同じ金属の壁、同じ低い天井
そして……空中庭園の強力な空気循環システムをもってしても、室内の空気はあの時と同じく、粘りついているように思えた
……ボラード機関のメンバーは一体どこから来たのか教えてほしいもんだね、パラゴンスキーさん?
普段のグリースの性格を考えれば、この口調はむしろ穏やかな方だ。しかし、女性は笑顔の裏に刃を隠しながらのやりとりにつき合う気はない
全部ご存知なのでしょう?
ボラード孤児院……そこの子供たちを誘拐したんだってねェ
私は彼らに何も強制していない。彼らは皆、帰る家のない子供たちだった。それに、設立当初の候補者の大半は、ロスウォットが集めたものよ……
その、なんとかって人間はどこに?もう何年も前に死んだんじゃなかったか?どれどれ、死因はっと……
グリースはわざとらしい仕草で、データに埋もれていた古い作戦報告を端末の画面に呼び出した
……ロプラトスの諜報拠点を放棄し、モンツァノに彼を排除させ、シュエットにはより多くの行動の自由を与える。これは全て、あの老いぼれからの命令だったの
これは弁解ではなく、ただの事実の陳述だ。彼女は如何なる事実をもってしても、この審問の結末が変わることはないと理解していた
どこまで話した?ああ、候補の子供の話だったな、続けてくれ
子供たちはコントロールしやすく、体の適応能力も高い。機関の努力で、黒野は優れた訓練を受けたエージェント部隊を手に入れたのよ
世界政府安全情報局と対抗していたあの時代、ボラード機関こそが、私たちにとって最も信頼できる剣であり盾だった
ほお?クククッ……
彼は鼻の穴から歪んだ笑い声を漏らした
響きのいい言葉を並べたら刑期が短くなるとでも?忘れてもらっちゃ困るぜ、ボラード孤児院の設立目的は、最初からエージェントの育成なんかじゃなかったはずだ
もしアンタの話が本当なら、なぜボラード機関はその後、成年候補者の募集をしていたんだ?
ゲシュタルト、零点エネルギーエンジン、そして予算案……機関がこの貴重な情報をあの老いぼれに差し出した時、誰も私たちのエージェントの出自なんて気にしなかったわ
誤解するなって。あのジイさんは、アンタの貢献を無視したわけじゃない
ただ、わかってるだろ?空中庭園は、結局のところ世界政府の法律を引き継いでいる。だから俺たちも規則は無視できないんだ
常に警戒を怠らず、黒野グループの利益を最優先に……ね。他に何を訊きたいの?
かつての総監はこの状況にうんざりしていた。数え切れないほどの尋問を行った彼女はとっくに理解していた。裏切りは、いずれ自分の身に降りかかるのだと
だが、彼女は決してただ殴られるだけの臆病者ではなかった
あなたは一体何を犠牲にしたっていうの?自分の保身しか考えてこなかった人間のくせに、私を裁く資格なんてない……!
彼女は容赦ない口調で反撃の言葉をぶつけた
俺が何を犠牲にしたかって?平穏や、善良さだよ……アンタが聞きたいのは、そんな陳腐な答えか?
よく考えろ。アンタが仕えているのは黒野の利益のためじゃない。アンタは人類の未来のために、全てを犠牲にしているんだ!
規則、条項……人道を口実に大衆の口を塞ぐために適当に成立された法案……もし俺たちが本当にそれを守ってたら、パニシングに対して最初の構造体防衛線すら築けてねえんだ!
俺たちは自分たちがしてきたことのせいで呪われ、他人の未来のために全ての尊厳を犠牲にしたんだよ!
