Story Reader / 叙事余録 / ER03 物言わぬ庭 / Story

All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.

ER03-01 幻痛残影

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ドア

暗闇にドアが浮かび上がる

大きな音を立てて閉まったことを覚えている

???

あなたには本当に……ガッカリさせられたわ

……

そんなことをしても自分の価値を無駄にするだけよ

人がどれだけ心血を注いだかわかってるの?

……

ふん、見てみなさい、あなたと一緒にいたいと思う人なんて誰もいない

……

さっさと行って!

手元の端末の通信音が鳴り、まだ始まってもいない夢から呼び覚まされた

……

まさか眠ってしまったとは

傷口に問題はなかったが、スターオブライフの小うるさい医者に更に半月ほどの入院を指示されていた。だが今日やっと、この見飽きた病室から解放される

誰の差し金か、隊に戻ってすでに1週間にもなろうというのに、戦闘任務はまだ何も与えられていない

世界がもはや平和になったという訳ではないのなら、どこかの誰かがくだらない指図をしたのだろう。今では仕事すら、場所を変えたただの休養に思える

バネッサは椅子にきちんと座り直し、乱れた髪をサッと整えて勤務のための支度をした

全ての準備が終わるとバネッサは通信を繋げた

ホワイトスワンのバネッサ指揮官ですね?隊員補充の件でご連絡しました。お時間はありますか?

どうぞ

こちらにはまだ隊員補充の申請が届いておりませんが、申請中に何か問題でも?

送ってきた候補リストを見たが、テセの代わりになりそうな人員がいない

……なるほど、わかりました。では適切な人員が見つかり次第、ご連絡します。ですが、しばらくの間は精鋭隊員不在となりますが、本当に大丈夫ですか?

無論、決定権は小隊指揮官にあります。ただ、任務の難易度やそちらの隊の任務内容の独立性の高さを考慮すると、臨時隊員を入れるのもいいかと……

考えておく

バンビナータさんの方はどうなりました?昨日の報告によると……

前と同じやり方で、外付け記憶モジュールから再度読み込み直せば問題ない

外付け記憶モジュールの戦闘データの変更はロックされているはず。戦闘性能への影響はないだろう

通信が終わり次第、もう一度バンビナータの様子を確認しに行っておく

……決して彼女の実力を疑っている訳ではありません。ですが地上の状況は依然深刻で、近々任務が下令されるかと……

ホワイトスワンの隊員を補充しないご判断なら、現隊員の状態をしっかり維持するようお願いします。これはそちらの安全のためでもあります

わかっている

通信が終わり、バネッサは数十人の候補が表示された端末を横に置いた

そこには構造体の写真とプロフィールがびっしりと表示されていたが、モニターが暗くなるにつれぼんやりと薄れていった

先ほどのスタッフの心配は当然だ。テセが去った今、ホワイトスワン所属の構造体はバンビナータただひとり。戦術にも戦闘力にも大きく影響が出ている

指揮官として、バネッサはこの状態を予見していた。それでも隊員補充の申請を出さないのは、自分でも答えがわからず困惑しているからだ

一体どうすれば、忠実なおもちゃを育てられるのだろうか?

「英雄首席どの」のお人好し的兄弟的な教育は、自分にはまったく適さない。理性を欠いた行動や馬鹿らしい価値観にとらわれた「家族ごっこ」など、愚の骨頂だとつくづく思う

誰もがバンビナータのように自分に完全服従すればいい、そうすれば全てが楽で効率的になるのに。ただの人形になぜ思想が必要だというのだろう?

その行為が身を滅ぼすとわかっていて、なぜ離反するのだ?

砂浜でテセが足を止めた時そう問いかけようとした。だが、自身のプライドがどうしても邪魔をして口にはできなかった

途中で切れた先ほどの夢を思い出し、なぜか焦燥感にかられてしまう

ったく……気持ちの悪い夢だ

ご主人様……どこか体調が悪いんですか?

