音もなく、微かな光さえ絶え、ただ深い闇に沈んでいく……
深淵に落ちる実感は光とともに剥ぎ取られ、感覚は粘つく虚無に締め上げられ、呼吸も奪われていく
必死に目を見開いた。思考がアケローン川に呑み込まれる直前、微かに揺れる光が見えた気がした
ゴンッ――
ガラス瓶が一直線に頭めがけて飛んできた。轟く破裂音とともに、激しい痛みが頭頂を貫く
次の瞬間、温かい鮮血が額を伝った。眩暈に襲われて地面に倒れ込むと、朧げな視界に広がっているのは小さな酒場だった
頭の痛みが全身を襲い、身体が痙攣し、もはや自らの意志では動かせない。意識が世界から引き離されていく。それはガラス瓶で殴られた痛みよりも、ずっと痛ましい断絶だった
誰かが自分の頭上に屈みこむようにして、何度も自分の名前を呼んでいる気がした
……フィ……
フィド!はは、ざまあみろ!こいつ頭が割れちまった!
別の声が魂を鋭く貫いた。その響きは重く鳴り響く鐘の音のようで、逆らうことを許さぬ威厳を帯びていた
フィデロ·マルチネス!
「渡し守」たる私の前で、無駄な足掻きはやめなさい。あなたはもう死んだのよ。さっさと私についてきなさい
赤髪の「渡し守」は呆然としている新人の死鬼/人間>を無造作に掴み、3等客車へと放り投げた
頭から座席に叩きつけられたその瞬間、その新人の死鬼/人間>はぼんやりと自分が置かれた状況を理解し始めた
次の瞬間、思考が再び何かに引きずられるようにして奪われた
――マイク·ドレイヴン!
またしてもアケローン川に落ちた名が呼ばれた
マイクという名の男の視界から世界を視ていた。塵煙舞う戦場に駆け出し、震える両手を高く掲げ、必死に叫んだ
ツウが戦場で命を落とした!鉄逝が白隼を殺した!焦土を守るべきだった鋼鉄軍団が、一体なぜここまで落ちぶれた?
まだ革命を成し遂げてない、我々の軍は聖堂に攻め込んですらいない。それなのに、かつてともに戦った兄弟姉妹たちの背中に銃を向けるなんて!
なんと哀れな!
彼/人間>が怒りを込めて悲鳴を上げたその瞬間、鉄逝の部下が銃口をかつての戦友に向けているのが見えた
……もうやめてくれ
彼/人間>の視界は、激しく前へと動いた。そして、数発の銃声が轟いたかと思うと、全ては静寂の中に沈んだ
腹に新たな銃創が現れた。内臓を引き裂かれるような痛みが全身に走り、彼/人間>は地面で苦痛に身をよじった
またしても、死をもたらすほどの痛みが思考を容赦なく引き裂いていく
その後の「物語」は予想通りだった……「渡し守」がこの新たな亡霊を引き取り、地獄列車へと送り込んだ
地獄列車がアケローン川の上に差しかかった時、密かに忍び込んでいた魔女ハイタンが天使の群れを引き寄せたせいで、列車が破壊され、半分が川に沈んだ
そして、視界は川の水の中に引き戻された
そこからなおも落ち続けていた。先ほど視たのは、アケローン川の「石」となった者たちの死だった
水の中には時間が存在しない。無数の死が幾重にも重なり合い、一斉に繰り広げられた。幾万の痛みが牙を剥き、肉体が悲鳴を上げ、こちらを石に変えようとしていた
こんな死に方こそ、この世で最も痛ましく、最も声なき死
水底でもがき、魂を吐き出してしまいそうだった。視界が再びぼやけ始め、次なる魂の鞭打ちが始まろうとした時……
赤い影にそっと包み込まれた
再び目を開けた時、痛みに襲われる覚悟を決めた。しかし、そこにあったのは、夕暮れの色に染まる穏やかな光景だった
燃えるように赤い髪が夕風にそよぎ、鼻先をくすぐる
そう遠くない場所で人々が馬を整え、剣を磨いていた。迫る戦の気配が沈黙の中に息づいていた
これはまだ黎明の法則が存在していた頃。人々は、涼やかな秋の夜を当たり前のように享受していた。このような日々が崩れ去る未来など、まだ誰も知らなかった
……
旗を担った17歳の少女は静かに息を吐き、傍らの旗を蹴り飛ばした。そこには、神の象徴とされる印が誇らしげに描かれている
ふたりの領主が塩まみれの土地を奪い合うのは自由だけど、なぜわざわざ神の名を掲げる必要があるの?
