視聴覚モジュールを調整しても、周囲の情報をはっきりと感知することができない
シヴァ、シヴァ
ヴァレ……リア……
耳元の声は海水を隔てているかのように遠くに聞こえ、目の前の光もぼんやりと揺らめく塊のように見えた
ここは……どこ?
教室棟の側の廃墟よ。ここはパニシング濃度が比較的低いわ
シヴァがホッとしかけた時、「光が揺らめく」視界をふいに黒い影がよぎった
ヴァレリア、危ない!
叫んだ瞬間、シヴァの目の前の景色がぐるっと回転した
続いて、パルス銃の独特な銃撃音が響く
ヴァレリアはシヴァの体を支えたまま何度が転がり、攻撃を回避した。しかしシヴァがそれを知ったのは、完全に目覚めてからのことだった
うっ!
見事な反応速度と身体能力ね……
少し離れた場所からパチパチと拍手の音が響いた。影から現れたのは上品そうな女性だった
早乙女レイカ……
普通の成人の反応速度は、およそ0.3秒だそうよ
訓練を受けたプロなら、その時間を更に半分まで縮められる
陸上競技では、合図からの反応時間が0.1秒未満だとフライングとみなされるらしいわね
自分に狙いをつけている黒い銃口に構わず、レイカは悠然と歩きながら話を続けた
ヴァレリア……あなたの隊員はそう呼んだわね。あなたは人間なんでしょう?
これほど卓越した反応速度と身体能力は、人類としては極めて稀ね
資料によると今のあなたは構造体ね。だけど、外見は人間の頃とまったく同じだわ
不必要な継ぎ目や醜い改造の痕跡はとっくに除去した……
その代わり、機体の戦闘性能は犠牲にせざるを得なかったけれどね
私にはこだわりがあるの。人間の体の細部を再現できていなければ、人間のように考えることができない
パーツごとにカスタマイズして、顔も体も可能な限り本物の人間に近付けたのよ
聡明なあなたなら、私の言いたいことはわかるでしょう?あなたの見た目がどうであれ、私が訊きたいのは「なぜ戻ってきたのか」ということよ
なら、そちらもわかっているのでしょう。今のあなたは私を脅せる立場ではないと
レイカは愉快そうにヴァレリアの横を見た。すぐ側で、シュエットが苦しそうに額を押さえている
撤退しないなら、ユウカの干渉がますます強くなるだけよ
あなたは何ともないのね
ちょっとした特権よ、大したものではないけれどね
レイカの顔には、穏やかながら取り澄ましたような微笑みが浮かんでいた。ヴァレリアは思わず銃のグリップを握りしめた
もちろんあなたの質問にはお答えするわ。なぜ私がまた戻ってきたのかを
理由は簡単よ、ユウカが目覚めたから
あの子の最初の構造体手術は成功とは言えなかった。エネルギー供給システムは外付けだし。それに構造体になっても、体の構造は異様に脆弱だった
パニシング爆発後、私の助手が勝手にあの子の供給ケーブルを切断し、低出力状態で休眠させたのよ
その結果、ユウカの体の多くのモジュールが損傷した……現在の技術をもってしても、あの子の状態は限りなく死に等しい
根本的な原因は、単なる普通のモジュールの損傷ではなく、ユウカの……意識海の損傷だった
ユウカを目覚めさせようと、私は何十年にもわたって試行錯誤を繰り返してきた。正攻法も奇策もね。だけど、どんな手段を使っても成功しなかった
耐えがたい現実に激怒するかのように、再び地面が激しく揺れ始めた
校舎も揺れ始めています……赤潮はもうここからそう遠くありません!
それなのに、私が何十年かかっても埋められなかった空洞を簡単に修復しちゃったのよ。パニシングと赤潮の力で……
レイカはそう言いながら後ずさり、壁際の影に溶け込んだ
あの子……また、ひとりきりでどんな代償を背負い込んだの?
彼女の表情は暗闇のせいでハッキリとは見えなかったが、その声に滲んだ悲しみをヴァレリアは感じ取った
どこへ……行くの?
娘に会いに行くわ……これが最後になるでしょうけどね
レイカの声は次第に遠ざかり、ヴァレリアは彼女が去ったことを悟った
なぜ……撃たなかったんですか?レイカは……任務目標ですよね?
今は黙って
「任務目標」については、あなたとシュエットの意識海が安定してからよ
シュエットが振り向くと、ヴァレリアの顔には細かな汗の粒が滲んでいた
ふたりの意識海を安定させるため、彼女はすでにマインドビーコンを過負荷で出力していた
さてと、八咫
こちらの会話は聞こえたわね?
