レイが物心がついた時にはもう、母親の顔を覚えていなかった
自分を育ててくれたのは父と祖母だった
祖母は一日中、恨みごとを言いながら生きている人だった
パニシングが全て奪ったと言っていた
パニシングはどうやって彼女の全てを奪ったのだろう?
彼にはわからない。その目を開いて、この世を知った時から、生まれた時から――
――世界はこうだったのだから
人々は皆、こんな世界ではなかったと言う
機械は人間を襲わない。高くそびえる建物は、本当は人々が住む場所だったそうだ
人類は大地の隅々まで知り尽くし、高い山に登り、深い海溝へ潜った
あと少しのところで、この星を離れ、全宇宙に足跡を残すところまできていた
人類は本来、暗闇の隅でネズミのように生きるはずではなかった
しかし、レイはあの時代を見たことがない。今はもう、文明のかすかな残骸しかなかった
その残骸すら、もう消えてなくなろうとしている
何を憎むべきなのだろうか?また、誰を憎むべきなのだろうか?
人は、自然の残酷さを責めはしない。土砂崩れ、地震、津波……天災を責めたりしない
世界の一部となったものは、天災と区別できない。パニシングのように
今の世界しか知らないので、パニシングの残酷さを当然のように受け入れていた
ただ、記憶の奥底には顔のぼやけた女性がいて、知らない歌を口ずさんでいる
――子守唄
彼らはそれを子守唄と呼んでいた。黄金時代の人が残してくれた歌だった
歌詞はわからないが、メロディーと暖かさは残っている
穏やかで、優しいものが伝わってくる
母が残してくれた唯一の記憶
あの子守唄だけが、過去の栄光が最後に残した優しさを垣間見せてくれる
お父さん……
……お父さん、どこにいるの?
お父さん、怖いよ
お父さん……
レイ……
覚えのある声が聞こえたので、その男の子は急いで赤潮の方へと向かった
波の音が目の前にある
手を伸ばせば触れられるくらいに近くだ
川べりに近づく前に、父親の声が別の壮大な声でかき消された
ひとりの華奢な女性の虚影が、赤潮の上で見え隠れしている
————▅▄!
彼は足を止めて、その場に立ち尽くした
……▁▅▃……▃……▆……
その「歌」にこめられた意味を理解した瞬間、その子は大粒の涙を流していた
リー、戻ってきたんですね。指揮官はどこですか?
行きました
どういうことです……?指揮官はどこに行ったのですか?
ストライクホークの隊員と赤潮の源流とやらを探しにいきました
……指揮官に、単独行動はさせられません
彼女は出発の準備を始めた
リーはそんなルシアを止めた
その必要はありません。指揮官はひとりではありません。ストライクホークの隊員と一緒です
バンジさんですか?彼が指揮官を守ってくれれば、少しは安心できますが、しかし彼ひとりでは……
リー、説明してください
指揮官が理由もなくここを離れることはないでしょう?理由を、教えてください
ルシア。指揮官からは、僕たちはキャンプで待機するようにという指示が出ています
なぜ?グレイレイヴンはひとつのはずでしょう?
それに、指揮官はお体の具合が……
グレイレイヴンはひとつです。だから、僕たちはここに残る必要があります
ルシア、あなたも困惑していたはず。指揮官の意図を理解してくれますよね
ルシアは焦っていたが、少しずつ落ち着きを取り戻した
ここには、私たちにしかできないことがあるから
なぜなら……ここにまだ皆……
そうです。ここには僕たちにしかできないことがあります。僕たちまで離れたら、重要な時に、この難局に対処できる人がいなくなります
説得するにしても、守るにしても、更に言えば指揮官のために十分な時間を稼ぐにしても
……
心配ですか?指揮官と一緒に軍法会議にかけられるのが怖いのですか?
そんなものは何も怖くありません。ただ、指揮官の身が心配なだけです
でも……私は指揮官のご判断を信じます
私も、です
さぁ、あまり時間がありません。指揮官に指示されたことをしっかりやりましょう
ハンス総司令
君は……グレイレイヴンの隊員だな?
