産声が大きく響いた。まるで芽が土を破るように、扉が押し開かれるように、遠い遠い場所から来た誰かが、ついにゴールにたどり着いたかのようだった
部屋の灯りは暖かみを帯び、看護師が彼女を母親の枕元へ抱いてやってきた時、窓の外ではその夏最初の小雨が降っていた
母親の汗まみれの額には髪が張りつき、息遣いには出産の疲れが残っていた。それでも必死に目の前の小さな命を見つめた――しわくちゃの小さな顔、小さな手、濡れた産毛
彼女は手を伸ばして指先でそっと赤ん坊の頬に触れ、驚かせてしまわないように、微かな声で呼びかけた
ルシア……
彼女はその名前を何かを確かめるように、あるいは願いをかけるように、何度か呟いた
まぶたは重くて持ち上がらず、声も掠れてほとんど出せなかったが、それでも彼女は頭を下げ、小さな額に唇を寄せ、そっと、そっと囁いた――
それは腕の中の大切な子に語りかけるようであり、この世界に向けて語るようでもあった
ルシア……あなたが幸せで楽しい一生を送れますように……
窓の外では雨がしとしとと降り続いている。ルシアは彼女の腕の中で僅かに身じろぎしたが、目を開けることはなかった
ルシアは生まれた
遠く見知らぬ……あるいは、それほど見知らぬこともない世界で――
彼女は再び母の子となった
時間は少しずつ流れていった。母親が1冊目の育児日記を書き終えたその日、ルシアもまた母を呼べるようになった
日記には、その夜、父親は嫉妬のあまり食事も喉を通らなかったと記されている
そのあとルシアは走ることを覚えた。ベッドから玄関へ、玄関から庭へ、庭から父が仕事帰りに通るあの小道へ……彼女は速く走れるようになり、そのまま父の腕の中に飛び込んだ
父親は彼女を抱き止め、笑いながら高く持ち上げた。陽の光が彼の警察章を照らし、キラキラと輝いていた
この頃、ルシアは長い夢を見るようになっていた。目覚めると何も覚えていない。ただ手の平が熱く、長い間握っていた何かを手放したばかりのような感覚だけが残っていた
夢の内容は思い出せない。ひとつだけはっきりしているのは、言葉にできない感覚――まるで何かを、まだやり終えていないかのような感覚だった
3年後のある日、ようやく母親が退院して家に帰ってきた。ルシアは父親に抱きかかえられてベッドの側へ行き、自分よりもずっと幼い、小さな命を目にした
妹だよ
父の声はとても優しく、隠しきれない喜びが滲んでいた
うーん……妹?
この子はルナっていうんだ。今日からルシアはお姉ちゃんになるんだよ
これからはね、ふたりで一緒に遊んで、一緒にご飯を食べて、一緒に眠るんだ。ルシア、この子におしゃべりや歩くことを教えてあげるんだぞ……
何があっても、妹と仲良くするんだぞ
うん!仲良くする!
ルシアは嬉しそうに頷いた。言われたことを全て理解できたわけではなかったが、遊び相手ができたと知って、満面の笑みを浮かべた
2年目の冬、初雪が降った時、ルナはまだ昼寝をしていた
ルシアは窓辺から身を乗り出し、一面の白銀の世界を眺めていた。それはまるで自分と妹の髪の色のようだ。雪はどんどん降り積もり、庭の木々まですっかり覆い隠してしまった
お母さん!雪が降ってる!
台所にいた母親は濡れた手のまま彼女に引っ張られ、小走りに窓辺に来た
本当ね……ルシアは雪が好き?綺麗だと思う?
母親は微笑みながら腰を屈めた。目の奥には娘と同じ驚きと喜びが浮かんでいる
綺麗!大好き!
じゃあ、ルナが起きたら、皆で外で雪だるまを作ろうか?
――うん!
