Story Reader / 幕間シナリオ / 青い鳥 / Story

All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.

「昇天」

>

「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女性が太陽を身に纏い、足下に月を従え、頭には12の星の冠を戴いていた」

光が厚い雲を突き破り、壁をも突き破るような暴風が吹き込み、鳥の群れは広い教会の上空へと羽ばたいていった

強風の中、地面を這い進む人間も格闘する構造体も、そして赤潮の中から産まれ殺戮を繰り返す生物も皆、立ち止まり、光が輝く方を見た

彼女は皆の注目を浴びながら、ゆっくりとその場に舞い降りた

彼女はまず辺りを見渡し、すぐさまその機体がパニシングを感知した。空気中に漂うパニシングは、構造体の意識海の中、赤潮のデータの中がその源だ

それらは無数のデータと複雑に関係している。彼女はパニシングを感じると同時に、数えきれないほどの魂の苦痛と叫びを感じ取っていた

彼女はゆっくりと手を上げて、杖を振った。パニシングを通して苦しみの感情が濁流のように彼女の意識海へと流れ込んだ

堤防が決壊したように、データの奔流が彼女の意識海を襲い、意識海が無限に拡大されていく。彼女は空を漂い、全てのパニシングの記憶を目にし、全ての記憶に存在した

続いて、彼女は、思考や意思ではなく、本能と使命に基づいて行動した――彼女が杖を振る度、特化機体の強大な力を発揮し、彼女から放たれる光はますます強くなった

もしパニシングを見ることができたら――パニシングは空中で凝結し波となっているはずだ。彼女は海神のように、その波を従え、飲み尽くし、光の中で消滅させている

彼女の意識海は一瞬にして真っ赤なパニシングに染まった

痛み、絶望、悲しみ、パニシングがこの惑星にもたらした全ての感情と記憶が蘇る。深い谷の底から聞こえる咆哮のように、データは崩壊しながら捻りと歪みを作り出す

それらが棘となり、彼女の意識海に蔓延り、鋭く彼女の心臓に突き刺さる

彼女の胸から大量の循環液が溢れ出した。人工心臓の鼓動に合わせて、更に多くの液体が口と鼻から溢れ出す。それが循環液なのか赤潮なのか、もう区別するのは難しい

彼女は視界がぼやけ始めたが、意識は明瞭だった。彼女はまるで磔にされたように、心臓を杭で打たれ、逃げることも叶わず、ただ血が流れ尽きるのを待つしかなかった

彼女はすぐに全てを受け入れた。その間、彼女はまた永遠の川の中に溺れていた。全ての棘にはそれぞれの記憶が残っており、突き刺さった瞬間に、彼女は全てのデータを読み取った

無数の人生が彼女の目の前に広がり、パニシングと関係するもの、しないもの、あらゆる記憶が彼女の意識海を満たした

構造体の胸が侵蝕体となったかつての仲間に刺された。スカベンジャーは赤潮に飛び込むことで愛する人の想いに答えた。迷子になった子供は助けを求めた人に殺された

1秒が幾千もに分割され、そして更に細かく分割される。時間の概念がなくなり、永遠ともいえる時の中で、彼女は無数の生涯を体験し、地球の万物であり全ての魂であった

彼女が顔を上げると、ぼやけた視界の中で、一面深紅に染まった空に異なる色が浮遊していた――どうやら1羽の鳥が翼を広げてやってきて、彼女の側の木の枝に止まったようだ

小鳥は首を傾げている。意識海の中の歪んだデータとは異なり、鳥はまるで現実世界から紛れこんできたかのように、そこに活き活きと存在している

名前のわからない鳥は突然、鳴き声を上げて翼を羽ばたかせると、彼女を大きなデータの渦の中に巻き込んだ

カササギが茂みに止まっている。視界の中で手を振ると、音を立てて飛び去っていった

草むらの中に落ちているリボンを拾い上げ、ため息をひとつついて、呼びかける

お嬢様?どちらにいらっしゃいますか?

