Story Reader / 叙事余録 / ER13 織り奏でる緒言 / Story
イシスは闇と埃の中で身を縮め、じっとしていた
休息の時ですら静寂を保つよう教え込まれた彼女には、
僅かな物音ですら卑しく下劣なものだった
金色の光が細い窓の隙間を通り、遠く離れた青白い壁紙に差し込むころ、
イシスモンツァノ夫人がまた彼女を呼びつけるはずだ。闇と埃の中で身を縮め、じっとしていた
彼女は忠実であり、モンツァノ夫人にとって使い勝手のいい従者でなくてはならない
足を地面に踏み出した瞬間、
身体の一部が誰かの視線に晒されている限り、
笑みを絶やさず、喜んで奉仕しなければならない
それこそがモンツァノ家にふさわしいメイドだ
夜明け前のまだ目が覚め切らない瞬間だけが、
彼女が自身の身体を真に支配できる時間だった
規律的な鉄管を叩く音が、イシスの1日で最も幸せな瞑想の時間を破った
ちょっと！まだ太陽は昇っていないわよ！
イシス、またここに隠れているの。お客様がもうすぐご到着よ
彼女は頬を膨らませていた不満をぐっと飲み込み、慌てて立ち上がった
やっと顔を出したわね、このじゃじゃ馬娘。早く準備しなさい
そのエプロンの汚れは何？
あ、あはは
笑いごとじゃありません！
イシス、シュエットを見習いなさい！
メイド長は眉を吊り上げ、今にも棒で叩きそうな勢いで彼女を睨みつけた
彼女たちが声を上げて笑うことは決してなかった。笑い声さえも抑えるよう、全員が教え込まれていた
主人や客人が使用人の笑い声を聞けば、自分を嘲っているのかと思われかねないからだ
ここでは、過ちを犯せばすぐに容赦のない罰が下される
肉体的な痛みよりも、精神的な苦痛や拷問の方が遥かに耐えがたい
イシスは軽蔑の表情で口を尖らせた。当然のことながら、ふたりのうちシュエットはいい子で、彼女は悪い子として比較される立場にあった
お客様のリストは確認しているわね？では、モンツァノ夫人のもとへ顔を出して
メイドたちは清潔な食器をきちんと並べ、家具や床を掃除するために行ったり来たりしていた
食卓に座っているのはモンツァノ夫人ひとりだけで、令嬢の姿は見当たらないようだ
ともに家業で多忙を極めており、夫人と令嬢が一緒に食事をすることは滅多になかった
ある崇高な理想のために、モンツァノ夫人は屋敷の全員が自ら率先して協力し合うことを望んでいた
晩餐会は完璧に遂行するわよ。一切のミスも、たったひとりでも客人にご不興を買うのは許されないわ
はい、ご夫人様
常に自分の行動を顧みなさい。私に恥をかかせる者がいるなんて考えたくもないわ
はい、ご夫人様
氷がモンツァノ夫人のウイスキーに溶け込み、カランと音を立てる。メイドたちは整然と一礼を返した
盛大な晩餐会がまもなく始まる
邸宅の壮麗な大広間がシャンデリアの光に照らされ、虹色の光が反射し華麗な金箔の家具を彩る。流行りのバーチャルリアリティではなく、目で見て触れられる本物の贅沢だ
この豪邸は現在、「アドリアーナ·モンツァノ」と名付けられている
この尊き名をより高く響かせるために、邸宅内の全てのメイドが全力を尽くしていた
黒と白の制服には完璧なレースの飾り、磨かれた靴が床の上でカツカツと音を立てる。彼女たちは列をなし、黄金色に輝くシャンパンを載せた銀のトレイを次々と運んでいく
赤い絨毯を踏みしめる来賓たちから響き渡る気まぐれな笑い声に包まれながら、シュエットは落ち着いた微笑を浮かべて恭しく頷いた――それも演出の一部だった
ようこそ
全てが整然と動き、まるでバレエの振りつけのようだ
訓練によって裏付けされた優雅さと精緻さの縮図だけが、モンツァノ夫人が約束した輝かしい未来が絵空事ではないことを証明できるのだ
財で手に入るのは贅沢品だけでなく、このような美しさと従順さを備えた未来ですらも手に入る。モンツァノ夫人の金色に輝く爪は、ゲストたちにそう物語っていた
