夜は花の島を越え、黄昏の影に覆われ活気を失った校舎を蝕んでいる
廃墟の奥。慟哭の声が響く校舎の屋上の……
錆びついた柵にもたれかかる少女の視線は、空に咲く花の光に注がれていた
人間は……
肉体の束縛から解き放たれても、精神はなお、彼岸へ向かうのを拒むものです……
世界がこんなありさまになっても、自身を殻に閉じ込め、生きながらえようとする。それに意味などあるのでしょうか?
風が吹けば、麦のように倒れてしまうでしょう
幾筋かの髪が頬に落ちかかり、少女の赤い瞳がちらりと動いた
……出てくれば?
建物の影に隠れていた姿が、ゆっくりと明るみの中へとやってきた
申し訳ありません、覗き見するつもりはなかったのですが。ただ、あなたの今の状態を確認したかったのです
この体はどこもかしこもあなたが作ったものなのに、何を確認するの?
作者が同じキャラクターを登場させても、異なるストーリーであれば、僅かな差が生じるもの。それを確認するのが作者の責任というものです
……あなたは何者なの?
人間の言葉で定義するなら、「赤潮生物」と呼ぶべきでしょうか?
私だって手助けしたのですから、そんなに冷たい態度をとらなくてもいいのでは?
手助け?
少女はうつむいて自分の体を見回し、鼻で笑った
前の病弱そうな体よりは、ずっといいじゃありませんか
私にはわからない何かしらの価値があるんでしょ?
そう思っていただいて構いません。いっそ、招待だと思ってみては?
………招待ってどこへ?何をしに?
しいっ……ほら……
コレドールが目を閉じて微笑むと、少女の耳元で潮声と低い囁きがざわめき始めた
赤潮の子供たちも、あなたに会えるのを楽しみにしているんですよ
……私は楽しみじゃない。少なくとも、今は無理
少女はくるりと背を向け、柵を掴んで建物を見下ろした
まだ、終わらせていないことがあるから
宴の前には準備が必要ですものね……そのくらいの礼儀は弁えています。それに私も、物語を突然打ち切ったり、雑に終わらせたりするのは好みません
ですが続きを綴る時には、傍らで見せていただけますか?
静かにしていられるならね
もちろんです
コレドールはニコリと微笑んで影の中へ消えようとしたが、ふと動きを止めた
ああ、ひとつ忠告しておきますが……
私の力を取り込んだとしても、あなたの「心臓」は十分に「血を送る」ことはできませんよ
つまり……
能力には限界がある、ということです
酷使すれば、その姿さえ維持できなくなるかもしれません
ですがもし完全に赤潮に溶け込んで私たちと一緒になれば、そんな制限もなくなります
私のことは放っておいて
ここが崩壊すれば、あなたの望み通りでしょ
そうですか、では……
またお会いできるのを楽しみにしています
コレドールは現れた時と同じように、音もなく姿を消した
寒々とした屋上に少女ひとりだけが残された
本当に……嫌なやつ
まるで私みたい
よし……基礎的な適応訓練は順調ですね。どのデータも優秀です
もちろん、まだ調整しきれていない部分もたくさんありますから、何度か来てもらいたいのですが
忠告はありがたいんだけど、外でせっかちなヤツが待ってんだよね
でしょ?V
……
単刀直入に訊くけどさ
どうして急に機体交換させるわけ?しかも、こんなに急なスケジュールで
ヴァレリアはさっと八咫の視線から目を逸らした
それを見た八咫は、ヴァレリアが自分の質問に答える気がないのを悟った
シュトロールは死んだ。スカラベには新しい隊長が必要なの
……
……
チッ
舌打ちは返事とはいわないわ
……断る
私はあいつみたいにおしゃべりでもなけりゃ、お節介好きでもない
戦闘の時はひたすら突き進むし、危なくなったら迷わず逃げる
……
戦場の状況把握や戦闘フォーメーションの調整をしたり、仲間を率いて突破口を作ったりだとか……