俺の立場を疑うようなことはするな
彼の頬の筋肉は歪んで深い溝を作っていた。心の底から怒りを噴出させ、先ほどまでの余裕綽綽な態度とはまるで別人だ
……俺を困らせてどうする。議会に尋問報告を提出すれば、過去のことは過去のこととして処理できるんだ
「自主的な同意の原則」に違反しない形を確保すれば、構造体研究や……ウィンター計画も、引き続き進めることができる
グリースが本気で取り乱すことはほとんどない。黒野が空中庭園で基盤を築き、何より野心的なビジョンを実現するためなら、彼は自分の体面など惜しくもなかった
進化の歩みは待ってくれない。それは、ますます勢いを増すパニシングの災厄も同じだった
……あの時、あの子供たちを選んだ理由は、彼らの資質だけじゃないわ
私たちが重視していたのは、脳よ
この小さな街は、もともと空軍基地の付属施設として生まれた。だが大富豪フレッド·シンクレアの惜しみない投資によって、砂漠の奥深くで乳と蜜の流れる楽園へと姿を変えた
カジノ、リゾートホテル、バイオニック動植物園、そして決して終わることのない狂騒。ロプラトスは、享楽のための都市だった
特急列車が砂漠を突き進む時、ずっと外の景色を眺め続ける乗客は常にいる。その乗客は、砂礫とサボテンが広がる砂漠の果てに、建築群が突如現れる幸運な瞬間を目撃できる
あまりにも唐突で、心奪われる美しい光景だった。赤い岩山と並ぶカジノ「ラッキー38」の螺旋状の塔は、灼熱の太陽や月光の下で、心を浮き立たせる輝きを放っている
最初にその景色を目にした乗客は、いつもその場で呆然としてしまうものだ
そして、ようやく我に返ると、列車内の乗客全員に向かって叫ぶのだ。「ロプラトスだ!ロプラトスに着いたぞ!」と
しかし、その輝きは街の路地を住処にしている下層の住民には無関係だった
駐車禁止の標識なんてどこにもないだろうが!
男は苛立った様子で、路肩の水素自動車を見つめていた。横の料金メーターが「支払い」の文字を点滅させている
彼の愛車はロックされ、動けない
なになに……中央通りは混雑時間帯の駐車禁止。それ以外の道路は……規定に基づき料金制。料金は1時間ごとに……
彼は更に顔を近付け、パネルの下部の虫がのたくったような極小フォントの料金規定を、ぼそぼそと呟きながら読み上げた
ああ、そうかい。カジノで素寒貧だってのに、道路ですらこの財布を見逃してはくれないんだな
そんなに金が欲しいか?え?じゃ、払ってやるよ!
彼は観念したような表情で、持っていたカードを端末のパネルにかざした
料金メーターは一切反応しない。車のタイヤ下にあるロック解除ランプは赤いままだった
ん?何なんだ!結局支払いはトークンしか使えないってか!?まったく、クソみたいな街だな!
彼は料金メーターの細い支柱を勢いよく蹴りつけ、融通の利かないルールに対する怒りをぶつけた
なんて時代遅れな……今時はディーラーだってAIなのに、なんでこういう細かいところだけ不便なんだ……
まだ銅貨や金貨を持ってたら、こんな短時間で帰ろうとするもんかよ
不運な男はブツブツと文句を言いながら、ロック解除の呪文でもかけるかのように、車の周りをウロウロと歩き回った
あの……
すみません
彼は、マントを羽織った少女が背後に近付いてきたことに気付かなかった
青い髪の少女の汚れた顔が、彼に旧式の車が故障した時の油汚れを連想させた
悪いが、今日は散々な目にあってるんだ!施しなら他を当たってくれ!
そう咆えても気が収まらなかったのか、彼は遠くにそびえるカジノの建築群を憎々しげに睨みつけた
あれが見えるか?あそこにいるのは、うなるほど金を持ってる連中ばかりだ。うまく紛れ込んで、好きなだけタカってくるといい!
そうじゃなくて……困ってるみたいだから
え?
浮浪者の少女は多くを語ることなく料金メーターの前に行き、マントの下から細い紐に鉄片を通したネックレスを取り出した
おいおい、何をする気だ!?