シュエットとイシスの視線が交わる。自分たちは個人として見てもらえない存在であり、富裕層に売り込む嘘のために利用される夫人のゲームの駒なのだ
晩餐会が盛り上がり、味覚が刺激されていくにつれて、客たちの興奮と酔いも高まっていく
皆様もご存知の通り、世界の重要な決定が行われるのは、公的な議事堂でも人々に注目される国際会議の場でもありません
今この時のように、こうしてひっそりと閑静な邸宅で話し合い、慎重に検討されるものです
だからこそ、私たちがこれから成し遂げる偉業をともに見届けていただくため、皆様をこの場にお招きしました
時代を超越した巨大な艦船の投影が長テーブルの上にゆっくりと現れ、全ての客人の目に確実に映るよう、自動で回転しながら細部が拡大されていった
エデンIII型だ
たとえ外の世界で災害が起ころうとも、私たちの安定した快適な生活を支える厚い壁は、それを決して通しはしません
この厚い壁の外の世界が、高く空に浮かぶエデンの園に何をもたらせるでしょうか？皆様の富は健在のまま、何ひとつ生活に変化をもたらすことはありません
より詳細な遺言書を作成するだけで、子々孫々に至るまで安寧の時を享受できることをお約束いたします
誰も新たな戦争や変化が起こるとは微塵も考えておらず、理性と宇宙探索の時代に激しい暴力行為が行われるなど、絶対にありえないことだと思われていた
これは客人たちをこの方舟に乗せるための夫人の方便として、最も効果的な言葉だった。乗客たちは自らの富と忠誠の一部を差し出すだけで、乗船券を手に入れられるのだ
盛り上がる宴の場に、突然ひとりの人影がよろめきながら乱入した
まあ、ハウスマン男爵、お待ちしておりました。どうぞ、お席はちゃんとご用意していますわ
モンツァノ！毒を盛ったのはお前だな！お前ら！絶対にこの毒酒を飲むんじゃないぞ！
賑やかだった晩餐会の雰囲気が、この突然の出来事によって一瞬で冷え込んだ。全ての視線が宴の主催者である夫人に注がれている
モンツァノは気にも留めず、耳元の髪を弄りながら注目を享受していた
近頃姿をお見かけしていませんでしたが、ずいぶんとやつれてしまわれました？心臓発作で美味しいお酒を楽しめなくなってしまったのでは？
これほど耳目を集めながら、本当に冗談がお上手ですこと
シュエット、ハウスマン男爵を貴賓室にお連れして。顔色が戻られたら、また晩餐会にお運びいただいてね
かしこまりました、ご夫人様
メイドが客人を支えながら静かに退場すると、モンツァノは落ち着いた表情で空いた席へ歩み寄り、灯りに照らされて黄金のように輝く手つかずのシャンパングラスを掲げた
この場にお集まりの皆様は、いずれも高いお身分とご才覚をお持ちの方々。それなのに、毒などという下劣な手段を疑うとは……被害妄想にでも陥られたのかしら？
その場にいた者たちは顔を寄せ合い、ひそひそと囁き合うと、従者に下がるよう命じた
決して終わらぬ極楽の晩餐会に。そして……真のエデンに、乾杯
先ほどのことは何も気に留めず、モンツァノは笑みを浮かべて一気に飲み干し、手を振ってメイドに新たなシャンパンタワーを運ばせた
酒が上から下へと溢れ出すと、老猾者たちの深い皺の刻まれた顔にも笑みが戻り始めた
こちらはニトログリセリン注射液です、狭心症の症状を和らげるのに大変効果的です
客人は黒いベルベットの長椅子に座らされていた。優雅に歩み寄るメイドを見つめるその顔は、まるで死神を見たかのように歪んでいた
ご夫人様は、慎重にご検討くださることをお望みです
ゴホッゴホッ……検討だと？何を検討するというのだ？いつ沈むかわからない、穴だらけのボロ船に乗ることか？
男爵は金の装飾が施されたローズウッドの杖を力任せに振り下ろした。それはシュエットの脚にぶつかり、ガンッと音を立てた
