御園学院高等学校
5月2日 夕方 晴天
保健室
壁際のカーテンが開かれ、壁面に隠されていた扉が内側から開いた
特殊な小部屋に、独立した病床と窓があった
ユウカは左手で右腕の止血用綿球を押さえつつベッドから降りた
校医は注射器と外した使い捨て手袋を、すぐ側のゴミ箱に捨てた
ふたりは歩いて保健室のソファに向かっていく
最近吐血したと聞きましたが、本当ですか?
はい。薬を飲み始めてから時々、血を吐いてしまって
それ以外に、どんな症状が?
幻聴や幻視、それに睡眠中に悪夢を見ます
精神安定剤をいくつか処方しましょう
ですが、吐血はどうすれば……これが最低限の投薬量なんですよね
これ以上減らすと、ナノマシンを体内に移植する際に、深刻な拒絶反応が起きる可能性があります
あなたの体質は、この種の実験には本来向いていないんですよ。心臓があまり丈夫ではないのでしょう?
あの時の第三者機関の報告結果は、本当に問題なかったのかしら……
大丈夫です
体はあまり強くありませんが、この実験をやり遂げる覚悟はあります
私のことは心配しないでください。適切な量の薬を処方してもらって大丈夫です
はあ……あなたがそこまで言うなら、これ以上私が迷っても仕方ないですね
栄養剤とサプリメントも忘れずに飲んでください。顔色が優れませんよ
いつも吐き気がするんです
ダメです。無理にでも飲み込んでください
はい
ユウカはさまざまな薬を鞄に詰め込み、保健室を後にした
ユウカの背中を見送りながら、校医はしぼんだ風船のようにしなしなと椅子に座り込んだ
彼女は震える手で引き出しから煙草の箱を取り出し、1本取り出したものの、すぐにゴミ箱に投げ捨てた
なんて世の中なの……
その時、引き出しの中の茶色い封筒が目に留まり、彼女は数秒固まった
少し前、黒服の人物が約束通りその封筒を彼女に手渡したのだ
茶色い封筒の中には、連番ではない札束が新聞紙に包まれて入っていた
そして、アジサイ島医療センターの非常勤講師の招聘状も同封されていた
校医は静かに引き出しを閉め、窓の側まで行くと、再び煙草を取り出して火を点けた
中年をすぎた彼女はふたりの娘と病気の母親を抱え、どうしても金が必要だった
グラウンドに面した窓から、夕陽が沈む中で、女子バレー部員たちが練習しているのが見える
遠くの校門は開かれたままだ。今日は御園学院の開放日であり、学園祭の日でもあった
教室棟の側では、八咫が気怠げに壁にもたれ、靴を履き替えるユウカを待っていた
今日は授業が終わるの遅かった?ごめんね、私、昼は抜け出してたから
お待たせ、ちょっと保健室に行ってたの。昨日の夜、くしゃみがひどくて
ユウカ、今夜は学園祭と島の花火大会だよ。一緒に行こうよ!
そうなんだ……確か去年、能楽のお面を作ってくれるお店があったような
能楽のお面って何?ユウカ、興味あるの?
うん、白狐のお面が好きなの。よかったら一緒に見に行かない?
もちろんいいよ。でも、その前に食べ物、付き合ってよ!
いいよ、八咫ちゃんの言う通りにする
学校の敷地内から街道まで、カラフルな提灯と看板で彩られた屋台がズラリと立ち並んでいる
制服姿の学生たちが連れ立って街道を行き交い、大変な賑わいだ
香辛料と花の香りが入り混じる中、カップルたちが桜の木の下に敷物を広げ、花見をしている
賑やかな喧噪の中、夜空もその熱気に照らされるように赤く染まっていた
通りにある揚げ物と焼き物は全網羅だな、アハハ
御園の生徒だけかと思ったけど、校外の人も来てるんだね
今日は学校の部活も荒稼ぎ……じゃなくて、奮闘するつもりなんでしょ
さっき、例の打楽器部がドラムを準備してるのを見かけたよ。あの子たちまで、このチャンスでひと稼ぎって狙ってるみたい
あっ、八咫ちゃん、ちょっと待って!
お面専門?ここがさっき言ってた能楽のお面の店?
おや、珍しく若いお客さんだ。お嬢さんたち、何かお探しかい?
狐の神様のお面が欲しいんです。お勧めのデザイン、ありませんか?
美人のお嬢さんなら、どれもお似合いだよ。新作のお面なんてどうだい?
