<phonetic=現在>何年も前</phonetic>――
<phonetic=記憶データ>弾丸</phonetic>が<phonetic=バンジ>万緒</phonetic>の体を貫き
<phonetic=循環液>鮮血</phonetic>が飛び散った
……
壮絶な防衛戦の中、軍医はまだ銃口から煙を上げている狙撃ライフルから手を放し、廃墟の中に倒れ込んだ
……
廃棄された研究所で、構造体の意識海の深奥では<phonetic=混乱>大きな波</phonetic>が起こり、膨大な記憶データが彼の意識海をバラバラに引き裂いた
……
「バンジ」の全ては死んだ
意識伝送の終着点が虚無であるように、バンジも虚無へと向かった
ごめんね……また失敗だった
バンジがある病室に入ると、ベッドの上に、恐ろしいほどに機器を「装着」された小さな体があった
それが自分であることはわかっていたが、傍観者として冷静にその光景を見つめることはできなかった
疑似意識海の安定にはほど遠いわ……
どうすればあなたを助けられるの……
彼は万緒が祈るように自分に手を伸ばすのを見たが、昏睡状態の子供は反応できなかった
前はちゃんと掴んでくれた……私たちに微笑んで……もう笑うことだってできていたのに……
女性はいつも穏やかで冷静さを保っていたが、今は彼女の体から溢れ出す絶望が病室の空気を染めていた
もし……本物の意識海なら?
彼女は「素敵な場所」に繋がる端末を握りしめた。目にはギラギラと異様な光が宿り、その光は希望だけではなかった
……行かないで
そこには罪のない孤児たちがいる。そんなことはやめるべきだ……
これはバンジのため、全てはこの子のため……
……
彼はわかっていた。これが万緒との最後の別れだということを。万緒は彼に別れを告げた
絶望の感情は凝縮して川のようになり、生涯の展開に沿って滔々と流れ出した
水道から流れる川の水が見えた。少し苛立った様子の女性が、その水で不器用に調理器具を洗っている
彼女の背後には、災害が起きたあとのようなキッチンがあり、その「廃墟」の中心には空色の小さな弁当箱があった。中には何とか成功といえる軽食が入っている
ふぅ……なんとか成功ね、今回は自分で届けないと
あの子に会うのはいつぶりかしら……あの子ったら、またたくさんメッセージを送ってきてる
彼女は端末の中にある「バンジ」からのメッセージをひとつずつ確認し、それ以外のメッセージは削除した
地上に行くことは……まだ隠しておくべきかしら?
――その後すぐ、青少年育成センターでメルヴィが自己満足で与えた好意を、少年は初めて拒絶した
この数年であなたから受け取った57通のメッセージは、全部読んでいた。あなたから自由な選択を奪っていたこともわかってた
もうこれが最後のお願い……最後だけ、私の言うことを聞いてくれないかしら
少年は弁当箱をメルヴィの前に押し戻した
駄目だ、拒絶するな
彼女に伝えるんだ……僕にとってとても大切な存在なんだ、母親みたいに大切な。僕たち小児科の子供たちは皆、彼女を慕っている。ペールですら……って
バカな真似をするな、花火なんかやめろ……無意味なんだ……メルヴィおばさんに会えなくなるんだぞ
彼は少し苛立ち、ついには立ち上がって部屋を出ようとした。メルヴィの最後のひと言を聞きたくなかったからだ