一族の遺産を奪うために集団幻覚の罠を仕組んだことを称えろと？シンクレアの誇り高き姓を捨てたことを称賛しろというのか？
お前、一体何者だ！？モンツァノに飼われた……機械の化け物が！
杖を振り回したことで、彼は体力を使い果たし息も絶え絶えだった。荒い呼吸によって、胸からは壊れたふいごのようなヒューヒューという音がする
ひとたび受け身の立場に追い込まれれば、人はもはや、自らの運命すら見定めることが困難になるものだ
私は……ただのメイドです。モンツァノ夫人様の……所有物でございます
メイドは痛がる素振りを微塵も見せず、機械のように不可侵の教えを繰り返すだけだった
無色透明の注射液が針先から溢れ出すと、男爵は眼球を剥き出しにしてギョロギョロと動かし、まな板に縛られた魚のようにもがき始めた
何がモンツァノファミリーだ！！お前たちなど、狡猾な知恵と執着で生にしがみついているだけの、根無し草の亡霊だ！
死を目前にしてなお、男爵は屈しようとはしなかった。だが、すでにこの一件は彼の考えや努力ではどうにもならない段階まで進んでいた
彼は技術を疑い、理性を否定した。何であろうと、彼に船に乗る意思がない以上……
彼が甲板を必死に駆けたところで、手遅れだった。船はすでに岸を離れてしまったのだから
や……やめ……
注射液が静脈に注入された。男爵風で乾いたオレンジの皮のような顔つきが、少しずつ緩みだす
高くそびえる頬骨と落ち窪んだ眼窩が鮮明な対比を成し、灰白の無精ひげが肌から覗く。彼は衰弱し、ほとんど動けなくなった
この豪邸に足を踏み入れた時点で、誰もが1本の藁に繋がれている。それを拒む者はいずれ力尽き、溺れ死ぬだけなのだ
では、ごゆっくりお休みくださいませ
貴賓室の扉がゆっくりと閉ざされる。シュエットが滅菌手袋とアンプルを焼却炉に投げ入れていると、退屈そうに裾をいじりながら、廊下の壁にもたれかかるイシスを見つけた
シュエット！今日の晩餐会、終わりよ。お客さんたちも帰ったから、私たちも休んでいいって
そう
客人の意向が変わらなかった以上、わざわざ報告しに行って夫人の手を煩わせる必要もない
指定された場所へ一緒に戻ると、メイドたちの休憩室から途切れ途切れのすすり泣きが聞こえてきた
イシスは扉にもたれかかり、しばらく耳を傾けた
彼女、ひと晩中ずっと泣いてたの。皆で慰めてるところ
ご夫人様は晩餐会で彼女をリチャード議員に贈ったんだけど、彼女は目しか動かせないようなお爺さんの家には行きたくない、って
ここに残っても……いいのかな？
少なくとも、これ以上罰されることはないよね
シュエットは突然振り返り、口の軽いイシスの手を引いて休憩室を素通りし、ふたりだけが知る隠れ家へ大股で向かった
どうしたの、シュエット？なんで黙ってるの？
イシスは痛む手首を振り回し、拗ねた表情になった
壁に「目」あり、知ってるでしょ
わかってる、でもここにはないよ
イシスはくすくすと笑いながら、器用にワインラックを左右に移動しながらよじ登った
シュエットはため息をつき、イシスに続いて棚の上に登った。棚の上では体を伸ばせないため、ふたりは膝を抱えて横になり、小さく丸まった
……あなたのエプロンが汚れていたのはそういうわけ
今度は大丈夫だって！ちゃんとピカピカに拭いたんだから
メイドは誇らしげな様子を見せた
規定時間までには戻らないと……もし破れば、ご夫人様はさまざまな方法で再度規則を私たちの顔に……心に刻むわ
……本当にそうしてやっていくしかないの？
「役立たず」「屈辱」書かれまくった毎日を過ごすしかないの？
シュエットは黙ってやりすごすのは得意だった
ねぇ、夢とかないの？
ゆ、め……
そんな彼女でも、その言葉に秘められた魔力に震えずにはいられない
別に……
すっごく大事なことじゃない！
イシスの眼が瞬き、薄い暗闇の中できらめいた
