夜の帳は再び大地を覆い、リーフはふたりの指揮官がいる部屋から出て、シェルターの外で景色を眺めていた
……どうすれば……指揮官……[player name]が目を覚ますのでしょう……?
薄暗い月の光に照らされて、大地の惨憺たる現状も、薄布に包まれたように和らげられている。外で奔走する人々も、山々を覆う数多の死体を目にしなくて済む
探索に向かった人たちが去った日数を計算する以外、保全エリアのシェルターにいる人々にとって時の流れは大して重要ではない
ここでは、分秒を計算する基準はもう時計ではなく、どこにいても、何をしていても影のようにつきまとってくる空腹感だった
人々は体内時計に従って睡眠をとっていたが、043号都市の保全エリアを守っている構造体はいまだ休みをとれないでいた
彼らは保全エリアの外を警備しているか、各自個別に救援任務を遂行している。当然リーフもその例外ではなかった
今日、新たな救援小隊が数人の負傷者を連れてきた。生還者を発見したことは喜ばしいが、日に日に減りゆく物資を目の当たりにしている難民たちは、素直に喜べないでいる
彼女も何かできることがないかと願ったが、実行する力がなかった。彼女は何かを変えようと訴えたかったが、聞く耳を持つような人は常に何かに追われていた
胸中に積もっていく後悔の念が針のように自らを刺し、その針を通した糸のように自身を貫き、リーフはそれを織り込むようにして日記にその思いを記していった
昼間、連れてこられたリンゼイさんは重傷です
……物資が足りない今、重症患者を助けるのは賢明な行為とはいえないでしょう。それはただ彼女の苦痛をのばすだけで、何も結果は変わりません
でも、私はリンゼイさんの目に、渇望と足掻きを見ました。彼女は目を覚ます度に、もうひとりの誰かの姿を探しています
彼女の姿が目に映ると、リンゼイさんはいつも口を開き、何かを言いたそうにして震えています……
きっと、何か伝えたいことがあって、それに一所懸命なんだと……
なので、できる限りの手当をリンゼイさんに施しました。望みは薄いですけれど、奇跡が起きることを、私も心の奥で期待しています――
リンゼイのカルテを書き終わり、リーフは文字を見つめて長い間黙り込んだ。限りある文字から新たな手がかりを探すかのように、なんとしても命を救いたい、苦痛を減らしたいと
だが、その全ては湖に沈む小石のように、彼女の懸命な努力は水面に波紋を残しはしたものの、現在の窮地を少しも変えられるものではなかった
リーフは諦めず、次へとページをめくっていった。彼女は最近の出来事を思い出しながら、ページ上の文字から自分にできることを探している
リスターさん……
040号浄化塔から撤退した時、まだ助ける時間があって、多くの小隊が私たちとともにいると信じていました
だから、きっと転機も、希望も訪れると
でも、時間がすぎていくにつれて、多くの命が過去に残され、思い出の中の影になっていってしまった
飢餓と病気はまるで蛆虫のように生者の体を蝕み、未来へと繋いでくれるはずの時間からは喜びが消え、ただ悲劇と苦しみを生む温床となり果てた……
もっと何かができていたら……
…………
宇宙兵器が投下された夜、043号保全エリアのスタッフと住民は、南にある044号都市へ移動しようとしていた
しかし撤退の途上、チームが異合生物の襲撃を受け、来た道を戻るしかなくなった。その後、駆けつけたグレイレイヴン小隊と出会ったのだ
043号都市の保全エリアの者は、この地の原住民に感謝すべきだろう。彼らがいなければ、こうも強固なシェルターができなかったし、リーフは指揮官の血腫手術をし得なかった
しかし、彼女はオルフェの命を助けられなかった。大切な生命の水を掌に掬っても入れる容器がなく、それが指の間からさらさらと流れ落ちるのを見ているしかできなかった
「悲しみがあなたたちの心に深く刻まれれば刻まれるほど、あなたが受け入れる喜びの数も増えるでしょう」
「悲しみと喜びは連れ添ってきます。片方があなたとともに食卓を囲んでいる時、片方はあなたのベッドで眠って待っているのです」