ザッという短いノイズの後、通信端末の向こう側から小さなため息が聞こえた
ヴァレリアは疲れきった様子で目を閉じた
ユウカの覚醒の原因はいまだ不明だが、恐らくはコレドールと赤潮によってだろう
俺と無駄話をしてる余裕があるのか?あんたの隊員たちは大丈夫なのか
ふん、スカラベから通信が途絶えた時点で、すでに救援用の無人輸送機が向かっている
あの怪しげな「意識投射」のせいで、これ以上人を派遣しても無駄な犠牲を増やすだけだ。今はスカラベに期待するしかない
ニコラは目を細め、苛立ちながらリアルタイムで返送されてくる任務報告を確認していた
それよりも気になるのは、なぜ意識投射が全員を操り人形のように支配できるのかということだ
その理由は簡単だ。意識投射が、本当の「投射」じゃないからだ
本当の「投射」じゃない?
あんたも理解しているはずだが、意識リンクは簡単にいえば、指揮官のビーコンを構造体の意識海に接続することで、構造体の意識を補助的に安定させる
そして、その派生技術である意識投射も同じ方法を利用している
アシモフは仮想キーボードを叩きながらも、ほとんど聞こえない小さなため息をついた
詳しく説明してくれ
つまり、他人のビーコンを自分の意識海に接続する点は同じだが、意識投射では複数のマインドビーコンに同時接続することが可能だ
いわゆる「投射」とは、自分の意識海に幻覚を作り出し、他人もそれに支配されているような幻覚を生み出すにすぎない
もし本当に他人を制御できるのなら、科学史の中で無視されるわけがないだろう?
ニコラは任務報告書を横に放り投げ、こめかみを揉んだ
いい指摘だ。複数のビーコンを同時に意識海に接続するだけでも、すでに膨大な負担がかかる。その上で情報伝達や、他人を制御する幻覚を作り出すのは、極めて危険な行為だ
リンクは本来、人を幻覚に陥れるためのものじゃない……意識投射はその派生技術だが、たとえひとりのために幻覚を作り出すとしても、意識海モデルに深刻な偏移を引き起こす
つまり、あのユウカはすでに……
完全に人間の枠組みを超えてしまっている。肉体的にも精神的にもだ。あの状態を維持すれば、彼女の意識海にはとてつもない苦痛が待っている
被験者に極めて厳しい要求が課され、簡単に致命的な意識海の損傷を引き起こす……それが意識投射が歴史の塵と化した理由だ
しかし、意識リンクの派生技術とはいえ、対象が人間だけではなく、構造体や機械体まで及ぶとはな
恐らく、それは赤潮による助長なんだろう。パニシングは何でも呑み込むからな
そうだな……赤潮がユウカに力を与えたというよりも、むしろ……
アシモフは深く息を吸い込み、ゆっくりと結論を吐き出した
……ユウカが赤潮の信号増幅器になったんだ
……先生
あら、礼儀正しい子ね
私は立ち止まるべきじゃなかったし、アンタもここにいるべきじゃない
6本の腕が無意識に拳を握りしめ、八咫の表情は凶悪なほど険しくなった
今さらアンタがユウカに会う資格なんてあるの?
私はあの子の母親だもの
彼女の顔にはまだ見せかけの微笑みが浮かんでいるが、その声はとても冷淡だった
母親……母親ねぇ……
八咫はその驚くべき言葉を繰り返し、その意味を噛み締めたあと……
ガァン――!
荒廃した校舎に耳を引き裂くような轟音が響き、もうもうたる粉塵がレイカの視界を覆い尽くした
煙が晴れると、レイカは背後の壁が八咫に殴りつけられ、大きく穴が開いていることに気付いた。八咫が怒りをむき出しにしてレイカを睨みつけている
そう、母親よ
レイカは八咫の脅しに動じることなく、依然として微笑みながら答えた
母親ヅラすんなよてめえ!アンタがいつユウカを娘として見たことがあった?えぇ?
……
ユウカが経験してきた苦痛や、今も赤潮に侵蝕されている苦痛……あの子の全ての苦しみを、アンタは一瞬でも同じように感じた!?
自分の娘を研究のために犠牲にすんのが、「母親」としての覚悟だっていうのかよッ!
必死に怒りを抑えようとしていたが、八咫の声は次第に大きくなり、最後は理性を失い咆えるような怒号に変わった
……
レイカはしばらく目を閉じ、やがてどうしようもなさそうに目を開いた
そう、あの子は私の娘じゃない。ただの実験材料のひとつにすぎないわ
研究対象の現状を切実に把握したいという気持ちは、どんな研究者だって同じでしょう?
失せやがれ!アンタにそんな資格なんて――ううっ!
ひとしきり耳鳴りに襲われ、意識海には針で刺されたような痛みが押し寄せた。八咫は再び夢の中に落ち込みそうになった
クソッ、ユウカ!
八咫が悶絶しながら幻覚に抗っていると、手首にヒヤリとした感触があった
意識海の刺すような痛みが、潮が引くように和らいでいく。手首を見ると、黒い金属の輪がはめられている
何よ?これ
当時実験で使われていた防護装置よ。赤潮に強化されているから完全に遮断することはできないけど、多少は干渉を軽減できる
アンタはどうすんの?