モンツァノの夢に何もかもを捧げるくらいなら、自分の夢を追いかけたらどう？
私はね、超人気歌手になりたいの！
モンツァノの晩餐会には時折、華やかな衣装や宝石を身に纏い、喉を守るために水以外には何も口にしないというような者たちが招かれていた
中には若作りをしている者もいて、シュエットも全員の顔は覚えきれず、似た服装のスタイルから所属を判断するのが精一杯だった
ロプラトスは彼らなしでは成り立たず、彼らもまたロプラトスなしでは生きていけない
一過性の気持ちかもしれないが、イシスはまるで満足げな仔リスのようで、シュエットもそこに水を差す気にはなれなかった
ブッブ――
メイドはひと目見ただけで彼女が考えていることを理解し、頬を膨らませた
あのさ、ここで見たあの高慢なクジャクみたいな人たちを想像してるでしょ？そういうんじゃないの
いつでもどこでも、街の角や路地でも歌いだして、たくさんの人を集めちゃうような歌手になりたいの！
音楽って本当にステキだよ。道徳的な教えもないし、聴く人の身分も関係ない
聴いた人がリズムに合わせて体を揺らしたり、一緒に歌ってくれたり、メロディそのものが希望に満ちてて、皆が笑顔になるんだよ
希望に、満ちる。その光景を思い浮かべると、シュエットにもそんな喜びに包まれた観客たちの姿が見えた気がした
わかった、あなたが歌手になったら……
超人気歌手！
超人気歌手になったら、観ながら拍手で伴奏をするわ
違うわよ、あなたも舞台に上がってよ！
イシスは小さく首を振り、自作のメロディを口ずさみながら、それに合わせてシュエットの両手を引いた
掌と掌が触れ合うのは、彼女にとって懐かしい温もりだった
イシスの無邪気な表情を前に、シュエットは断りの言葉が出てこなかった
……わかった
わっ――ありがとう、シュエット！さすが私の一番の親友！
日付は先へ進んでも、前夜祭の晩餐会はなおも続いている
モンツァノの客人たちはきらびやかな絹と眩い金の装飾を身に纏い、宴の端から端へと巡りながら、賑やかに語り合っていた
……
シュエットが眼鏡を外してレンズを拭き、再びかけ直した時、宴会の一角であの見慣れた姿を一瞬だけ捉えた
（……エレノア？）
（ウィンターキャッスルから戻ってきたの？）
シュエット！メイド長がこのお皿を……ねぇ、どこ行くの！？
モンツァノからは、エレノアと勝手に会ったり話したりすることは禁じられており、それは他のメイドたちに対しても同じだった。それでも彼女は、厨房に戻る口実で後を追った
ただひと目見て、彼女の無事を確かめるだけだ
彼女が人影の後から離れないようについていくと、それは屋敷の女主人の書斎へと向かっていった。扉は半分開いており、まるで招き入れているかのようだ
もしご夫人様に見つかれば、厳しい処罰は避けられないだろう。それでも……
シュエットは深く息を吸い込み、開けてはならない扉を押し開けた
書斎には誰の気配もなかった。見間違いだったのだろうか
深紅のベルベットのカーテンは組み紐で束ねられ、巨大な黒檀の一枚板から作られた書斎の机の上では、金色のペン先が不安を煽るようにホルダーに引っかかっていた
机の上には、金の縁取りが施されたハードカバーのノートが広げられていた。インクはまだ乾いておらず、筆記体の最後のひと筆が滲み、文字の輪郭をぼやけさせていた
シュエットは遠くからひと目見ただけで、ノートに書かれたおおよその内容を察した
名簿だ エディリ·ヴァン·ヴィルモント·ストラッソ、オットー·ローティ、ヴァルター·ベンジャミン……そして、ついさっき追記された、ハウスマン
これらは戦利品であり、その名前の裏にはそれぞれの物語がある。しかしやはり、最初のふたつの名前ほど重くはなかった
シンクレア
シュエットの歯が震え、目の前が急に霞んだ