「あなたたちは悲しみと喜びを測る天秤の真ん中にいます。心を空にしなければ、天秤は止まらない、平衡は得られない」
彼女は死を冷静に見つめる人を、目の当たりにしたことがあった
しかしリーフにはそれは到底無理な話だった。彼女は彼女らしく、より不器用な道を選んだ
数え切れないほどの無力を痛感した夜を経て、彼女の無言の涙は、自分の傷口と痛む心を更に火傷させていく。それを原動力にして、来る明日を懸命に支え切ろうとする
「悲しみと喜びは連れ添ってくる」なら、その原動力が導く結果は、きっと彼女が得られる喜びなのだ
構造体は人類より戦闘力と生存能力に秀でている。だが、構造体であってもこの世紀末の世界に、たったひとりで生き残ることは不可能だろう
パニシングの侵蝕、戦闘による消耗、メンテナンスカプセルとエネルギーの不足、修復できない機体……
すぐに思いつく問題は別として、構造体の心は機体に影響されて変わったりしない
怪我をしようがしまいが、ルシアは人々の中で刀の柄をぐっと握りしめる
もとから無口なリーさんの口数は更に少なくなっている。救援と任務の連絡以外、おそらく一日中何も発言していないのではないだろうか
………………
人型生物が誕生した時から、グレイレイヴン小隊は異重合母体と人型生物による倍加した影響をモロにくらって、自由な行動を制限された
指揮官がいなかったら、3名はとっくに慰霊碑で人から悼まれる名前になっていたことだろう
だが、バネッサは指揮官の行動を知って、ふんと鼻で笑ったのだった
「生きていた時にどんなに貢献していようが、死んだら全てが無価値だな」
バネッサはそう口にしながら、目には言い表せない霞のようなものがあった。それは怒りだろうか、それとも……悲しみだろうか
…………
重傷者リストの最後の1ページを見ながら、少女はふと考え込んだ
重傷者リストが11名分しかないのは、ほとんどの負傷者は救援が間に合わなかったからだ
目の前のこのプナーナという13歳の子供は、一昨日の夜に人の世を去った。しかしリーフが多忙を極めているため、今あるのは彼がまだ生存している時の記録のみだった
かつて、リーフは難民たちのこんな冗談を聞いたことがあった
「毒キノコを食べれば幻覚が見えるんだぞ!面白いものが見えるらしいから、いつか食べてみないとな!」
リーフは彼らにきつく注意した。「面白い」だけで毒キノコなど食べてはいけない。来るのは幻覚だけでなく、肝不全による症状、痛みかもしれないからだ
「へっ!キノコでもなんでもいいじゃないか、餓死か毒死かくらい、選ばせてくれよ!」
現実はあまりに残酷で、「面白い幻覚」を通して来るものは、肝不全による苦痛とは限らず、その者にとって「安らぎの死」ということもあるのだ
だから食べてしまったの?プナーナ……
亡者に質問をしても意味のないことだ。リーフは首を軽く振って、物資倉庫の記録に注意を戻した
しかし彼女が何度確認しようが探そうが、この記録の数が増えることはない。生きるチャンスは、物資の不足によって減る一方なのだ
今となっては、指揮官の分すら保証できなくなってきた。毎日の電解質注射を最小限にしても、残りは2日も持たないだろう
ちょっと、先生!
シェルターの奥から呼び声が聞こえ、リーフの思考は中断された。彼女は記録をまとめて、声のした方向へと向かった
アカネちゃんが泣いてるみたいだぜ、見に行った方がいいんじゃないか?
ええ、ありがとうございます
彼女は頷くと、早足で隣にあるアカネとサユキの部屋へと向かった
……アカネちゃん……
リーフお姉さん……
リーフに抱きつくと、アカネは抑制のたがが外れたように、やっと慰められ解放されたような泣き声を出した
その泣き声はシェルター中へ流れて、人々の悲しみを煽っている
災難の中で、誰もが激流に弄ばれる小石となり、引き返すこともできず、ただ無力に絶望に押し寄せられていた
空中庭園の次の救援も失敗したら、ここに滞在している人々や指揮官はどんな結末を迎えるのだろう?