店主は狐の面をユウカに手渡した。面を受け取ると、ユウカはすぐに顔につけた
意外と息苦しくないね。どう?八咫ちゃん
うーん……見慣れないな……雰囲気がガラッと変わるね
古風で優美な感じっていうの?ま、見た目がいいと何でも似合うよね!
よくお似合いだよ、お嬢さん。霧に包まれた明月のような美しさだ
本当に狐神が現われたかと思った。その姿を見れば、かぐや姫だって敵わないと恐れ入るだろうよ
そこまで褒められると、逆に目立つんじゃないかと心配になるけど
でも、デザインはすごく気に入ったわ
行こっか、八咫ちゃん
団子と焼き鳥、食べる?さっきいっぱい買っちゃって、ひとりじゃ食べきれなくてさ
いい匂い。でも私、脂っこい物はあんまり食べられないの
また今度ご馳走してもらおうかな
じゃあ、ひとりで食べちゃうよ
おい、八咫!うちのから揚げ食べてけよ?特製のタレが自慢なんだ!
モチロンもらっとく、ハーフサイズのを包んで
八咫、うちのアイスサンドはどうだ?食べたことないだろ?
じゃ、とりあえずふたつちょうだい
ねえねえ、オリーブオイルとミルクで作ったミートパイはどう?
袋に詰めといて?
やあ、八咫。占っていくか?水晶玉でもタロットでも、なんでもいいぞ
じゃあ、次の大会で記録を更新できるか占ってよ
部活の皆……八咫ちゃんのこと知ってるんだ。この通りを歩くだけでVIP扱いで満漢全席だね、八咫ちゃん
どうってことないよ、この程度のカロリーなら。明日ハーフマラソンくらい走れば消費できるよ
でもちょっと残念だなー。去年の大会の優勝賞金、この道を歩いただけでパア
ふたりが話していると、遠くの漆黒の夜空に、淡い黄色の花火がひとつ打ち上がった
花火が始まったみたい
ねえ、ユウカ。川沿いを歩いていこうよ!
そう言うと八咫はユウカの手を引いて人込みを抜け、林の中へ入った
八咫ちゃん、どうしてこんな細い道を通るの?蚊だらけ……
知らないっしょ?こっちが川辺へ行く近道なの。去年私が見つけたんだ
大通りはカップルの群れがバリケードみたいに前を塞いでるし
イチャイチャしてる後ろに立つの、なんかイラつかない?
バリケードって……
ほらほら、ついてきて!
遠くから聞こえる花火の音とともに、ふたりの少女は林の中を進んでいった
枝がザワザワと揺れる中、低木に囲まれた林の中の会館から、ふたつの人影が肩を並べて階段を下りてきた
美しい女性が男性の腕に手を絡ませながら口元を抑えて笑い、耳元で囁いている。まるで恋人のようだ
早乙女さん、酔っているんですか!?
もう少し行動は慎重に……誰かに見られたらどうするんです?この辺りにはあなたの教え子もいるんですよ
ふふ、ヨシヒロさんってそんなに小心者でしたっけ?
学生の時、私に告白してくれたじゃありませんか。私の記憶違いかしら?
あれは昔の話です……
あの日の朝、顔を真っ赤にして教室の外で私を待ち伏せしていましたよね
はあ、思い出したくもありませんよ……あの頃、あなたを慕う人が多かったので、後れを取りたくなかったんです
昔の友人に会うのは、別におかしなことじゃありませんよ。それとも何か別の期待がおありに?
勘弁してください。あなたが「学術的な話をしたい」というから来たんですよ……
そういえば、ご妻女は?前に伺ったときはお会いできなかったですけど
癌を患って、マサオがまだ小さい頃に亡くなりました
それは申し訳ありません。本当にお気の毒です
気にしないでください。この何年かで、やっと受け入れましたから
その何年かの間……
レイカは絡めた腕を自分の体に引き寄せた
寂しくはなかった?
大迫は驚き、眉をひそめてレイカの手を振り払った
今はマサオを育て上げることだけを考えています。それ以外は何も
そう?
レイカは少し乱れた髪を整え、変わらず笑みを浮かべていた
その時、夜空に大きな花火が打ち上がり、ふたりの表情をはっきりと照らし出した
レイカの唇が動いたが、その声は花火の音に掻き消された
今、何と?