表情や服装、歩くスピードもいつも通りだ。だが彼女の体から漂う淡い香水とともに、イライラとしたオーラが空気中にゆっくりと振りまかれていた

バンビナータの青い瞳はご主人様の一挙一動を凝視し、その悩みの原因を探ろうとする

機体に問題はないんだな?

バンビナータはすでに外付け記憶モジュールから記憶データを読み込みました。データの同期率は……

直接チェックする

はい、ご主人様

バネッサは端末をバンビナータの外付け記憶モジュールに接続し、各記憶域の記憶データに変化がないかを調べ始めた

戦闘データの読み込み速度が落ちている……地上にいる時間が長すぎて、メンテナンス頻度が落ちたから?

バンビナータは気付くべきでした……申し訳ありません……

後でアシモフに外付け記憶モジュールをチェックしてもらえ。彼に申請を出しておく

わかりました

バンビナータの「記憶喪失」はかつて、ある界隈で話題になったことがある。構造体改造のリスクがまだ高かった初期の頃は、機体起動後、すぐにその欠陥が現れていた

特に意識海の研究者にとって、一定期間安定しているのに、急に記憶データを呼び出せなくなるバンビナータの特殊な事例は、非常に高い研究価値があった

しかし戦況が深刻になり、構造体の症状や潜在的な問題の解決は二の次となった。研究対象の正常な稼働を維持するため、彼らは対処療法的な措置を取るしかなかったのだ

バンビナータの入隊後、アシモフは彼女の記憶補助パーツを強化し、基本データを組み込んだ。そのお陰で彼女は発症してもすぐに重要なデータを再読み込みし、戦闘を続行した

しかし外付け記憶モジュールに戦闘と任務以外の内容を無制限に記録することはできない。容量上限に達すれば、取り込んだデータで記憶が順次上書きされてしまう

これが今できる最善の策だ。個人的には「あの実験」がもたらした後遺症だと思っている。俺の手元に詳しい情報がないから、これ以上はわからないがな

バンビナータの問題解決の鍵は、逆元装置が意識海に引き起こす衝突の理由と、その対策を探すことだ

だが、人類は今でも逆元装置の原理については研究途中なんだ。現在の研究知識では正しい解決法や回避方法を見つけるのは難しいだろうな

逆元装置の秘密が解明されれば、拒絶反応に関する理論も更に補完されるだろう。だが確かなのは、今の段階では無理だってことだ

……

唯一の朗報は「記憶喪失」といってもデータが消える訳じゃない。意識海の深層に沈んで彼女が自主的にそのデータを呼び出せないだけだ。人間だってそんなことはあるだろ?

つまりこの問題の解決法さえわかれば、理論上、彼女は全ての記憶データを自在に呼び出せるようになる

そちらがこれが最善の策だと判断しているのなら、とりあえずこのままにしておく

これからのことは……どうだっていい。構造体はこちらの命令に従いさえすればいいのだから

そうだね、バンビナータ?

記憶データの連続性は……問題ない。データの開始日は……

端末に触れていたバネッサの指が一瞬硬直した

その日付はまるで烙印だった。その数字を見た彼女の脳裏にフラッシュバックのように過去の出来事がよぎり、疼くような痛みがもたらされる

消し去ることのできない痛み、滾る赤潮、地下室で眠る廃人と化した首席、グレイレイヴン小隊のボロボロの機体……

いいようのない衝動に駆られ、彼女は端末の記憶データの再構築ボタンをクリックした

意識環境構築中>>>>>>100%

意識環境復元中>>>>>>100%

!!

これ以上、進ませはしません!

ふぅ……グレイレイヴンが行ってからどれくらい経った?

敵と接触してから、1時間54分がたちました――

まだ2時間もたってないのか?

ゴホッ、キリがない……結局は私までこんな馬鹿げたことを――

キィ――

危ないっ!!