呼びかけが届いたのだろう、薮の中から豊かな髪の頭がのぞく

??

カーリィ!

歩み寄ると、お嬢様は芝生の上に座って、ミニスコップで土を掘っていた

彼女の側にしゃがみ込んで、ハンカチを取り出して彼女の顔の泥を拭ってやる

お嬢様は何を植えておいでですか?

スイカズラ……

お嬢様は真剣な顔で答えた

冬はもうすぎたから、冬を乗り越えたって記念にするために、ここにスイカズラをいっぱい植えたいの

奥様

(名前)、戻っておいで、食事の時間よ。いつもカーリッピオに庭まで呼びに行かせて。いけませんよ

庭の奥から奥様の声が聞こえた。お嬢様は奥様の声を聞いて、すぐに立ち上がった。私は髪にリボンを結び直してあげた。そうでないと旦那様に身だしなみを怒られてしまう

また時計を見るのを忘れてた……ありがとう、カーリィ

奥様の厳しい躾の賜物か、お嬢様は礼儀正しかった。彼女が恥ずかしそうに笑ったので、私は思わず彼女の髪をなでた

早くお食事にどうぞ。私はこの苗がヤギに食べられないように見守っていますから

そうなの……?

お嬢様は少し迷っているようだ

カーリィも一緒に食事しようよ……もしベルが私の花を食べてしまったら、罰として晩御飯をあげない!

お嬢様は庭いじりに夢中だ。ベルはお嬢様と私が、市場で屠殺寸前のヤギを見つけて連れ帰ってきたのだ。奥様は庭いじりも、裏庭でヤギを飼うこともお許しになった

自分の運命は、この年寄りのヤギに似ていると感じていた

祖母は科学の進歩に一切関心がなかった。信仰心が厚く、敬虔な心が全てに勝ると考えていた。一家は時代に取り残されていったが、祖母は最後まで一族の誇りを守って生きた

しかし敬虔な信仰では大家族を養えず、やがて居宅を失った家族は流浪した。最新の機械について無知な私を雇うところはなく、私は仕事をなかなか見つけられなかった

「機械は人の代わりになるけれど、人の美しい魂にまで、とって代わることはできない」――当時、母親によくそう言われたものだ

私は、その言葉にふさわしい人に出会ったと思う。ここの奥様は、本当に美しい魂の持ち主だった

数カ月前の寒い冬、奥様は市場付近を流離う私を見て、家に連れて帰ってくださり、私に仕事を与えてくださった。この荘園のメイドだ

この古めかしく重厚な荘園は、遠い昔に時が止まったような雰囲気だった。時々、主イエスに祈りを捧げる祖母が部屋から出てきて、私の名を呼んでいるような錯覚に陥る

我に返ると、そこに立っているのは記憶の中の私の家族ではなく、微笑む奥様だった

カーリィ?

お嬢様はいつもそうお呼びになりますね

お嬢様の手を取って、庭の奥にいる奥様の方に歩き出した

今回は本当だからね――ベル、私の花食べないでね!

ヤギが長い鳴き声でお嬢様に答えたので、思わず笑ってしまった。ロングスカート姿の奥様は植木の間で微笑みながら私たちを見ている。初春の太陽がその銀色の髪を照らした

春がやってきたのだと、その時はっきりと意識した

草むらの中にお嬢様を見つけた時、彼女は声を出さずに泣いていた

お嬢様!どうなさいました……?

月明かりに照らされて、彼女がベルを抱えているのが見えた。両目には涙が溢れ、必死に歯を食いしばってこれ以上泣き出さないように我慢している

近寄ってよく見ると、ベルはお嬢様の髪を噛んでいた。髪の毛が引っ張られて痛いせいか顔を真っ赤にして、それでも動かずに、お嬢様はヤギに噛まれるがままにしている

いけない子ね!早く放しなさい!

すぐにヤギの口に手をやって放させると、そのまま脇に追い払った

お嬢様、なぜすぐお呼びにならなかったんですか!?