子供をあやしたり、酒に酔ってロボットに絡んだりするような「隊長の素質」なんてものは、微塵も持ち合わせてないの
それよりも、アンタと一緒にツイてないやつらをひたすらぶっ飛ばす方が性に合ってる
八咫は腕を組み、不愉快そうに横を向いた
……もーいいや、好きにすれば
どれほど気が進まなくても、こういう時はヴァレリアの指示に従うしかない。何といっても相手は指揮官だ
だが、予想した「これは命令」という言葉がなかなか聞こえてこない。八咫は思わず彼女の方を見た……
ほら
ヴァレリアは、ポケットからゆっくりと数個のアルコール入りミントキャンディを取り出した
……
……ガキ扱いすんな
シュトロールじゃあるまいし、こんなもので買収されるかよ
八咫はぶっきらぼうにキャンディを受け取ると、包み紙を破って口に放り込んだ
もし機体交換の目的が私を隊長にするためなら、今すぐ返品ね
考えすぎ。そこまで無理強いはしないわ。ただ、小隊が新たな任務を受けたの
赤潮が人工島に向かって集まってる。スカラベがその異常の原因を調査しなくちゃいけなくなった
……自分の言ってるセリフの意味、わかってんの?
八咫はガリガリとキャンディをかみ砕くのをやめた
シュトロールがいたとしても、それ、私たちが安易に手を出せる任務内容?
だからこその新機体でしょ
……
八咫は少し考え込み、破ったキャンディの包み紙を折り畳んでヴァレリアに差し出した
返品交換は?
……受け取りのサイン済みだから無理ね
ヴァレリアはそう言うと戦術端末を取り出し、任務情報の同期を始めた
八咫は溜め息をつきながら情報を確認し始めた。ページをスクロールしていると、突然ヴァレリアが口を開いた
八咫
ん?
スカラベには新しい隊長が必要なの
……
八咫は答えず、任務情報を最後まで読み終えると、そのままくるりと背を向けて歩き出した
八咫?
その話は帰ってから聞く
八咫は包み紙を捨てようとゴミ箱の側で立ち止まったが、少しためらってから背中越しに包み紙をひらつかせて見せ、ポケットにしまった
こんなので私を釣ろうったって無駄だよ。私はあいつとは違う
……シュトロールとはね
空中庭園中心エリア
昼休み 晴天
高権限管理区 作戦会議室
慌ただしい動線からは外れた場所にある、最高機密レベルの作戦会議室……
ホログラムの投影があらゆる扉や窓を厳重に覆い、防音装置も正常に稼働している
向かい合って座るふたつの人影は、真剣に何かを話し合っているようだ
同じ地点で、ふたつの小隊が立て続けに失踪しました
彼らの任務は……リスクの低いエリアの調査、ですか?
ヒルダは目頭を揉みながら報告書をめくり、向かいに座るニコラに視線を向けた
目下の状況では、この任務は「リスクが低い」とは考えにくいですね
司令、何かお考えは?
軍の任務リスクはいつもただの「基準」でしかない
もし戦場がこちらの思い通りに動くのなら、それは戦場ではなく演習場と呼ぶべきだ
ならば、その「戦場」とやらで彼らに何があったのですか?
当初A小隊が受けていた任務は、赤潮の動向を追跡するだけだった
任務中、彼らは西太平洋で「アジサイ」と記された人工島を見つけたのだ……
アジサイ人工島?
島に多くアジサイが自生することから付けられた名らしい
とにかくリスクを未然に防ぐために、A小隊全員は島に上陸して調査することに決めた……
島に上陸してから72時間後、A小隊は消息を絶った
そしてB小隊が捜索のために派遣されたのですね。その後、B小隊も同じく消息を絶った、と
こう立て続けに連絡が途絶えるなんて、侵蝕されたのでしょうか?もしくは……
侵蝕の可能性は否定できない
まず、あの区域に関する情報が少なすぎる。地上の状況について何もわかっていない
更に近くの赤潮が非常に妙な動きを見せている。最近、あの島に向かって赤潮が集まり始めているようだ
赤潮が島に集まっている?
