――いや、何か別のものが死んだ
――ずっと前から死を渇望したものが死んだのだ
――それは、彼が狂おしく懺悔した時代に殺そうと思っていた「自我」ではないのか?
――小さく、びくびくしつつも傲慢な彼の「自我」。彼が対抗しようとし、いつも敗北した「自我」ではないのか?
――何度も死んでは蘇る「自我」。喜びを禁じ、恐怖を捕らえる「自我」ではないのか?
――今日、林の中の小さな川で死を求めた「自我」ではないのか?
――その自我の死により、彼はまるで子供のように、信頼に満ち、恐れを知らず、喜びに溢れているのではないか?
指揮官の手がバンジを掴み、彼を外へと押し出した。他の手もまるで呼びかけに応じるように動き出し、彼を一緒に押し出した
バンジがもう一度見ると、風も雪も止まり、凍っていた川がゆっくりと溶けて逆流しようとしていた
それらは再び流れ始め、失望/渇望、悲鳴/歓声を運んでいた――川の中の物語は全てが苦難ではなかった。絶望と交じり合うものこそ、希望だった
川の中には彼が出会った人々や出来事があり、それは川から湖、滝、小川を流れ、海へ注ぐ。そして雲と雨になって地上に降り、1本の木を育て、その木から1滴の「涙」を得る
愛を込めた行動は万物を大切に包む<phonetic=世界>琥珀</phonetic>となり、優しくも強固にバンジを包み、彼を出発点へと送り届けた
バンジはその中で眠った。長い時を越える中で、機体は古びて割れるほど老朽化していった
その時間の中で、彼は万物の起源を見つめていた
最初に目にしたのは――
琥珀が誕生する瞬間だ。その頃は地殻が形成され、大地が割れ、一面が荒れ果てていた
次に「水」が現れた。水の出現で<phonetic=世界>琥珀</phonetic>は加速を始め、無機物から有機物、低分子から高分子、最も原始的な生命を育んだ
生命進化は予測不可能だった。水中から陸上に、植物、そして動物へと……生命は爆発的に繁殖し、<phonetic=世界>琥珀</phonetic>の隅々まで広がった
彼は見た――
命を受け継いだ種が成体へと成長し、過酷な環境や自然な衰退によって命を落とし、亡骸となるのを
その亡骸からまた新たな種子が生まれ、地に落ち、遺伝子を受け継ぎながら再び成長していくのを
最初は琥珀の中に草花が生え始めた。その生命力は機体の裂け目から芽を出し、その隙間で花を咲かせ、実を結んだ
ウロボロスが彼の体の上をくねりながら這い、彼の手元にある木製の杖に巻きついた。蛇はもがき、皮を脱ぎ捨て、新たな命を得た
やがて、琥珀の中に小鳥が現れた。飛んできた彼らは機体の上に止まり、巣を作り、雛を育てた
こうして種も絶えず進化を続け、琥珀をゆっくりと繁栄させ、変転させながら長い年月を経た
……
……
……
数十億年が経った
そしてこの日――
彼はすでに琥珀の中のあらゆる万物を見慣れ、全ての事象、全ての精神を理解していた
しかし、今日の濃霧はいつもと違うような気がした
遠くから、弱々しい息遣いとともに足音が聞こえ、その音は人類の<phonetic=子供>種</phonetic>のものだと彼は理解した
彼は、この出現して僅か数百万年の種を特に大切にしていたため、裸足の<phonetic=子供>種</phonetic>が冷えないよう、近くの土を温かくした
<phonetic=子供>種</phonetic>は、彼が埋まる場所まで来ると巨木の樹皮に触れ、しゃがみ込んで根元の土を掘り返し、何かに触れた
それは琥珀よ
琥珀?よく見えないけど……中に何かが……
少年は掘り出した琥珀を空に向かってかざしたが、陽光は霧に隠れてしまい、琥珀の中のものはぼやけていた
そこで彼は、子供が琥珀の中をはっきり見られるように霧を少し晴らして、太陽の光を差し込ませた
お日様が顔を出せばもっとはっきり見えるよ
中の……
……<phonetic=僕>種</phonetic>?