ルシアは母の腕の中にもたれながら、窓の外の雪を眺めていた。部屋は暖かく、台所からは美味しそうな匂いが漂い、ルナはまだすやすやと眠っている
ルシアは体を左右に揺らしていたが、なぜこんなに嬉しいのか、自分でもよくわかっていないようだった
ただ、母の腕の中はとても温かく、妹がいるこの小さな家はとてもいいものだと思っていた
ルシアが5歳のある朝、母親は微かな物音に目を覚ました
ルシアの部屋の前まで行くと、明かりがついていた。ルシアは、クレヨンが散らばった床に寝転がって、一所懸命何かを描いている
ルシア?こんなに朝早くから……何を描いてるの?
母はしゃがみ込んで紙を覗き込んだ。画用紙いっぱいに灰色と白のクレヨンの跡がのたくる、まるで何も見えない霧のような絵だった
灰白色の大きな霧の中には、数人のマッチ棒のような人間が1列に並んでいたが、何人かは描きかけで、体の線は灰色に覆われて、消えかかっているように見えた
真ん中には一番小さな子供がいた。子供は両手を大きく広げていたが、その周りには誰もおらず、何も抱きしめてはいない
ルシア、悪い夢でも見たの?
ルシアのクレヨンの動きがようやく止まり、彼女は俯いて自分の絵を見つめ、戸惑うような表情を見せた
お母さん……すごくすごく大きな霧の夢を見たみたい
たくさんの人が前を歩いていて、でもすごく速いの。後ろから追いかけたけど、どうしても追いつけなかったの
母親はルシアを膝の上に抱き上げ、優しく背中をなでた
その人たちは誰だったの?
わからない……みんな、いなくなっちゃったの。ひとりずつ、消えちゃったの……
ルシアは母に手の平を見せた。小さな手の中には何もなかったが、まるでそこに何かが戻ってくるのを待つかのように、じっと見つめ続けていた
私、すぐ側に立っていたのに、何もできなかった……
母親は彼女を抱き寄せた。ルシアは泣きもせず、ただ母のパジャマに顔を埋めて、くぐもった声で言った
お母さん、もしいつか霧が来たら、私が守ってあげるね。いい?
母は満足したように微笑み、彼女の頭にキスをした
いいわよ。私たちのかわいいルシアがお母さんを守ってくれるのね
それにお父さんも、ルナも……みんな、私の後ろにいて、私がみんなを守るの
うん、ルシアが皆を守るのね
ルシアはニコリともせず、真面目くさった表情で頷くと、その絵を丁寧に折り畳み、枕の下にしまった
翌日、早起きして朝のランニングに出た父親は、ルシアがこっそり後ろをついてきているのに気付いた
5歳の子供は小さな足を懸命に動かして走ったが、数百mほどで息が上がり、最後には転んで膝を擦りむいてしまった。涙が滲んだが、どうにかこぼれ落ちはしなかった
ルシア、どうしたんだい?急にお父さんと一緒に走りたくなったのか?
強くなりたいの。お父さんみたいに強く
ふむ、強くなってどうするんだい?
ルシアは少し考えて、指を折りながら言った
お母さんと、お父さんと、ルナを守る
3本の指を折り曲げ、彼女は残った指を見た
他にも……たくさん!
たくさん?
うん!これから守る人ができるの!私はたっくさんの人を守るんだ!
父親は思わず笑いながら彼女を肩に担ぎ上げた
よし!それならまずは自分を守る方法を教えようか。それから他の人を守るんだ、いいな?
ルシアは父の肩の上に座った。いつもよりずっと高い目線になると、庭の外の小道が、ずっと遠くまで続いているのが見えた
うん!
ルシアはそう答えると、小さな手で父の髪を掴んだ。そして、ふと思った――もっと高いところに立てば、あの霧の向こうにいる人たちも見えるはず、と
その日の朝、彼女が扉を開けると、リビングには風船と16本の蝋燭が立つケーキがあった。写真を撮るルナの側で父が微笑み、母はエプロンに小麦粉をつけたまま顔を覗かせた
お誕生日おめでとう!