リーフは泣きわめくアカネを抱えながら、疼く自分の胸に手を当てた
……私にもっと、力があれば……
彼女は転機を待ち望んで、この苦境を変える力を自らに渇望していた。しかし、何度も何度も変えがたい現実に打ちのめされ続けた
リーフはアカネの背中をトントンと叩きながら、その重苦しい絶望を払うため、かなり古い歌を口ずさんだ
……風の視線となり……
……幾千の夜を越え……あなたの影に……寄り添い……
……リーフお姉さん、それ、何の歌?
えっと……ずっと前に、野戦病院で流行った歌です。皆が歌っていたんですよ
その歌!覚えているぜ!
彼はギターを抱えながら、部屋へいきなり入ってきた。寝ているサユキを見てちょっと震えたが、すぐ冷静さを取り戻してふたりの横に座ってきた
確か、免疫時代にある作曲家が友人を弔うために作った曲だろ。あの時はたくさんの人が自分の家族や友人を失っていたから、こういう歌が流行ったんだよ
……そういうことですね
昔の人間にとっては、心を癒す歌だ
どうだい、アカネちゃん、おじさんが教えて~、ルルル教えてあげようか~
……えっ……えっと、リーフお姉さんに教えてもらいたいかな
なら、俺は先生に教えるとするか
彼はギターの弦を弾き、いくつかの音を奏で、その歌の一節を歌い出した
思い出した……
そうさ
お、こんなとこで弾いてんのか?
よっ
チャックのギターが聞こえたのか、隣にいた奏者たちも続いて部屋に入ってきて、好奇心や恐れを浮かべながら、隔離病室の人々を見やった
先生と昔の歌のことを話してたんだ。どうだい?やるか?
いいよ。お前が歌うのか?
もちろん先生さ
え……私は……
リーフお姉さん、歌って歌って!
気になどするな~ラララ~心を開いて~音楽は奇跡さ~
……わ、わかりました……
何も変わらなくても、心に仕舞い込むよりはいい気分だぜ
俺らの声は~ラララ~泣き声に変わって~
そうですよね……
リーフは深く息を吸い込み、たどたどしいながらも、その懐かしい歌を歌い出した
……果てしない……この湖……
リーフが歌う中、楽器を持たない者たちは自らの手を叩き、リズムを刻む。そこへチャックのギターの音が加わった
歌声が聞こえて、サユキも目を開き、その歌を聴きながら、自分の毛布で傷口がきちんと隠れているかを確認した
風の視線となり、幾千の夜を越え……
この弔いの歌は、全ての者が背負う痛みを歌い上げていた
アカネは歌を聴きながら、自分の涙をそっと拭き、静かにサユキの隣に座っている
部屋中の者が演奏することに専念し、後ろに人だかりがあるのを誰も気づいていなかった
彼らは昔を懐かしみながら、静かにこの音楽を楽しんでいる
――果てしないこの湖、暗闇へ沈みゆく魂
――誰もが見果てぬ闇、最後へと歩み逝く
……それでも守りたい、希望抱いて……
いつか風の視線となり、馳せる刻の道、鮮やかに浮かぶ懐かしき日々、水面映すあなたの姿……
……信じる僕ら、交差する運命……
……きっと……また会える……
歌の最後の響きが消え、周囲から拍手が聞こえた。リーフはやっと自分たちの後ろに多くの難民が立っているのに気づいた
懐かしいなぁ。もう誰も覚えてないかと思ったよ!
せっかくの機会だ。皆にも教えるぜ!
病人を休ませなくていいのかい??
大丈夫。私も皆さんの歌が聴きたいから
私も!
そうさ~俺らの声は~ラララ~泣き声に変わって~
045号と044号都市の巡回が終わりました。大した物資は見つかりませんでしたが、廃墟の中で熟した稲畑を発見しました
翌日の昼ごろ、重そうな袋を持ったルシアが、他の構造体とともに扉から入ってきた
皆さん、ご苦労さまです。カプセルで休んでください
はい、あなたたちも少し休んでください。ルシア
彼らは手を振り、グレイレイヴン小隊の3名を残して、シェルターの左側の部屋へと入った
頼まれた薬について訊いてみたんですが……もう備蓄がないと
他のエリアはどうですか?