……う……

ベルはもう2日間、何も食べてないから……髪の毛を食べれば、ちょっとでも元気になるかなって……

お嬢様は目を手でこすった。涙が、頬を伝うのが見えた

それを聞いて同情すべきか、笑うべきか、わからなかった

ベルはもう老いている。動物も夏の暑さには食欲が落ちる。年を取ったヤギなら、なおのことだ。この数日、お嬢様はとても心配して、ずっと庭でベルを見守っていた

しかし、子供にどうやって生死を説明すればいいのだろう?私はただ黙って彼女の涙を拭ってやった

ベルは疲れているんですよ……彼女は今、新しい旅の準備をしているんですから、ゆっくり休ませてあげてください

新しい旅……?ベルはどこにいくの?私を置いていっちゃうの?

ベルはずっとここにいる訳にいかないんです。お嬢様、もう遅い時間ですから。突然いなくなって、奥様がどれほど心配されているか。ひとまず、お家に戻りましょう

お母様が起きたの?

お嬢様は泣きやんでふっと顔を上げたが、なおも彼女のまつ毛は涙で濡れていた。彼女はヤギのことよりも、母親の方が気になったようだ

なぜお母様はずっと寝ているの?眠いの?

……奥様は最近、疲れておいでなので、ゆっくり休む必要があるんです

私は、こうとしか答えられなかった

でも、奥様がもうお目覚めですよ。お嬢様に会いたがっておられます。今すぐにでも会いたいと

奥様の寝室にいた医者たちも、もう帰ったはずだった

私も会いたい。お母様に、ベルはどうしたらご飯を食べるのって、訊きたい!お母様ならきっと知っているわ

お嬢様は再び明るさを取り戻した

私はお嬢様の手を取り、心の底から祈った。主よ、私は生涯を信仰に捧げ、あなたにお仕えします。この善良な方々に慈悲を。夏の終わりには、全てが元通りになりますように……

……訃報は、秋の曇天の日にやってきた

奥様は何度も夏を乗り越えてきたが、最後に彼女を連れ去ったのは、病気ではなく事故だなんて、誰も予想しなかった

私が病院に駆けつけた時、旦那様は落胆し廊下の長椅子に座り、自分の髪を引っ張っていた。旦那様と奥様は、お互いに静かに愛し合っている仲睦まじい夫婦だった

旦那様の頬をつたう涙を見た時、すぐに状況を理解した。私は心が激しく痛み、くらくらと眩暈がした

悲しみに耐え、震えながら病室に向かった

病室に入ると、お嬢様は白い布がかけられた真っ白な手を握っていた。あの手が私を春へと導き、そして秋に私を置いて去ってしまった。泣き崩れないよう、必死にこらえた

お嬢様の顔を見た瞬間、更に強い痛みが私を襲った

呆然として困惑したこんな表情のお嬢様を見るのは初めてだった、彼女は奥様の手を握りしめては離した。呼び起こそうとして、でも起こすのを恐れているかのように

彼女の唇は青く震えている、目の下には乾いた涙の跡がついている。ぽかんと口を開け、これからどうすればいいのかわからず、行き場を失った子供、まさにその状態だった

後から聞いた話では、奥様はお嬢様と一緒に病院に向かう途中で事故に遭い、そしてお嬢様を庇って亡くなられたらしい

母親をこよなく愛する善良で純粋な子供にとって、それは何を意味するのか、また彼女の何を変えてしまうのか、あまりのことに想像もつかなかった

物音でこちらに気づいて、彼女はゆっくりと振り向いて、私を見た

カーリィ……

彼女は唇をゆがめ、今にも泣き出しそうだったが、必死にこらえようと唇を強く噛み締めた。ああ主よ、この健気で哀れな子供にお恵みを……どうかお願いいたします……

しばらく黙っていたが、やがて彼女は震える小さな声で訊ねた

……お母様もベルのように、もう二度と、起きないの……?