彼女はいまだ読み書きには不自由していたが、この姓、エレノアの後ろに冠されたこの姓は……
エレノアに新しい家族ができるのは……
……いいことじゃないか
硝酸カリウムは静脈注射で体内に入れても、十分に希釈されていれば害はない。だが、もしそれを数日の間に繰り返し注射すれば……
硝酸カリウムは体内でうまく代謝され、検出されることはない。埋葬されるその時まで、彼らは自らの肉体の衰弱によって死んでいくのだ。静かに、音もなく
湿った草地と連なる朽ちた墓碑の上で、少女は命令に従い、自分のために用意された処刑椅子に腰を下ろした
胃腸が激しく波打ち、彼女は胃酸が喉へ逆流するのを抑えきれず、そのまま地面に膝をついた
シュエット、早く出てきて！シュエットってば！誰か来るよ！
慌てて駆け込んできたメイドが、地面に跪いて硬直している仲間を必死に支え起こした
地面が……汚れて……
そんなのどうでもいいでしょ！
イシスは自分のエプロンを引きちぎり、跪いて雑に数回拭いたあと、机の上の香水を掴んで空中に勢いよく数回吹きかけた
音がどんどん近付いてくる……
……？
女主人は足取りを緩め、疑わしげに空気の気配を嗅ぎ取りながら、書斎の異変を確認していた
ツ――、長く伸びた付け爪が無垢材の書斎机をかすめ、革張りの椅子を通りすぎ、整然としたキャビネットを横切った
視線は最後に、窓辺にある珍しいカドゥプルの花に落ちた。夜の女王は夜にだけ咲き、朝になると全て散ってしまう
鉢植えの花にあまり香水をかけないでと言ったのに、匂いが強すぎて気持ち悪いわ
女主人は咲き誇る奇跡の花々を激しく引きちぎると無造作に投げ捨て、地面にまき散らした
そして、彼女は机の上のノートを片付け、キャビネットを開けてそれをしまおうとした
それを掴む直前、ひとつの毅然とした声が彼女の行動を遮った
叔母様、こちらにいらっしゃったのですね。ご命令の件が完了しました
彼は全て白状したのかしら？
はい。とてもいい時間でした。拷問を楽しめているうちに全て白状していただけて、助かりました
よくやったわ、エレノア。今夜は私とカジノへ付き合いなさい
かしこまりました、叔母様
ヒールの音が次第に遠ざかり、メイドはキャビネットの中で青ざめながら、大きく息を吸い込んだ
心臓はまるで絞首台の縄から解き放たれたばかりのように震えながら、脈動と血液の供給を再開した
一緒に逃げよう
薄暗い中で、イシスは非常に強く揺るぎない眼差しを見せた
ここにい続けたら、夢なんて見られない
……
正気？ご夫人様が怒るわ
彼女はまだ喉が焼けついているような気分のまま、かろうじて掠れた返事を絞り出した
バレやしないよ
そんなの不可能よ。どうやってあちこちに張り巡らされている監視カメラを避けるの？
今日のこと……もし彼女が監視映像を見たら、必ず気付くわ
なんとかなるわ
逃げるとしても、どこに？
自由、ああ、なんと甘美なる泉にして、毒々しき劇薬だろう
自分には遂行すべき任務があり、黒野にもモンツァノにも報告しなければならない。ましてや、「彼女」はまだここにいる。糸で吊るされた人形のように操られ、踊り続けている
これが、道具として生まれた彼女たちにいずれ訪れる、決して変わることのない運命だというのか？世界は何ひとつ変わっていないように見える
その全ての理由は、すでに何度も頭の中を巡っていた
だが……もし、運命が彼女たちに慈悲を与え、逃げ道を残してくれるのだとすれば？
イシスの顔が狭い視界の中で揺れ動き、揺らめく蝋燭の炎のように、恐怖と希望の間で心までもが揺れ動く
約束して、私たちの計画は絶対に誰にもバラしちゃダメ
狂風が渦巻く黒雲を吹き払い、陰鬱な空を突き抜ける
暴風雨が地面を叩きつける中、屋敷の中の足音は雨音よりも慌ただしかった
メイド長は、仕事の中で次々と見え隠れするメイドたちの影に向かって、大声で指示を飛ばした