かつてあの塩害地で神が奇跡を起こしたそうよ。この戦争は神の慈愛を得るため。神も明日の戦いには注目してるんでしょう
隣の女医はそう言いながら、乾パンをひとつ渡してきた
もっと食べて、ヴィラ。栄養を取らないと
「神の慈愛を得るため」って?グウィネス、まさかそれを本気に?
もし彼らが強欲と偽善を素直に認めて、ただ領土をパズルのように継ぎ足していきたいだけだって白状したら、少しは見直したかも
ヴィラは夕焼けに目を細め、戦場で敵に噛みつくような勢いで乾パンを噛み千切った
悪魔を倒すでもなく、誰かの命を繋ぐでもない戦争なんて、何の意味があるのかしら
この滑稽な旗を担ぐより、この麦畑の世話とか、倉庫でトウモロコシをひくとか、そういうことの方がよっぽど有意義だわ
ヴィラ、もっと敬虔でありなさい。敬虔な者は未来で報われる。あなたが明日この旗を担ぎ、神のために戦えば、未来はきっと……
――私は1日2回の食事の時に、乾パンをひとつずつもらえる
彼女はグウィネスの話を遮るように立ち上がり、武器を手にして立ち去ろうとした
……とはいえ、腹が空いては戦もできぬ、か
ところでオーロラを見なかった?彼女の武器は誰かの拾いものだから、ちゃんと修理してあげないと。明日は彼女の初陣だし、酷い目に遭ったら大変だから
そんなわけ――
シュッ――
「そんなわけ――」それが、グウィネスの最期の言葉となった
ヴィラの思考が途切れた。空気を裂く矢の音、それは彼女が決して忘れられない音だった
しまった!グウィネス、敵襲よ――
!!!
……うっ……ゴホッ!
グウィネスは力なく、首元を貫かんとする矢を握った。血は滝のように溢れ出し、口を開けても、喉からはただ鮮血がとめどなく流れ出るだけだった
そんなわけ――
滑稽な土地争いの戦争は、予定よりも1日早く、突如始まった
その死からあまりにも時間が経ちすぎたせいか、ヴィラ自身もその後のことはよく覚えていない。ただあの旗を投げ捨て、刀を振りかざして突進したことだけは覚えている
オーロラもまた犠牲となった
ヴィラはその戦争で全てを失った。混乱した軍勢の中で怒りの叫びを上げ、穏やかな夕陽が射す中で、いくつもの首をはねた
最後、彼女は血が泥と化した麦畑の中で胸を貫かれた
その時、真っ赤な太陽が地平線へと沈んでいった。彼女は決して瞼を閉じず、その光景を目に焼きつけた
彼女は思った――
(敬虔とは呼べなくても、ずっと聖堂と領主のために戦ってきた)
(至高の御方は、私を迎えに来てくれるだろうか?)
光がその屍体の網膜を焼いた。最後の瞬間、彼女は神聖な光を見たような気がした
(あれが……素晴らしき彼方?)
しかし、光の後に響いたのは列車の轟音だった。金髪の女が混乱した戦場を一瞥したあと、まるで何事もなかったように護衛に命令を発し、亡霊たちを列車へと運ばせた
その時、ひときわ大きな、叫ぶような声が聞こえた
よぉ。また死人の新入りが来たか。お前らが新しい同僚ってわけか?