少女は男の慌てふためく声に構わず、細い紐を持ち上げ、鉄片を慎重にコイン投入口へ垂らしていった
おお……
彼はふと何かを察し、目の前のショーをまじまじと観察した
少女は力加減を絶妙にコントールし――
カチャッ――
成功か?
うん
ロック解除ランプがパッと緑色に光り、車の持ち主を悩ませていたパネルのメッセージも消えた
少女は細い紐を巻き取り、まるで赤ん坊を包むように、丁寧に鉄片の周りに巻きつけた
こりゃあ見事だな……
男は顎をなでながらあっさりと解除されたロック装置を眺め、舌を鳴らして感心した
だが、何のためにこんなことを?君は電子マネーを受けとれる端末なんか持ってないだろう?どうやって礼をすればいい?
車のドアを開けた途端、彼は気取った偽善者のような口ぶりに変わった
もし、またどこかで会えた時にでも……
いえ、気にしないでください
もし今後、私のような子供に出会った時に、食糧チケットやトークンを持っていたら……その子たちを助けてあげて
少女はクルリと背を向けると、駐車スペースを後にし、街角へ姿を消した
……
通りの向かいにあるパラソルの下では、端正な身なりのエージェントがその一部始終を見ていた
少女は少し緊張していた。警戒心は生存本能だ。しかし、先ほどの小さな出来事に気を取られ、周囲の気配を窺うことを怠っていた
彼女は誰かに尾行されている
更に最悪なことに、この先は行き止まりだった
少し話をしたいのだが、いいかな?
少女の予想とは裏腹に、見知らぬ男性の声に威圧感はない。むしろ、意図的に数歩分の距離を空け、彼女に圧迫感を与えない位置に立つ心配りを見せた
……
少なくとも、今すぐ面倒なことになるわけではなさそうだ
ひとつ、ゲームはどうだい
彼はスーツのポケットから、親指ほどの大きさの丸い金属片を取り出し、それを手の平に乗せて見せた
これは、ただのカジノ専用の金銀代用貨幣とは違う。ずっとずっと昔……ロプラトスがまだ牧畜の町だった頃、人々はこういったコインを貨幣として使っていたんだ
彼はできるだけ簡潔な言葉で、ゲームで使う道具の由来を説明した
今はどのくらいの価値があるの?
その瞬間、男性の口元にごく微かな笑みが浮かんだ
この業界に詳しい古参のギャンブラーなら誰でも知っていることだが、これはかなり価値がある骨董品なんだ
よく見てごらん。コインの表にはお爺さんの顔が刻まれている、裏は……
彼はコインを手の甲に立て、指先で軽く弾いた
怖い鳥が描いてある……あと、私には読めないけど、文字も
あの距離で回転するコインの細部を見分ける少女の動体視力と観察眼は、かなりのものだ
ロスウォットは満足げに話を進めた
このコインを使ってゲームをしよう。勝てば、このコインは君の物だ
……
少女は警戒しながらも、顔を襟元に隠したまま頷いた
ルールは簡単だ。私がこのコインを投げてキャッチする。私が手を広げて見せる前に、君は、お爺さんの絵か、鳥の絵かを当てるんだ
わかった
じゃあ、始めようか
彼は素早く親指と人差し指でコインを空中に弾き、もう片方の手を開いたまま構えた
コインが手に触れた瞬間、彼は素早く拳を握り込んだ
お爺さん!
見知らぬ男はゆっくりと手を伸ばし、手を広げた。陽光の下で、古びた老人の肖像がピカピカと輝いた
少女は立ったまま、少しの間だけ顔を上げた。男性は少女の一瞬の眼差しの中に、怯えと警戒……そして、懇願の気配を感じ取った
彼はゆっくりと足を踏み出した
約束通り、これは君のものだ
少女は食べ物を見つけた野良犬のように、恐る恐る近付いた。少女の視線は男性の手の平にあるコインに釘付けになっている
そして、マントの下から素早く手を伸ばし、自分のものを取り戻すかのようにコインを奪い取った
君が大事にしてるコインは、どんなものなんだい?見せてくれないか?