停電？問題ありません。しばらくすれば、予備電源に自動で切り替わります
一体誰が全ての窓を開けたの？早く閉めなさい！
誰か！お客様が酔って騒ぎ始めたわ！誰が過剰な味覚刺激物を投与したの？
晩餐会は――晩餐会は必ず滞りなく続けてみせる！
休憩時間、監視角度、護衛の配置、進行の段取り、細かな部分や死角まで。イシスがこれほどまでに多くの情報を持っているとは、彼女は思わなかった
唯一監視のない場所、自由へ通じる扉は、棘だらけの荘園の入口ではなく、モンツァノの寝室だった
――事実が人の信を得られるかどうかは、結局のところ、それをどう語るかです
金髪の男はグラスを揺らしながら、豪邸の最上階の手すりにもたれかかり、ガラスに映るホログラフィックを切って、この珍しい混乱の大雨を静かに眺めていた
この世界で最大の生態瓶が何か、知ってるかしら？あなたも見たことがあるはずよ
瓶の中に閉じ込められた生き物たちは、この狭い世界で日々を過ごし、命を繋ぎ、そしてやがてその生涯を終えていく
どのプロセスも無駄になるものはなく、全てがこの命の循環に組み込まれていく
誰にも気付かれることなく、嵐の夜の饗宴の中、早々と姿を消したメイドがいた
そして、生態瓶の中にいる全ての生き物は共通の起源――母を持つ、それで？
夫人、まさか旧時代の道徳規範を仰ろうとしていますか？どうやらシンクレアという名前は、あなたにとって栄光よりも痛みが勝っているようだ
廊下の赤く光る監視カメラがひとつまたひとつと消えていき、ぎこちなく首を垂れようとするが、数秒後には再び灯りが点った
幼い頃から、私は兄とともに教育を受けてきた。彼は帝王学を教え込まれ、私はシンクレア家の名に恥じない卓越した補佐となるよう厳しく躾けられたわ
人々は偉大であることを讃える。なぜなら偉大さとは犠牲であり、姓を隠し名を捨てることだから
良妻賢母を天職と呼ぶのは、奴隷の従順さを美徳と讃えるようなものよ。他人の痛みに敏感でありながら、自らの欲望には鈍感でいる
そんなもの、私は認めないわ
何人かの護衛は意識を失い、何人かは違う道に引き込まれた
迷宮のような廊下を行き交うのは、夢に向かって走る熾熱の影だった
欲望に見合う野心だけが、それにふさわしい輝く未来を手に入れることができる
まさか、誰も気付かないのかしら？貴族とは制度化された盗賊よ。なぜ先代が持つ特権が、何の変化もなく次の世代に引き継がれるの？
この世界で最も卑劣で醜いもの、それは相応の実力や努力もなく、ただ継承という形で富と権力を手に入れる者たち。権力の奪取こそが、継承よりも遥かに高尚な行為のはずよ
護衛は？どこに行ったの？
ちょっ、ちょっと！ドローンが故障しかけてるわ！
晩餐会のために準備された巨大なミルクレープがドローンの拙い飛行によって落下し、宴会場の中央には急流のような白いクリームの川が現れ、会場は一瞬で騒然と混乱を極めた
素晴らしい！これぞパーティ――いや、晩餐会だ。見るがいい、これほど豪勢なキャストの中で、祝福の主役はたったひとり――モンツァノ夫人と彼女の力作だ
金髪の男が派手にひざまずいて一礼した
私はもちろん母になれるわ。ボコノン計画が完成すれば、私は新しい世界、そして新時代の母となる
それまでは、私のことを……
モンツァノ夫人と呼び続けなさい
女主人は傲然とした表情のまま、会場の混乱に対して断固たる言葉を投げかけた
帝王学の教育はとても簡単よ
それは、私たちの前には成功という道しかないということ
――彼女たちは、たった今押し開けたのが自由ではなく、深淵であることに気付いていなかった
私の道の邪魔よ、お嬢さん
その聞き慣れた声を聞いた瞬間、イシスは無力感に苛まれ、地面に座り込んだ
そんな……
モンツァノは1本の赤ワインを手に大股で自分の寝室に歩み入り、ダイヤモンドがあしらわれたクリスタルのグラスを取り出した