3人の声はバラバラだったが、ルナの声が一番大きかった
ルシアは扉口に立ったまま、しばらくポカンとしていた
それから、彼女も笑い出した
皆がルシアの誕生を祝って笑顔になる――それは、16年前、彼女がこの世に生を受けたあの日と同じだった
その頃、世界の反対側では――
白衣を纏った人物が、司令塔の巨大な窓の前に立っていた。人物の背後にはデータ端末の冷たい光、眼前には全世界の輪郭が広がっていた
異なる大陸から来た輸送艦隊が港湾区域へ進入していた。かつての国境の徽章が残る機体もあるが、どの機体も同じ滑走路に降り立ち、同じ方向を向いてエンジンを停めた
数万にも及ぶコンテナが、チェス盤の駒のように、グリッドに沿って配置されていく。超伝導コイル、高密度エネルギー貯蔵モジュール、精密加工の真空チャンバーパーツ……
物資が到着する度に、技師たちはそれぞれの持ち場で顔を上げ、進捗を確かめるかのように、しばし画面の向こうへ視線を送っていた――
港湾区域の最深部では、すでに零点エネルギーエンジンの骨組みが立ち上がっていた
私はドミニク。これは世界連合政府に提出する0170号技術報告である
本報告は対象期間が長いため、議員各位の理解の一助として、私から簡単に背景を整理させていただこう
科学理事会の探査機「ランダウ号」がラグランジュL2点において異常信号を捕捉してから、すでに16年が経過している
16年前の今日、深宇宙探査機「ランダウ号」は通常の重力波観測任務の最中に、メイン受信アレイで持続時間約11.3秒の非自然的な電磁パルスを捉えた
そのパルスは、既知の如何なる天体放射源にも由来せず、スペクトル特性も既知の宇宙背景ノイズモデルに一致しなかった
要するに、それは「情報」だった
16カ月に及ぶ解読作業の末、ニタ博士はこの11.3秒の信号から完全な情報マップを抽出した。その総データ量は、理論上その搬送波が収容可能な限界を遥かに超えていた
つまり、発信者は我々にはまだ完全には理解できない方法で、情報圧縮を実現している。マップの内容については、言語学者たちの協力の下、3つの情報を解読した――
ひとつ目が、11次元多様体トポロジーに基づく数学モデルだ。まったく新しい粒子相互作用機構を記述していた。この機構は標準模型の如何なる既知の拡張にも属さない
検証を繰り返した結果、その整合性は完璧だった。これを基盤として、科学理事会は人工重力場に関する一連の計画を策定した。私はこれを「弦計画」と名付けた
ふたつ目は、材料工学及びエネルギー工学に関する一連のパラメータだ。まるで誰かがすでに理論構築と実験検証を完了させ、その結論と手順を我々に手渡したかのように
興味深いことに、これらのパラメータはヴィリアー博士の研究分野に非常に近しい。これにより我々は量子ゆらぎのモデル構築を完成し、真空零点エネルギーの開発を可能とした
3つ目は私を困惑させた。情報マップの末尾には、分類不能なデータ断片が付随していた。それは数学でも工学パラメータでもなく、どの識別可能なコード体系にも属さない
むしろ、生体神経パルスに似た波形だった……人類のものだ
それが何の情報を担っているのかはわからない――記憶、あるいは感情かもしれないし、単なるノイズかもしれない。現時点では、どんな科学的説明もできない
いずれにせよ、これは人類文明が初めて宇宙から生命の情報を受信した瞬間だ。ボイジャー1号が旅立ってから200年、地球はついに最初の返信を受け取ったのだ
あとの展開はご存知の通りだ。世論の支持と武力衝突の両方に押され、世界の主要国家はついに合意に達した――人類文明は今こそ団結し、地球というゆりかごを出る時が来た
『新地球議定書』の締結後、世界連合政府と人類統一運動が誕生した。宇宙科学事業が支援され、科学理事会の主導の下、惑星改造計画と宇宙植民計画が熱狂的に推進された
……
口頭報告はすでに最終のまとめに入っていたが、ドミニクは微かに眉をひそめた――それは実験が失敗する前によく現れる、ある種の予感だった
首席技術者は、その取るに足らない小さな違和感を無視し、説明を続けた
ゲシュタルト、加速軌道「天国の橋」、月面基地、大西洋の眼、そして6年後に完成予定の零点エネルギーリアクター……この16年間、人類は多くの理想を現実にしてきた……
なぜか、焦燥に駆られるような思いがどうしても頭から離れない。ほぼ同時に、屋外から人の叫び声が何度か聞こえてきた
……?