私の涙は抑えきれずに溢れた。何もできない自分を激しく憎んだ

慟哭に、何も言うことができなかった。彼女もその意味を理解したようだ。彼女は首を垂れて、白いシーツの上に置いた両手を強く握りしめた

……カー、リ……ご……ごめん……なさい……私……お母様を……守れなかっ……

お嬢様は服の袖で目をこすっている。くぐもった泣き声が静かに響く

違います!お嬢様のせいでは、決してお嬢様のせいでは……!そんなことを仰らないで

私は驚いて、すぐに激しく否定した。彼女は嗚咽をこらえながら、顔を上げて、健気にも必死に笑顔を作って見せた

ごめんなさ……ごめんなさい、カーリィ……私がしっかり……お父様とあなたのお世話をするから……

強い悲しみと戸惑いで、私はもう、何も言えなくなってしまった

お嬢様、主に誓います。私は決してあなたのお傍を離れません……彼女に約束し、抱きしめ、思い切り泣かせてあげようと思った。その時、お嬢様の笑顔が奥様の姿と重なった

私が幻を見たのか、それとも神が降臨したのか。私は再び奥様を見た――初めて会ったあの日のように、偉大で美しいその女性は優しい光に包まれて――天から降臨した

彼女は微笑んで、しゃがみ込んでお嬢様を強く抱きしめ、愛情深く彼女の額にキスをした。そしてそのまま宙に溶け込み、跡形もなく消えていった

それ以降、お嬢様は森林警備隊になるとか、いろんな動物を飼う花屋になるとか、草原で羊を飼い、雨に濡れて立てない羊を抱いて帰る、といった不思議な夢の話をしなくなった

旦那様の家業を継ぐ誰かが必要だ。これまでお嬢様の天真爛漫な夢をそっと守ってきた奥様は、今は亡き人になった

お嬢様は毎日、部屋にこもって勉強した。奥様の犠牲が、彼女に新しい道を授けたようだ

旦那様は日を追うごとに気弱になり、書斎にこもりがちになった。最初は3人で食事をしていたが、「仕事が忙しい」という理由で、一緒に食事する機会も減っていった

お嬢様は罪悪感に苛まれ、私に料理を教えて欲しいと言った。不器用ながら、彼女は自ら料理し旦那様の書斎へと運んだ。しかし私と同様「置いておいてくれ」と言われてしまう

お嬢様に、何も彼女のせいではないし、自分を責める必要はないと伝えたかった

でも、私はお嬢様の目を見て……あの美しく優しい、彼女の母親とよく似た瞳を見て、そんな言葉をかけてもおそらく無駄だろうと悟った

私はお嬢様が快適に生活できるよう心を尽くした。お嬢様から奥様に手紙を書くことも提案した。それで彼女は気持ちが少し楽になり、私もお役に立てたことを嬉しく思った

しかし、時が経っても、状況は好転しなかった。厳しい冬が近づき、冬の冷気が荘園全体を覆っていった

あの日は朝から雪が降っていた。久しぶりの雪景色だった。私は早起きして、彼女を庭に連れていき、雪を眺めた。彼女の顔にようやくあの天真爛漫な笑顔が戻っていた

旦那様はこの日、私を書斎に呼んだ。彼は口ごもりながら言い出しづらそうに、荘園のために最先端のAIシステムを導入したいと仰った。悪い予感がして、私はすぐにこう言った

旦那様、私はもうお給料はいただきません。ここで旦那様とお嬢様のお世話をさせていただければ、それで十分なのです

技術は日々進歩しているんだ。古い時代に留まっていてはいけないよ

でも、奥様が生きておいでの頃は、旦那様は今の穏やかな生活を好んでいらしたのではありませんか?

