霧は深く立ち込め、森は深い靄に沈んでいた
それは静かな真夜中だった。カヴァンカの住民は皆、夢の中――郊外の森で何が起きているのか、誰ひとり気付いていなかった
朧げな夜の中、包みを抱えたふたつの影が身を縮めながら小道を駆け抜ける。やがて巨木の陰に身を潜め、肩で息をしていた
……ここまで逃げれば、さすがにもう安全だよな?
その声は、身に纏う高価な服とは不釣り合いなほどに震えていた
ハハ……アハハハ!ここまで来れば、あの間抜けな天使たちも追ってこれないでしょう!
さよなら、小銭にもならない貧乏人たち……マモンの財宝は、私たちのものよ!
女は高笑いしながら、荷物の中から1枚の金貨を取り出した。その金貨に施された精緻なドクロの刻印が、微かな光の中で妖しく輝いている
宝庫の扉を開ける呪文は、ちゃんと覚えてるよな?
シーッ……
女は男の口を塞いだ
壁に耳あり、よ。この話は後で――
その言葉が終わるより早く、女の胸を一閃の白刃が貫いた
血を吸い尽くした鋭い爪が引き抜かれると、木肌に汚れた痕が飛び散った。女は悲鳴を上げる間もなく、地面に崩れ落ちた
宝ヲ盗ム者ニハ……死ヲ!
女が倒れると、蒼白の体躯が現れた。にやけた口元は、まるで彼らの愚かさを嘲笑うようだった
うわああああ!!!
男は恐怖で震えながらも、死んだ妻の手から金貨を掴み、よろめきながら必死に森の奥へと逃げた
逃げる途中、高価な服は枝に引っかかって破れてしまった。丁寧に縫い上げられた上着も、今や血に汚れた雑巾に成り下がっていた
天使の喉から響く不気味な唸り声は森中に鳴り響き、振り返らずとも、男のすぐ背後まで迫っていることがわかった
……だ、誰か助けてくれ!こんなところで死にたくない!
その時、慈悲深き枢機主神の応えのごとく、前方にすらりとした人影が現れた
男はそれを救世主と見紛い、最後の力を振り絞って駆け寄り、その前に跪いた
お願いだ、助けてくれ!天使に追われてるんだ!
金ならある!いくらでもやる!だから頼む、助けてくれ――
ひと息に懇願と条件を言い終えると、男はようやく顔を上げてその人物の姿を見上げた
そこに立っていたのは、息を呑むほど美しい女性だった。艶やかな顔立ちの半分は髪飾りに隠れ、口元にうっすらと笑みを浮かべ、まるで品定めするように男を見下ろしている
彼女は真夜中にもかかわらず、日傘を手にしていた。助けを求める男の切迫など関係なく、散歩中の世間話のように、ゆっくりと唇を動かした
……それで、あなたは私にどんなチップをくださるんです?
男は狼狽し、次々と更なる報酬を並べ立て、誠意を示そうと必死になった
私はカヴァンカの税務官だ。町の財産は全て私のものだ!欲しいものがあれば、なんでもやろう!
そうだ、君を養女に迎えてもいい。いずれ税務官の地位も譲る!悪くない話だろ!?
……なぜ黙っている!?私は価値のある男だぞ!私が死ねば、何も得られなくなる!それでもいいのか!?
最後の言葉は、もはや交渉とは呼べぬ懇願だった。追い詰められた人間が放つ、剥き出しの脅しだ
しかし、長身の女性の眼差しは微動だにしなかった。彼女はただゆっくりと身を屈め、男の手から血に濡れた金貨を丁寧かつ確実に抜き取った
素晴らしいものをお持ちですね、これで十分ですわ
グチュッ――
次の瞬間、男の胸は背後から迫った天使によって貫かれた
それを見届けてから、彼女は日傘をひと振りし、天使の腐った頭部を一撃で貫いた
地に倒れた男は目を見開き、遠ざかる彼女の背に無言の問いを投げかけた――助けることができたのに、なぜ助けなかった?
……何を驚かれているのですか?愛しい
そう言って、彼女は優雅に日傘をくるくると回した。周囲の惨劇など、自分にはまったく無関係だというように
お父様、私のことをお忘れではありませんよね?私はあの時、囮として捨てられ、死に損なった「エレノア」です
……!!