八咫がレイカの手首を見ると、そこには何もつけられていなかった
もうそんなもの、必要ないから
防護装置もなく、マインドビーコンで意識海を安定させることもできなきゃ、すぐに侵蝕されるよ
そう言って八咫は防護装置をレイカの手に押しつけたが、レイカは静かにそれを拒んだ
それは特別なものじゃないわ、私もひとつ持っているの
ただ、もう身に着ける必要がないだけ
八咫は一歩後ずさったが、その目は警戒したまま、じっとレイカを見据えていた
悪いけど、それでも私はアンタを全然信用できない
そんなことをしたって、ユウカが受けた苦しみの埋め合わせになるもんか……ほんの少しの苦しみですらね
……私だって、ユウカのために何かできるとは思ってないわ
レイカはふと顔を背け、その取り繕ったような微笑みも次第に消えた
ただ伝えたかったの。もし、あなたが私をユウカの母ではなく「研究者」と呼ぶのなら、私ほど自分の研究対象を理解している者はいないわ
だから、あの子に会わせて。研究者として……そして、あなたは認めてくれないけど、母親として
それがあなたに害を与えることはない
……私の前で、二度と、「母親」って言葉を、口にするな
八咫は区切ったひと言ずつを、強く言い放った
苦労して構造体になってまでユウカの覚醒を待ち続けた理由が、たった一度あの子に会うためだって?
ええ
簡潔な答えに、八咫は思わずあっけにとられた
八咫、私の話を聞いて
あの子の意識海は無数の人々の意識で満ち溢れている。彼女自身の意識すら沈んでしまうほどにね
あの子自身が……沈んでしまう?
おかしいでしょう?これが意識投射実験の必然的な結末なの。私たちの予想とは違ったけれどね
意識投射とは、自分の意識を他人へ投射するのではなく、他人から自分へ「投射させる」ものなの。最後は自身の意識海がその影響を受ける……
そうと知ってて、あの子にそんなことをさせたの!?
……
ほんの一瞬、レイカの瞳に微かな痛みがよぎった
そう思ってくれて構わないわ
ユウカは今、赤潮の力を使っている……あえて言うけど、八咫
他人が生きようが死のうが、私は一切気にしない。私はそういう人間よ
もし、ユウカが本当に赤潮の中で幸せを得られるなら、私は何も邪魔しない。それどころか、嬉しく思うわ
だけど、それは絶対にありえないことよ
彼女が僅かに顔を上げると、冷たい月光がその頬をなでた
赤潮に溶けた死者の数は、今のユウカが背負っている意識の数とは比べ物にならないほど多い
パニシングにせよ、他人の意識による圧迫にせよ、最終的にはユウカの意識は消滅させられる
今でさえ彼女は赤潮の意志に歪められ、投射の中で膨大な苦痛を味わっている
八咫は目を閉じた。ユウカと出会ってからの光景がひとつまたひとつと脳裏をよぎっていく……
弱くて、頑固で、狂気的。それは紛れもなく、ユウカだ。しかし……
彼女はかつて全力で八咫を危険から遠ざけようとしていた。それが今は……八咫を死へと誘い込もうとしている
レイカの言う通り、ユウカの意志はすでに赤潮によって歪められている
八咫はずっとその事実を理解していた。ただ、それに向き合いたくなかっただけだ
……何でそれを私に話すの?
あなたが……もう迷わないように
あの子を止めて。無限の苦しみから解放してあげてほしい
止めてって……赤潮との繋がりを断ち切ってしまったら、あの子、生きていられんの?
ふたりの間に沈黙が落ちた。止まった時間の中で、ただ木々の影だけが音もなく揺れていた
赤潮の女は、確かにあの子にもう一度生きる力を与えた。だけど、それが本当に善意だと思う?
ユウカは投射の能力を持っている。それこそがユウカが選ばれた理由でしょうね
ユウカの意識は赤潮に呑まれつつあるわ。いずれ完全な道具――意志を持たない増幅器になってしまう……
その時、あの子は本当の意味で死ぬのよ
レイカの微笑みに悲哀が滲んだ
行きなさい、八咫
もし間に合うなら……
私たちは、最後にあの子に会えるかもしれない
八咫は思わず拳をぐっと強く握りしめたが、やがて虚しく力を抜いた
……わかった、アンタの言う通りにする
八咫は防護装置を手首に装着し、ユウカのいる場所へ向かって駆け出した
去っていく八咫の背中を見送り、レイカは力なく壁に寄りかかった
もしこれが……あなたの感じている苦しみだというのなら……
あなたをこんな形で生かし続けるのは……ただのわがままにすぎないわね
彼女は自嘲するような苦笑を浮かべ、ゆっくりと八咫が向かった方へ歩き出した