バンビナータは振り返り、横から飛びかかってきた敵を吹き飛ばした。しかし彼女がその場から動いた瞬間、その隙をめがけて敵がどっと押し寄せた

負傷したバネッサの体力はすでに限界を迎えていた。バンビナータは片手でバネッサをかばいながら、敵の攻撃に必死に耐えていた

壊れた飛行ドローンに爆発物をくくりつけ、大勢の敵を爆死に至らしめる。それでも異合生物は同族の骸を踏み越え、次から次へと攻めてくるのだ

ふたりは戦いながらじりじりと後退し、やがて赤い潮によって街の一画へと追い詰められた

バンビナータは少しでも痛みが和らぐようにと、バネッサをすぐ側の瓦礫にもたせかけた

バンビナータは覚悟しています

ご主人様はここで休んでいてください。バンビナータはご主人様が歩けるようになるまでの時間、戦い続けます

この発信機でグレイレイヴンと連絡を……それと起動装置、薬、血清……他の物は全部ここにあります

もう手がまったく動かせなくなっているバネッサの様子を見て取ると、バンビナータは起動装置を彼女の利き手にしっかりと握らせた

「秘密兵器」は固定しました。あとはご主人様が普段使っている5秒タイマーで作動します。バンビナータはその5秒間に爆発方向を調整します

バンビナータは腕を上げ、機体に取りつけた爆発物を見せる

バンビナータが無数の破片となって自爆するまでの間、わずかでも長く意識を保てるよう、爆発物の取りつけ場所は精密に計算されていた

その5秒間が、自ら身を捧げる敬虔な者の価値をより高めるのだ

グゥウウウ――!

!!

バンビナータは身を翻し、襲いくる敵を防御した。緋色の海の前に立つその華奢な体は、まるで流れに逆らう白波のようだ

しかし疲弊し、負傷した体では緋色の災厄を完全には防ぎきれない

ここまで時間を稼いだんだ、グレイレイヴンのやつらも……

私に救われたという十字架を背負って生きるがいい!

バネッサは体を起こそうとしたが、傷口に抉るような痛みが走り、また倒れ込んでしまった

……

私たちは力を合わせて、何度だって障害を乗り越えてみせます。困難や恐怖を理由にして、戦場から逃げたりはしません!

リーフのその言葉を思い出したバネッサは、赤潮の中で奮闘する青い影を見ながら微かな笑みを浮かべていた

バンビナータ……

ここまでくれば……もう……十分じゃない……?

バネッサの手からべったりと血がついた起動装置が滑り落ちた

……最後は、こんな惨めな死に方なんかじゃなく……せめてお風呂にでも入りたかったわ……

やめなさい――

!!

ぐっ!

一瞬気を取られたバンビナータの体にいくつもの深い傷がつけられた。バネッサが身綺麗にしてくれていた彼女の姿は、いまや捨てられた人形のようだ

それでもボロボロになった人形は凄まじい速度で計算しながら、主人をどうにか助ける方法を考え続ける

しかし現在の状態とさまざまな方法を考えて計算しても、バンビナータは答えを見つけることができない

だが、答えを探し出さねば

そうしなければ全ての意義が失われる

意味のない「秘密兵器」

意味のないカウントダウン

意味のない殺し合い

意味のない……この機体

異合生物たちは、なぜ目の前の機体がいきなり速度を緩めたのかを考えたりしない。彼らはただ、見えるもの全てを引き裂くだけだ

キィ――

赤潮に沈みかけた瞬間、バンビナータの目の前にいた異合生物が予兆もなくいきなり倒れた

そこを中心に敵は次々に動きをやめ、その場でぼんやりと立ち出した。まるで急に攻撃意欲を失ったようだ

動きを止めた敵の中から、太陽を背にした長身の影がこちらへと近付いてくる

……臨時の権限でもこんなことができるとは

テセ……

その名前が聞こえた瞬間、意識を失いかけていたバネッサは必死に目を見開いた

……?