……ここが始まりだ
硬い琥珀にひと筋の亀裂が走った。古代の詩の<phonetic=パネース>闇を切り裂いた卵</phonetic>のようでもあり、また卵から孵る鷹の雛のようでもある
幼い子供が振り返ると、琥珀は彼の体から剥がれ落ち――再び振り返った時には彼はもう子供ではなく、白い鷹のような構造体となって大樹の前に立っていた
機体の亀裂と胸の穴に「愛」が流れ込んで塞ぎ、完全な彼の姿を形作った
彼は準備を整えて、霧の中の声に耳を澄ませた
私にできるのはここまで
バンジ、あなたを「エデン」へ連れていかなければならないの
……わかった
人間としての一生を終え、構造体の力を全て使い切ってここまで来た。もう、休んでいいのかもしれない
だけど……
世界中の誰にとっても、人生は単なる苦しみや喜びに満ちているだけじゃない、僕だってそうだ
こんな人生があったからこそより強く思えるんだ。早く戻って僕がするべきことをしよう、まだ救える人たちを救い続けよう、と
……この先、たくさんの人が僕を待ってるから
もし「愛」で彼らが存在する未来を得られるなら、僕は永遠に愛を抱き続ける
バンジは目を閉じた
私ならここ。47番ベッドの緊急対応システムを作動して。まずは気管挿管を確認、静脈ルートを確保
……
私はこの子の臨時保護者よ、責任は私が取る。急いで
……
あっ!47番ベッド、目が開きました!
バンジは小さなベッドの上で目を覚ました
……ここは……エデン……?
記憶が……混乱して……
えっ?何?慌てないで。私の言う通りに……
彼女が……本当にやり遂げたの?
大丈夫……大丈夫よ……
ぼやけた視界の中で誰かが手を伸ばし、彼の額にそっと触れた
彼は必死に、愛おしそうにその手に顔を寄せた
……メルヴィおばさん……
指揮官、彼は今何て言った?
本当に回復したの?北極航路連合でも似たようなケースを見たことがあるけど、ここまでの意識海損傷では、もう……
焦る声と絶え間ない銃声が耳元で響いている
……メルヴィおばさんじゃない……?
バンジが瞬きをして視覚モジュールを再調整すると、ここはスターオブライフではなく、彼の額に触れる人もいなかった
廃棄された研究所の通路にいる人間とロゼッタは、まだ目覚めないバンジを守りながら、異合生物の激しい猛攻に応酬していた
彼らは依然、運に見放されていた――深層リンクを終えたあと、最も安全そうな道を選んだが、そこには大量の異合生物がおり、あっという間に彼らは窮地に陥った
指揮官!
ロゼッタは素早く盾を投げて地面に突き立て、津波のように押し寄せる異合生物を遮った
盾に掩護され、最適な射撃角度を見つけて連続発砲する。銃口は火を噴き、立ちはだかっていた何体かの異合生物を仕留めた
駄目だ、数が多すぎる。長くは持たないわ!
その時、1体の異合生物が「壁」を突破し、素早く天井へと飛び上がると、大口を開けて人間に飛びかかってきた
……まだ救える人たちを救い続ける……
落ち着いた声が背後から聞こえ、ほんの一瞬、呆然とした
是正モード、起動
静息、集中
空気の流れが、バンジの言葉とともにゆっくりになったようだった。小型ドローンの回転翼が空中に展開し、一瞬で人間の背後に巨大なフィールドが形成された
ふぅ……
一瞬の静寂の後に空気が再び流れ始め、氷のように青い強化弾がフィールドの中心を通過し、人間に襲いかかろうとした異合生物に命中した
異合生物は恨めしそうに叫びながら消滅した。その合間に、人間は素早く後退し、弾をリロードした
銃を抜いたバンジは前方に駆け出し、ロゼッタを援護しながら前方の大量のいびつな「虫」を始末した
バンジ!?大丈夫なの!?
白い鷹は答えず前に手を伸ばすと、フィールドが彼の動きに合わせて展開し、目の前に残っている異合生物をしっかりロックオンした
アイスバレットが雨のように降り注ぐ。ふたりのチームメイトが驚いて見つめる中、バンジは戦術手榴弾を全力で前方に投げた
わかった!