はい。僕はグレイレイヴンの技術面を担当している構造体です
問題があれば私に直接報告するのではなく、直接上官に報告するように
グレイレイヴン指揮官が、隊員に基本的なルールを教えていることを願うよ
ルールは承知しています。ですが、今は事情があり指揮官はここに来ることができません
ここに来れない?どういうことだ?
指揮官はここを離れました
なんだと
指揮官は、レイという子どもを探しに行きました
いつだ?
つい先ほどのことです。グレイレイヴンに割り当てられたエリアポイントの使える部分を分解して、指揮官にお渡ししました
はぁ――
グレイレイヴンは、明らかに私の命令に背いているな。それで、君たちは指揮官に協力しているのか?
矛盾を解決する手段が、命令に背いていることになるとは思いません
軍法会議にかけられる覚悟はあるぞとわざわざ言いに来たのか?
違います
総司令に攻撃計画を再考していただくために来ました。難民を避難させずにその命を守り、赤潮を排除する方法をご検討いただきたいのです
そんな方法があるなら、こっちが聞きたいものだな
今はまだありません。しかし、僕たちは問題解決に長けています。総司令に――
ハンスがリーの言葉を中断した
方法がないなら、ここで無意味な話をする必要もない
本当にがっかりだ。指揮官に、難民は避難させるか死ぬかの二択のみで、第三の選択肢はないと伝えたはずだ
君たちがやるべきことは、空中庭園が宇宙武器で攻撃する前に避難させることだ。残念ながら、君たちは努力さえしなかった
足音が聞こえたので、リーとハンスは振り向いた
ルシアとリーフが、難民たちを空き地に連れてきて、ハンスの元へ案内している
もうふたりの構造体?グレイレイヴンは何をしたいのだ?
ハンス総司令官、どうかこの人たちの声に耳を傾けてください
何度も聞いた。彼らの意思ははっきりしている。ここに留まり、死を待つだけだと言うんだろう
違います、総司令官。彼らはただ悲しみ、怒り、絶望しているだけなんです
……
総司令官、無礼をお許しください。総司令官は、裏切られたことはおありですか?
……
軍人として、裏切りは決して許されないことでしょう
誠実な者なら、誰でも裏切りは許せん
例えば、自分の部隊が敵に包囲された時、司令部が総司令の直属部隊さえ犠牲にすれば集団の利益を得られると気づき、犠牲にすると決めたら、どう思われますか?
私はそれを裏切りとは言わん。自分たちが犠牲になることで勝利が得られるなら、喜んで死を選ぶだろう
そうですね。ここにいる全ての空中庭園の兵士も、総司令と同じように、見えない勝利のために命を捧げるでしょう
なぜなら、私たちはそのように教育を受けました。その覚悟もあります。私たちはそのため生まれた軍人だから
しかし、民間人はどうでしょうか?全ての人が、勝利のための犠牲の意義を理解し、自分の心を押し殺すことができるとは限りません
私たちは民の自由意志を守るために、この地に立っているのではありませんか?
先ほどの話に戻れば、総司令の部隊が民間人を守っていると仮定します。その時、上層部から民を見捨てろという命令があったらどうしますか?
抵抗することをやめ、民を見捨てて、自分たちが守ってきた民を敵にみすみす殺させますか?
それとも、最後のひとりになるまで戦うという命令を下しますか?
民間人にとって軍人は、彼らを守る存在です。軍人がその役割を全力で果たさない場合、それは裏切りと呼ばれます
論点のすり替えだな
「世界連合政府災害及び緊急援助法」は世界政府の民だけに適用されています。その法令を話したのなら、彼らを守るべき人民とみなしたということではありませんか?
総司令官、ご覧ください。彼らは皆、総司令官に守られている民です
彼らは、ただ親であり、夫であり、妻であり、子どもであり、姉妹であり、兄弟です。何も悪いことはしていないんです……
ただ、災難が彼らに降りかかっただけです。彼らの願いはただひとつ。大切な家を守ることだけです
指揮官が子どもを助けに行ったのは、誰かが泣くのをただ見ていられなかったからです。なぜなら、手を伸ばせば、守ることのできる人だからです
もういい、十分だ。これ以上は時間の無駄だ
こんな状況は初めてではない。グレート·エスケープで、助けられなかった命など、嫌というほど見てきたわ
あの時は地平線が真っ赤に染まり、四方八方に死体が転がっていて、唯一、生き延びる方法は空に行くしかなかったのだ
戦争の仕組みは、複雑で単純だ。全ては力の強弱に換算できる。力が無くなった者が敗者となる
私たちは感情に寄り添うことができるが、戦争もパニシングも感情とは関係ないものだ
パニシングの前で、我々ができる唯一のことは、生存するために最善を尽くすこと
我々を偽善者というかもしれない。しかし、そうやって批判できるのは、生存者だけなのだ
ひとりの子どものために泣く者がいたとして、赤潮が海に流出すれば、何百万も何千万もの子どもたちのために泣く者が出てくるんだぞ
君は全員を救うことができるのかね?