……いいわ。おいしくないなら無理しなくていいの。バンジ、これからはどんなことがあっても自分で決めるしかない
……
それが彼とメルヴィとの最後の会話だった
メルヴィは空中庭園を離れる正確な日時を彼に伝えなかった。彼がシュトロールに連れられて彼女を探しに行った時には、メルヴィはすでに去ったあとだった
今回の志願医師チームはかなり幸運だったわね。一番年かさの医師だけ犠牲になったけど、他は全員戻ってきたもの
誰だ?小児科の副主任か?うちの子供も以前お世話になったんだ……まさか、そんな、ありえない
地上はあんなに酷い状況なのよ、ありえないことなんてないわ。小包ひとつだけど、もう彼女の遺品も戻ってきてるって
……そうなのか
――メルヴィおばさん:こんにちは
――今は保全エリアにいるのでしょうか?どうかご無事で、しっかり休んでください
――僕は試験に合格し、もうすぐスターオブライフで交代制の実習を始めます。最初は小児科からです
――昔、おばさんがくれた「願望カード」を覚えていたので僕も真似して作ってみましたが
――おばさんのよりは出来が悪くて
――カードを使う時に子供たちの両親から「子供に軽々しくお菓子を与えるな」と言われなければいいのですが
――仕事に励み、どの子供も大切にします
――彼らが持ち帰ったものを受け取りました。中は弁当箱ひとつだけだったけど
――……本当にありがとうございました
メルヴィが彼からのメッセージを密かに読むことはもうない。彼女は志願医師として戦場に没した。重度に侵蝕された子供を救おうとして侵蝕体に連れ去られたらしい
メルヴィは彼に別れを告げた
彼は端末を握りしめ、それからは決して返事の来ない虚空に向かってメッセージを送り続けるしかなかった
メルヴィが死ぬ前に何があったのか、彼は何度も考えた――
その子まだ助かるわ……私に任せて……お願い!
あなたはまだ若い――逃げて!
メルヴィはバンジとそれほど歳の変わらない志願医師を押しのけた
……もし私が償うべき罪がこの瞬間だというなら、一切の後悔もためらいもないわ
メルヴィは動けなくなった子供を強く抱きしめた。侵蝕体が一斉に襲いかかり、人間の血肉を貪った
……
奔流は更に速さを増し、過去の光景を駆け抜けていく
それは猛烈なスピードでペールの認識票を通りすぎ、空港の床に残った認識票を越えていった
止まってくれ……進みたくない……
そして、スターオブライフの夜通し灯りが点いている構造体整備室、粛清部隊に取り押さえられたジーター、護送車の中で「話すな」と合図をした教授
疲れたって言ったじゃないか……
川が最後に流れついたのは万緒が彼に託した「記憶」だ
056……
拘束服に縛られ、無理やり改造されようとしている少年は、震えながら窓の外の女性を見つめた
彼は「お母さん」のいい子であろうとして、精一杯笑顔を作り、ただひと言だけ本心をこぼした
実は僕もちょっと怖いんだ
(お母さん)
この建物の中では、子どもたちは資源であり「実験体」だ。彼らにある感情は喜びや安心ではなく、「恐怖」だった
やがて麻酔もせず改造が進められ、セオドアは震え、叫び声を上げた。彼は「いい子」でいることができず、失敗した侵蝕構造体へと変えられてしまった
痛い……怖いよ……
▃▇█▄▄お母▂▆さん……?行か▂▄▆▆▇▅▂ないで……!!