全部調べましたが、他の保全エリアの状況はここよりもずっと悪いようです
……今日、深刻な患者が来て……このままでは……
この状況ですから。どこかから物資を持ってきても、そこで同じ状況が起きてしまいます
…………
……すみません
ルシア……
リーフはルシアの手を握り、そっと首を横に振った
こんな状況……確かに、私たちは全員を助けることができません
リーフは苦しそうにそう口にした。まるで棘だらけの海を渡っているかのように
ですから、ここでできる最大限を尽くすしかありません
ええ
ところで、頼まれた布と綿は少し手に入りました。渡しておきましょうか?
……ありがとう
それ以外に、あまりよくないニュースがあります
044号都市の保全エリアが、大量の異合生物に襲撃されました
……ここに来た難民から聞きました。一体何があったんですか?
一部の異合生物が共同で作戦することを覚え、人々が集まっている場所への攻撃を始めました
私たちはそこで一日をかけ、やっと異合生物を駆逐しました
しかし044号都市の保全エリアはかなり破壊されてしまい、浄化塔のメンテナンスにひとりの構造体を残した以外、他の人員は全て避難させました
……皆さんの居場所が、どんどん少なくなりますね
人型生物は今も041号都市にいます。すなわち、我々の状況も危ういということです
もしも、再び空中庭園の救援作戦が失敗したら、早めに撤退を計画する方がいいでしょう
この保全エリアに集まっている人間の数は他の場所よりずっと多いんです。撤退も困難が予想されます
西海岸から北側まで、破壊の目標になるような建物はもうほとんど残っていません
これから、あの2体の人型生物、群れている異合生物、そのどちらが来ても、僕たちでは対応しきれません
……もしも、再び空中庭園の救援作戦が失敗したら……
そのもしもの事態を想像した3名は、じっと沈黙したままだった。それが導く未来について、誰も口に出せそうにない
当初、グレイレイヴン小隊が地上に残ったのは、同じ境遇の者を助け、かつ指揮官の治療のために時間を稼ぐのが目的だった
暗闇の中にいようとも、彼らは希望があると信じていた。敵を倒し、人々は生き残り、指揮官も快復して再び小隊へ戻ってくると
しかしどれだけ期待しても、足掻いても、祈っても、どこまでも降りかかってくる絶望は、びくともしないのだ
……失敗と決めつけるのはやめましょう。空中庭園を信じて……
「信じる」と口にした瞬間、ルシアは急に頭を垂れた。何か嫌なことを思い出したかのように、すっと表情が暗くなり、言葉の後半を続けられなかった
……ルシア?
いいえ、何でもありません。今の戦術で救援作戦を続けても、より多くの犠牲者が生じるだけではないのかと
多分、あちらも戦術を修正する時間が必要でしょう
ルシアは深刻な顔で近くの部屋を見た。そのどこかで、グレイレイヴン指揮官がこんこんと眠り続けている
……でも、私たちにも準備が必要です。万が一救援が……
うわっ、この重い袋は何だ?
目端の利く難民の青年がルシアが持ち帰った稲を発見して、喜びの声を上げた
廃墟から見つけた稲です。今夜はこれでお粥を作りましょう
よっしゃ!クイナ!お前が持ってる鍋を出せよ!この袋全部をお粥にすれば、ここに100人以上はいる皆が、お腹いっぱい食べられるだろ
彼の呼び声に、周囲にいた人たちも惹きつけられた。一同は喜びの表情を浮かべて立ち上がった
よかった……
今日はやっとお粥が食べれるな
まったく、待ち望んだよ!