男は死の淵で、何かを言おうと喉を震わせたが、吐き出されたのは更なる鮮血だけだった
彼は思い出した――10数年前、自分と妻が今日と同じように怒れる群衆に追われ、森に逃げ込んだことを
あの日は7歳の娘を連れていた。相談の末、子供には手を出さないだろうと踏んで、娘を囮としてわざと道端に残し、時間を稼ぐことにした
それから10数年、彼らは捨てた娘のことを時折思い出すこともあった。しかし、混沌とした災厄の時代に、まさか彼女が生き延びていたとは思いもしなかった
ご心配なく。「エレノア」はあなたたちの「贈り物」をちゃんと受け取りましたので……
あなたたちよりも、遥かに幸せに生きてみせますわ
彼女は金貨についた血を丁寧に拭い、懐にしまった。そして軽やかな足取りで、かつての悪夢の森を後にした
今回、賭けに勝ったのは「エレノア」だ
彼女が歩きながら口ずさんだのは、幼い頃、母が眠る前に歌ってくれた子守唄だった
{226|153|170}やあ魔王、お似合いの姿だな~ママ、私を見てよ~私は地獄の鉄道を突き進む~{226|153|170}
舞い落ちた雪片が傘を打ち、気付かぬほどの冷気が静かに彼女を包んだ
あら……雪?
彼女は手を差し出し、ひとひらの白を手の平に受け止めた。それはすぐに指先で溶けてゆく
そういえば、今日はクリスマスイブ……
そう呟くと、彼女は空を見上げて無垢な笑みを浮かべた
お父様、お母様、メリークリスマス
ラッキー38カジノ
数年前
数年前 ラッキー38カジノ
カジノの賑やかさは昼夜変わらず、カードテーブルの周りは肩をぶつけ合う客がひしめき、ウェイターたちは終わりのない注文に応え続けていた
幼いエレノアは、シャンパンとつまみを満載したトレイを抱え、スカートの裾をつまみながら客人たちの間を抜けて慎重に歩き、豪奢に飾られた個室に入った
グルートさん、ご注文の「ステラ·ラメント」をお持ちしました
そこに置いてください
男はカードから視線を逸らさず、静かに言った
……かしこまりました
洋装の少女は丁寧にトレイを置き、客人がそれ以上の指示を出さないのを確認すると、無言で退室しようとした
――ぐぅぅ……
だが、部屋に漂う料理の香りに誘われて鳴った彼女の腹の音が、客人の注意を引いてしまった
……
客人の視線に気付き、彼女は恥ずかしそうに俯いた。そして、帽子の影に赤らむ頬を隠しながら小さな声で弁明した
も、申し訳ございません……
お気になさらず。ただ……君たちの職場は、あまりいい待遇ではないようですね
客人は咎めることなく、視線を向かいのディーラーへと向けた
大変失礼いたしました、グルート様。待遇が悪いなんてことは決してないのですが……
エレノア、仕事の前にちゃんとご飯を食べたの?
世慣れたディーラーはさりげなく話題を少女自身へと返した
その、私……
エレノアはスカートの裾を強く握り、じっと床を見つめた。暗褐色の豪奢なカーペットに答えを探すかのようだった
もういいでしょう。説明はいりません
男はテーブルに残ったカードをまとめると、それを器用な手つきで切り始めた
カードの順番は知っていますか?
はい。大きい順からJupiter、Metis、Themis……
少女は緊張しながらも、すらすらと名を挙げた
男は眉間に小さな皺を寄せ、まるで珍しい宝を見つけたかのように少女を見つめた
教育を受けていたのですね?
…………
再び口を閉ざした少女は、余計なことを口走ったと悟った
この質問にも答えられませんか。なるほど、君たちのカジノはルールが多い……
慎ましい小間使いから情報を探り出すのを諦め、男は軽やかに構えるディーラーへ視線を戻した
次のゲームで、彼女にテーブルについてもらいたいのですが構いませんか?
もちろん、お望みのままに。ですが、なぜ彼女を?
ただの気まぐれ……そんなところです
男はカードを切る手を止め、綺麗に揃えたそれを少女の前に差し出した
君はどうですか?試してみますか?