ドミニクは窓の外に目を向け、目を見開いた。設備が詰め込まれた空港倉庫目がけて、1機の輸送機が猛スピードで真っ直ぐ突っ込んでいく――
ドォォォン――!
轟き渡る爆発音の中、まばゆい火柱が空へと立ち上り、激しい爆発が熱波を伴って港湾区域の大半を吹き飛ばし、呑み込んだ
最高レベルの警報が鳴り響く。数千tもの工業物資が爆竹のように誘爆し、炎の海となって、海岸線一帯を照らし出した。警備隊と消防隊が即座に出動し、封鎖線を築く
……
ほらね、ドミニク
優雅で華やかな女性が、影の中で気だるげに足を組んで腰掛けていた。精巧で美しい機械の指で、本革ソファの肘かけを軽く叩いている
あなたっていつも、人間の理想的な側面に賭けようとするんだから
でも結局、利益を追い求める野蛮さには勝てないのよ
彼女は煙をフーッと吐き出し、今日の天気でも話すかのような気の抜けた口調で言った
煙草は遠慮してほしい、カサンドラ
あら、ケ~チ
女性は肩をすくめると、おとなしく煙草の吸い殻を灰皿に押しつけて消した――ここでは他に喫煙する者はいない。スタッフが彼女のためにわざわざ用意したものだ
宇宙で拾った1本の漂流瓶でどうやって全員を説得できる?国境線を塗りつぶし、戦闘機や戦車や核兵器を溶かし、来世でもたどり着くかわからない星の開拓を支援しろだなんて
彼らは何百年、何千年と戦ってきた国家よ。ひとつの民族であり、一族であり、企業であり……それに私みたいな天賦の才を使って努力し、闘ってきた天才たちの成果でもあるわ
条約を何度結ぼうと、ロケットを何発打ち上げようと、人間は結局、自分勝手で、痛みを恐れる生き物なの。あなたの「理想的すぎる宇宙社会」実現の距離は200万光年よ
「光年」は時間の単位ではないよ、カサンドラ
……ああもう、やっぱりあなたにはジョークが通じないのよね、ドミニク
彼女は大げさに手を振った
カサンドラ、君は商人だ。我々は立場も視野も違う。だから、この計画が地球にどれほどの利益をもたらすかを、君に完全に理解してもらうのは難しい
この話題はここで切り上げた方がいい。お互いにとって無駄な時間と労力を避けるためにも
嫌よ。あれだけあなたに大金をつぎ込んだんだから、私が訪問する時は、ちゃんと私をおもてなししてくれなきゃね~
彼女は挑発するように、また煙草に火をつけた
ハァ……あなたたちみたいな「理想主義者」は、これまで山ほど見てきたわ。結局は世界に打ち砕かれるか、自分から先に壊れるかのどちらかなのよ
ねえドミニク、私と賭けをしてみない?
カサンドラは片眉を上げた
当ててみましょうか。いつかあなたは「理想」のせいで死ぬわ。でも私は、「野蛮さ」によって歴史に名を轟かせ、永遠に美しく生き続けるでしょうね
……
ドミニクはもとよりサイコロに運命を委ねるような学者ではない。高圧的な投資家を前にしても、首席技術者は沈黙を守り、窓の外の混乱に陥っている海岸を見つめていた
消防士が瓦礫の中から子供を救い出した。子供の顔は煤で真っ黒だが、まだ泣いている――生きている。きっとスタッフの家族で、遠路はるばるここまで来ていたのだろう
フン、またクールぶって、ホントつまらない。さっきの報告はもう終わったの?そろそろ話してもらえるかしら、今日わざわざ私を呼びつけた理由を
ここ数日で新しい考えが浮かんだ
ドミニクは知っている。カサンドラの皮肉のひとつひとつが的を射ていることを。人間の野蛮な獣性は確かに存在する。利益、恐怖、暴力――どれも真実だ
だが炎の海の向こうにいる、国籍の異なる兵士たち、火の中へ飛び込んでいく消防士たち、世界各地から集まった技術者たち――彼らもまた全て真実だ
理想と野蛮な獣性は、決して二者択一というものじゃない
人間はその両方を併せ持っている。問題はただひとつ。真の闇が訪れた時――どちらが多数を占めるかということ
だからこそ私は、より多くの理想を結集させなければならない
ドミニクの声は、自分自身に語りかけるように低くなった
ひとりやふたりでは支えきれない。どれほど大きなラボであろうが同じこと
だが、ひとつの世代ならできる
ドミニクは机の前へ戻り、あるファイルを取り出した。その表紙には、まだ正式には承認されていないタイトルが印字されていた――
あらら?科学技術の首席でいるだけじゃ物足りないってわけ?今度は校長にでもなるつもり?