お粥を炊くのを手伝おうか?上の倉庫に余ったコンロがあるはずだ。ここじゃもうコンロが足りないからな。それを下ろしてくれたら、ここで炊くよ
なら、私が取りに行きましょう
ついでに、浄化された雨水も取ってきます。最近はずっと雨なので、水が貯まっているはずです
じゃ、俺らはここで、手作業で稲穂の殻を取ろう
え?これ米じゃないの
袋を見てわかんないのか。それに構造体たちは戦いで手一杯だ。稲を持ち帰ってくれるだけ有難い。加工なんてしてる暇はないさ
さっすがボスだ。じゃ、やろう
クイナの太鼓持ちめ、ボスの話だけは素直に聞くんだな
どっか行けよ!コソコソ人の陰口なんか叩きやがって、うるさいぞ!
人々は笑いながら会話している。皆がそれぞれ稲穂を2、3束取って、ベッドの間に座りながら、背中合わせになって稲穂の殻を取り始めた
しばらくして、水、濾過器、調理器具が全部揃った。皆が脱穀した米を水に入れ、濾過されるのを待ってから、火にくべる
ただ、ひとりの老人が稲穂を持ったまま、杖を支えにヨロヨロと弱った体を起こした。彼は隣の者に何かを話そうとしたが、あまりの弱々しさに誰も気づかない
カーリーさん……どうしました?
それは、癌を患い食事を拒否している老人だった
……これ、もらってもいいじゃろうか?
もちろんです。皆さんの晩ご飯ですから
……食べやせん、ただ……残したいんじゃよ
彼は全身の力を使って話そうとしていたが、口から出たのは途切れ途切れの言葉だった。食事を拒む前から栄養不良で、今やその命は風前の灯火であり、いつ倒れてもおかしくない
……そうしてくださって結構ですよ
ここ数日、この老人は自分の、あるいは善意で手渡された食糧の全てを他人に譲っていた。これは死に向かう彼の唯一の願いであり、リーフに断る理由などあろうはずもない
どうしてそう望むのかはわからないが、老人の弱り切った様子に、リーフも詳しくは聞かないようにした。ただ老人を支えながら、彼を彼の妻の横へと座らせた
ありがとう。お嬢さん。ワシは足が悪いんだから、立つなって言ったのに、この人は聞かんでな
ふたりの老人は肩を並べて座り、稲穂を手に談笑しながら鍋を囲む人々を見ていた
絶望の雨に打たれていた希望の炎が再び燃え上がり、立ち昇る水蒸気とともに、シェルターの中を踊っている。それはここ数日の鬱屈と闇を払ってくれた
部屋中に響いていた泣き声はやんで、寝込んでいた病人たちもその目をあけ、ぼやけた視野から必死に光を探そうとしている
闇夜に覆われたこの世界で、人々は小さなガスコンロと、いい匂いを昇らせている粥の鍋を囲んでいた
もし希望に形があるとしたら、きっと目の前のこの光景、こんな形をしているのだろう
…………
リーフは、ずっと恋人を見守っている女性が、ベッドからそっと人々の輪に入ってきたのに気づいた。彼女は悲しそうな目で、ガスコンロの炎を見つめている
コトさん
ええ
彼女はなんとか愛想笑いをしようとして、その試みに失敗したようだ
今、リンゼイが起きたの
お粥を食べたいから、ここに行ってって私に言って、それから……彼女……
コトは下唇を強く噛み、その目から涙が地面にこぼれ落ちた
…………あなたの言った通り、今夜は越せそうにないわね
彼女は次第に大きな声で泣き出し、それとは逆に周りは段々と静まりかえった。その泣き声は、人々を一瞬の団らんから冷たい現実に引き戻していく
ああ……今を乗り切れないモンもいる、明日を乗り切れないモンもいる