川辺まで付き合ってもらえませんか、と。今夜は花火大会ですから
構いませんよ
八咫ちゃん、秘密の場所ってここ?堤防なんだ……
ほとんど誰もいないでしょ?この角度なら完璧に花火が見えるんだよね
夏だったら、風もあって涼しくて、気持ちよく昼寝できるかも
気をつけて、消波ブロックの上は危ないから。落ちたら、下は汚れた泥と砂だらけだよ
そんなこといいって、早く見なよ。綺麗じゃない?花火がすごく近くに見えるよ
夜空には、色とりどりの美しい花火が次々と咲き誇るように打ち上がっていた
ユウカの細めた瞳に、さまざまな形の花火が映り込む
丸い花火や平べったい花火、奇妙な形をした花火が、煌めいたあとに白い煙となり、辺りを漂っていく
花火……綺麗だね。儚いけど、とても美しい
ねえ、ユウカ。一緒に写真撮らない?ツーショット
ちょっと待って
ユウカは腰の辺りに手を伸ばしたが、そこに鞄の紐はなかった
そんな、私の鞄が……
ないの?
さっき急いで林を抜けた時に、木の枝に引っかかって落としたのかな?
後で落とし物センターに行こっか
ダメ……薬が……
ああ、ダメだわ!すぐに戻らなきゃ。誰かに拾われたら大変……
八咫ちゃん、ごめん。今日はもう一緒にいられない……
なくしたら先生に怒られちゃうの。鞄にものすごく大事なものが入ってるの
後ずさりしながら八咫に謝り続けるユウカの顔は、恐怖で真っ青だった
ちょっと、ユウカ、一体何事よ?
ごめんね、八咫ちゃん、全部……全部、私が悪いの。いつも私のせいで……
私って本当に役立たず。ごめんなさい、ごめんなさい……先生……
「ごめん」ばかりじゃわかんないよ。近道を通ろうって言ったのは私なんだからさ
とにかく、私、ここで待っとくよ!
八咫が話し終える前に、ユウカはよろよろと転びそうになりながら林の中へ駆け込んでいった
気をつけて!ゆっくり歩けばいいから!
静かな森の中を、女性と男性が肩を並べて歩いていた
昨年までは荒れ果てた雑草だらけの場所だったが、今ではすっかり見違えるように整備されている
両側には整然とした竹林の景観が広がり、遊歩道は白い砂利で新たに舗装されている
本当に素晴らしい場所ですね。早乙女さんはどうやってここを見つけたんですか?
ここは私の秘密基地なんです。今日は特別に大迫さんをお連れしたんですよ、密会のためにね。ふふ……
あの……誤解されるような滅多なことは言わないでくださいよ
以前ここに来たときは何もなかったはずですが、いつの間にこんなに綺麗になったんです?
島の新しい景観開発プロジェクトです。ほら、あそこにはもともと、東屋を建てる予定でした
お詳しいですね。ここに湖があったら、もっとよさそうだ
以前、造園士協会に招かれて現地見学した時、ひと目で気に入ってしまったんです
少しだけ特権を使って、いつでもここに客人を招けるよう許可をもらいました
早乙女さんは庭園景観の学位をお持ちだと聞いたことがありますが、その噂は本当だったようですね
いえ、少し心得がある程度です。気分転換の趣味みたいなもので
科学者であり、造園の知識もおありだとは本当にすごいことですよ
さあ、どうぞ先へ
ご所望の湖がありますよ
ふたりは身を屈めて頭上の枝を避けながら、玉石が敷き詰められた道を進んだ
突然、空にいくつもの花火が打ち上がり、耳を震わせるような轟音が響いた
レイカは足下を滑らせ危うく転びそうになったが、大迫が間一髪で支えた
私は小心者かな?でも、レイカだって花火に驚いている
近くで打ち上がったら驚くわ。私だって女なの
数分おきに一斉に打ち上げているんですな。コンピュータ制御でもしているのか……
ええ、5分23秒おきに
そんなにはっきり覚えているのですか?
小さい頃から、一度見たものは忘れないんです。さっき歩いてきた時にすでに気付いていました
さすがは神童ですね。今の成功も頷けます
ふたりはそんな会話をしながら静かな小道を歩いた
どれくらい歩いたのか、足が疲れた大迫は、休める場所を探そうと思った
レイカ、この辺りに休めそうな東屋は?
レイカ?