カサンドラ、もしある日、ある大富豪が自分の全財産をまとめて海に投げ捨てたと知ったら、どう思う?
うーん……気が触れたか、もうすぐ死ぬか、どちらかね
我々が拾った「漂流瓶」も同じかもしれない
カサンドラは手の動きを止め、ようやく少し真剣な表情になった
で?ケンタウルス座にビッグフットがいる、みたいなファンタジーを本気で信じてるわけ?
形式論理は前提のない結論を認めない。行動も同じ。瓶の放擲は単なる慈善行為ではないと思う。宇宙の外にいる誰か、あるいは人々が、何らかの必要に迫られ――
自分たちの知り得る全てを送り出したのかもしれない。もし私なら、地球が爆発する1秒前に同じことをする
ハッ!私なら全部焼き払うわ。自分のお金を他人なんかに渡してたまるもんですか
彼らがどんな結末を迎えたのかはわからない。ただわかっているのは、その遺産を受け取るのがひとりではまったく足りないということだけ
もっと多くの人間が「遠航」に参加し、この知識を携えて、統一戦争や科学研究、そして宇宙開拓に身を投じる必要がある
何かと思ったら、ただの学校の話?わざわざ私を呼ぶほどのこと?
資金のことならいい、後で私の秘書に連絡しておいて。ああ、先週人が替わったばかりだから、間違えないように
カサンドラは大きく伸びをし、遊び疲れた子供のようにくるりと表情を変え、扉の方へ歩き出した
ファウンスは次の世代を育てる坩堝になる。ここから巣立つ者は皆、覚悟しなければならない――新しい世界を築くために、そして……万が一に備えるために
万が一って、何に対して?
彼女は扉まで来ると、取っ手に手をかけた
……
ドミニクは答えなかった。恐らく、自分でも答えを持っていなかったのだろう。それは一種の直感だった――理性よりも深く、恐怖よりも重い何かだ
あの信号の末尾に付随していた人類の神経波形を初めて目にした時のように、ドミニクの眉間にふいに痛みが走った
遥か遠くのどこかで、誰かが最後の力を振り絞り、自分の血肉を使って、こちらへ何かを差し出してきたような感覚だった
あなたは吸わないけど、取っておきなさいよ
カサンドラはクスリと笑い、机の上の高級な煙草を目で示した
ああそうだわ、この前のアレ、「質点プロトタイプ」の件だけど……
正直まだよくわからないわ。でも、面白いから、続けてよ。今年中に成果を見せてちょうだい
カサンドラは扉を閉め、調子っぱずれの鼻歌を口ずさみながら、秘書に電話をかけた
フフ、「遠航」ね。いい響きじゃない
3カ月後の6月10日、彼女はファウンス士官学校の門の前に立っていた
正確にはファウンス士官学校であると同時に、ツィオルコフスキー天航都市でもある門の前だ
ファウンスはどの都市にも属さない、世界政府が赤道付近に建設した超大型複合施設――零点エネルギーエンジンが心臓、質量投射軌道が背骨の、人類史上最大の単一構造物だ
そのプラットフォームは雲に刺さる銀白の巨剣のようだった。軌道は支柱に沿って空へ真っ直ぐ伸び、その先は大気圏の青色の中へ消えていく。まるで天への橋のようだ
ルシアが到着した日、「曙光-III型」はすでに「天国の橋」の発射台に固定されていた。「入学式会場」を探していた彼女は、気付けば発射場の外周にある観覧エリアにいた
……
そこはすでに人で埋め尽くされていた。顔立ちも肌の色も言葉も異なるが、皆が同じ制服姿だ。総勢420名、世界統一試験を勝ち抜いてきた16歳から19歳までの学生
ファウンス1期生だ
彼女の目の前には「曙光-III型」の巨大なシルエット、背後はざわめきと興奮に満ちた同年代の学生の声。ルシアは端末に表示された名簿を見ながら、学生たちを観察していた
もう!なんて人の多さなの!どうして入学式を発射場の隣なんかでやるのよ!?