人々は彼に別れを告げた――冷静に、泣きながら、叫びながら、あるいは死ぬことで別れを告げた
何年も前から別れは彼の夢の中に現れていたが、彼にはそれがまったく理解できず、悪夢としてその記憶を葬り去っていた
今、彼は記憶を「清算」させられていた
先人たちは皆、パニシングの災厄の中で苦しみ、悩みながら選択をした。自ら、あるいは無理矢理命を奪い、また愛を捧げた。そして最後は皆、叫びながら終焉へと向かった
ごめん……ごめん……
君たちを救いたかった。君たちをここに、このままいさせてあげたかった
彼は思いの丈を正直に吐露し、何度も謝りながら自分の過去を回顧する川とともに、よろめきながら前へ進んでいた。人間だった頃のように、喘ぎながら
彼はなんとかその川を見ないようにしていたが、それでも次に何を思い出すかはわかっていた
ありふれたある春の日、新機体に交換したばかりの彼は、赤潮が襲来する前にグレイレイヴン指揮官とともに、捜索救助と探索任務を完了させなければならなかった
彼は、シュトロールが幻想の中で彷徨う虚影となって子供たちを何度も救い、増援が必ず来ると信じて、後続のために手掛かりを残していたことを知った
そして、記憶データは万緒があらかじめ設定したプログラムを持つ侵蝕体がトリガーとなって呼び起される――万緒が言っていたことは間違いではなかった
もし彼が忘れても、万緒が思い出させてくれる。だが最後には、彼は意識海の深刻な偏移によって命を落とすだろう
……
…………
僕がもっと早く思い出していたら、研究所の罪はもっと早くに暴かれ、あの侵蝕体も彷徨わずに済んだし、トンプソンたちが犠牲になることもなかった
「運命の交換計画」に同意せず、メルヴィおばさんの言うことを聞いていたら……皆も生き延びたかもしれない
意識伝送の真実をジーターたちに伝えなければ……彼らも教授も処刑されることはなかった……
保全エリアでもう少し頑張っていれば……たとえひとりでも……子供を救えたかもしれない
…………僕は一体誰を救えるんだ?
彼は感情を押し殺した。自分がまだ誰かを救うことができるのかはわからない
彼はためらわず絶望の川に足を踏み入れ、川と一体になりながら終わりへと向かった
進むにつれて彼はどんどん寒さを覚え、ここがある予言の中の終局のように感じ始めた
凍てつく絶望の川の上を歩き、雪原を歩くように雪の上に足跡を残した
彼は研究所のもうひとつの可能性を目にした。非人道的な実験などはなく、そこは、ただ彼らが設置した幼児保育施設だった
しかし、美しい希望は打ち砕かれる。あの日、赤潮の異変は急速に進行し、彼にも報告の時間的余裕がなかった
兵士たちは赤潮に抗えず、最終的には手を繋いで人間の壁を作ることしかできなかった。「愚かにも」背後の幼い子供たちを押し寄せる「波」から守ろうとして
ストライクホークが駆けつけ、赤潮と競い合うように彼らを救い出そうとしていた時、彼もその中にいた
彼は何としてもひとりの赤ん坊を救おうとしていた。全ての人がリレーのように赤ん坊を彼の手に届けたが、彼は全ての人が赤潮に呑み込まれるのを目の当たりにした
クロムが死んだ時、彼らは全力を尽くしたが引き戻すことはできなかった
彼ももう走れなくなって倒れそうになり、駆け寄ってきたカムイに赤ん坊を託した
心配すんなって、バンジ。すぐに戻る
この前の戦闘を忘れたか?俺たち全員吹っ飛ばされたけど、結局全員生き延びたじゃん
……よし、ダッシュだ!
カムイの姿が消えた瞬間、彼は再び歯を食いしばりながら前へ進み始めた
……
……歩き続けなきゃ
氷つぶて混じりの狂風が、無数の人々の、失敗への無念の嘆きを運ぶ。その風は彼のバイオニックスキンを切り裂いた。彼らは大声で叫び、悲鳴を上げている
全部聞こえた、全部見た。僕は全部知ってる
全ての力を使い果たし、氷の彫像と化した人間や、地面に散乱する構造体の残骸を通りすぎ、凍った川の終わりにある建物にたどり着いた。両手で重い扉を押し開ける
ギィィ……
ついに、彼は死を納める棺を目にした
棺の中からは恨めしそうな声が聞こえ、何本もの霜に覆われた手が伸びてきて、彼を誘い、引き裂こうとした
彼はすでに無感覚だったが、ふと何かを見て目を見開いた――
1本の人間の手が伸びていた。戦術グローブの下はすでに腐った骨と血肉になっていたが、彼は絶対に見間違えたりはしない
……
……あ……
彼は棺の傍らに跪いた。風や雪が打ちつけるその頬に、ひと筋の水が流れた跡が残っていた
彼はその手を握ろうと震えながらそっと触れた。まるで、触れただけで壊れてしまいそうな氷の彫刻だ
……ああ…………
まだ……
彼はもう誰も救えないはずだった。しかし、目の前の人にはまだ体が残っている。彼は最後の僅かな望みを繋いだ
僕が助ける……僕が絶対に君を……!
