――3時間前
そんなにもお暇だなんて、もう定年退職の準備がおできになったようですね
レベッカはテーブルに置かれたカップが振動で揺れるほど強く、資料の入ったファイルをバンッと机に叩きつけた
退職も考えてるがね。でも俺のこのポジションは退職したところで、悠々自適に茶を飲んで過ごせる訳じゃない。だから今は、この長閑な時間を謳歌してるのさ
グリースは淹れたての紅茶を目の前の美しい女性にもすすめたが、彼女は受け取ろうともしなかった
リスト議員の前回の計画は、あなたがグレイレイヴン指揮官を晒したことで失敗に終わりましたけど。でもあなたご自身も無傷とはいえず、あやうく共倒れでしたね
どれどれ味見っと……ひぃ――なんて苦さだ。お前さんの今のお言葉よりも苦いときた
レベッカの眉は更に吊り上がり、キレる寸前の顔つきといった様子だ
月面基地の修理後にはリスト議員の巻き返しもあるでしょう。月面基地と零点エネルギーリアクターの管理権が空中庭園に戻るならまだしも、ノルマンが権限を手放すはずがない
グリースはそれを聞いてニヤニヤと笑いながらカップに大量の砂糖を入れ、ゆっくりかき混ぜている
なぜそう冷静なんです?このままでは計画の見直しが必要です。私はあくまで利害関係のない関与者ですわ。必要なのは話ができる「友人」で、「友人」が誰かは問題ではない
当然だ、人間は生まれながらにして自由……リストが「友人」にふさわしいと思うなら、どうぞ彼のもとに。俺は大の甘党でね。僅かな「蜜」のために世界とだって敵対する覚悟だ
グリースはハハハと大笑いし、レベッカの前の紅茶に砂糖をどっさりと入れた
だがな、俺はお前さんは賢い人間だと思ってる。どうだ、「甘い」汁を啜りながらもっと話そうじゃないか
グリースは横の席をポンポンと叩いた。不承不承といった体で座ったレベッカがティーカップを持ち上げた瞬間、グリースはのんびりと話し出した
リストなぁ……絶妙なタイミングを突いたもんだと感心した。当面ルナを手放すが、彼が「ケア」をしたから、上もさすがに昇格者に関する全プロジェクトを止められなかった
俺はな、黒野が俺への信頼を失う日が来ることは予想していたし、ここで負けるつもりは毛頭ない……お前さんに頼んで手に入れたこの資料こそ、俺がベットするチップだ
グリースはレベッカが叩きつけたファイルをゆっくりと開けた。彼はそれが年代物のワインであるかのように匂いを嗅ぎ、微笑んだ――酒と同じく、情報も時とともに発酵するのだ
こんな昔の実験記録が賭け金ですって?この情報には役に立つ結論などないと聞いていますけど……中身が何かを忘れてしまうほど、耄碌された訳でもないでしょう?
忘れる?俺は今でもこの目で見た実験を全部覚えているさ。でも俺がしゃしゃり出てこれを調べりゃ、誰かが気付く。だからお前さんに頼んだだけのことだ
このプロジェクトで逆元装置の原理は解けなかったが、得たものもあった。たとえばルナの出現――彼女や全ての昇格者の出現は、逆元装置の変数が絡んでると俺は睨んでる
惜しいかな、カノン博士ですらあの時は逆元装置の原理を解明できなかった……だから俺の推論にもデータの根拠は一切ない、憶測の域を出ないものだった
だがこの前月面基地で話した時、ルナは逆元装置の秘密を知っていたようだった。つまり逆元装置の原理は、確かに昇格ネットワークと何らかの繋がりがあるということだ
私を侵蝕体に変えたのは……あなた?