あの、私……
ディーラーの視線が彼女を穿つように注ぐ中、エレノアは悟っていた。この誘いは、自分の運命を変える最後のチャンスかもしれないと
彼女は深く頷き、男からカードを受け取った
喜んで
その夜の出来事は、のちに「ギャンブラー·リリス」として焦土の辺境全体に名を轟かせる彼女の最初の1歩となった
路傍で拾われた、汚れた物乞いの少女「エレノア」は、一度教えられただけで驚異的な才能を見せた
数週間後――彼女は頭脳を武器に、厳格なカジノのルールから初めて勝利をもぎ取った
そして、宝くじに当たる奇跡のような幸運を手にした
かつて彼女を見下し、食べ物を奪っていた給仕たちも――
今では彼女がゲームに参加する度にテーブルに集い、彼女の一挙一動に目を凝らすようになった
オールイン
熱狂の歓声の中、テーブル越しに座る少女は再び全てのチップを賭け、周囲の給仕たちも湧き立って後に続いた
エレノアと同じく、私もオールインよ!
私も!
数十秒後、札がめくられた――ストレートフラッシュ。見事なカードが、まるで熟れた果実のようにテーブルに堂々と艶やかに横たわっていた
エレノア、あなたって本当にすごいわ!ラッキー38の幸運の女神ね!
歓声が波のように弾け、少女は給仕たちに抱きしめられ、頬にキスを受けた。たとえ本物の幸運の女神が舞い降りても、これほどの待遇を受けることはないだろう
それでは、今日はこれで失礼いたします
テーブルの向かいにいるディーラーの表情が険しいことに気付き、エレノアはチップを抱えて早々に立ち去ろうとした
待って、エレノア!皆、あなたが頼りなのよ!
もう少しだけいてよ!
ごめんなさい。でも、仕事があるので……
彼女は言葉を慎重に選びながら答えた。せっかく得た信頼を壊してしまわないように
遅れたら、チーフに怒られてしまいますから……
ああ、それなら急いだ方がいいわね。遅番に間に合わなくて、しかられるエレノアちゃんは見たくないもの
ようやく許しを得て、エレノアはほっと息を吐きながらその場を離れた
一方ディーラーは、エレノアが去ると静かにカードを片付け、テーブルの隠し引き出しから特殊なインクで加工されたカードをテーブルの上に広げた
……最近のエレノアは、ちょっと調子に乗りすぎね
明かりの落ちたホールで、疲れた様子のディーラーは丁寧に巻かれた葉巻に火をつけた
エレノアと取り巻きが手にした金は、本来ラッキー38カジノの財産よ。このままオーナーが黙っているはずがない
でも、正々堂々ゲームで勝った金なんだろ?
フン……だからあなたたちみたいな脳筋野郎は素人だって言われるのよ
ディーラーは細く長い指でトントンと叩きながら、葉巻の灰をガラス瓶に落とした
給仕がテーブルにつくことを禁止されていないのは、どうしてだと思う?
オーナーが自ら与えた報酬を、そのまま終わりのないゲームで回収するためよ
そうすれば、彼女たちは永遠に自由を得られない。客に仕えるだけの人生を繰り返すことになる……
じゃあ「テーブルで1発当てたら出られる」ってのは、全部嘘ってことか?
そこまで露骨に言わなくてもいいけどね
グルート様が気まぐれで彼女にカードを教え、ひとつの扉を開いたわ。でも、彼女はまだ知らないのよ。幸運という贈り物は、時に不幸の始まりだって
全てが崩れ去る日が来た時、あの扉の光を見なければよかったと思うかもしれないわ
葉巻を吸い終わるとディーラーは立ち上がり、クッションにかけていた上着を羽織った
時間の問題よ。近いうちに、オーナーが彼女に「幸運」の代償を払わせにくるわ
ドサッ――
吹き荒ぶ大雪の中、華奢な少女が乱暴に扉の外へ投げ出され、地面に激しく叩きつけられた
下級給仕エレノア!不正行為により、全財産没収及びラッキー38カジノから永久追放とする!
違う!私はやってない!