少女は警戒心を膨らませ、大きく1歩後ずさった
あれはコインじゃない
……子犬につけてたものだから
手の平の中で、手に入れたばかりの戦利品がじんわりと温まっていく。彼女の心にやるせない悲しみが広がった
そういえば、まだ名前を訊いていなかったな。私はロスウォット、裁縫師をやっている
その言葉のどれかに神経を強く刺激されたのか、彼女の唇が小さく震えた
……シュエット
私はシュエット
少女はそう言うと、細い紐で包まれた小さなものを取り出し、その中に隠された宝物の一部を男性に見せた
この時になって、ロスウォットはそれがコインではなかったことに気付いた
それは、うっすらと古びた血痕がこびりついた、ペットのネームプレートだった
シュエット、ボラード孤児院という場所を聞いたことはあるか?
本来、彼はこんなことを言いたくはなく、また、運命というものを信じていなかった
どの機関もこういった行き場のない孤児たちを引き受けようとはしなかったが、公衆衛生の観点から、一時的な収容所で彼らへのワクチンの接種だけは行われていた
その副産物として、潜在的な候補者のデータファイルがこと細かに記録され、管理されていたのだ
だが、「運」というものは決して遺伝子検査では測定できない――そして幅広い選別を行う際に重要な指標のひとつでもあった
この質問を口にするのはすなわち、少女に「死刑」を言い渡すことになる。だが、これは彼にとって必ずしなければならない選択だった
ロプラトス近郊
ボラード孤児院
……心理評価報告は完了したわ。候補者シュエットは最終審査通過よ
彼女を仲間たちのところへ連れていってくれ。それと、プラスチック製の拘束バンドを渡すのを忘れないでくれ。基本ルールも、もう一度しっかり伝えておくように
女性は、最近は滅多に見ない紙の書類をテーブルの上に置くと、部屋を後にした
ロスウォットの視線は、扉に掛けられた解剖図に注がれていた。禍々しい色合いで描かれているのは赤、黄、白が絡み合う不自然な花弁――人間の脳だ
主よ、我らをお赦しください
……
訓練服は決して悪くはない。ボロ布のマントに比べれば、むしろ快適だ
しかし路地裏で生きてきた子供にとって、「清潔」は酷く落ち着かないものだった。汚なくても暖かく感じていたのに、今の服はカジノのレリーフのようにつるりと滑らかだ
ひとつ。制服、または訓練服を常時正しく着用すること。例外は消灯後のみ
ふたつ。保育員の笛と指示には絶対に従うこと
みっつ……狼に食われないよう、夜は拘束バンドで手首をベッドフレームに固定すること
関節の目立つ指が、オレンジ色のスラップタイプの拘束バンドを差し出した
ここがあなたたちの寝室。明日、朝5時ちょうどに起床の笛が鳴ったら、中庭に集合して朝の体操よ。遅れないように
少女は、手に持った平たい謎の道具を眺めながら、これは一体何なのだろうと、不思議に思っていた
彼女は、案内した女性がすでに部屋を去っていたことも、敵意をはらんだ視線がじりじりと近付いていることにも気付かなかった
ちょっと、新入り!
お前だよ、聞こえねーの?
先頭にいたふたりの号令とともに、取り囲んで眺めていた子供たちが一斉に少女を扉の隅へと追い詰めた
アンタ、どっから来たの?
彼女はまだ手の中のバンドに意識を奪われたままで、ぼんやりとしていた
久しぶりに満腹になったせいかもしれない。あの女性は、孤児院の食堂でハムやグレイビーソースのかかったマッシュポテト、チョコレートクッキーを食べさせてくれた
彼女の脳は、急激な血糖値の上昇という稀に見る贅沢な状況のせいで、普段よりも思考が鈍っていた
何とか言いなよ、ビビってんの?