慌てて、思わず口走ってしまった。さっと旦那様の表情が険しくなった。自分でも言ってはいけないことだったと、すぐに悟った

……申し訳ございません。旦那様、出すぎた発言でした。私はただ、旦那様とお嬢様のことが心配で……

私とあの子はもう大丈夫だ。それに、私たちにはひとりの時間も必要だから

旦那様の視線は遠くを見て、私を見ようとしなかった。閃くように、最近旦那様の帰宅が遅いこと、洗濯するお召し物についたブラウンの毛髪……そういったものを思い出した

旦那様の真意を、ようやく理解した

承知いたしました……

窓の外を見ると、お嬢様が庭で、雪のヤギを作っている。久しぶりに見るお嬢様の笑顔だった

ベルはその下に埋葬されている。墓標は奥様とお嬢様が一緒に作ったものだ。どうやら今、私も新しい旅に出かける必要があるようだ

旦那様、お嬢様はとてもいいお子様です

愚かな私には、こんなことしかお伝えできない

どうか、どうか……大切に、健やかにお育てくださいますよう

私の返答を聞いて、旦那様は肩の荷が下りたようだった。彼は微笑みながら頷いた。旦那様が愛妻を失った悲しみから抜け出したことは、私の唯一ともいっていい慰めだ

もちろんだ。ありがとう、カーリッピオ。長い間……ご苦労だったね

申し訳ございません……お嬢様。約束を守れませんでした。ただあなたと……あなたと旦那様が、幸せに暮らしてくださったら、私はそれで満足です

こうして、私は再び来た時と同じ真冬の中に放り出された

私は荘園からそれほど遠くないところで、安い臨時のアルバイトを見つけた。お嬢様のことが心配だったので、ここなら時々会いに行けると思ったからだ

ひとりで慣れない生活をするのは厳しいものだった。ようやく落ち着くことができたのは、すでに冬がすぎさった頃だ

ある春の日の早朝、仕事に行こうとして、道端の一面にスイカズラが咲いていることに気づいた。その瞬間、無性にお嬢様に会いたくなって、なりふり構わず荘園に向かった

ただ遠くからお嬢様をひと目見るだけでよかった。今はどうしておられるだろう?お元気だろうか?無事に冬をおすごしになった?色んな思いが駆け巡った

荘園の外に着いた時には、夜の気配はすっかり取り払われていた。庭の柵の隙間からお嬢様の姿を見ようと、そわそわしながら待っていた

主のご加護だろうか、そう長く待つことはなかった。お嬢様が植木鉢を持って庭園に向かって歩くのを見た時、私は興奮して叫び出しそうだった

主よ……お嬢様、我がお嬢様。ずいぶん、お痩せに……

心が再び悲しみに包まれた。もう一度、彼女の手を取りたい、顔の泥を拭ってやりたい、強く抱きしめたい

お嬢様はきちんとヘアリボンを結び、飛び跳ねることもせず、落ちついた様子だった。あの事件からまだ数カ月しか経っていないのに……彼女は無垢な子供から少女になっていた

お嬢様をもっと見たい。でも気づかれてはいけない。今の自分を見たら、彼女はまた自分のせいだと責めてしまう。「別のいい雇い先を見つけた」という嘘がバレてしまう

お嬢様は花壇の前にしゃがんで、あの小さいスコップで土を掘っている。その時、庭にお嬢様が植えていた奇妙な花が全てなくなり、ガーデナーロボットがいることに気づいた

彼女は丁寧に土を掘っている。その表情は以前と何も変わらなかった。ただ、もう顔に泥を飛ばしたりはしなかった

彼女が鉢の中のスイカズラを花壇に移したのが見えた

ねぇちょっと、朝食はまだなの?

2階の窓から、見知らぬ少女が顔を出した。お嬢様は顔を上げて、少し慌てているようだった

ええ、できました……キッチンにあります。今日はお父様が早く出ていかれたので、3人分しか作っていません……

どうしてまた泥なんか掘ってるの?じゃあ、先に食べるわよ?

お嬢様の顔が真っ赤になった

はい、お姉様、お先に……

窓がピシャリと閉められた

あまりのショックで声が出ない。すぐに駆けつけて、どういうことなのか、事情を訊ねにいきたかった。なぜお嬢様が朝食をお作りに?あの少女は一体誰なのだろう?