大迫は辺りを見回したが、レイカの姿はない
空の最も高い場所へ、絹の帯のような花火の尾がいくつも高く打ち上がった
半秒後に、耳をつんざくような大きな音が鳴る
音は2回あった。ひとつは遠くから、もうひとつはすぐ側で
大迫がレイカの方を見ると、レイカも微笑みながら彼の方を見つめていた
ただ、その微笑みは今までのような芝居がかった媚びた様子ではなく……
儚く悲しげで、まるで少女のようだった
大迫が胸に手を当てると、指先に湿り気とねばねばした感触がある
暗闇の中でも、それが自分の胸から溢れ出した血であることは理解できた
そういうことか……
レイカは手にした銃を下ろし、ゆっくりと大迫の傍らへと歩み寄った
意識投射実験はどうしてもしなければならないの。こんな形でお伝えすることになって残念だわ
レイカ、それは何の銃だ?
グロックです
レイカは大迫を抱きしめると、銃口を腹部に押し当てて更に2発撃った
以前、私がした質問を覚えてる?
最も鋭利な刀は何か、という質問
確かに、この世には素晴らしい刀がたくさんあるわ。形も性能もそれぞれ違い、どれも甲乙つけがたい
でも人を殺せない武器なんて、ただの飾りよ
ヨシヒロ、あなたの刀は確かに素晴らしいわ。壁一面に飾るのも頷ける
飾りとしては、ね
レイカは布で拳銃の銃身を拭い、大迫の手に押し込むように持たせた
大迫の体は地面にドサリと倒れ、動かなくなった。辺り一面に血が広がっている
ユキヒラ
少し離れた林の影から、細い人影が幽霊のように現れた
はい、早乙女博士
処理して。偽装を完璧にね
承知しました、博士
レイカは手を拭き、ユキヒラの方へと歩き出した
その時、すぐ近くの茂みから取り乱したような足音が聞こえた
驚いたレイカが振り返り、ユキヒラもとっさに腰の拳銃を抜き取った
枝葉がガサガサと揺れ、ほどなくして御園の制服を着た女子高生が飛び出してきた
えっ……?
せ……先生?
ユウカの大きく見開かれた目が、血だまりの中に倒れている大迫へと向けられた
せ、先生……こ……これは……
ユウカが再びレイカを見た時、彼女はユキヒラの拳銃が自分に向けられているのを見た
レイカは手を伸ばし、ユキヒラの緊張して硬直した腕を下ろした
ユキヒラ、子供に銃を向けないで
ユウカを見つめるレイカの顔には、ひきつりながら無理やり作ったような笑顔が浮かんでいた
ユウカ、今夜は……どうしてここに来たの?
わ……私……花火を……
花火を見に来たの?誰と?親友の八咫ちゃん?
レイカはユウカの方へと一歩踏み出したが、ユウカは恐怖で数歩後ずさった
大丈夫よ、ユウカ、ほらこっちへ
あなたが見たのはただの事故よ。心配しないで
レイカはゆっくりとユウカに近付き、すぐ側まで来ると優しく彼女を抱きしめた
いい子ね、すぐに全て忘れるわ
先生、もしかして……ごめんなさい。でも、先生が……この人を殺したんじゃ……
気になるの?ユウカ
そうじゃなくて、これって……その……先生がしたことは……正しいのですよね?
ええ、私たちは正しい。間違っているのは、私たちを理解できない人たちの方よ
あの八咫という子に、この出来事は話さないこと。いいわね?
うん……わ……わかった
いい子ね。お母さんの言うことを聞いてくれるわよね?
「お母さん」という言葉を聞いた時、ユウカは呆然とした境地から覚醒したようだった
そして、何か温かな錯覚に囚われたかのように、ニッと笑った
うん、先生がそう言うなら、ちゃんと守る
先生が全てよ。先生……
ユウカは微笑みながらも涙を流していた
レイカはユウカを抱きしめていた手をゆっくりと解き、優しく彼女の頭をなでた
ユウカ、あなたがこれから参加する実験は、人類の未来を変えうる重大な意義があるの
人類のためにリスクを背負う覚悟がある?正直に言うと、私はあなたがとても心配なの
もし気が変わったのなら、今すぐ教えて。ちょうどユキヒラもいることだし
心配しないで。あなたの本当の気持ちをちゃんと聞かせてほしいの、ユウカ
もしそれが先生の願いなら、私は何でもする……どんなことだって……
先生、私……
レイカは腰を折って、ユウカの額にそっとキスをした
今はもう少しここにいなさい
うん……先生