リーダー格の少女は嘲りを隠さず、芝居ぶって言葉をかけてきた
周囲の子供たちがどっと笑い声を上げた。その大部分は悪意というよりも、むしろ群れの本能のようなものだった
……何?
しばらく沈黙したあと、彼女は顔を上げ、極めて簡潔に答えた
こいつ話したぞ!でも、バカだ!
いつからこの施設はバカを歓迎するようになったんだ?あのオバさん、本当にボケちまったのかもな!
逃げ場のない敵意。大人たちの計算された冷淡さと対極にある敵意だ
いい?ボラードに役立たずは要らないの
条件反射訓練をきちんとこなせば、まともな食事ができて、安心して眠れるのよ!
もし、皆の足を引っ張るようなことがあれば……
少女はぐっと足を踏み出し、シュエットを壁に押しつけんばかりの勢いで迫った
シュエットは条件反射訓練が何なのかはわからなかったが、命令に逆らえばどんな結果になるかはわかっていた
わかった
新入りの声には一切の感情がなかった。その声の印象は、機械合成音と区別がつかないほどだ
横暴な悪意は、真綿に拳を振るったような形になった。肩透かしを食らったいじめっ子たちは戸惑った
……それ、何持ってんだよ
取り巻いていた子供は、少女の片方の手が何かおかしいと気付き、強引に指を絡めて奪おうとした
彼の力は、シュエットも一瞬驚くほどに強かった
あのネームプレートは見知らぬ子供たちに奪われてしまった
返して……!
叫んだ瞬間、彼女は自分の両腕がすでにがっちりと押さえ込まれていることに気付いた
鉄片がリーダー格の女の子の手に渡った
へえ、何の絵?丸がふたつと、棒が1本。それから、えっと……
少女がその模様に困惑する様子はシュエットには見慣れた光景だ。まともな教育を受ける機会もなく、物乞いで生きてきた子供たちは、文字を見ると皆、困惑の表情を浮かべた
その子を離しなさい!
宿舎の奥のベッドの方から、鋭い声が響いた
シュエットが驚いたのは、子供たちがさっと下がったことだった
ふたつ。保育員の笛と指示には絶対に従うこと
しかし、今響いたのは笛の音ではない
すらりとした人影が、まるで舞踏家のように寸分の狂いもない精確な歩調でゆっくりと歩いてきた
その姿は粗野な振る舞いの子供たちとは対照的で、別世界の生き物のようだった
こんにちは、私はエレノアよ。ボラードへようこそ
その少女は堂々とした仕草でシュエットに手を差し出した
先ほどのいじめっ子たちに同じ喜びは訪れず、目に見えないバイ菌でも嗅ぎ取ったかのように、シュエットから距離を取った
何よ。こんな変なもの、返す!
彼女は虫を追い払うように手を振り、鉄片を持ち主に返した
集まっていた子供たちは散り、それぞれのベッドへ戻った
その時シュエットは、異様なほど滑らかで整った指先が、豪華なフリルのついた袖口から伸びていることに気付いた
ひとつ。制服、または訓練服を常時正しく着用すること。例外は消灯後のみ
しかし、このドレスはそのどちらにも該当しないものだ
私はシュエット、ありがとう
彼女の手の平の感触は、初冬の泉のように冷たかった。刺すように冷たく、温もりがまったくないことにシュエットは僅かに不安を覚えた
ピッ――――――――――――――――
廊下に笛の音が響いただけで、それ以上の指示は必要なかった。子供たちは機械のように一糸乱れず同じ行動を始めた
上着を脱ぐ。服を畳む。ロッカーにしまう。インナーの前腕にある統合端末をタップする。掛布団をめくる。ベッドに横になる……
全ての動作の音までも、寸分違わず同じだった
就寝時間か……
少女が我に返ると、部屋の中には自分とエレノアしか立っていなかった
シュエットが訓練服のジッパーを下ろそうとすると、氷のような手がそれを制止した
シッ……
彼女はシュエットに少し待つよう合図を送った
暗い寝室に就寝前の金属音が規則正しく鳴り響く。枕元の金属製のベッドフレームに片方の手首を近付け、もう片方の手で拘束バンドを勢いよく叩きつける――
板状のスラップブレスレットが一瞬でくるっと手首とフレームに巻きつき、手錠のようになって子供たちの片腕を拘束した
こっちよ、あなたのベッドは私の隣
目の前の優雅な姿は「少女」という言葉がふさわしい、とシュエットの直感が告げていた。しかし、彼女はその言葉をどこのカジノで耳にしたのかすら思い出せない
シュエットはエレノアに連れられて部屋の1番奥まった片隅へと向かった。壁には小さな排気ダクトがぽつんと取りつけられている
ねえ……拘束バンドは楽器になるの、知ってる?