吹雪の中で少女は必死に顔を上げ、抗いの声を振り絞った
私が手に入れたものは、全部正々堂々と勝ち取ったもの!ルールを破ったことなんて一度もない!
だが、その訴えに応える者はなかった。白い嵐の中、給仕たちの密やかな囁きだけが、彼女の耳にはっきりと届いた
急に勝ちまくるなんておかしいと思った。やっぱりイカサマだったのよ
拾われた立場のくせに泥棒とはね。犬ですら尻尾を振って感謝するのに
違う……私は本当に何も……
言葉は次第に小さくなり、彼女は悟った――ここには、自分の味方などひとりもいない
もう行け。手荒なことはしたくない
彼女の前に立っている大きな男は、倒れていた彼女を静かに引き起こし、そっと耳元で囁いた
……今行けば、これだけで済む
……
カジノの外には晴れやかな昼の空が広がっていたが、凍てつくほどに寒かった。少女は降りしきる雪の街を彷徨いながら、「避難所」になりそうな場所を必死に探した
道行く人々の多くはラッキー38カジノを目指し、顔には抑えきれぬ欲望と興奮を浮かべている。この街の幻想の魔法に完全に呑まれ、誰もが次こそ幸運に恵まれると信じていた
あ、あの……奥様、ラッキー38カジノへ行かれるのですか?
少女は勇気を振り絞り、通りすがりの穏やかそうな中年の女性を呼び止めた
ええ、そうよ。その服装からすると……あなたはカジノの給仕?
はい、そうです。よろしければ、私がご案内いたします
カジノにある全てのゲームのルールも、最も効率的な賭け方も存じております……
女性の表情には疑念が浮かんだが、彼女は微かに震えながら、必死に言葉を紡いだ
報酬は後払いで構いません。ですから、奥様が勝利されたあと、少し分け前をいただければ……
言い終えても、女性はしばらく返事をしなかった。エレノアはひたすら俯き、顔を上げることすらできなかった
……いいわ。少し静かな場所で話しましょう
ようやく得られたのは肯定の返事だった。女性はすぐに踵を返して歩き出し、心変わりを恐れたエレノアは慌ててその後を追って、ふたりは街の奥の薄暗い路地へと入った
湿った狭い裏路地には、カビと腐敗した有機物の臭いが充満していた。エレノアにとっては、これまで触れたことのない世界だった。彼女の胸に微かな恐怖がよぎる
あ、あの、奥様……
その時、それまで穏やかだった女性の態度が豹変し、突如強烈な蹴りがエレノアの腹部を直撃した
なめるんじゃないよ、小娘。私が何も知らないと思ったの?私を出し抜いてイカサマを仕掛けるつもりなんでしょ。カジノのやつらとグルなのね
そんな古臭いやり方で、私を騙せるとでも?
容赦ない一撃に、喉の奥に甘ったるい血の味が広がり、肋骨が軋むのを感じた
ち、違います。誤解です――
彼女は必死に腕を上げて身を守ろうとしたが、尖ったヒールの蹴りが無情にも彼女の背中に振り下ろされた
まだ嘘をつくのね!小娘のくせになんて卑劣な――
その言葉が終わる前に火花のような爆音が響き渡り、まるでトマトを潰すかのように、銅弾が女の頭を吹き飛ばした
振り返ると、路地の奥に立つ男が散弾銃を静かに下ろし、口笛をひとつ吹いた
ビンゴ!外から来たデカいカモと、カジノから逃げてきた小せぇカモだな
チンピラは恐怖で固まったエレノアには目もくれず、女の遺体からマモン貨幣を漁った
チッ、しょっぺぇな。弾の無駄遣いだったか
やがて彼は唯一の戦利品である、1枚のブラックカードを手に立ち上がった。そして去り際に死体を蹴った
派手な格好してたから期待したのによ。ツケ払いで賭けるクズじゃねぇか……当てが外れたな
……待って!
目の前の地獄絵図に、エレノアの心の全てが崩れ去った。自分でも理由はわからない。ただ無意識に男のズボンの裾を掴んでいた
た、助けてくれてありがとうございます。でも……
なんだ、お嬢ちゃん?もしかしてお前を助けるために撃ったと思ってんのか?
