそこに行けば、皆が幸せに生きられる。皆が無限の力を得られるんだ
それはとても素晴らしいことなんだ。アリサ
でも研究はまだ終わってない。完成すれば、更に全てがよくなるに違いない
さあ、父さんはまだ仕事があるから、遊んでいなさい
彼は笑いながらアリサの肩をポンと叩くと足早に去った。後に残されたアリサはぼんやりと立ち尽くしていた
そんなの……間違ってる……
間違ってる、はず……
アリサはそう繰り返すことしかできなかった。ピークマンの言葉は誤りだ、そう心の天秤は揺れていた。だが今まで受けた教育ではそれらが間違っていると反駁できない
そんなことが本当に正しいのか?そんなことが本当に道理や正義、公平や秩序なのだろうか?
アリサ?ここで何をしている。新しい構造体が来て、人手が必要なんだ。今日は君が当直だろう?
……はい、すぐ行きます
扉の前に来た時、数人の構造体がオーロラ部隊の兵士に護送されるようにして入ってきた
ここはユートピアなんだ。入りたくても入れないやつがどれほどいると思う!ここに来れたお前らはラッキーだ!
ここはこの末世で唯一のユートピアだぞ!
チッ……
そんなに素晴らしい場所なら、どうして空中庭園がここに移入してこないのかしらね?
空中庭園はここよりはるかに劣ってる。ここにある全てをありがたく思うんだな
私にはちっともありがたくない。ここから離れてもいい?
ここを出れば、二度と戻ってこれないんだぞ!
誰がこんな場所に来たがるっていうの?
お前ッ!
兵士は言い返そうとしたが、アリサがこちらにやって来るのに気付いた
フン、アリサ、ここはお前に任せる。俺は他の用事があるんでね
このライナってのに気をつけろ――えらく面倒なやつだ
面倒って……構造体たちは、全員が自ら志願してここに来たのでしょう?
ああ、彼女は重傷を負ってたから俺らが助けて連れてきた。だからせめて修理費分くらいは稼いでもらわないとな
これが公平公正ってもんだ。なんでもタダじゃないんだ
……
わかりました。もう行ってください
兵士は適当な敬礼をして急ぎ足で立ち去ったが、それでもアリサは礼儀正しく返礼した。そして振り返って構造体たちを見た
初めまして、私はアリサ、ユートピアの風紀教育官です。何か質問があればいつでも……
偽善ね
尖った声がアリサの言葉を遮った
黒野の秘密の地下実験場で、風紀教育ですって?
そんな小芝居はもういいわ。捕まったのは私のミス。でも反吐しか出ない洗脳教育なんてウンザリよ
だってあなたは重傷を負ってたから、彼らが助けて連れてきたって……
ライナはフンと鼻で笑った
誰の言葉を信じるかは、どうぞご勝手に
彼女は見下すようにアリサを見ていたが、それ以上何も話さなかった
構造体たちにユートピアを案内し終わった頃には、すでに夜になっていた
公共エリアではメンテナンスされていない換気システムがゴトゴトと音を響かせていた。アリサはかつてセシリアが座っていた場所で、混乱した意識海を整理しようとした
兵士たちは重傷だったライナを助けたと言っていた。だが明らかに彼女は強制連行されたようだ……一体どちらの話が本当なのだろう?
アリサ、これだけは覚えておいて。目で見たものだけが真実なの。他人の言葉が必ずしも正しいとは限らない
だから自分の目で見て、自分の耳で聞くのよ
自分の目で見る、自分の耳で聞く……
アリサは目を閉じ、最近起きた全てを思い返した
セシリア姉さんが「死んだ」あと、ユートピアの雰囲気は日に日に緊張感を増している
ピークマンはパトロールを強化した。そして最近はユートピアに「自ら」入ってくる人がかなり増え、今日でもう4隊目だった……
あのライナという構造体の話を聞いた方がいいかもしれない。彼女は……自分の知らないことを多く知っていそうだ
例えば……「黒野」と「実験基地」のことを
深夜のユートピア内の飛行要塞
ライナは寝たふりをしながら密かにパトロールの兵士の動きを観察し、気付かれないように背後の壁に暗号を残した
まさか黒野の研究基地の追跡で、こんな大きな獲物がかかるとは思ってもみなかった
黒野たちは一体ここで何をしようとしている?これほど大規模な研究基地なのに、空中庭園が何も知らないなんてことがあるだろうか?
1歩、2歩……パトロールの兵士は立ち止まって誰かと話しているようだ……
……こんばんは
?