よくわからない
どこかに息を吹き込むと音が出たりするパイプみたいなもの?それか、糸みたいに弾くとか?
素直な疑問だったが、どこか見当はずれだった。エレノアは穏やかに微笑み、話を続けた
こうするのよ
白く細い指は、オレンジ色のバンドの一端を金属製のベッドフレームの縁に置いた
そしてエレノアは、フレームの縁に置いたバンドの端を片手で覆うようにそっと押さえた
力加減が大事なの
指が僅かにバンドを弾いた瞬間、板状のバンドと金属フレームが共鳴し、微かで不思議な音を生み出した
!!
彼女は演奏を邪魔しないよう、息を殺した
続けていい?私のお気に入りの曲なの
彼女は同じ動作を繰り返した。繊細で澄んだ旋律が静寂の中に広がり、ベッドとベッドの間の小さな空間を包んだ
みっつ……狼に食われないよう、夜は拘束バンドで手首をベッドフレームに固定すること
結局のところ、そんな作り話で怯えるような年齢は、とうの昔にすぎている
シュエットは暗闇の中で微かに響く摩擦音を聞いた。それは、服従を本能に刻み込まれた子供たちが、夢の中で憧れと抵抗にもがき、ベッドの中で寝返りをうつ音だった
そう、一体どれほどの夢が飼い慣らされ、恐怖に変わったのだろう
奏でられていた演奏が終わった
シュエットもやってみる?
よ……よくわからなかった
大丈夫、ゆっくりやってみて
少女は戸惑うシュエットを見ながら、拘束バンドをベッドフレームに置き、彼女の手を取って、演奏ができる位置に指を導いた
ガンッ――
おかしな音がしたが、楽器が小さいため、耳障りなほどではなかった
ふふっ……アハハハハハ!
ね?簡単に音を鳴らせたでしょう?
エレノアは最初、笑いをこらえようとしたが結局、感情を解き放つことを選んだのだと、シュエットは察した
厳しい生活によって神経を鋭敏に研ぎ澄ましてきたからか、シュエットは僅かな悪意も感じ取ることができた
しかし、この笑い声は少しの嘲りも含んでいなかった。むしろ冷え切ったこの宿舎の中で、唯一温もりがあるもののように聞こえた
シュエットの脳裏にふと、先ほど食堂で見た光景が浮かんだ。熱々のグレイビーソースがかかった、山盛りのマッシュポテト――
恐らく……それよりも、もっと温かいものだ
でも……変ね、綺麗な音が出ない
彼女は少し恥ずかしそうに言った
じゃあ、今度は私の伴奏をお願い!