誰かがこんな言葉を残した。教会より、病院の壁の方が、より多くの懺悔と祈りを受けていると
どちらであれ、助けられない命を前に、どれほど長く多く祈りを捧げても、結果は変わらないのだ
……どうして私を守って、あんな……こんなことになるなら……私も彼女と一緒に……
リーフは彼女に近づき、その震えている両手をそっと手に取った
手を握れば多少、彼女を慰められたとしても、人々の現状は何も変わらないことくらい、リーフにも嫌というほどわかっている
だが、あえてそうするのは、生と死による耐えがたい離別を目の前にして、言葉の慰めなどあまりに無力だからだ
難民たちが火を囲んで笑い合っているこの後ろ姿を、決して忘れてはならない
光と影は常に寄り添っている。死にゆく者のすぐ近くに、命を繋ぐ者がいる
もし人が、特に医者が――冷静に死と向き合えなくなったら、いずれ自分自身も後悔の海で溺れてしまうだろう
しかしリーフは、感情を律して理性だけでこの状況に立ち向かうような術を、どうしても身につけられないのだった
ある陽気な教授が、この話題を口にした時も、珍しくため息をついてしまった
楽観、冷静、生命を度外視……いい考えね。我々は自分をそう説得できたとしても、他人にポジティブになるよう強要することはできないわ
他人の悲しむ権利はその人のものだし、他人の涙を止める権利もない。せき止めないようにする方が、せき止めるよりも労力が少ないのはどのことについても同じ
特にリーフ、あなたは失われゆく命と向き合う術がわからないようだから、これはあなたに言っている言葉だと思って
自分に悲しむ権利をあげなさい。胸に詰まった後悔は、これから助けられる命のためにお使いなさい
「慰めようのない者に対しての、唯一の慰め」だった
「せき止めないようにする方が、せき止めるよりも労力が少ない」
でも……一体どうすれば……
再び頭を上げた時、そこにはチャックと彼のギターがあった。彼はリーフに何かを目で合図してきた
……「泣き声を歌声に変える」?
彼は頷き、目を閉じたまま弦を鳴らした
ほかの奏者たちもチャックに合わせて、演奏を始める
この歌を先ほど習ったばかりの人々も、音楽に合わせて歌い始めた
「生命のような円描き~僕たちは渡りすぎる~」
「鳥を追って彷徨う~泥を踏み立ち止まる~」
「いつから~ひとりぼっちになったんだろう~」
皆の合唱を聞いて、リーフも微笑みながら、それに倣った
「風の視線となり~幾千の夜を越え~」
「あなたの影に~寄り添い~」
「静かに消え去る~」
……この歌……
すごく、いい歌ですね。指揮官もいてくだされば、もっと……
では起きてから、リーフにもう一度歌ってもらいましょう
ええ、そうですね……その時は……4人で一緒に歌いましょう
……いや、僕は遠慮します
えっ……リーの歌声を、指揮官も聞いてみたいと思いますが
………………
苦しみの最中にいる人々は音楽と粥に温められて、合唱しながら手を叩いていた
この歌の歌詞はそうポジティブなものではないが、この場合、人々が求めているのは作り物めいた楽しさなどではなかった
感情を昇華させ、彼らの涙もこの歌とともに空に昇っていき、そこにはただ余韻が漂っていた
な、言っただろ?
何も変わらなくても、心に仕舞い込むよりはいいって
この歌……
老人は唇を震わせている。声が言葉になる前に、彼の目から涙がこぼれ落ちた
どうしました?