君たちはこういう難しい決断を迫られるたびに、その全員を救うことができるのかね?
こんな決断を迫られたのは初めてだろう、違うか?
言っておく。これが最後ではないぞ
ハンスを守っている構造体に外で止められた
しかし、リーフは諦めていなかった
これではあまりにも残酷すぎます
総司令官、もう一度どうかご再考を、名誉のためではなく、信仰のためでもない……
こんな無意味な死は不合理ですし、起こるべきではありません
総司令官、私たちは軍人です。私たちは仲間を守るためにここに立っています
空中庭園の人であれ、地上の人であれ、全員私たちの仲間です
私たちは、自身の武器を、守る人に向けるべきではありません
……
総司令官、聞こえますか?
何だ?
第07部隊から通信が入りました
エリアポイントの設置が完了したそうです
我々も設置完了しました。赤潮の支流には、まだ少し距離があります
空中庭園の次の軌道サイクルがここの上空に来る時、赤潮がどこまで広がっているかわかりません
起動するなら、今が最高のタイミングです
今すぐ認証して、装置を起動しますか?
……
総司令官?
今すぐ……
その言葉を口にしようとした瞬間、女性の叫び声が響いた
……レイ……レイ!
砂埃の向こうから、小さい人影がゆっくりとキャンプ場に向かってくる
女性は駆け寄って、顔を確認すると、迷わず頬を叩いた。そして膝をついて、男の子を強く抱きしめた
リーフもすぐに駆け寄り、パニシングの症状が出ている子どもに血清を注射した。そして後ろに下がって、口をつぐんだ
男の子は頬がひどく痛んだようだが、しばらくして、それが何を意味しているのかを理解した
ごめんなさい……おばあちゃん
怖かったんだ……父さんを探しに行ったんだ
……
レイ、あなたのお父さんはね……
……父さんを見つけたよ
女性は子どもが恐怖のあまり混乱し、でたらめを言っているのだと思ったようだ
本当に、見つけたの?
男の子が見つかった今、その夢を破ったり、訂正する必要はもうなかった
うん、あの赤い川の中にいるんだ
声が聞こえてきたよ
お父さんはなんて言ってた?
お父さんはね――
「元気で長生きして」って
……
女性は目を大きく見開いた
彼女の時間は、一瞬にしてはるか遠い過去に戻った
まだ何の悲劇も起きてない頃、生まれたばかりの赤ちゃんが女性の腕の中にいた。とても儚く、そして希望に満ちていた
彼女は自分の子どもの額にキスをして、同じ祈りを捧げた
全てが、昨日のことのように蘇る
……うっ――
彼女は振り向いて、小隊の構造体たちを見た
恨みも憎しみも消え去っていった。彼女は全ての感情を使い果たした。彼女の喉からは、我が子を失った動物の母親のように、悲しい鳴き声が漏れていた
言葉で言われなくても、横にいたリーフも一瞬にして、その目の訴えを理解していた
――なぜもう少し早く来てくれなかったの?
その時、強烈な同情からくる強い罪悪感と窒息するような感覚がリーフを襲った
……
もう少し早く行ってあげられなかったのでしょうか?
……もっと早く……早く気づいていれば
もっと早く……
もっと力があれば……
彼らの苦難をともに背負うことができたなら……
このようにとり返しのつかない事態にはならなかったのだろうか?
それは、どれほど早ければよかったのだろう?
数日?数カ月?数年?アルカディア·グレート·エスケープの前?それとも、人々の孤立と憎悪が大きくなる前?
誰もこの問いには答えない
否――答えることができないでいた