アジサイ島商業計画本部
御園グループ
11月 早朝 晴天
これが島の上陸申請書です。必要な資料は全て揃っているわ、問題ないでしょう?
早乙女博士、確かに資料は揃っています。ただですね……
何か?
申し上げにくいのですが、博士の研究経歴には少なくない問題がございます。薬物の乱用や違法実験等……
そんなことはあなた方も承知の上でしょう?
私を招聘したのはそちらなのに、今更そんな話を持ち出すの?
もちろん、我々は博士の研究理念を支持しています。博士の挑戦的な姿勢に我々も注目したのですから
ですが、島の上陸者リストはいずれ科学理事会に提出され、審査を受けることになります……
ご存知の通り、あの連中は我々のように物わかりがいいわけではありません
もし「担当教師」の欄に博士の名前を見つけたら、彼らがどう思うかはご理解いただけるでしょう?
恐らく、たちまち博士の過激なやり方と島の研究方針とを結びつけるしょう
そうなれば、博士の上陸が拒否されるだけでなく、アジサイ島の商業計画全体が台無しになる可能性すらあります
……
臆病者に研究の舵を握らせるなんて、人類全体にとっての恥だわ
ただ、まったく手立てがないわけではありません……
我々は「教育」を隠れ蓑にして研究を行う予定です。そのために学校組織も設立します
大学の科学研究プロジェクトであれば目立ちますが、高校ならそう目をつけられずに比較的安全です
常識的に考えて、誰が高校で最先端の研究が行われているなんて思うでしょうか?
もし、在校生の「保護者」という立場で島に上陸できれば……
博士の名前を「生徒家族」の欄に紛れ込ませることができます
私が付き添いの保護者に?
その通りです。成功した前例もありますので
その提案は、前提条件に基本的かつ明確な誤りがあるわ
私に子供はいないし、独身よ
博士のご多忙は重々承知です。研究と家庭を円満に両立させるのは至難の業でしょう
……はっきり言ってくれない?
私が考えるに、養子をお迎えになってはいかがかと……
養子?
文書管理官はニヤリと笑みを浮かべながら、引き出しから名刺を1枚取り出した
こちらなんてどうでしょうか?
レイカが名刺を受け取ると、そこにはある孤児院の住所が書かれていた
そちらは、以前から我々と協力関係にある福祉児童院です
後ほど私から先方に連絡を入れておきます。博士がお見えになれば出迎えるようにと
その後の養子縁組の手続きは、我々にお任せを
御園グループ傘下の福祉児童院
名刺に書かれた住所を頼りに、レイカは隠れるようにひっそりと佇む福祉児童院にやってきた。そして、半信半疑のまま扉を開けた
古めかしい洋館の中庭で、中年の男性がレイカを待っていた
早乙女さんですね
ええ、そうです
どうぞこちらへ
書類上の養子とはいえ……ご自身と気の合いそうな子をお選びください
写真では疑われる可能性もありますので、我々は細部まで慎重に配慮しています
院長が背後の重厚な扉を押し開けると、白熱灯の下で埃が舞い上がり、レイカは思わず口と鼻を覆った
上品な洋服を着た少年少女たちが、レイカを見てすぐに集まってきた
こんにちは
ようこそいらっしゃいました
こんにちは
素敵なお召し物ですね、それに綺麗な髪!
よかったら、私たちとお話をしませんか?
……
予想以上の熱烈な歓迎に、レイカは一瞬どう対応すべきかわからなくなった
彼女はそっと子供たちの包囲から抜け出し、整った顔立ちの子供たちをザッと見渡した
すぐに彼女はこの熱意の中に潜む冷酷を見抜いた
子供たちの「世界に対する嫌悪感」が、大人によって教え込まれた「愛想のよさ」を上回っているからだ……
その感情が、いくつかのあどけない顔に滲み出ている
媚びるような笑顔がレイカの心を掴むことはなく、かえってレイカと子供たちの間に溝を作った
どうですか、とても賢い子たちなんですよ。年齢もさまざまです
左手にいるジャックは数学が得意ですし、その隣にいるドーラは物理が得意なんです……
どの子も優秀です。お気に召す子はいましたか?
自分と似たような子はどうもね……あなた、鏡を見るのが好きなの?
ハハ、そういう意味ではありませんよ。では奥へどうぞ、きっとお気に召す子が見つかるはずです
レイカは大勢の子供たちからひっきりなしに挨拶されながら、案内されるがままに進んだ
彼女が階段を上がろうとした時、片隅で咳をする声が聞こえた
その咳き込む声に、賑やかな笑い声や雰囲気と鮮明な温度差があった
レイカが少し興味を持って振り返ると、ひとりで縮こまって座っている少女が目に入った
少女は他の子供たちよりも年上に見え、読書の最中だった
なぜかわからないが、その少女を見た瞬間、レイカの脳裏に幼少期の記憶が浮かび上がった
あの頃のレイカも、いつもひとりで本を抱えながら隅に座っていた
孤独で、集中して、周りが見えない
あの子は……
院長は視線を留めたレイカに気付き、少し困惑した表情を浮かべた
前にも他のお客様があの子を引き取ったことがあるんですが、いつも短期間で戻されてしまうんです
あの子は体が弱く、先天性の心臓病を患っていますから、大人になることは難しいかもしれません
「お客様」ですって?
レイカは怒りを込めて隣にいる男性を睨んだ
子供たちを商品にして売りさばいて、さぞ儲けたでしょうね?
申し訳ありません、失言でした。しかし……
博士もそれを承知の上でいらっしゃったのでは?そういった点はあまり気にされないのでしょう?
……
レイカはふっとため息をつき、それ以上反論しようとはしなかった
あの子の名前は?