島に何か異常の原因があると考えていいのですね?
ふたつの小隊が次々と失踪した以上、それは確実だろう
ですがいくつか気になる点があります。お答えいただけますか、司令
ヒルダは先ほどつけていた折り目をたどり、パラパラと報告書をめくった
この報告書には、A小隊が失踪後に空中庭園へ救援信号を送った、と記されています……
B小隊は島に上陸後、一度はA小隊と連絡が取れたようです
しかしB小隊が救援信号の座標へ向かった途端、A小隊が突然、沈黙状態になり……
その後、両小隊の動きは一切停止したと
何が言いたい?
素人目には、ずっと前から計画された待ち伏せのように見えますわね
それに、侵蝕された構造体がこれほど理性的でいられるとは考えられない
推測にすぎませんが、A小隊は離反したとも考えられませんか?
可能性はあるが、高いとはいえない
離反した隊員は普通、離反した事実をわざわざ自ら喧伝しない。粛清部隊による処理は冗談では済まされないからな
A小隊が任務を終えてすぐにB小隊に反撃を仕掛けたとする。それも、我々が監視している座標の地点で、だ
離反を前提に推測しても、A小隊の行動はあまりにも愚かすぎる
だから粛清部隊をすぐには派遣しなかったのですね
……構造体の離反に関する情報は、今の状況では非常にデリケートだ
もちろんです。それが、今日私たちがこうして会っている理由でもありますから
30分前に私がサインした緊急機密保持協定はすでに発効し、この件に関する資料は一時的に伏せられています
ですが、私の情報封鎖もいつまで持つかはわかりません……
ふたつの小隊が失踪し、黒野の方でもスパイが動き出しているでしょう
ですが正式な決定を下す前に、司令は任務の目的地についての情報を十分把握されているはずです
島の話に戻りましょう、司令が問題の原因が「島」にあると仰るのなら……
情報が少ないとはいえ、黄金時代にはその人工島の登録がされているはずです
言う通り、私の手元には過去の資料がある
アジサイ人工島は、かつて大型兵器実験のために造られた人工要塞だ
実験終了後、利益を優先して島の商業化が承認された
ユニバーサルトイ社や多くの大手テクノロジー企業が商機を狙い、商業化改造計画に投資した
まずいくつかの学校や関連研究所が建設され、島は教育、科学研究、生活が一体化した拠点になった……
黄金時代の「エリート教育」のモデルとして、未来の科学界を担う新しい力を育成することが目的だったらしい
だが、パニシングの爆発によってアジサイ人工島は放棄された
学園島、ですか?
あの時代は教育資源過多だったはず……
私はてっきり、ゆとり教育の政策が世界中で推進されたと思っていました
だが……逆の勢力も存在していたのだ
現実には、どの時代であろうと野心家はいる
知識を武器とみなし、次世代にも世界を支配する力を持たせたいと望む者がね
この島に足を踏み入れた者は特にそうだ。彼らは科学者であり、人の親だった
そのアジサイ島ではどういう類いの教育が行われていたのですか?あるいは……何の研究が?
表向きの研究内容は、万人に恩恵を与えるスマートテクノロジーだ
実用的なスマートテクノロジー?ずいぶんシンプルね
しかし、島に上陸した者たちの名簿を仔細に見れば……
駐在する科学者のほとんどが各研究分野のエリートで、大半が過激な研究理念を持っていた
例えば、島内の普通高校である御園学院を例に挙げると、教員と生徒の比率は2:1に達していた
教員ふたりで生徒ひとりを指導するなんて、どう考えても理屈にあわない
教育や人材育成と見せかけて、本当の目的は一体何なのです?
ヒルダはタブレットを取り出し、テキパキといくつかのキーワードを入力した
確かに……科学理事会が封印していた調査報告によると、このプロジェクトには多額の用途不明の資金があったようです
黄金時代に事務所から派遣された監査官も、調査中に交通事故で亡くなっていますね……
実は、非常に引っかかる点がある
何でしょう?