内装も制服も広場も、どれもぜーんぜんセンスないし。一体どこの誰がこんな設計したのよ
姉さんがここを好きじゃなかったら、今日にも転校手続きしてやるのに!
あの……同級生として言うけど、学校の一員である以上、それを侮辱する発言はあなたにとって何の利益にもならないわ。今の発言は撤回してください
ハァ?あなた誰よ。私が何を言おうとあなたには関係ないでしょ!
アデレーネ、学籍番号No.004。同期として、学校の名誉と秩序を守る義務があります
004?へえ、4位のくせにずいぶん偉そうじゃない?
学校の所属番号は成績順ではありません
あっそ……だったら、なおさら自慢にもならないじゃない
自慢したわけじゃなく、事実を述べたまで。あなたの発言は、『学校行動規範』第2章第7条違反です。どんな形であれ、学校のイメージ及び公共施設を貶めてはならない
は?規範??あなた、絶対友達いないでしょ!
……交友関係に関しては今の話と無関係です。話題を逸らさないでください
つまり、いないってことね!
ルシアは列の最後尾に立っていた。そこが彼女に割り当てられた位置だった
少し前方で学生が口論している。声は大きく、人だかりができていた。彼女はちらりと目を向けたがあまり見ようともせず、端末の名簿を確認するために視線を下げた
この辺りは人が少なくて、ちょうどいい
彼女はイヤホンをつけ、観覧エリアの手すりにもたれながら、式の開始を待った
やばいやばい遅れる遅れる――
ドン!と背後から突然誰かが勢いよくぶつかり、肩を弾かれた。イヤホンが宙に飛ぶ
――!
彼女は反射的に体をひねって避けたが、足がもつれてよろめいた。振り返った時に見えたのは、残像のような影だけ。眼鏡のレンズの反射と広がった髪、宙を掻くような腕――
同年代の少女が、完全にバランスを失って前へ倒れかけていた
わああっ!
ルシアはためらわずさっと手を伸ばし、相手の腕をしっかりと掴んで引き戻した
少女の体は倒れかけた瞬間に引き戻され、その勢いで大きく揺れた。眼鏡は鼻梁から鼻先まで滑り、そのまま落ちてしまった
あっ……あっ?
彼女は慌ててもう片方の手で眼鏡を受け止めようとしたが間に合わず、屈み込んだ。その落ち着きのない動作のせいで、また転びかけ――ルシアは仕方なくまた引き寄せた
あ、あの……!
ごめんなさいごめんなさい……急いでて前が見えてなくて、あなた……大丈夫……?
私は平気。歩く時は下ばっかり見てちゃだめ。特にこんなに人が多い場所では
急いでいても、自分の安全には気をつけて
ルシアは少女の胸元の名札に目をやった。おとなしそうな雰囲気の写真の横に、「ジョアン」という文字があった
焦らなくても大丈夫、間に合うわ
あ、ありがとう!
ルシアは少女が人混みの中へ紛れていくのを見送り、ほんの少し微笑んだ
彼女はふと右耳に手をやり、イヤホンがないことに気付いた
彼女の左側に
……ありがとう
ルシアが手を伸ばした瞬間、ふたりの視線がぶつかった
……?
ルシアの手が一瞬だけ止まった。それはほんの一瞬、相手が気付かないほどの、僅かな間だった
言葉にできない既視感が彼女を襲った。しかしその感覚は、風が水面を掠めるような一瞬でしかなく、波紋が広がる前に消えてしまった
彼女はイヤホンを受け取り、どこか気まずさを感じて、慌てて自分から口を開いた
あなたも1期生?