――お前ら、どんな悪いことをしたんだ?
奇妙な光景の欠片が深淵の中で静かに溶けていく。視界が「ヴィラ」に重ねられたまま、再び闇に呑まれた
さっさと起きて!
1回、2回、3回――
骨まで砕きそうな力で胸を叩きつけられた。その衝撃は地を波が這う勢いで、全身を貫いていく
これは命令よ。ここでギブアップなんてありえない
早く――起きなさいよ!
灼けつくような熱が喉の奥からこみ上げ、思わず口を開き、それを吐き出した
ひと筋のまばゆい炎が目の前で跳ね、相手の輪郭を照らし出す
――そこにいたのは、死の騎士だった
弧を描く洞窟の天井の下、彼女の顔だけが唯一はっきりと見えるものだった
……やっとお目覚めね
当たり前よ。自分が輪廻したとでも思った?聖堂へたどり着いた?天使にでもなったつもり?
歴戦の騎士は隣で斜めに座り、まだ両手をそっとこちらの胸に置いたままにしている。けれど、口をついて出る言葉の辛辣さはいつも通りだった
試してみる?
あの醜い天使たちみたいに、人に噛みつきたい衝動が湧くかどうか
ほら、私の首を嚙んでみなさいよ?
彼女は不敵な笑みを浮かべながら顎をぐっと上げ、その白い喉元をこちらの目の前にさらけ出した
アハ、牙を剥く化け物になっちゃったの?
つまらないことを言えるんだから、まぁ頭は大丈夫ってところかしら
もう大丈夫そうね。ほら立って
体を起こして、身に着けていた装備を確認した。川に流された物はなさそうだ
水の中はとても混沌としていた。でも、ずっとお互い離れずにいたから、あなたを引き上げることができた
身体にはまだ痛みが蠢いていた。ほんの一瞬川の中にいただけなのに、幾人もの他人の死を味わったのだ
それは、決して心地よいものではなかった。特に最後に見た光景は、忘れようとしても忘れられない
死の騎士は手際よく手を動かし、垂れた髪を冠の後ろへなでつけた。そして、少しだけ眉を上げた
当然でしょ。アケローン川が死水と化したあと、そこに投げ込まれた「石」は新しい命には還れず、川の中に留まるしかない
行き場を失った「石」たちの苦痛は川の水に染み込み、そこに留まり続けてる。その中に落ちれば、それを何度も「視」ざるを得ないのよ
……
こちらが彼女の世界を視たと知り、ヴィラは一瞬言葉を詰まらせた
私の死だって他の人と同じ、平凡でつまらない最期よ。視られても別に何ともないわ
至高の御方が私を迎えてくれると?神の加護を受けるような貴族でもあるまいし。あの頃の私は若かったけど、手にかけた命は数知れない。戦の度に最前線で人を殺したもの
血にまみれたその罪を考えれば、3等客車に放り込まれて、焚火の谷に送られても何も不思議じゃないでしょう?