アジサイ島プロジェクトの技術部門の代表責任者であり、顧問科学者でもある、早乙女レイカのことだ
早乙女……レイカ?
聞いたこともない名前に、ヒルダは困惑の表情を浮かべた
その時、テーブルの上にあるニコラの端末から、通信接続の通知音が鳴った
ニコラはヒルダとちらりと視線を交わし、通信にアクセスした
用件は手短に頼む、忙しいんだ
早乙女レイカという人物について、どの程度知っている?
ひん曲がって育った種だ
もう少し具体的に言ってくれ
また何を掘り出したのか知らんが、その件にあまり時間を割かない方がいい
ふん?私の知る限りでは才女だったらしいな。若くして博士号を取得し、数学、園芸、生命科学、コンピュータ、機械工学など、手広く研究していたとか
更に黄金時代ですでに「意識投影」の理論を提唱し、実践もしていたようだな
「意識投射」だ
アシモフは間髪入れずニコラの言葉を訂正した
意識リンク分野のうちのひとつだ。意識リンク技術の基礎的な枠組みから派生したものだが、機能面ではいくつか特異な点がある
この理論は一時、主流の学界で議論を巻き起こし、最終的にはいくつかの悪いニュースとして結実した
悪いニュース?
人道的な一線を越えたのさ。未承認薬物を繰り返し使って人体実験を行った
それでどうなった?
何も。本当に成果が出たなら早乙女博士の資料はたくさん残っているはずだ。わざわざ俺に訊ねるまでもなくな
アシモフは当然だとばかりに軽く首を振った
興味があるなら、科学理事会の過去の刊行物を注文したらいい。価値があるように見えて中身は空っぽな理論ばかりだが、明日の朝メシまでくらいの暇は潰せる
その技術にまったく将来性はないのか?
理論的には可能性がある。その論文を読んだが、もし描かれたビジョンが現実になれば、確かに我々にとって大いに役立つだろう
ただ論文がどれほど水増しされているか、俺が言わなくても素人のあんた方にもわかるよな?それにその後、彼女たちの研究にまつわるニュースは一切ない
大方、研究に行き詰まって完全に放棄したんだろう
そうとも限らない。少なくともお前と一緒に仕事をしている何者かは、そう考えてはいないようだな
ニコラは手元の資料から科学理事会の用途不明資金の部分に印をつけ、アシモフに送信した
アジサイ島計画……
……協力はできるが、スケジュールはそっちで調整してくれ
新しいプロジェクトを追加するなら、人員も資源も必要だ……
アシモフは一瞬言葉を止めた。通信越しに、誰かと会話している声が聞こえる
……ひとまず、今はここまでにしておこう。進展があれば連絡してくれ
聞こえたか、ヒルダ
ええ、はっきりと
どう思う?
天才、または狂人か。潜在的な変革者、あるいは世界の敵、といったところね
私が思うに、あの島には何らかの違法実験の雛形が残されているはずだ
そして当時のその雛形が、予測不能な事態を引き起こしたのではないかと
その早乙女レイカがまだ生きていると、そう懸念しておられるのですか?
私は早乙女レイカがあの島で行った秘密研究が、何かを目覚めさせたのではないかと危惧しているんだ
赤潮が島に集まっている……
ヒルダは目を閉じ、息を呑んだ
赤潮が島のある種の均衡を崩したのではないかとね
もし仰る通りなら、非常に厄介な問題です
もうひとつ小隊を派遣しましょう。機密保持協定が失効するまで、まだ時間があります
また非常に危険な賭けになるな
それに、これまでの全ての手札を失う可能性が極めて高い
約束の期限までは情報統制を維持します。その他については司令の判断にお任せします
ヒルダはニコラに軽く会釈をして、立ち去った
……
ニコラはこめかみを揉みながら、通信端末を暗号化チャンネルに切り替えた
ヴァレリアです、任務目標は?