違う。侵蝕されたのはアクシデントだった。むしろ……必要な犠牲というべきだがね
当時、カノン博士の研究の成果で、確かに構造体改造の成功率は大幅に改善した。だがな、欠陥も残っていたんだ……
「必要な犠牲」……
そう、あなたたちはそれを「アクシデント」だと思っているのね……でも、もうすぎたこと
月面基地のアクシデントで……我々はルナを失った。もう彼女からその問いへの答えを聞くことはないだろう
グリースは今にも泣き出しそうな表情で、この残酷な事実を忘れようとしてか、首をぶんぶん横に振った
だから……昇格者のプロジェクトがしばらく滞っても別にいい。逆元装置の研究を進めればいいだけだ。今やるべきは、逆元装置という山を登り切ることだ
最初期においては莫大な金や労力を注ぎ込んだ研究なんだ。まだまだ役に立ってもらうさ
ですが、以前にも一部の実験データを回収したはずでは?確かに機体開発チームの方は研究に多少の進展はありましたが、逆元装置研究チームの研究はほぼ停滞していたかと
これに関する実験データが全部回収されたことは一度もない。ヴェサリウスが持っているのは、最高優先レベルのデータか、絶対に外に漏らせないデータばかりだからな
残りの実験データの回収に関する優先度が下がったのは、彼らが研究を進めようとしなかったからだ
何人か寄れば文殊の知恵ってな?ヴェサリウスがいくら構造体の研究分野で秀でていても、彼女だけでは完成できない実験もある……彼女は科学理事会に非協力的な態度だしな
しかも「善人面」の議会は生体実験はしない。だが情報筋によれば彼らもこのデータの入手を狙っていた。つまりこのデータがあれば演算不可能な一部の「バグ」を排除できる
「バグ」ですって?まさかあなたは、実は議会も今、逆元装置の研究に重点をおいているはずだと仰りたいんですか?
今じゃない……ずっとさ。逆元装置は構造体の基礎理論を左右する。科学理事会も解明しようとして
理論を完成させられなかった。だから彼らにも「価値」のあるデータのはずだ
つまり……このデータを使って議会と協力関係を交渉すると?彼らがこんな出処不明の資料のために、研究成果を我々と共有してくれるとは思えませんけれど
交渉?なんでそんなことをする必要がある。議会が自分たちの研究成果をくれなくたって、俺らが自分の手持ちを差し出すだけだ
そこまでして、狙いは何なのですか?
我々は今、宝箱を開ける鍵の一部を持っているんだ。それを渡せば宝箱は開く。そのお宝が最終的にこっちの手に落ちなくても、箱に何が入っているかは見られる
まだピンとこないか?逆元装置の秘密を我々が明かす必要はないんだよ。この分野で誰が先駆者になろうが、その結果はどうせいつか公表するしかないんだ
なぜなら、これは全人類の死活に関わる重大なピースだからだ。隠そうとしても無駄さ、世界政府はどんな手を使ってでも共有させるだろうよ
逆元装置の作動原理と、ルナから入手した昇格者に関する情報。これが我々のパズルを完成させる重要なふたつのピースだ
ことを成すことと、茶を飲むってのは本質的には同じなんだよ。熱が少し冷めるのを待った方が、一番の美味を楽しめる
彼は冷めきった紅茶を飲み干すと、通信を繋げた
……以上が研究チームからの今週の総括です
つまり研究チームが言いたいのは、今現在、与えられた人員でできる限りの効率を出しているのがその結果ということだ
逆にいえばほとんど目立った進展はないと
逆元装置の研究は賭けみたいなものだ。我々は運命と博打をしている
あの機体に対する当初の計画を実現するためには、逆元装置の解明は必須です
ああ、もちろんだ
グレイレイヴンのリーが適応者となった新しい特化機体の研究も、今は行き詰まっている状態だった
自滅を代償に戦う白夜と違い、新しい特化機体は使用者にパニシングへの免疫能力をもたらすことが目標だ
この機体の技術が成功すれば、人類はもうパニシングに怯える必要がなくなり、真の意味で反撃の狼煙を上げることになる
白夜機体が適応者に苦痛を強いるのは、搭載した逆元装置の状況が、パニシングを吸収する特性と合致しないからだった。Ω武器の吸収が遅れればパニシングが適応者を侵蝕する
もし逆元装置の出力を調整し、適応者に合わせた最適化ができれば、新しい特化機体は完全にパニシングを「代謝」できることになる
そのため、逆元装置の原理解明という研究は、今になって再び優先度を上げられているのだった
地上から何かいい知らせはないのか?
セリカは苦笑いしながら首を横に振った
しいて言えば、悪い知らせがない……というのがいい知らせでしょうか
会議室は沈黙に包まれた。コーヒーから立ち昇る湯気が換気システムからの冷風と混ざり合い、カップの温度が奪われていく
お待ちください、通信申請が……あ、黒野のあの方です。私、お断りしましょうか?
