<size=60>彼女は天に選ばれた人を失った</size>
マトリクスを離れたばかりの頃、ジェタヴィはその事実を深く理解してはいなかった
会社が天に選ばれた人のデータを提供すると申し出た時、彼女はその提案を拒み、天に選ばれた人を自ら探す旅に出た
その中で学んだのは――「現実」世界において、生命がいかに脆弱かということ
1度の風邪、戦争が残した地雷や毒性の果実あるいは植物を食べただけで死ぬ。侵蝕体の銃弾に貫かれた難民は、傷口が化膿すれば資源の無駄遣いだと見捨てられる
ロマンの欠片すら存在しない世界、人が無造作に命を落とす世界だ。この世界に再起動はない……死んでしまえば、それっきりだ
「永遠の別れ」――この言葉の意味を、彼女が少しずつ理解し始めた時、天に選ばれた人が消えていく光景が再び脳裏に蘇った
現実の別れは詩的なものではなかった。人々が死ねば、そこには傷だらけの亡骸が残り、生き残った者に相手の死を突きつける
天に選ばれた人が彼女の夢の中で死ぬようになった。毎晩毎晩、さまざまな形で死んでいく。終末の世界で見た全ての死体が、天に選ばれた人の姿に取って代わる
「目の前の人が天に選ばれた人かどうかなんて、誰がわかる?」彼女は賭けに出られず、目の前の全ての人を助けようと、狂ったように足掻き始めた
……しかし、何度となく手を伸ばしても、徒労に終わるばかりで、彼女の心は完全に麻痺してしまった
旅立つ前にマルタが贈ってくれたエネルギータンクを使い果たし、ジェタヴィは学院へ戻った。そして、他の生徒たちの「最終試験」を手助けすると約束した
少女たちは、天に選ばれた人がいない頃の自分同様に何も知らない。マルタに言われずとも彼女は全力で戦った、自分と同じように生徒たちが「卒業」する姿を見たかったから
だが彼女が見届けたのは、仲間の成長ではなく無惨な死ばかりだ。彼女たちはこの世界の美しさを知らないまま、あまりにもあっけなく死んでいった
生き残ったジェタヴィだけが無数の争いの中で「アンカーポイント」になった。彼女にできるのは仲間たちを保存モジュールに刻み、その記憶とともに次の戦場へ向かうことだけ
言葉にならない悲しみが、彼女の処理中枢を支配する。もう何も失いたくなかった。生徒たちと意図的に距離を置き、ただ仲間たちの喜怒哀楽を密かに記録し続けていた
「センセ」の登場は停滞した世界に転機をもたらした。ジェタヴィに天に選ばれた人の幻影を見せ、天に選ばれた人と同じ理想主義の下、生徒やジェタヴィの成長を導いた
「もしかしたら、今回は違うかもしれない」
だが、侵蝕体は再び彼女たちを絶望の淵へと追い詰めた。既視感のある光景。戦えるのはジェタヴィただひとり。彼女だけが、天に選ばれた人のいない世界で孤独に生き残る……
そんな結末に、本当に意味はあるのだろうか?
最後のエネルギー弾を撃つと同時に、ジェタヴィの機体は周りの状況を確認することもできず、力なく地面に倒れ込んだ
…………
侵蝕体は残酷なイタズラのように、ジェタヴィの機体に酷刑のような無数の傷を残した。耐えがたい苦痛を与えながら、彼女を瀕死の状態で生かし続けていた
どれほど戦い続けてきたのかわからない。混濁する視覚モジュールと鳴りやまない耳鳴りが、彼女を現実世界から遠ざけた
【エネルギー残量:1.05%】
【機体破損率:83.56%】
…………
【人格解離リスク】
…………
【自己覚醒電気信号】
……私、死んじゃった?
うーん、このまま休んじゃおっかな
彼女は、一瞬たりとも「死んだ」ことに悲しみを感じなかった。むしろ、楽しげに水辺に腰を下ろし、大きく伸びをした
諦めるの?
そうじゃないけど……ジェタヴィは全力を尽くしたよ?
マトリクスを離れてから今まで、無数の死を経験したでしょ。ずっとずっと戦い続けてきたし……ちょっと休憩するだけ
……それでいいの?
最後までセンセやあの子たちのために時間は稼げたし、もういいかな~って
嘘つき
…………
本当に死にたいなら、銃口を自分に向ければよかったのに。どうして最後の土壇場でヒーローぶる必要があるの?
「センセやあの子たちのために時間を稼いだ」――それって、まだ大切なものが残っているってことじゃない!
……だから、私はやるべきことをやったわ
……そうね。皆、きっともう安全なはず
でも、もし今このまま命を捨てたら、天に選ばれた人の最後と同じよ
……天に選ばれた人と同じ?
自分のアルゴリズムを犠牲にして、他人を助けた……でも、結局助けられた側に残されたのは、果てしない孤独だけ
……!
あの時のあの人は、そうするしかなかったんじゃない?あなたをマトリクスから解放し、現実へ送り出すためには、そうするしかなかった
でも、あなたにはまだ選択肢があるわ……ジェタヴィ……
たとえ苦しくてボロボロの状態になっても、生きて皆のもとへ帰ることができる
…………
お姉ちゃん!
【意識信号再起動試行中 1/8】……
【警告:データ喪失】
お姉ちゃん!!
【意識信号再起動試行中 2/8】……
【人格データ再起動 10.23%】
【警告:データ喪失】
お姉ちゃん――
機体がゆっくりと動かされている感覚がある――声や触感からして、人間の幼い子供のようだ。どうやら彼女を安全な場所へ運ぼうとしているらしい
おチビちゃん……しゃがむのよ
えっ?
ジェタヴィがのろのろと銃口を自分に向けるのを見て、女の子は怯えて頭を抱え、しゃがみ込んだ
ギィ!!
赤い弾丸が、少女に襲いかかろうとした侵蝕体を貫いた
ぐらつく足取りのまま、ジェタヴィはなんとか立ち上がった。聴覚モジュールで侵蝕体の動きを捕捉する――全部で5体。彼女は少女を自分の背後へ引き寄せた
まだ、死ぬわけにはいかない。この子を無事に連れて帰らなければ
図書館
ジェタヴィが戦っている間、自分はマインドビーコンの出力を強めながら、傷口の応急処置を試みていた
図書館内の侵蝕体はジェタヴィの奮闘によって一掃されたが、彼女は暴走したのか、その場からいなくなってしまった
彼女が危険に晒されている。早く見つけなければ
重傷の体を無理やり引きずり、学院の大通りまでたどり着くと、そこには力なく膝をつく少女の姿があった。その傍らで小さな女の子が大声で泣き叫んでいる
…………
彼女の機体はあちこち損傷し、輝いていた赤い瞳は光を失っていた。瞳の中の「X」と「-」の記号はすでに消えてしまっている
もう一度、彼女の名前を呼ぶ……しかし、何の反応もない
胸の中に、得体の知れない不吉な予感がこみ上げた
彼女の唇が小さく呟くように動いている。声はあまりにもか細く、しゃがんで耳を傾けるしかなかった
…………
<color=#808080><i>人格データ喪失:81.34%、回復確率0.003%……システム再起動を試行中</i></color>
<color=#808080><i>システム再起動、初期化中――オペレーター名を入力してください____</i></color>
ちょっとだけ人格データが失われちゃうけど……センセ、その時はまた、ジェタヴィにちゃんと自己紹介してね~
<color=#808080><i>本機の名前を入力してください____</i></color>
次のジェタヴィに会えたら、そんなに優しく接しない方がいいわよ