……なあ、お嬢ちゃん、何度言えばわかるんだ?
俺は、ボラード機関なんてものは聞いたこともない
黒野の影響力を考えれば……あらゆる連中が、あの手この手で俺たちの名声を利用しようとするのも理解できるがねェ
男性は苛立った様子で、目の前の新たに改造されたらしき構造体をあしらった
……任務報告。ロプラトスの防衛網は、災害発生から182日目に完全崩壊。新ネリス空軍基地は現在、侵蝕体が占拠。機関にとって脅威になりそうな機密情報は、収集不可能です
構造体は感情を一切乱すことなく、すでに5回は繰り返した報告をまた伝えた
もういいッ!
それはそうと……その奇妙奇天烈なマスクは外せないのか?
これは戦場感知装置の一部です。人間の免疫や調整機能と同じような役割を持っています
彼女はそれ以外の理由を口にしなかった。顔を完全に晒すことは、より多くの感情を露わにすることになる。今の彼女にそれは最も不要なものだ
ほーう……
まあいい、お前さんへの隔離審査は終了だ。解散!
解散して、どこへ向かえば?
これが配属命令だ。お嬢ちゃんは今から軍部直属の粛清部隊に配属される。まずはニコラ司令に報告に行け。他に質問があれば、新任隊長のビアンカに訊くこった
グリースは太い指で端末の画面を数回スワイプし、表示された公文書をシュエットに見せた
了解しました
メイド姿の構造体は、背を向けて作戦会議室を後にした
壁にもたれながらずっとその様子を黙って見ていた痩身の男性は、姿勢を正すと、座っているグリースに視線を向けた
本当にこれで解決ということでいいのですか?
彼女は使命を果たし、期待以上の成果を出したともいえる。パニシングのお陰で死に損ないの厄介者モンツァノを始末する手間が省け、シュエットの忠誠も再確認できた
グリースは噛み煙草を取り出すと、包装を破り、灰褐色の塊を口に放り込んだ
パラゴンスキーについては……
彼は乱暴に包装紙を丸め、適当に机の下のゴミ箱の方へ放り投げた
フン……
彼の仲間はその意図を察してはいたが、軽く溜め息をついた
旧世界のことは、旧世界に任せておけばいいでしょう
おやおや、リスト君は達観しているねェ
彼はニタニタと、ギリシャ演劇の仮面のような表情を浮かべていた
まあ、あのマダムの件は、後で俺が片付けるさ
パニシングの爆発以来、地上の戦況はほぼ安定している。当面の急務は、俺たちの仲間が発言権のある重要なポストを取り戻すってことだ
あの取引は千載一遇のチャンスだったんだ。まさかトリルドが、あんな悲惨な形で事業に殉じるとはな。俺たちの仲間も、全員彼と同じくらいの覚悟を持ってりゃ……
……やはり何か違和感があります
リストは彼の嘘くさい感傷を遮った
リスト君よ、いつからそんなにトロいのろまになったんだ?
グリースとともに働く者たちは皆、この攻撃的な言い回しにはすっかり慣れっこだった。リストは気にせず、自分の考えを話し続けた
確かに、議会の各ポジションを確保することは我々にとって極めて重要です
だからこそ我々は、グレート·エスケープの際に大量の輸送力と武装を動員し、世界政府内で黒野に忠実な行政官僚や立法関係者を空中庭園へ避難させたのです
しかし、ケパートはシュエットをロプラトススペースポートから黒野へ連れ帰ったあと、行方不明になりました
彼は机の上の端末を手に取ると、画面をシュエットの報告書に切り替え、内容を確認した
……彼の行方に関する記述は一切ない。最後に姿を見せたのは、パニシングの爆発が起きた日です
名前を変えて身を隠してるのかもしれんぞ?堂々と人に言えないような仕事をしてりゃ、息も詰まるってもんだ。その気持ちは、リス坊もよくわかるだろう?
ある日突然、ただの庶民になって、ぼけーっと生きる……それも結構じゃねえか!
……
なあ、俺はいつでも替えがきく道楽者より、そいつのバックにいるやつの方が気になるがね
男の目に一瞬鋭さが戻った
それがもうひとつの疑問点です。ケパートの背後にいる者……
グルートの行方も、いまだに掴めていません
俺の本音を聞きたいか?
聞く以外に選択肢がありますか?
グリースは冷たく笑った
災厄が起こる前からこれらの研究に強い関心を示していた人間なんだ、ただの博識な作家様とは思えん
もしあの男がまだ生きているとしたら、次にやり合う時には……
どうやって、やつの力を黒野のために利用するか、俺たちもとことん考えておかなきゃならん
リストは端末を机の上に戻し、先ほどの会話の意味を反芻するように唇をかみしめた
やるか?
グリースは煙草を噛む度に顔面を歪めつつも、その喉奥ではまだまだ嗜好を欲しているのが窺える
……私がそんな物に手を出さないことはご存知でしょう
粛清部隊整備エリア
新しく配属されたっていうのは?
粛清部隊構造体のシュエットです。ビアンカ隊長に報告したいのですが
私はデモン、よろしく。さっきのお方は、「イサ」とでも呼べばいいので
軽薄な感じの構造体が身を乗り出し、勝手に自己紹介を始めた
……
イサリュスだ
ビアンカ隊長は地上任務に出ている。我々は今から早朝訓練に出てくる
環境に慣れるためにも、まずは宿舎でゆっくりするといい。もし興味があるなら、後で訓練エリアに来てもいい
承知しました
同じ階級の隊員だ、そんなにかしこまる必要はない
じゃあ、先に行く
また後で~
構造体の肩の装甲部分には、粛清部隊の「沈黙の監視」の紋章がはっきりと刻まれていた
シュエットは反射的に、その紋章と似た意味の標語を思い出した。「常に警戒を怠らず」
自分は一生この言葉に縛られるのかもしれない、そう考えた時、彼女は意外にも安堵するような感覚を覚えた
命令、任務、スケジュール……
これでいい
理解できず、理解する必要もない目標に仕える。決して埋まることのない空虚に仕える、それでいい
彼女は整備室の端末を起動した
粛清部隊任務データシステム
それが、今後彼女の手で葬るべき者
それが、今後彼女が遂行すべき事後処理の業務
彼女は循環液が胸の中で波立つのを感じた
これは……
一瞬の迷いもなく、彼女は検索ボックスを開いた
そして、決して忘れることのない名前を入力した
彼女は黒野に感謝せんばかりだった。改造を受けたことで、意識海は無限の知識とデータに接続可能となった
かつてアルファベットを全て覚えることすら夢のような話だったのに、今ではそれは取るに足らない基本技能となっている
しかし、彼女は全てを、あの人に教わりたかった
<i>エレノア·シンクレア</i>
該当なし
<i>エレノア</i>
該当なし
……
そもそも彼女は大きな期待は抱いていなかった。こうなることは予想済みだ
この巨艦の深奥だろうが、粛清部隊が暴けない秘密など存在しない
地上はどこもかしこ侵蝕体に支配された荒地だ。これから彼女は幾度となく、そこで任務を遂行することになる
たとえエレノアがどこにいようと、シュエットは必ず彼女を見つけ出すと決意した