いや、繋げてくれ
おっひさしぶりですねぇ、議長サマ。お、ニコもいるのか……ひぃぃぃ、モニター越しでもそちらの重たーい空気を感じますよ
グリース、何の用だ?昔話をしたいだけなら控えてくれ。そちらと違って我々は今、忙しいんだ
月面基地の緊急会議以降、グリースはいきなり会議場に現れた時と同様に、突如姿をくらましていた
「グリースの勢力は縮小し黒野はリストが権力を握りつつある」、そんな噂もある。追い込まれたグリースが何をしでかすか、ニコラとハセンは本能的にまず彼の目的を疑った
昔話は別にいらねえな。でも俺の話を聞いたら、ニコはメシを奢りたくなるかもな……俺はおふた方に実にいい知らせを持ってきたんでね
モニターには暗号化されたファイルの送信表示がある。ハセンとニコラは目を見かわし、セリカに受信するようにと頷いた
いい知らせ?雪中にいる我々に炭を送ってくれるということか
この資料は黒野が初期に行った秘密研究の記録だ。内容は……おわかりだろうが、逆元装置に関するものですよ
ハセンとニコラがさっと素早く目を見合わせたのを見て、グリースの口調はますます弾んだ
これは最も初期の実験記録でね、中にあるのは全部実際の実験のデータだ。今の演算だけの実験結果とどれほど違うかは、もちろんご存知の通り
……生体実験の記録だな?
構造体に対して生体実験を行うのは厳重な規則違反行為だ……こんなものが監察院の手に渡ったら、お前は来世まで牢屋で過ごすことになるぞ
だからこそ貴重だろう?誤解するなよ、この実験はその構造体ナントカ保護法施行前のものだ。個人的には進歩に犠牲は不可欠だと思うが、俺は法律を遵守するよき市民なんでね
で、お前の望みは?
おいおいニコぉ、俺の尊い自己犠牲だとは考えちゃくれないのかい?
これも人類の進歩のためじゃないか。俺の望みは、人類のために逆元装置の秘密を解明する、それだけなんだよ
……
データの非改竄を証明するために、俺は元データを渡したんだ。どうだ?誠意の塊だろ?だから議会の方でも回収データはバックアップとって、元データは俺にくれよな
回収とは?そのデータは今地上にあるということか?
ご明察。戦争の初期、我々は多くの福祉機構を作った。収容者だった子供たちが恩返しに、構造体の意識海と逆元装置の研究対象に「志願」したとか。泣かせる話じゃないですか
グリースはうつむいて、悲しげな芝居をしている
グレート·エスケープの際、撤退準備時間が短すぎて、残念ながら多くの価値のあるものが地上に残された。それらは今もずっと、再び掘り起こされるのを待ってるんだ
これから福祉施設の座標を送る。そこに人を派遣すれば、資料を手に入れられるはずですよ
ニコラはグリースの顔をじっと見つめ、彼の表情からその「好意」の裏を探っていた
ニコよ、何だその目つき、俺ぁ悲しくなっちゃうよ。我々の間にはまだ、少しは信頼関係が残っていると思っていたのによぉ
それとも何か、俺にも加わって欲しいと思ってるのか?じゃあ……回収任務のメンバーを俺が選んでやろうか
しばらく考えこんだグリースの顔に笑みが浮かんだ
ニコぉ……ケルベロスのヴィラなんかどうだい?
ヴィラ?なぜ彼女を?彼女はもう黒野とは無関係のはずだ
もちろんもちろん。でもかつての黒野の施設を調べるなら、彼女が最適だと思うがね
ふん……セリカ、ヴィラは今どういった任務に就いている?
ヴィラさんは……2日前に任務を終え、今は待機状態です
よろしい、他の小隊で待機中の構造体は誰かいるか?
少々お待ちください。現在はホワイトスワンのバンビナータさんと、バロメッツの……
うむ、ヴィラとバンビナータに任せよう。地上は今も危険な状況だ。ふたりで行く方が、成功率も安全性も高いだろう
わかりました、すぐに任務手配書を作成します
よしよし、これにて取引完了……おっと、これは取引じゃなかったな。では、朗報を待ってるとするか
……彼の目的が不明な以上、この行動はリスクが高すぎます
わかっている。が、彼の本意を探るための一番の方法は、彼が持っている全ての手札を観察することだ
黒野の実験データは確かに参考になる。この件は以前に検討はしていたが、まさかグリースが差し出してくるとはな。ヴィラからある提案があったはずでは……?