ユウカです
レイカは床に座っているユウカに歩み寄った。ユウカもレイカの存在に気付いたようだ
足音が止まると、ユウカはそっと本を閉じ、脇に置いた
「風姿花伝」……役者になりたいの?
いえ、気晴らしに読んでるだけです
こういうのがお好きなんですか?
芸術のことはさっぱり。せいぜい見た目を飾る程度よ
でもその靴、すごく精巧なアジサイの刺繍がされていますね
実はとても……細やかな人なのでは?
少女は姿勢を整えて正座し、顔を上げて目の前の大人をまじまじと見た
僅かに憂いを帯びた瞳に、レイカは思わず息を呑んだ
まるでお人形ね……
いかがです、この子はとても美しく成長しているでしょう?
レイカも突然きちんと正座し、目の前の少女をじっと見つめた
博士!何を……
私と一緒に帰りたい?
いいんですか?
私の姓を名乗れば、将来多くの人から嫌われることになるわよ
それでもいいの?
ここに来るお客さんで、私に話しかける人はほとんどいません。だから、あなたはいい人なんだと思います
偽善者かもね
早乙女家は昔から外面のいい慈善家ばかりなの
いいえ、あなたは面白い方だと思います
本当にそう思う?
はい
愚かな子ね、私はあなたを利用したいだけなのに
じゃあ、どうぞ私を利用してください
あなた……
いえ、何でもないわ……ユウカ、いい名前ね
福祉児童院から出ると、外は大雪になっていた
真っ白に染まった世界の中で、脳科学研究討論会の黒塗りの専用車はひときわ目立っていた
あなた方のこの手際……手慣れすぎていて、気味が悪いわ
じゃあ、ユウカ、もうしばらくここにいてね
研究討論会が終わったら迎えに来るから
少女は穏やかな顔に一瞬失望を滲ませたが、すぐに平静を取り戻した
何かを隠すように彼女は両手を背中に回し、おとなしくレイカを見つめた
お気をつけて、いってらっしゃい
ここみたいね
あの後、ユウカは福祉児童院に戻らずに私の車をずっと追いかけて……雪の中で倒れたのよ
次に迎えに行ったら、病院へ運ばれたと聞かされたわ
潮の音が近付きつつある
レイカは再び目を閉じた
お気をつけて、いってらっしゃい
レイカは足を止め、少女の方を振り返った
早乙女博士、あと30分で会議が始まります。お急ぎください
いいえ、会議は行かないわ
ユウカの驚いた表情を前に、レイカは一歩一歩、彼女の方へ戻っていった
ユウカ、実は、あなたに協力してもらいたい実験があるの
私にできることなら、喜んで
まだどんな実験かも言ってないのに
あなたにとって必要なら何でも
レイカはユウカの前で足を止め、風雪から彼女をかばった
人間の意識の成長法則を観測するために、あなたには「普通の女の子」になってもらいたいの
……よくわからないけど、私、頑張ります
ユウカは少しためらってから、言葉を続けた
私が「普通の女の子」なら、あなたは私の「お母さん」ですか?
……
研究者はいつだって自分の研究成果を「子供」と呼び、自分を「母親」だと思うものよ
そういうことなんですね
ユウカの目に一瞬困惑の色がよぎり、背中で組んでいた手が少し縮こまった
人間社会の母娘関係は、感情的になりすぎる傾向にあるわ。それでは実験の正常な進行に支障をきたしてしまうでしょう?
彼女の憂いを帯びた瞳を見つめ、レイカはふと自分が言い訳めいたセリフを言っている事実に気付いた
じゃあ、何と呼べばいいでしょうか?
私のことは「先生」と
わかりました、先生
すぐ側に立っているはずなのに、レイカはユウカとの間にとても遠い距離があるように感じていた
彼女は無意識の内に数歩近付くと、そのまま自分のコートを脱いでユウカにそっと掛けてやった
えっ?
レイカの突然の行動にユウカは動揺し、彼女は仕方なく背中に隠していた手を前に伸ばした
それ……アジサイ?
レイカはユウカの手にある白い紙の花を指差した
はい……先生に贈ろうと思って。でも……まだ色を塗ってないんです
ありがとう、ユウカはすごく器用なのね
家に帰ったら、一緒に色を塗りましょうか
ありがとうございます、先生
ユウカは思わず微笑んだ
ユウカ、あなたには「普通の女の子」として過ごしてもらいたいの
ユウカは少し戸惑いながら頷いた。レイカが再び同じ要求を繰り返したことに驚いたようだ
ユウカに協力してもらいたい実験はこれひとつだけよ、他には何もないわ
だからこそ実験として、あなたの成長データを常に記録しなきゃならない
研究者として、あなたとの日常的な接触は欠かせないし――
それに、人間社会の「母娘」のように、同じ家に住まなきゃならないわ
研究成果は、毎年論文にまとめて、脳科学の学術誌に発表するつもりよ
島に上陸したあと、仕事の中心になるのはこの研究テーマだけ
だからあなたは他のことは何も気にせず、ただ成長すればいいの。できるわね?
もちろんです、先生……嬉しいです
レイカは頷いた
辺りを見渡すと、雪は次第にやみ、陽光が大地に降り注いでぽかぽかとした暖かさをもたらしている
レイカとユウカは雪の中を一緒に歩き、大小2列の足跡を残した
レイカは満足そうに空を見上げ、ゆっくりと口を開いた
じゃあ、ユウカ、これからよろしくね
うん、先生。よろしく!
レイカは目を開いた
ユウカの口元は僅かに弧を描き、心地よくぐっすりと眠っているかのようだ
赤潮が咆え叫びながら廊下を呑み込んでいく
レイカは地面に膝をつき、ユウカを腕の中に、きつく抱きしめた
そして最後にようやく、彼女は目を閉じた