それに、私にとって焚火の谷は悪いものじゃなかったの。少なくとも、そこにはアトランティスがあったから
アトランティスの悪魔たちは、私に無理やり人間界へ戻って、あの退屈な日々を再び味わえとは言わなかったわ。その後のことは、もう話したはず
いつの間にか言葉から辛辣さが消え、どこか穏やかで温かい響きがあった
……ええ、その通りよ。だからアケローン川に落ちたのは、なんとも不快だった
あなたと同じく、私も川の中で彼らの苦しみを味わい、ただ黙って痛みに苛まれるしかなかった
聖堂は彼らに極刑を与え、この川に沈めた。彼らの怒りと嘆きは、私が背負うしかない
魔女ハイタンは今まさに過ちを犯そうとしているわ。たとえ彼女が聖堂とどんな密約を交わしていようとも、全てを暴き出して、焼き尽くしてやる
馴染み深い灼熱の炎が騎士の瞳の奥で揺れていた。それは、揺るがぬ信念の証だった
彼女は武器を握り締め、これから始まる戦闘の準備を整えた
まずは周辺の環境を確認する。この下流の道へは、川の中の「石」たちが案内してくれたの。彼らの導きがなければ、私たちはここにたどり着くことさえ叶わなかった
ヴィラが槍先を高く掲げると、お互いの顔を照らしていた炎が突然燃え盛り、洞窟の天井までも照らし出した
天使の口から洩れる不気味な呟き声も、今は聞こえない。この辺りは長い間忘れ去られた場所のようだ
真紅の苔が天井を覆い、古びたレンガがこの密やかな空間を作っている。格子状に並ぶ石の隙間からは、じわじわと黒い泥が滲み出ていた
そんなところね。アケローン川は用水路だけど、こんなにも入り組んで広がっているとはね……私でさえこの場所の存在を知らなかった。ここは、アトランティスの真下よ
死の王は領地と魔城を悪魔の領主に与える。歴代のアトランティスの主は「渡し守」と呼ばれ、地獄最強の名を冠されてきたけど、実はふたつの世界を繋ぐ「橋」なのよ
私が「渡し守」を受け継いだ時、状況があまりにも切迫していて、アトランティスの全てを把握する時間がなかった。まさかこんな大きな空間が地下に広がっているなんて
でも、ここで育った魔女ハイタンなら、この場所を熟知しているはず
彼女は混沌の使者を操り、天使を召喚する秘法門を開いた。あの白いクズどもを引き連れて城を守らせ、私の前で威張り散らしていた
今、彼女が何より恐れているのは、私たちが使者を見つけ出すこと。必死に隠しているはずよ
どう思う?もしかしたら……ここに隠されてるかしら?
あら?怖いの?
そう言って慎重に武器を確認し、まずはベルトに問題がないことを確かめた。血弾はまだある。しばらくの戦闘は持ちこたえられそうだ
魔女ハイタンと聖堂の畜生どもだけじゃ、なんだか物足りないわね
私の配下の悪魔は、あなたたち人間の鋼鉄軍団さえも恐れなかった。まして今は、あなたというお節介な血の契約者が側にいる
彼女がふと振り返った。薄暗い炎が、その頬を妖しく照らした
その顔には興味深げな笑みが浮かんでいた。唇の端がつり上がり、いつでも戦いを始めてやるぞという嗜虐的な弧を描いている
ほら、私が言った通り、もう穢れたやつらが死に急いで飛び込んできた
鋭い棘が空気を切り裂くような高周波が耳元をかすめ、隣の嘲るような声をかき消した
骨ばった白い指が突如壁の陰から現れ、死の騎士が立つ場所に襲いかかってきた
死ね!
死の騎士は槍を振り上げ、迷いなく斬撃を繰り出した
天使の切断された四肢が、枯れ枝のように地に落ちた。死の騎士は、それを槍で薙ぎ払った
アハ、私の言った通りね。ハイタンの隠し事は相変わらずお粗末だわ。天使がいるということは、近くに使者がいるはずよ
まるでヴィラの予測を証明するかのように、闇に包まれた廊下の角の奥、そこから響く唸り声が天使の大群が待ち伏せていることを告げていた
退屈なエンディングは嫌いなの。わかってるわよね、血の契約者さん?
いつもの挑発的な言葉だったが、その中に信頼の響きを感じ取った
死の騎士は膝で双頭槍を押し、こちらと一瞬視線を交わしてから、先陣を切って天使の波へと突入した
これから始まる血戦で、彼女は自らの背中を同行者に預ける覚悟を見せていた
礼儀を弁えない穢れし者ども、アトランティスから失せなさい!
――ギィッ!
闇の中に潜む天使がざわめき、ヴィラの宣戦に対して、耳をつんざくような咆哮で応じた
略奪!支配!