彼は震えながらその手を守り、手の平で雪を溶かそうとした
氷が少しずつ溶け、水滴が棺の側にポタポタと落ちた
これじゃ……間に合わない!
彼は携帯用の暖房装置を取り出した――それはクロムが彼に渡したものだ。原始的な火を起こし、棺の中の人を温めようとした
氷が溶けると、彼はその手を外へ引っ張り出そうとした。何としてもこの人間を死から救い出さなければならない
どうして動かないんだ……
棺の中の死者たちは絡み合い、この人間を簡単には解放してくれない
出てきて……出てこい!
彼は狂ったように棺を蹴りつけ、胸に溜めこんだあらゆる感情がこの瞬間、爆発した。この人を救いたいという思いは強烈で、初めて彼は自分が制御不能だと感じた
強力な構造体の脚で蹴りつけられた棺はひび割れ、中に詰まっていた無数の遺体はその隙間からの光に照らされた
まだだ!
彼は更に蹴り続け、ついに棺を真っぷたつに割った
人間を引っ張り出したが、一切呼吸をしていない。どれだけ彼が呼びかけても、その人間は応答せず、応えるのは風雪ばかりだった
応急処置……保温をして……まだチャンスはある。僕の機体には人間用の救急キットがあるから……
除細動器を……
彼は腰の後ろから赤い除細動器を取り出し、心の中で時間を数えながら何度も電気ショックを試みた
目を覚ませ……目を覚ますんだ……
諦めるつもりはなかった。どれほどかかろうと試し続けようと決めた時、人間の指が微かに動いた
!
強張った手がゆっくりと握り返してくる
以前と同じように力強く、構造体の祈りに応えるように
指揮官……指揮官……!
その人間に声が届かず、生き延びるチャンスを失ってしまわないよう、彼は名前を大声で呼び続けた
1時間前
「遠く」の現実世界で名前を呼ばれている人物は、ひとりの構造体を救うために一刻を争って走っていた
ふたりが育成エリアを離れたあと、前方を偵察していたバンジとの連絡が途絶えてしまっていた
人間とロゼッタはしばらく別々に捜索を続けた。そして醜悪な異合生物の群れを撃退し、金属製の壊れた橋の上に倒れていた白い姿をようやく発見した
わかった!すぐそっちへ向かう!
急いで駆け寄った人間は、バンジの意識海の状態を悟った瞬間、素早く思考を巡らせた
中央実験室……?あの当時、彼らが実験をしていた場所へ?何をするつもりなの?
外骨格の力を使い、バンジを担ぎ上げた
砕けた棺の前で、バンジは自分の手を握り返しているその手を見て驚いていた
彼は外で1時間前に起きた出来事を目にしていた――指揮官は意識海が崩壊した構造体を背負い、実験室に足を踏み入れ、古びた装置の前に立った
バンジは「記憶」の中で何度もこの装置を見たことがある
古びた接続ケーブルを引き抜き、しばらく模索してから使用方法を理解した。普段のようにはいかないが、現状ではこうするしかない
人間は深く息を吸った
僕は……成功したの?
救った……
彼は少しぼんやりしながらその言葉を繰り返した。先ほどの衝撃からまだ完全に立ち直れていない
再……出発?
バンジがハッと振り返ると、氷の川の上に彼の足跡が残っていた。意識海の乱れの中で、彼が振り返らざるを得なかった過去の足跡だ
これまで振り向くことのなかった彼の背後には、更に多くの人の足跡が残っていた。大小さまざまな足跡……それは今まで彼とともに歩んできた、全ての人々のものだ
氷の川が溶け始めたようにバリバリと音を立てた
改めて目を向けるとその中を流れているのは、全てが絶望や苦痛といったものではなかった