見知らぬスカベンジャーたちに昨晩老女が見たことを話した。当然誰も彼もが話を信じたわけではなかったが、それでも数人が波の音の場所を見にいってみると答えた
やがて、実際に赤潮を見たその数人は赤潮の中に現れる影について他人に伝え話した
噂は瞬く間に広がり、件の廃ホテルに限らず、あちこちで物を拾い集めて生きているスカベンジャーたちの話題の中心となった
そして、噂と一緒にパニシングもまた広まった
最初にパニシングを持ち帰った者が誰だったのか、もはや誰にもわからない。スカベンジャーたちには、血清を持たぬ者が倒れていくのを見ていることしかできない
パニシングに侵蝕された者たちは絶望の淵に立たされ、ただ赤潮の噂が真実であることを、赤潮で生きる影が存在することを信じるしかなかった
赤い波が行く当てのないスカベンジャーを廃墟ごと飲み込むと、必ず新たな影が現れる
赤潮が現れる度に新たな噂とパニシングが広まり、スカベンジャーたちに絶望と希望がもたらされた
それは見えない鎖のように、いつの間にか人々を縛りつけた。赤潮は一種の信仰となったのだ
スカベンジャーたちは信じた。それこそが人類の最後の救いの場所だと
だが、少女は自分が信じる神に祈り続けていた
あんたの言う通りだ。赤潮こそ地上の楽園だ!
そうだ、赤潮に飛び込めば、永遠の命が手に入るに違いない
違うわ……本当の「楽園」はそんなものじゃないの!
小娘、若いのに宗教なんてずいぶん古臭いもの信じてるんだな……
じゃあ教えてくれよ。本当の楽園ってのは何なんだい?
あの日天使様が教えてくれたの。祈り続ければ、きっとみんなに幸せが訪れるって。だから諦めないで!
俺は今十分に幸せだ。幸せならすぐ近くにあるじゃないか。真っ赤で、でっかい幸せが――
楽園だって時代に合わせて変わってかなきゃ。赤潮は現代の楽園だ。それがわからないってなら、あんたの信仰心が足りないってこった
おい、行こうぜ。探しに行こう
もちろんだ、誘ってくれて感謝するよ
ふたりの衰弱しきった顔が、幸せそうに歪んだ。男たちは互いに支え合いながら去っていった
…………そうなの?
父さん、母さん……父さんと母さんが信じていたものは、もうどこにもないの……?
少女の独り言は、あざけり笑う声にかき消された
おいおい、生きる化石じゃないか。このご時世、お嬢ちゃんみたいな子がまだそんなものを信じてるとはね
天国だの地獄だの神だの誰も見たことがないものよりも、目の前にあるものの方が信じられるに決まってるだろ?
でも……やっぱり間違ってるよ……
どこが?俺だってお嬢ちゃんだって、このまま何もしなきゃ、どのみち死ぬだけだぜ?
白い楽園だろうが赤い楽園だろうが、フライパンだろうが神像だろうが、救ってくれるってんなら俺は何でも信じる
男は手を振ると、赤潮を探す一団へと加わっていった
それから時が経ち、一体どれほどのスカベンジャーが赤潮の探求者になったかわからない
赤潮から距離を置き、廃墟から離れた者もいた。だが、飢えた少女にはもう他者のことを気にかける余裕すらない
ある夜、とうとう死を意識したユウリは木の棒で身を支えながら廃ホテルをあとにした
神様……お救けください
空には黒い雲が垂れ込め、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。路上にはひとりのスカベンジャーもおらず、ただ赤潮の波の音だけが絶えず聞こえている
神の御を……讃え……願わ……願わく……ば……
祈りの言葉は支離滅裂になり、やがて慟哭へと変わった
神様!一体どこにいるの!?
最後の力を振りしぼり、少女は暗い空に向かって叫んだ。厚い雲に覆われた空に月は見えない。そして、神様からの返答もない
……でたらめ、だったんだ……
身体を支える力もなくなり、少女は地面に膝をついた
ユウリの声も涙も、もはや枯れはてていた。降り注ぐ雨が、涙の代わりに彼女の顔を濡らしていた
絶望に押しつぶされ、立ち上がることもできなくなった少女の前に、多くのスカベンジャーに「希望」を与えた波の音が近づいてくる
少女は地面にうずくまったまま、近づいてくる赤潮にそっと手を伸ばした
……神よ、私はずっと祈ってたんです……
少女は眼前の大波を仰ぎ見た。大雨を遮るほど高く立ち昇った赤い波が、少女をその最後の言葉ごとひと飲みにした