お嬢様は再び頭を下げて、苗を植え続けた。その表情はとても寂しそうだ

……

私はどうしたらいいのだろうか?もう部外者なのだ、荘園の旦那様に訊ねることもできない。では、私に何ができるのだろう?

私は無力感と奥様への罪悪感に襲われた。外を数時間うろつき、だが荘園に足を踏み入れる勇気は出ない。その後、あの時にお嬢様に話しかけなかったことを深く後悔した

夢の中で、お嬢様の寂しそうな顔を見ると、彼女に会いたいという気持ちを抑えきれなくなった。でもその後、もう二度と庭でお嬢様の姿を見かけることはなかった

そして、迷って迷って旦那様宛に出した手紙も、一度も返信をもらうことができなかった

私は数年の歳月をかけて、ようやく自分の居場所を見つけた。花屋を開いたのだ。稼ぎは多くなかったが、なんとか生活を維持することはできた

お嬢様からの連絡もなく、不安と寂しさでいっぱいだったが、もう彼女に会いに行こうとはしなかった。新しい家族と新しい仲間がいるのだ。あれは私の誤解だったかもしれない

それでも、私は花屋がオープンした日、ショーウィンドウをお嬢様が好きな花で埋め尽くした。いつかの日か、お嬢様が通りかかって、お店に来てくださることを期待して

ようやく生活も安定してきて、お嬢様に会いに行ける自信もできて、期待に胸が膨らんできた直後、それは儚い夢になってしまった

街の住民は、「パニシング」のことを機械を殺人鬼に変えるものだと言った。人々が避難したあとに残されたのは、廃棄された機械の山だ。全ては神の悪いいたずらのようだった

お嬢様の家は豊かだし、こんな時でも困ることはないだろう。きっと旦那様がちゃんと彼女を守ってくれている。私はそう信じていたし、そう信じるしかなかった

荷物をまとめて避難所に向かう前に、最後にもう一度、荘園を訪れてみた

遠くに1台の軍用車両が走り去るのが見えた。あれはお嬢様を守るための兵隊だろう。大丈夫、お嬢様はきっと無事だ

だが、庭をよく見て――記憶とまったく異なる光景がそこにあった。長い間放置されたようで荒れ果て――花壇の隅にぽつんと、お嬢様が植えていたスイカズラがあった

完全に枯れた植物が灰色の土壁に張りつき、まるで標本のようだ。1羽の白い鳩がその植物の横に止まって鳴き声を響かせる。そして旋回したあと、大きく羽を広げて飛び立った

長い放浪で、私は時間の感覚を失い、苦痛で知覚も鈍っていた。ただ彼女に会いたいという想いだけが、私がかつて生活を営む人間であったことを思い出させてくれる

人としての苦しみはまだ我慢できた。しかし「パニシング」の前では、人は人ではなくなった。人格を失い、ただ感情に翻弄される獣になってしまう

赤潮が私のいるキャンプに押し寄せた時、最初に思ったのは、もしかしたら、ここで本当に自分の大切な人に会えるのかもしれない、ということだった

周りのスカベンジャーが叫びながら逃げ回っている時、私は静かに目を閉じて、奇跡が起こるのを待った

……幻だったのだろうか、それとも本当に神が降りてきたのだろうか?真実はわからない

私の前に突然、奥様が現れた……顔はぼやけてよく見えなかったが、優しい光を放ち、聖女のように天から舞い降り、私を優しく抱きしめた

私は両手を広げて彼女に抱きついた。これこそが待ち望んでいた私の安らぎ。その時、ふとその顔がはっきりと見えた。聖人は、奥様ではなく、成人したお嬢様だった

お嬢様はきっとこの世のどこかで、自分の望んだ未来を歩んでいるのだ。そう確信した人生の最後の瞬間、嬉し涙が頬を伝った