あなた……「ユートピアの風紀教育官」とかなんとか名乗っていた構造体?
何の用?そちらの部屋はここではないようだけど?
実は……あなたが話していた「黒野」と「実験基地」について訊きたいんです
……ここで生活してて、知らないの?
私から情報を訊きだそうってつもりなら、私は絶対にしゃべらないんだから、訊くだけ時間の無駄よ
別にそんなつもりはありません。私、本当に何も知らないんです……
私たちはここを「ユートピア」と呼んでいるけど、「黒野」と何か関係があるんでしょうか?
ライナは黙って目の前の少女をしげしげと観察した
ムース小隊は主に追跡、囮捜査といった特殊任務を行っている。ムース小隊の隊員であるライナも、もちろんそういったスキルに長けていた
アリサと名乗るこの構造体は、本当に実験基地についてあまり知らないようだ……もちろん、彼女が自分の腹を探ろうと芝居を打っている可能性もある
……ノーコメント
彼女は疑い深そうに目を細めるだけで、アリサの質問に答えなかった
……もう時間がないし、また来ます
少女はとても複雑な敬礼をすると、とぼとぼと立ち去った
……
ライナがユートピアに来てから10日が経った
ライナは今日の深夜の「仕事」で、付近の地形を簡単に書き留めた。この飛行要塞はずっと固定化されているのではなく、いつでも組み直して形を変えられるようだ
厄介ね……
ライナは逃げる方法を考えながら、自分の「部屋」に戻った。その時、窓の外から小声で彼女を呼ぶ声が聞こえた
ライナ?
……またあなた?
この部屋は私が手配したんです。私、夜はこの近くをパトロールをするから……
今日はどうでした?
衣擦れの音がした。アリサの姿は見えないが、ライナには今の彼女の行動が想像できる……
きっとあの複雑な礼をしているはずだ
こんな腐敗した場所で、一体どうやってあんな純粋で一途な子供が育ったのだろう……
……連続で10日もここのパトロールをして疲れないの?
大丈夫、どうせ仕事ですから。最近、誰も夜のパトロールをやりたがらないんです。ユートピアの規範では仲間を助けるべきなので、代わりに私が
……おバカさんなのね
今日は「黒野」について教えてくれませんか?それと……どうしてユートピアを「実験基地」と呼ぶんです?
あなたね、本当にここがどんな場所か知らないの?彼らは構造体で人体実験をしてる。実験基地と呼ばずに何と呼ぶの?慈愛の孤児院とか?
で、でも、皆が皆という訳では……
……どうしてそんな寝とぼけたことを言えるのかしらね?
ここにいる全員よ――当然あなたも――誰もがただの実験材料なの
なぜここから出るのを禁止されてると思う?ここから出たことは?
私……
確かに彼女は一度もユートピアから出たことがなかった
彼女はユートピアが巨大な飛行要塞であり、多くの小型飛行要塞が周りを固めていることしか知らない
彼女はユートピアの住民が規範を守り、秩序を守りさえすれば、皆が楽しく生きられるということしか知らない
外の空は青く、草は緑で、海が広いことだけは知っていた……しかし……
彼女は、一度もユートピアを離れたことがない――
……
ライナは小さくため息をついた
観察する期間は十分あっただろうに、この子は……本当にここの全てを何も知らない
彼らの実験を……見たことがあります
彼ら……ピークマン博士が、セシリア姉さんを連れていきました
私は彼らを阻止します……こんなことはユートピアの規範に則っていません。仲間ならお互いを助けて、善と愛にその全てを捧げ、公理を欺くべからず……
私は……あなたをここから逃がす方法を考えてみます
……ちょっと!早まらないでよ!
彼女の言葉は淀んだ空気を少し揺らしただけで、外に人の姿はなかった。ライナが気難しい顔でアリサをどう止めようかと考えこんだ時、外からまた聞き慣れた足音がした
アリサ……
衣擦れの音がまた聞こえた
お休みなさい、ライナさん。今日の星があなたの夢を照らしてくれることを祈ります
だいぶ時間はかかったけど、ライナ姉さんはやっと私への警戒を解いてくれた
休憩時間にはたまに挨拶を交わしたり、外の出来事を教えてくれたり、弓の使い方も教えてくれました
でも彼女が私を見る時はいつも……私ではなく、他の誰かを見ている気がしていました
彼女に訊いても絶対に教えてくれません。ただ、誰かに会った時は常に自分を自分で守り、その人を完全に信用するなと念を押すばかりで
でも彼女は……私を信じてくれたのに……