彼女は革張りのソファに満足げに腰を下ろし、ワインを目の前のローテーブルに置いた
彼女は手から、首から、髪から、真珠や宝石がひとつひとつ装飾された高級アクセサリーを無造作に外し、乱暴に床に投げ捨てた――もう見せびらかす必要はない
深紅のワインがシルクのように滑らかにグラスに流れ込む。満たされていく音は、まるで最期を告げる死の鐘のようだ
言ったはずよ。ここでおとなしくしていなさい、どこにも行かせないと
クソジジイに報告したいだけなら、こんなところでコソコソする必要はないでしょう？
女主人は愉快そうに黄金のリボルバーを握った右手を持ち上げ、指先で弾倉を回転させた。そして、帽子のつばにある通信機に命じた
さあ、宴は終わったわ。お客人たちをお送りして
静寂の中で、ひとつの拍手が響いた
最後のプレゼントを、お客様にお贈りしましょう
バン
終わることのない晩餐会がついに終わりを迎える。メイドたちは自らの責務から解放され、この歪で巨大な存在と複雑な欲望を乗せた船は、最初にして最後の出航を迎えた
バンバン
嵐が過ぎ去ったあと、澄み渡った夜空に祝福の花火が打ち上げられた
バンバンバン――
ドーンという音とともに、重い物が地面に落ちた。模様がはっきりした大理石のローテーブルの上で酒瓶が割れ、液体と破片が飛び散る
血のように鮮やかな赤ワインがメイドの頭の下で広がり、手織りのカーペットにねじれた奇妙な跡を描き出した
汚いわね、持っていって処理しなさい
女主人はグラスを掲げ、緋色の液体を一気に飲み干すと、グラスを地面に投げ捨てた
自らに乾杯ね
シュエットは衰弱したように、沈黙を強いられた死体を見つめていた
世界はこんなにも明るく、こんなにも恐ろしい
結局私は主役じゃないんだ
結局この世界は私に興味がないんだ
私は捨てられて、無視されて、選ばれることもない、価値のない存在なんだ
存在するべきじゃない、犠牲にされるために差し出され、利益のために道を譲る……脇役
あなたって、すごく幸運な人よね？
消耗品になることを運命付けられていて、背骨を折られて死ぬはずの存在だった
元の結末より少しでもよければあなたにとっては満足で、死体のふりだって鉄の塊のふりだってする
そんな生活に、何の価値があるの？
あなたは何の音も奏でられないわ
メイドの顔は最後の歪みで固まり、シュエットの目には恐怖と驚愕が満ちていた。彼女はたった今生き返ったかのように、その感覚を味わわせられていた
どうして止まらないの？どうして見て見ぬふりをするの？
これも叔母があなたの頭の中で命令したことなの？
彼女はただ頭を下げ、足早に立ち去るしかなかった
わっ――ありがとう、シュエット！さすが私の一番の親友！
イシスは彼女の両手を引いて、暗闇に包まれた貯酒庫の中で静かに歌を口ずさんでいた
約束して、私たちの計画は絶対に誰にもバラしちゃダメ
――誰と話していたの？
何のゲームをしているの？
なぜ私が知らない表情を見せたの？
彼女はメイドが後ずさるのも気にせず、相手の手の平を握りしめた。まるで毒蛇が獲物に巻きつき、逃走を防ごうとするかのように
駄目
私は許さない
まるで蜘蛛の巣にかかった蛾のようだ。繊細な羽が粘つく糸の中で必死にもがき、羽ばたく度に網はますます絡みつき、重くなっていく
彼女の微かな心臓の鼓動は細い糸によって縫い止められ、目の前で輝く理想の幻影は覆い隠され、息詰まる束縛によって深淵へと引きずり込まれていく
結末はすでに決まっている
あなたは自由が欲しかったんでしょう？いいわ、解放してあげる。行動にも干渉しないし、黒野に報告してもいい。彼らが実験している新技術があれば新しい脚も手に入るでしょう
ただしひとつ条件がある――私の内通者になりなさい
私は道具を罰しない。道具が悪い結果を生むのは、悪い職人が手にした時だけだもの