エレノアは目を見開いた
まぁでも、お前はまだ使い道がありそうだな……
男はポケットから使い古された通信機を取り出し、エレノアの目の前で赤いボタンを押した
もしもし、治安局か?西通りで死体を見つけたんだが……
犯人?よく見えなかったが、どうもカジノから逃げてきた……
気がつけば、彼女は大通りを全力で駆け抜けていた
路地からどう逃げ出したのかもわからない。ひたすら走り続けた足の裏には痛みが広がり、背後から迫る血と腐臭の恐怖だけが、彼女を追い立てていた
あっ……!
勢い余って転び、地面に膝を打ちつけた。皮膚は裂け、血と泥にまみれた
カジノから逃げてきた娘だ、捕まえろ!
無慈悲な怒号が背中に突き刺さる。傷口を確認する間もなく即座に起き上がり、必死に走り続けた
あいつを止めろ!!
今まで自分に無関心だった人々が、今や群れをなして目の前に立ちはだかる。その中のひとり、保安官が銃を構えた――
!
一瞬の閃きで、彼女は近くの男の背後に身を滑り込ませた。銃声とともに放たれた弾丸が髪を掠める
なっ……!
うわっ!人が撃たれたぞ!!!
……?
熱い液体が頬に飛んだ。少女は必死に拭い続けたが、その赤い汚れは消えなかった
ご、ごめんなさい……
反射的に謝ったその相手は、無言のまま地面に崩れ落ちた
ち……違う……こんなつもりは……
誰も「罪人」の言葉など聞こうとはしない。人々は再び怒号の渦と化した
エレノアの目に映る世界は、あまりにも汚く騒々しかった。まるであの日、森で両親に置き去りにされた時のように
胸を押し潰すような恐怖に耐え、彼女は歯を食いしばって必死に走った
路地に入ったぞ、追え!
走りながら、エレノアの視界は霞んでいった。思わず手で目をこする
血……じゃない?
薄暗い小道で、ひとつ、またひとつと涙が落ち、冷たい空気に吸い込まれていった
私、泣いてる……?
……どうして?
両親に捨てられたあの日でさえ、彼女はひと粒の涙も流さなかった
……どうして、こんなことばかり私に起こるの?
どうして、こんな仕打ちを受けなきゃいけないの……?
混乱した思考の中で、彼女はこの感情が突如湧き上がった理由を探そうとしていた
風が顔を打ち、涙が頬を裂くように流れる。今まで張り詰めていた心の糸が、とうとうぷつりと切れてしまった。彼女はついに、声をあげて泣き出した
うっ……うああああああ――――!!!
至高の御方、どうしてなのですか?これだけの罰を受けても、まだ足りないと言うのですか……?
運命は、一体いつまで私を弄ぶのよ……!!!
その痛ましい絶叫は、細い路地の暗闇に響き渡った
降り積もる雪だけが、彼女の足跡と血を覆い隠しながら、何も話さぬ友のようにずっと寄り添っていた
ゴォォォン――
ほど近い教会から鐘の音が鳴り響き、重厚な音色が街の隅々にまで広がった
祈りの時間だ。少女の嗚咽は、荘厳な鐘の音に呑み込まれ、かき消された
この焦土の辺境では、強者が弱者を喰らうのが常だった。力と地位を持つ者は何度でもカードテーブルにつけるが、弱者は一度の失敗で跡形もなく消える
エレノアは極度に飢えていた。雪をひと掴みして口に運び、冷酷なこの世界の味を嚙みしめる――なぜ自分はいつも踏みにじられるのか、なぜ自分のチップはいつも奪われるのか
どうしても私に生きる希望はないというのなら……
聖堂の経典には、雪は至高の御方が人間に下す審判であると書かれていた
彼女はその審判全てを、我が身に受ける覚悟で走り続けた
私はテーブルについて、誰よりもうまく生き抜いてみせる……
そう呟いた彼女の口元には、皮肉めいた笑みがうっすらと浮かんでいた
「聖堂カジノ」にて
時は再び現在へ――
時は再び現在へ―― 「聖堂カジノ」にて
ディーラーは金縁で彩られたテーブルの上で、精巧に作られた金貨を1枚持ち上げ、「錬金術の魔法陣」の中央に置いた
ゲームが終わるまで、戦利品は外的干渉を受けない魔法陣によって完全に保護される。たとえ至高の御方であっても、魔法陣を解くことはできない
何百年もの間、焦土の辺境の人々はこの魔鬼の魔法陣でゲームの公正を保ってきた
……リリス?聖堂への挑発としてはこれ以上ない名前ね
テーブルの向かいに座る「天使長」は面白がるように笑い、この冒涜的な呼び名を受け入れたかのように見えた
ふふ、ラファエル夫人……あなたが気になるのは、私が持ってきた「チップ」だけでしょう?