私はルシア
なぜ自分から名乗ったのか、彼女自身にもわからなかった。いつもはこんなことはしないのに
相手は軽く頭を動かして彼女の胸元を指した。ルシアが下を見ると、名札にしっかりと自分の名前が印字されている
…………
彼女は、自分の先ほどのひと言は余計だったことに気付いた
相手は笑わなかったが、口の端が僅かに上がったようにも見えた
……ごめんなさい
その時、観覧台のスピーカーが突然オンになり、マイクテストの音が響いた
うん、ありがとう
相手は微笑んで軽く頷き、端末に表示された位置番号に目を落とすと、ふと足を止めた
……
ルシアも確認すると、ふたりの位置は前後だった
そうね……
その時、周囲の拡声器から声が流れ、生徒たちは次々と静かになっていった
ルシアは前にいる相手に目を向け、ふと、自分が名前を訊き忘れていたことに気付いた
しかし――訊かなくてもいいと思った
いずれわかる気がしたからだ
あーあー……皆さん、聞こえてる?
拡声器から流れてきたカサンドラの声は、黒板を爪で引っかくように鋭く、隠しきれない高揚感に満ちていた
ロングドレス姿の女性がハイヒールの音とともに仮設の演説台へ上がった。スカートと髪が風に揺れ、右腕の流線型の機械構造が露わになる。会場は小さくざわめいた
あら、緊張してる?問題ないわよ!学校理事であり大作家であり、恋愛リアリティショーの名MC、実業家のエンジェル投資家、公認栄養士である私、このカサンドラが――
皆さんにありがたーいひと言を授けるわ。こんな体験、他の学校でできると思う?できないわよね?
彼女はわざと間を空けた。拍手を待っているらしい……が、起こらない
――何よ、冷たい子たち
まあいいわ、手短に。あなたたちの後ろの大きな鉄の柱は「曙光-III型」よ。どのくらいの高さかって?137m。あなたたち全員を積み重ねても足りない。じゃあ、値段は?
それはナイショ。値段を言ったら、あなたたちの心臓止まっちゃうから
人混みの中から、ぽつぽつと笑い声が上がり、カサンドラの目がパッと輝いた。スタンダップコメディアンが、やっと観客の心を掴んだ時のようだ
うん、笑ってくれたらそれでいいの。お葬式みたいな顔で突っ立ってられるのが一番困るのよ。何てったって、今日は入学式なんだから!
さて、今日からあなたたちはファウンスの1期生よ。第1期、つまり……この学校に学生がいたことは今まで1度もないってこと。あなたたちが最初の一団よ
先輩もいないし過去問もない。学食が美味しいか誰も知らない、食堂が完成したのは先週だし。3回も催促したのにあの業者、「赤道付近は輸送が大変で」なんて言い訳して
ファウンスは人類の「遠航」計画における人材育成の学校よ。あなたたちが「遠航」するのはどこかって?冥王星かそれとも私の屋敷の守衛室か、それは全部あなたたち次第ね
彼女は髪をさっと振り、それはどうでもいいというような笑みを浮かべた
とにかくね、この学校はもう建ってるし、お金も使っちゃったし、あなたたちももう来ちゃった。退学はできないし、学費も返さない
つまり、君たちに残された道はひとつしかない
彼女はマイクで、天国の橋の上にそびえ立つ巨大な物体を指した。「曙光-III型」は発射台で静かに佇んでいる。尾部の噴射口は陽光を受けて、冷たく青い光を放っていた
――上を目指しなさい
ちょうどその時、風が少し強くなり、壇上の横断幕がバタバタと音を立てた
入学初日にあたって、理事である私から皆に、もうひとつ特権を与えることにしたわ
彼女は背後の「天国の橋」を指差した。金属の指先が陽光の中で一瞬キラリと光る
学生諸君、皆が、「曙光-III型」初の最大推力試験運転を現場で見届ける最初の立ち合い人よ。スケールは大きいし、カッコいいし、超ド派手でとにかくお金がかかってるの!
こんな体験――他の学校じゃできないわよ!絶!対!に!