目の前のメイドは目が虚ろで、「道具」や「職人」という言葉にもまったく反応しなかった
返事をする前に、よく考えなさい。あなたにその資格がある？
鋭敏な感覚と直感、強力な身体能力と戦闘力、大幅に上昇した情報処理能力……もちろん、それには高額な維持費が伴う。だからこそ、自分が有用であると証明して見せなさい
あなたならできるでしょう……エレノアのためなら
女主人はいつも口にしていた「ともに進歩を」という言葉を飲み込み、メイドの反応の変化を面白そうに見つめた
断る理由なんてないでしょう？
シュエットの顔に一瞬だけ迷いの色が浮かんだが、それはすぐに消え去った
モンツァノの鷹のように鋭い目線が注がれる中で、彼女はうつむき目を閉じると、裾を持ち上げて一礼した
仰せのままに、モンツァノ夫人
モンツァノは満足げに笑った
最後の晩餐会が始まる前、彼女は令嬢のために仕立てられた礼服を届ける命令を受けた
手刺繍の金色の蔓とひらひら舞うようなレースの縁飾りが、今までの形を超えて、檻の外へと伸びていく
彼女は椅子の上で身を丸め、昼夜を通してそれを縫い続けた。その縫い目の中には彼女の囁き、絶望とため息があった。か弱い彼女は全ての自由を手放すことにした
創造力は確かに人類の最も貴重な宝物だけど、イカロスは蝋で作った翼で高く高く飛び、太陽に近付かんとした
最後には、彼の遺体は自身を飛翔させた羽の中に漂うことになった
彼が墜落しても気に留める者は誰もいない。歴史はいつもその繰り返し
――とても簡単な話よ。叔母が何を望んでいるのか、彼女の狂った口調を聞けば、目が見えなくてもわかるはずよ
少女は紅茶をひと口啜り、礼儀正しく歯を見せずに微笑んだ
私たちがボラードで話した内容を覚えている？
彼女のテーブルの向かいには誰もおらず、扉の後ろに立つ青い髪のメイドは、もう誰も自分のために歌ってくれないことに胸を締めつけられていた
彼女はまもなく蝋で作られた翼を着けて、彼女を溺死させる海へと飛び立つ
黒野地上研究開発基地
黒野地上研究開発基地
神経反射は優秀で、Ta-193コポリマーの適応性も良好だが……
意識海……意識海の安定性があまりにも低く、いつ改造に失敗してもおかしくない
……失敗は許されない。地上機構の実験サンプルは、もうほとんど残っていないんだ
で、ですが……
これらのデータとプランはまだ検証をクリアしていません……
自身がかいた大量の汗により白衣が深い色に変わって肌にぴったりと張りつき、研究員は気まずそうにそれを何度も引っ張っていた
――もう検証はしているな？
成果を出さない限り、黒野に報告はできないだろう？
おい！痛覚の出力を大幅に上昇し、意識海と本体の意識を同期させろ。その他の部分は……全部カットだ
決断をした研究主任以外、研究員たちはその眼差しから動揺を抑えきれないでいる
この全てが終わっても、元のあの魂を保てるだろうか。元の自分でいられるだろうか
全ての機器が、彼女が死の安らぎを得ることを決して許さず、無慈悲に稼働し続けている
そして……
彼女は準備室の端末の電源を落とし、青い幽霊のように自分の休憩室へと戻った。ロック装置が彼女の構造体番号を識別し、ドアが自動的に開いた
素朴で単調なデザイン、どこで眠ろうと変わらない。彼女は鏡の中にいるますます見知らぬ姿になってきた自分を見つめた
どうして……この事態は、彼女に告げられた計画の中にはなかった
任務、命令。任務、命令。無限に重なり、最も馴染みのあるはずの単語がわからなくなり始めた
この先はどうすればいいの？エレノアはどこに行ったの？なんで自分に連絡をくれないの？まさか自分は……また捨てられたの？
ひとりぼっちのシュエットは、昼夜が移り変わる空中庭園の仮想の空を見上げ、溺れそうになるほどの疑問の中で、ひたすらに答えを探し続けた