ロゼッタはスピアを引き抜き、盾を構えながら安全な距離まで後退した
ドォン――
高火力の集中爆撃により、異合生物の不気味な唸り声は次第に消え去った
そして、ようやくバンジが残骸の中から出てきた
……
……
……
あなたの意識海の混乱は深刻だった。すぐに深層リンクをしなければ、その混乱があなたの意識海を「引き裂く」ところだったわ
でも指揮官が、この研究所に残された設備を使ってあなたとリンクすれば、目を覚ますはずだって
……
バンジは額の小さな擦り傷を触り、自分を守り続けてくれたふたりの仲間を見た――ロゼッタの機体は損傷し、人間の体にも大小の傷があった
指揮官はまだ心配そうに彼を見ている
彼は指揮官の目を見つめた。意識海の中にあった風雪や棺、琥珀の中の一生も、まるで長い夢だったかのようだ
全ての「今」と「本質」がここに、戻ってきたのだ
彼はしばらく沈黙し、何億年越しに初めて会話をした
……指揮官
「おはよう」
ふたりの表情が幾分和らいだ
張りつめていた雰囲気が和らぎ、軽口を言えるようになっていた
バンジも少しうつむいて笑った
ありがとう
バンジは姿勢を正して全身のさまざまなモジュールを調整すると、目の前のするべきことに意識を戻し、再び警戒を強めた
任務はまだ終わってない
最下層に行かなきゃならない。「シュトロール」がそこに移動している。僕はまだそこを探索できていないんだ
恐らくそこが、手がかりが最後に示した場所だ
バンジの言葉に応えるかのように、地面が激しく揺れた。明らかに空間全体が1段沈み込んでいる
まだ揺れてる……指揮官が深層リンクを始めた時から、地下で断続的に揺れが起きてる。この30分で4回も揺れてるわ
このままだと研究所は崩壊するか、完全に地下に沈んでしまう。私たちに残されている時間は少ない
今最優先すべきは、構造体メンバーの救出だ
バンジは腰の銃を握りしめ、生存者を救うことを選んだ
そうね、私の調査では下層に非常に活発な赤潮があることが判明している
赤潮が「シュトロール」を呑み込んだら、勢いを得て外に溢れ出すかも……そうなると私たちの時間も切迫するし、189号、190号の保全エリアの避難にまで危険が及ぶ
……わかった
シュトロールは昇格者に捕まりパニシングの実験に使われた。今も彼の意識は眠ってる。子供の実験体や研究者は彼の妄想で、彼が相手にしていたのは離反者たちだった
それなら説明がつく、あれらの端末に残された痕跡も彼が残したのね
バンジはリボルバーを抜くと、背後にドローンを展開させた
分かれて行動しよう、僕は最下層の問題を解決しに行く
それから……例の侵蝕体のことだけど、恐らく僕たちを通じて情報を外に伝えようとしてる。あの侵蝕体を見つけて空中庭園に資料を持ち帰らないといけない
侵蝕体?それってあれのこと?
前方にいたロゼッタが立ち止まり、少し離れた場所を指差した。そこには異常に破損した侵蝕体が静かに「待って」いた
……
壊れた殻の中に、昔生きていたあの人がいないことはよくわかっていた。それでもその姿を目にした瞬間、バンジの胸に複雑な感情が湧き上がった
……頼んだよ
彼は最後にもう一度侵蝕体を見ると、背を向けた
待って
ロゼッタが手に持ったスピアを頭上に掲げると、高エネルギー放出パーツが眩しい光を放った
言おうと思ってたの。この断続的に続く揺れと崩壊で、私たちの行動が制限される。それならいっそ、壊した方がいい
また地下からの揺れが伝わってきた時、隕石が落下するような勢いでスピアが揺れる床を貫いた――
飛び散る破片の中、ロゼッタは遠ざかるバンジに向かって頷き、指揮官の傍らに立った
巨大な空洞には未知の闇が広がっている。パニシングが噴き出し、空気中のパニシング濃度が急上昇した
その人間は最後の1本になった血清を取り出し、注射した
バンジは穴に飛び降りた。背後にいたグレイレイヴン指揮官とロゼッタは侵蝕体を追って、別の方向へと向かった
侵蝕体を追って、ふたりは隠し通路へ足を踏み入れた。その時、身につけていたふたりの通信装置から同時に雑音が聞こえ始めた
こっちもチームの信号をキャッチできる。彼らが近くにいるのかしら?
前方の侵蝕体が立ち止まり、更に奥の隠された部屋へと曲がっていった
ここは……
部屋の内装を見た瞬間、この場所の本来の用途がわかった
その時、制御室の隅から驚きと喜びの入り混じった叫び声が聞こえ、軽傷の構造体が駆け寄ってきた
指揮官!
グレイジュに続いて配管の反対側に回り込むと、数体の構造体があちこちに倒れているのが見えた――研究所内で行方不明になっていた構造体たちだ
「救世主」の来訪を見てとり、グレイジュはその人間の両腕を掴んで嗚咽しながら話し出した
何に遭遇したのか誰にもわかりません……サソリのような形で巨大で、潜んでる時は物音ひとつしないんです……
幸い、シャディが最後にパニシング反応を探知してくれたお陰で……そうじゃなければ、今頃俺もここに転がってた……!