ゲームへの参加を表明した人物は、大きなソファにもたれかかり、シャンパングラスを揺らしながら言った。彼女は、天使長が自分の条件を断るはずがないと確信していた
その通りよ。あなたは「マモンの宝庫」の鍵を持ってる。長らく空いていたマモンの座を思えば、あなたはこの席に座る資格があるわ
それで?あなたはこの勝負に、どんな報酬を求めるの?
欲しいものは、そう多くありません。ただ、あなたたちがかつてカヴァンカを私の父に与えたのなら……その5倍は欲しいですね
白いドレスを纏った淑女は5本の指を立てて、その野心をはっきりと示した
州全体を統括する税務官にしてください
ずいぶんと大きく出たものね
ラファエルは表情ひとつ変えずに言った。彼女の言葉を真剣に受け止めているのかいないのか、わからなかった
いいわ、条件を呑みましょう。ただし、聖堂カジノのルールは理解しているわね?
……もちろん。「負ければ、魂は天使のもの」
彼女は興奮を抑えきれない様子で、シャンパンで濡れた唇を舌でなぞった
負けを恐れる臆病者ではありませんので
ラファエル夫人が頷くと、傍らのディーラーは無言で「錬金術の魔法陣」を起動した。条件は整った――いよいよゲームスタートだ
天使長は配られたカードを手に取り、無表情で一瞥しただけで、静かに宣言した
ベット
コール
白いドレスの女性は怯むことなく、相手に食らいついた
無理に挑発的な演技をしなくていいのよ
考える時間ならたっぷりあげるわ
お気遣いなく。7歳の頃からやっていますので
彼女は誇張した笑みを浮かべ、その誇り高き自信を隠そうともしなかった
疑うことなかれ……私こそ、焦土の辺境で最強のギャンブラーですから
そうだったわね。今や天下にその名を知られる、無敗伝説の「ギャンブラー·リリス」ですもの。私が心配する必要もないわね
ラファエル夫人は含み笑いを浮かべながら、無造作に次のカードを出した
このラウンドは、リリス様の勝利でございます
勝敗が告げられると、リリスは相手に向かって「ほらね?」と言わんばかりの挑発的な視線を投げかけた
次
リリスの挑発など意に介さず、ラファエル夫人は淡々とゲームの続行を告げた
時の針が進むごとに、勝負の緊張感が高まっていく
幾度もの勝負を経て、ついにふたりの手元には最後のチップが1枚ずつ残った
だが、どちらも表情には余裕を残している。これが命を賭けた最終戦ではなく、ただの社交ゲームであるかのように振る舞っていた
そして、最終ラウンド。リリスは静かに手元のカードをめくった
あら?
思わず吹き出しそうになり、抑えていた笑みがこぼれた
無理もない、それは堂々たるハートのエース。これ以上ない最高の手札だ
ごめんなさい、ラファエル夫人。私の勝ちです――
カードを持ち上げて勝利を示そうとした瞬間、突然腹部に激痛が走った
リリスが自分の腹部を見ると、赤い液体が静かに広がるのが見えた
……あら?
淑女は依然としてカードを掲げたまま、優雅に銃を撃ったディーラーに疑問の眼差しを向けた
天使長が裏切るのは驚くことではない。ただ魔鬼の錬金術の魔法陣は、至高の御方ですら解けない。自分が死ねば、金貨は永遠に取り出せなくなる
……てっきり、あなたたち天使は「マモンの鍵」を優先するかと思っていました
確かに「マモンの鍵」は重要よ。ただ、あの魔法陣に置いてある金貨は偽物なの
硝煙がくゆる中、ラファエル夫人はゆっくりと立ち上がり、見覚えのある金貨をテーブルの中央へ押し出した
数日前、「別のルート」でマモンの魔力が宿る代替品を手に入れたのよ。そしてちょうどそのタイミングであなたが訪ねてきた……偶然って不思議ね
どうやら錬金術の魔法陣でも、黄金の王の術を正確に見抜くことはできなかったようね
よくも……!