今度こそ、会場はざわめきに包まれた
息を飲む者もいれば、興奮して隣の肩を叩く者もいる。ジョアンは顔を上げ、眼鏡の奥の瞳はキラキラと輝いていた。あのオフェリアでさえ、口をポカンと開けている
将来、「曙光-III型」の本打ち上げ後は、国際宇宙ステーションで最終組み立てを行い、月の近くから光速の1万分の1の速度で、ケンタウルス座α星へ向けて加速する
3年後にはカイパーベルトを越え、オールト雲を通過するまでに、光速の100分の1まで徐々に加速する。ついでに言っとくけど、その費用は全部、私持ちよ
壮大で、遠い未来の話でしょう?
でも今日から、あなたたちひとりひとりが主役よ。望もうと望むまいと、もうこの物語はあなたたちの手元にある――全人類が、あなたたちの成長を期待しているの
あなたたちの「遠航」は、ここから始まるのよ、かわいい学生の皆さん
さあ、理事のスピーチはこれでおしまい!拍手~!!
彼女は壇の端へ下がり、手すりにもたれかかった。ポケットからライターを取り出し、ずっと火をつけていなかった煙草にようやく火をつけた
カサンドラ理事、ここは禁煙です……
知ってまーす
彼女は学生たちと一緒に顔を上げた。手にした火のついた煙草は、そのままだった
発射場の放送システムが標準の任務チャンネルに切り替わり、無機質なカウントダウンの読み上げが、全員の頭上に響き渡った
曙光-III型、全推力試験運転プログラム起動。各観測ポイント、安全距離を確認せよ
T-120秒。推進剤の充填完了、全てのバルブ、スタンバイ状態
「天国の橋」の発射台下部から蒸気が噴出する。液体酸素が配管内で急速に気化し、巨大な水幕冷却システムもすでに注水を終えた。銀白の巨剣が深く息づいているように見える
ルシアは思わず足を踏み出し、顔を上げて見つめた
T-60秒。メイン制御がエンジンの予冷完了を確認。各システムはカウントダウン自動プログラムへ移行
人々は息を飲んで静まり返った。400人あまりの若者が観覧台に立ち、初めてこれほど間近に、人類史上最も強大な構造物のひとつと向き合っている
異なる肌の色、異なる言語の息遣いが、この瞬間、全て同じ方向を仰ぎ見ていた
T-30秒。点火シーケンス、ロード
アデレーネは直立し、瞬きもせず見つめている。オフェリアは口を開けたまま、文句を言うのも忘れている。ジョアンはレンズに発射台の影を映しながら服の端を握りしめていた
ルシアは隊列の一番後ろに立っていた。風が彼女の髪をなで、前方の何列もの学生たちの頭越しに、「曙光-III型」が見えた
そして、なぜか……彼女の視線は少し下に動き、前列のある人物の後頭部に落ちた
彼女のイヤホンを拾ってくれたその人も、静かに仰ぎ見ていた
T-10秒
群衆の中の誰かがカウントダウンを始めた。何かを乱すのを恐れるかのように、とても小さな声で
やがて多くの声が加わっていった。不揃いだった声が、不思議と自然にひとつに重なっていった
世界は一瞬だけ沈黙し、そして――
光った
稲妻よりも眩い光が「曙光-III型」の尾部から炸裂した。続いて響いたのは轟音だ。衝撃波は水幕やコンクリート、人々の胸を突き抜け、骨の芯まで震わせた
「天国の橋」全体が揺れた。水幕は一瞬で蒸発して白い霧となり、数千tの推力が炎の柱をフレームトレンチへと押し込んだ。溶解した空気が、まるで火の川のように流れる
「曙光-III型」は地上試験で、実際の発射ではない。しかしその轟音は16、17歳の子供たちにこう感じさせるには十分だった――人類文明はすでに星々へ手を伸ばした
ルシアは隊列の最後方に立っていた。拍手が彼女の前から視界の果てまで広がっていく。彼女は拍手もせず、両手は体の脇に垂らしたままで、特別な表情すら浮かべていなかった
だが、彼女はずっと目を逸らさなかった。「天国の橋」の先端は雲を突き抜けて天を指している。空中に漂う灰白色の尾煙は青いキャンバスに忘れられたひと筋のようだった