また緊張して吐きそうになったグレイジュに、シャディの真似をして彼の背中を叩いた
あのサソリに襲われたあと、あいつがまた現れたんです
グレイジュは制御室の向こう側にいる侵蝕体を指差した
俺たち、あいつに地下の穴に引きずり込まれて、更にここへ連れてこられたんです
この不運な人たちも、同じような感じだと思います
彼らはまだ……まだ助かりますよね
グレイジュはまたうずくまり、ある構造体の傷口を押さえて、溢れ出る循環液の流出を止めようとした
怪我人が多すぎて……俺は補助型じゃありませんけど、応急処置の知識はひと通り学んでいます……せめて彼らの容態を安定させたくて、ここに留まっていました
しゃがみ込んで数名の構造体の傷を確認していたロゼッタも、少し安心した様子で立ち上がった
彼らの傷を確認したけど、どれも適切に処置されているわ
そうですか……それならよかった……
グレイジュは地面にへたり込みながらも、負傷者の傷口を押さえる手は緩めず、小さく呟いた
やっと少し役に立てた……
地面が突然激しく揺れ始めた。先ほどの揺れよりも一段と強く、天井からはガラガラと瓦礫が落下した
そう言いながら人間は緊張しつつ確認したが、遠隔リンクからのフィードバックは安定していた
でもこの揺れだと、バンジが任務を終わらせる頃には研究所も完全に崩壊するかもしれない。私が制御台を起動してくる!
天井から落ちてきた破片が皆の頭に降りかかり、一刻の猶予もないことを全員が悟った
グレイジュは少し呆然としながら話を理解しようとしていた。構造体整備キットを彼の空いている手にぎゅっと押し込む
……わ、わかりました!
一方でロゼッタはテキパキと装置を起動し、メモリーを接続した――幸い、先ほど中央実験室の電力システムを回復させたことで、ここの電力も回復していたようだ
望みはありそうね――危ない!くっ!
建物の瓦礫が指揮官の上に落下しかけたが、ロゼッタが払いのけた。だが他の落下物が制御台の上に落ち、スクリーンにノイズが走った
今は操作に集中する!もう時間がない!
崩壊だけじゃない、赤潮だってある。もし1時間以内に撤退できなかったら、全員赤潮で溺れ死ぬ!
ロゼッタは操作を続けた。目の前のスクリーンは再び起動したが――表示されたのは「権限がありません」というウィンドウだった
その動作で変なスイッチが入ったのか機器がノロノロと動作し、新たな画面を表示した
壊れかけの機器は指揮官の深呼吸に合わせて落ち着いたかのように、ゆっくりと新たな画面を表示した
検索中……
先ほどふたりをこの制御室へ「案内」した侵蝕体の体にも、光が規則的に点滅し始めた
突然、侵蝕体が猛スピードで這い寄ってきた。素早く避けなければ、パニシングに覆われた侵蝕体とまともにぶつかっていただろう
ふたりが見守る中、その侵蝕体は準備されていた接続ポートに接続すると、まるで「生贄」のような動作を見せた
画面が再び更新され、膨大な実験データや文章記録が人間の目の前の画面に流れ出す
物凄い速さでデータを読み進める内に、額に冷や汗が滲んでいった
データからは、各実験体の短い人生が詳細に記録されている――いつここに来て、いつ構造体に改造され、そしていつ「ゴミ捨て場」に送られたのかが
それはまるで、母親が子供の成長を愛情深く記録する母子手帳だ
この愛と研究への追求が入り混じった執念が人を救ったのか、それとも他人に重荷を課したのかは、恐らく万緒自身にしかわからない
データの記録は完了した?指揮官!
考える暇もなく、接続した記録端末の保存が完了したと示すと、ロゼッタはそれをすぐに引き抜いて慎重にしまった
一瞬たりとも気を緩められないこの状況下で、激しい振動と地下からの悲痛な絶叫が響き渡り、ついに制御室が崩壊し始めた
遠隔リンクが断続的になった。バンジに何かあったのかもしれないと心を引き締める
私の側に!
ロゼッタは盾を掲げて崩落する天井を支え、後方にいるグレイジュたちの安全を確かめた
ついさっき、空中庭園に救援要請と位置情報を送った。撤退するわよ、指揮官!