端麗な顔に、初めて抑えきれぬ激怒が浮かんだ。それは敗北への羞恥ではない。神聖なるテーブルでイカサマを働いた、その事実が許せなかったのだ
聖堂カジノなんて、結局嘘で飾られた罠だったのね……!天使たる者が、自ら定めたルールすら守らないなんて!
家畜以下の人間相手に、ルールを守る必要なんてないわ
ラファエル夫人はマモンの鍵をしまい、扉へと向かった
そして帽子のつばを整えると、ソファに崩れ落ちた敵を一瞥し、こう言い放った
勘違いしているようだけど……マモンの財宝はもともと聖堂の所有物。初めから、あなたに交渉の資格なんてなかったのよ
この裏切り者……!
怒号を発しようとした瞬間、傍らにいた人間に口を塞がれた
綺麗に片付けなさい
その冷たい命令とともに、鋭利なハサミが彼女の胸元に深々と突き刺さった
ディーラーは静寂を重んじる主人の性格をよく知っているのだろう。リリスの喉を強く押さえ、悲鳴を出させなかった。漏れ出たのは、じわりと滲む鮮血だけだった
ぐっ……!
それでも彼女はもがき続け、胸の怒りを必死に吐き出そうとした。無様に、野良犬のように野垂れ死ぬわけにはいかない――
ッ……!
彼女は血のように赤い瞳を見開き、遠ざかるラファエルの背を憎悪の炎で焼き尽くすように睨みつけた。喉奥から、呪詛が渦を巻いていた
ぐああっ!
彼女の歯が男の手の平から肉を引きちぎり、激痛に叫びが洩れる
往生際の悪い……この狂犬め!
男は怒りに任せて、側にあった重厚な花瓶を掴み、彼女の後頭部へと振り下ろした
抵抗はもはや叶わず、リリスの意識は闇へと沈み、力なく床に崩れ落ちた
死の間際、彼女はもう一度、両親の夢を見た
森で捨てられたあの日と同じく、彼女は1枚の金貨を握りしめながら、大雪の中を裸足で歩いていた
別れ際、母親は彼女に最後の1枚の金貨を手渡し、こう言った――
「あなたを見捨てたなんて言わないでね。生き延びられるかどうかは、あなた次第よ」
どれほど歩いたのかわからない。彼女は1本の大きな木の前にたどり着き、そこで足を止めた
…………
ふたつの死体が互いに身を寄せ合うように木にもたれ、指を絡ませている。その手の平には、1枚の光る金貨が握られていた
あなたたちは哀れなクズでしたけど……
彼女はしゃがみ込んで、その髪に積もった雪をそっと払ってやった
ねぇ、教えてくれませんか?1枚の金貨のために死ぬ人生って、本当に意味があるのですか?
…………
当然、返事などあるはずもない。彼女はつまらなそうに立ち上がり、足下の雪を蹴り飛ばした
まあ、最後は私もあなたたちと大差なかったようですが
もし、あなたたちが生きていたら……きっと私のことを笑ったでしょうね
氷の花がやむことなく降り注ぐ。彼女は両腕を広げ、雪の中を優雅なステップで舞い始めた。くるくると、何度も何度も
ラララ……
優雅な旋律が森の中に響く。彼女は口ずさみながら、自らに迫る死を称えた
人はよく言う――死の直前には人生が走馬灯のように駆け巡ると。もし自分の人生が果てしなく続く吹雪だったのなら……それも悪くはない
……でも、一度くらいは見てみたかったな
踊り疲れた体を雪に横たえ、彼女は天を仰いだ。そこに浮かぶ真っ白な月――災変以降、焦土の辺境ではもう見られなくなった光景だった
現実の月も……こんな感じなのかしら
少し離れたところから見知らぬ声が聞こえ、彼女は顔を上げた
いつの間にか背後にあった大樹は消えていて、代わりに雪中から現れたのは、灰色の衣を纏った人物だった
見覚えもなければ、なぜこの夢の中に現れたのかもわからない。彼女はいつものように仮面を被り、礼儀正しく微笑んだ
こんばんは。何かお困りですか?