あの計画のことですか?では私が彼女に伝えましょう
任せる
ホワイトスワンのあの構造体ですが……ヴィラと同行する必要がありますか?
彼女の来歴を覚えているか?
無論。ですが今の彼女の状態では、たいして役に立たないと思いますが
これも博打だというなら、隠された不確定要素の力を発揮してもらおうじゃないか
ケルベロスの隊長ですって?まさか前回、議会の執行部隊と繋がりでもできたのですか?
いや、俺がヴィラ姉さんにいい印象を持っているだけだ
なぜ回収に彼女を指名したのです?彼女を引き入れようと思うなら、議会には気付かれないべきでしょう。確かアトランティスの時、彼女が……
彼女はニコと一緒に黒野を離れた人間だ。だが黒野で最も堅い絆は利害関係だ。利益のためなら犬にもなる……俺はただ、彼らの「絆」がどこまで堅いのかを知りたいのさ
グリースはハセンが指名したもうひとりの構造体に聞き覚えがあった。彼は記憶をたどり、資料を探し出したが、最初の2ページを読んだだけで爆笑し出した
バンビナータだと?ワハハッ――
何が面白いんです?
いやはや、運命の巡り合わせってのは不思議なもんだな
こんな任務に本当にふたりも構造体が必要なの?
輸送機のハッチがゆっくりと開いた。輸送機特有の消毒液混じりの風が、ヴィラの赤い髪の毛を吹き上げている
ヴィラさん……目下、地上の状況は混迷を極めているんです。ハセン議長とニコラ総司令は、おふたりに迅速かつ安全に戻ってきて欲しいとお考えなので
私だけじゃなく、こちらの静かなお人形さんだって同じ疑問を持ってると思うけど?
ヴィラは端末をバンビナータに向けた
バンビナータはこの任務に異論はありません
必要ならばバンビナータはひとりでも任務を達成できます
ほら
セリカ、変われ
緊急任務につき目標地点に対する事前偵察は実施していない。今回の派遣人選は、回収過程の確実性を考慮した結果だ
まだ疑問があれば、適宜、適切な方式で答える。以上だ
……
……よろしくお願いします。ヴィラさん、バンビナータさん
セリカは相変わらず優しげな口調だが、ヴィラはニコラの口調に確固たる意志を感じた。しかも……
一見簡単そうだが、実は賭けの任務なのだ。彼女自身はその博打に巻き込まれた駒だった。目の前の人形のような構造体も、自分を監視するために派遣された可能性もある
ならば……ニコラが言う「適宜」と「適切な方式」は、恐らく自分を説得するための方便ではないだろう
ヴィラはすでに準備万端といった状態のチームメイトを見た。輸送機の到着後、彼女はずっとハッチに静かに座って、ヴィラの通信が終わるのを待っていた
……ええと、あなたはどこの小隊だっけ?
ご主人様の小隊の名前はホワイトスワンです
ご主人様?アハハハハッ――気の利いた呼び方じゃない。ノクティスのやつにもそう呼ぶように仕込まなきゃ
その「ご主人様」があなたをこんな格好にしてるの?任務がない時は、ホワイトスワンはずっとお城の中でおままごとでもしてるのかしら?
ヴィラの「ジョーク」に対し、バンビナータは返事をしなかった。その様子に、ヴィラも会話を続けるのが億劫になった
その時、コツコツと力強い足音が辺りに響いた。ゆっくりと閉じかけていた輸送機のハッチの板に、誰かが突然ガッと足をかけた
ご主人様?どうして……
今回の任務、私が臨時指揮官として参加することになった
バネッサは端末をヴィラに見せ、自分こそこの場の支配者であると宣言した
ホワイトスワンの指揮官?ああ、思い出した。隊員はひとりだけだからこうも大事にされてたわけ。たかが構造体のために指揮官が地上任務を申請するとは、ねえ
ヴィラはバネッサの目を見据えて、挑発的な笑みを浮かべた
ちょうどいいところに来てくれたわ。あなたの隊員とコミュケーションを取ろうとしてたの
バネッサは優雅に端末をしまいこむと、バンビナータの隣に座った
バンビナータはいそいそとバネッサのシートベルトを締め、輸送機に指示を出している駐機場スタッフにハッチを閉めるよう合図を送った
で、ケルベロスの隊長さんは、私の隊員と楽しく話せた?
ファーストコンタクトの印象は最悪ね。でも、これからたっぷり時間はあるし。そうでしょ?