いやいや、何も、この人は……昔を思い出しておるんだよ
もうこんな歳なのに、執念は年々深くなるもんでな。この歌も、稲穂も、同じよの……
老婆は震える手で、貴重な自家製の巻き煙草に火をつけると、思い出に耽った
黄金時代、零点リアクターの事故があった時にな、牧畜も畑も機械で世話しておったもんだから、機械がなくなりゃ食べるもんもなくなった
えらく時間が経ってしもうたからの。人類がまた、農業や牧畜を始めるのは至難の技じゃった。でも、やり遂げた誰かがおる
農業や牧畜を知る者は僅かじゃ。繁殖基地を襲う侵蝕体の対策もいる。だから人々は種もみを分け、安全な場所に植えようとした
じゃが、いざ侵蝕体がいなくなると、飢えた者どもがワシらの成果を奪おうとしおった
彼女はまぶたを上げると、周りに座っている人々を見渡した
歴史上にもあるじゃろうが。あの冬の大飢饉のように、ずいぶんと長い間何も作れなかったからの。何にでもすがろうとしたんじゃ
牛や羊、豚や犬、田んぼの稲穂や野菜はもちろん、飛ぶ鳥に走るネズミ……掴めるものは何でも口に入れようとした
たとえ侵蝕体がうろついていても、な……まあ、ほとんどは生きて帰ってこんかったが
だから人々は手っ取り早く繁殖でき、皆が嫌うようなものを飼育し始めた
彼女は煙草を咥え、両手で4cmほどの長さを示す。言葉にはしていないものの、彼女の言わんとする生物が何かを誰もが理解していた
じゃが餌がなくての。その虫でさえも、黄金時代の映画のような、十分なたんぱく質を摂取できるほどの数にはならんかった
虫は皆が嫌がるもんだからの、盗まれはしなかったが、ことが大きくなると全て奪われちまった
このままだと人類は全ての物を食べ尽くし、何も生まれなくなる。そこで誰かがルールを作った。それはその時代に生きていた人々の間に、口伝えで広まっていった
——種は必ず残す。稚魚や動物の子どもは食べない。植物の根は抜かない。腹に子がいる動物には優しく。緊急時以外は見守り、彼らの食料も奪わないこと
これが広まってから見違えるように変化があっての。山から生きた動物が現れ、収穫した場所からは新たな芽が出てきた
この決まりがあったから、ワシらはあの劣悪な時代を生き抜いたんじゃ。ワシらだけじゃない、あの時から生きておるジジイやババアなら、誰もが今も心に刻んでおる
じゃが、災いだけはワシらを見逃してはくれんかった。状況は日に日にひどくなっての……飢えに耐え切れんと、生き残るためにその決まりを破る者もおった
一度破られてしまえば、被害を受けた側もその決まりを破らなければ、生き延びることはできんでの
そんな時に出会ったのが「チーズ」じゃ。今でも本当の名は知らん。出会った時にチーズを食っていての。あまりに珍しい物を食べていたからそう呼んでおった
彼女は煙草を深く吸い込んだ。指の間から灰が落ちたが、それには目もくれず、煙とともにため息をついた
……人さまに言えるようなことではないが
彼はチーズを食い、住んでいる場所は田んぼの隣じゃった。じゃから余裕のある生活をしていると思っての
生き延びるため、ジイさんが彼の田んぼから種のひと粒すら残さず盗んでしもうた。チーズ一家は冬を越せず、危うく嫁ごも死にかけて……腹の子は死んでしもうた
何もない田んぼで……泣いて倒れた嫁ごを抱えてチーズが歌っておったのが、この歌じゃった
ワシらには謝る勇気がなかった。せめてもの償いに物資を渡したが、彼はやがて引っ越してしまっての
あれからずっと、ワシらは何を食べても必ず種を残す。もう誰もそんな決まりを覚えちゃおらんが、ワシらは必ず守っておる
今は保全エリアができ、農作物や動物を飼育できるようになったが
わかっておるだろうが、何かあれば、これっぽちじゃ数日ももたん
彼女は横に首を振りながら、すでに燃え尽きた煙草を置いた
つまらん老人の昔話はここまでじゃ。さぁ粥ができた、皆で食べよう
やったぁ!
老婆の話など気にもせず、待ちくたびれていた人々は一瞬にして鍋の粥よりも熱く沸き上がった
それはカプセルで休んでいた構造体たちが起きるほどの歓声だった
我々も手伝おう
ええ
ハイ順番に並んで。押さないで
はぁーい
少しでも多く米粒が盛られやしないかとソワソワしながら、自分の食器を持って並ぶ人々は、まるで鍋の粥が尽きないとでも思っているかのようだ
コトは構造体やリーフに頭を下げると、慎重に粥を持ってリンゼイのベッドへ戻った
3日間何も口にしていなかったカーリーも、老婆に説得されて粥をひと口だけ口へと運んだ
サンディ、シュレック、ファンティーヌ……意識が戻らない負傷者以外に温かい粥が配られた
手に持ったところから温かさが伝わってくる。皆はそれぞれ、この粥を大切に味わっていた
リーフ……
人々が食事に夢中になっている中、ルシアは小声でリーフを呼ぶと、少し離れた場所へ連れていった
どうしたんですか?
こちらへ
…………