うん、やってみるよ
紫色の髪の少女は、まるで薄いヴェールをまとった鳥のようだった。果てしなく灰色に霞む沈黙の中で、彼女だけがシュエットに向かってさえずりかけている
エレノアはシュエットの手を取り、再びオレンジ色の楽器を弾いた
結局、どんなに指で弾こうが、音は単調なの――綺麗な音とはいえないわ
しかし、その旋律はシュエットの記憶の中で、子守唄のような柔らかな安らぎに満ちていた。やがて、部屋のあちこちから小さな寝息が聞こえ始めた
細い絹糸のような澄み切った月光が、小さな排気ダクトの丸い穴を通り抜け、木製の床に欠けた月影を映し出している
……つまり、そのエレノアが、後のエレノア·シンクレアってわけか?ロプラトスのご令嬢の?
そうよ。彼女は養父母を事故で亡くして、養父の妹であるモンツァノに引き取られた。そして、今も行方不明のまま
モンツァノとともに、ロプラトス崩壊の最中に死亡した可能性が高いと推測しているわ
悲しいぜ……青髪の嬢ちゃんに、そんなにお涙ちょうだいな辛い過去があったとはねぇ……
彼の顔に、再び女性を苛立たせるようなわざとらしい表情が浮かんでいた
で?機関はなぜ、規則を破る候補者に好き勝手させていたんだ?
グリースは表情を一転させた
それは私たちの訓練方式に関係している
知識は、後天的な手段で入力も抹消もできる。だけど、条件反射刺激だけは、神経の奥深くに刻み込まれた鋼の刻印となる
私たちは、選び抜かれた脳を刷り込み教育で汚すことはしなかった。その代わりに、服従テストと強制的な身体訓練を通じて、候補者の基本的な身体機能を維持したの
肉体は思考の器ってわけか。エグいやり方だ、気に入ったよ
あなたのコメントは求めてないわ
長々と続く陳述は彼女を往時の支配者へと変え、一時的に彼女はかつての威厳を取り戻した
おやおや、そんなにカッカするなよ。俺はまだこの話の結末に興味があるんだ
……死刑囚を使った人体実験は遅々として進まなかった。狂人の科学者たちは意識のアップロードや融合、転移まで一足飛びに進めたがったけど、そんなのは夢物語よ
それで、あの老いぼれが私たちに指示を出したの。適切なタイミングで、この候補者たちをウェットウェア構造体の実験に利用しろ、とね
結局ウィンター計画も同じ回り道をしたんだろう?チッ、失敗から学ばないのは人間の性ってやつだな
そういえば、うちの連中がつい最近、ウィンターキャッスルを訪ねたんだ。あの頑固一徹ジジイのゴドウィンに、さっさと研究の軸足を軍事用構造体に移せって言いにな
まあ、紆余曲折はあったが、最終的には人類が最も必要とする時に、心血注いだアンタらの努力が結実した……
もうすぐ、何もかも私とは関係なくなるわ
そんなに悲観的になるなって……で、どこまで話したっけ?エレノアのことだったか?
あの子は、全ての指標で一番優秀な候補者だったの
私たちは体の協調性の訓練のために、ダンスレッスンを導入していた。和音や音符の意味を理解する必要はなく、求められるのは、旋律に合わせた適切な動作の実行よ
私たちはすぐに気付いたわ。エレノアは、たった一度レッスンを受けただけで、持ち物を使って曲を再現することができた
フィンチ-フランクスIQ指標、B7行動識別モデル、存在の定量化思考……
あらゆるテストにおいて、エレノアは候補者の中で最高の成績だったわ
おやまあ、せつないねェ……最初に脳を切り開かれる少女だなんて、さぞかし哀れなこった。そりゃ着飾ったり、目立ちたがったり、彼女の好きにさせてやれってもんだ
女性の冷ややかな視線に構わず、彼は乾いた皮肉を投げつけた
……だけどあの老いぼれが望んでいた実験は、ついに行われることはなかった
おい、まだ終わらないのか?もう報告書が埋まっちまいそうだぜ
そうだ、エレノアが青髪の嬢ちゃんに聴かせてたのは、何の曲だったんだ?
……あなたがそんなことに興味を持つとは思えないんだけど
特別なものじゃない、定番のクラシック曲よ
ワーグナーの「タンホイザー序曲」