逆に問われる形となり、彼女が好む流れではなくなった
……簡単に言うと、天使の罠にかかってしまったんです
それでも彼女は上品な笑みを崩さず、話題の主導権を取り戻そうとした
私は、一度だって悪いことなんてしてきませんでした。なのにどうしてラファエル様は、私にこんな裁きを下したのでしょう?
もしかしたら……「聖堂カジノ」で彼女がイカサマしているのを見抜いたから、口封じされたのかもしれませんね
彼女の口から出る嘘はとても流暢だった。それはもう彼女の呼吸のようなもの。命が終わる時でさえ、その癖は変わらない
灰色の衣を纏った人物は黙り込んだ。彼女の言葉に真実がどれほどあるのか、見極めようとしているようだった
でも私はすぐに死ぬでしょうし、この秘密も誰にも知られることなく、棺まで持っていくことになりますね
意外にも、相手は彼女が撒いた餌に食いついた
どのようにですか?まさか枢機主神の残躯のように「パッ」と棺から起き上がらせるとか?
その滑稽な想像に、彼女自身が思わず吹き出した
馬鹿げた戯れ言とはわかっているが、一瞬、彼女は思わず真剣になった
……代償は?
地獄列車で地獄中を走り回り、捕らえた人をアケローン川に蹴り落とすという……あの伝説の悪魔ですか?
……アハハハハ!
リリスは笑った。ただ、今回は高揚からくる笑いだった
相手も自分の言葉を全て信じているわけではないだろう。だがそれは問題ではない。自分の「チップ」は、それほど重く、魅力的だということをわかっている
運命はここで終わると思っていたが、違った。自分には、まだ冥府の川から引き戻されるだけの価値があるようだ
やはり、最後の瞬間まで誰にもわからない。テーブルの奥に潜む切り札の存在は――
沸き上がる衝動を抑えきれず、彼女は雪の中から立ち上がった。仰ぎ見るように、相手の前に立つ
いいでしょう、交渉成立です
来たれ!
人間は身を屈め、彼女の血塗られた胸の空洞へと手を差し入れた
すると、瞬く間に赤く染まった糸がうねりを上げて傷口から飛び出し、ふたりを包み込む艶やかな布へと織り上がった
……もう少し優しくできません?
骨の髄まで響くような痛みの中、彼女はなおも笑みを絶やさず、逆に相手の手首を強く握り返した
治らない傷跡が残ったら、どうしてくれるんです?
相手はその問いに答えず、ただ静かに赤い深淵へと手を伸ばし続けた
グレイレイヴン
混沌とした赤い光の中心で、人間は35gしかない魂をしっかりと掴んだ
次の瞬間、不可逆の魔力が彼女の肉体を作り替えてゆく
アアアア……!!!
空を裂くほどの吹雪が渦を巻き、彼女の叫びを呑み込もうとした
それでも彼女は叫び続けた。三界の全てに聞かせるために、彼女が嘘にまみれた死に屈しないことを告げるために――
焦土の辺境で敗北を知らぬギャンブラー、世界すら欺く稀代の詐術師。そのリリスが今、煉獄の淵から舞い戻る
もう誰にも、彼女の口を塞ぐことはできない
人間は彼女の胸から手を引き抜いた。新生を得た騎士は日傘で体を支えながら、白い荒野から立ち上がった
その胸には、尽きることなき飢えが渦巻いていた。目に映る全てを喰らい尽くしたいという衝動が、魂ごと軋ませている
以後、この悪魔の胸には「決して満たされぬ食欲」が宿ることとなる
傘をくるりと回すと、空に赤い円が咲き、舞い降りる氷晶を遮った
喰うか、喰われるか――賭けとは、常にそのどちらかです
血の契約者様、全てを賭ける覚悟はよろしいですか?
行け!君に世界を覆す
手にしたカードで、時の断面を切り裂け