停止しかけていた脳が再び回転し始め、異合生物の波間から現れた姿を見て、バネッサは思わず目を見張った

連絡が途絶えた構造体は赤潮に飲み込まれるか、戦場での日々に怯えながら隠遁するかだ。どの小隊指揮官も共通して一番見たくないのは――かつての仲間が敵となった姿だった

一瞬の驚愕の後、すでに目の前の人物が自分に従う「おもちゃ」ではないことをバネッサはすぐに理解した。つまり彼に取るべき態度の正解はひとつしかない

ハ……わざわざ雑魚どもの動きを止めてまで、かつての主人を嘲笑いに?

それとも貴様もおもちゃを操る楽しさを知って……私と意見でも戦わせたいのか?

テセはそれには答えず、ゆっくりと歩いてくる。バンビナータはすぐさま敵を切り刻んでいたカマキリ刃を彼に向かって振り上げた

テセ、これ以上は近寄らせません

構わない。私を殺す気なら、彼はわざわざ現れたりしない

忠誠心を失くしたおもちゃが一体どんなご高説をたれるのか、聞いてやるわ

でも……

バンビナータ、彼を通せ

はい、ご主人様……

彼女はバネッサへ駆け寄って、テセを警戒しながらバネッサの手を握りしめた

テセはゆっくりしゃがみこむと、服から清潔な包帯と薬を取りだし、バネッサの左目を手当した

慣れた手つきで包帯を巻くと、彼は空になった包帯の筒をバネッサの頭の横に置いた

空の筒は地面に置かれた時、ポンと軽やかな音を立てた

テセ

これは空中庭園から持ってきた最後の物資です

バネッサの目を見つめながら、彼は静かにそう話した

そして彼は血溜まりから起動装置を拾いあげると、記憶の中でバネッサがいつもそうしていたように、自らの手の中に握りしめた

バネッサ

——!

テセ

あなたが押すのをずっと待っていたのですけどね

起動ボタンを押す時のあなたの顔、よく覚えていますよ

いつの頃からか、私は自分が囮になった時、あなたがどんな顔でこのボタンを押すのか想像するようになっていた

でもそれは経験するまでもないことだった。あなたはきっと、無表情でこれを押すのでしょう

あなたの笑顔、皮肉、揶揄、満足。その全てを私は恨んでいます。それは全部「主人」が所有物に与える行動ですから

その「所有物」がバラバラの破片になっても、あなたはいいものを見たという笑いすら浮かべなかった

あなたにとっての彼ら、いえ、我々はそういう扱いなんでしょう。生きている時はおもちゃのように好き勝手に操り、消える時は「物」としての存在意義すら奪った

バネッサ

……

テセ

バンビナータはあなたの一番のお気に入りだと思ったから、ずっと待っていたのに。彼女が消える時、あなたは一体どんな顔をするのだろうかと

あなたが最も気にかけ、最も従順だった「おもちゃ」を殺したあとは、私がこの手であなたを殺して差しあげますよ

バンビナータ

テセ、そんなことはさせません!

バンビナータを見ながら、テセは起動装置を指で触り続けている

それを見てバネッサは鼻で笑った。かつて下に見ていたのに、今はまさか自分が見下されるとは。だが、彼女は媚びる気などまったくなかった

バネッサ

さすがに私が調教しただけあって……ハッ……褒めてやりたいほど悪趣味だな

やりたければやればいい。そして貴様の「おもちゃ」仲間のバンビナータを解放してやれ

テセ

それが、私も不思議なんです

まさかあなた自らが最後方を守り、しかも「おもちゃ」に対する態度まで変えたとは。グレイレイヴンは一体どんな説得をしたんです?

あなたはずっと、彼らのやり方をバカにしていたはずです

バネッサ

そんなに知りたいなら……

テセ

……いえ、よく考えれば私はもう知る必要がないんです

私が求めていたのは、この体を完全に自分のものにすることだけだったんです。あなたも、ホワイトスワンも、グレイレイヴンも、もうどうでもいいです

月影を映す静かな湖のように、彼の表情は穏やかだった

テセ

「テセ」という名はあなたが決めたものです。でもその名をホワイトスワンの記念碑に刻まれたくもないし、あなたの名前の横に並びたくもありません

私が姿を見せたのは、今回の対面を最後に、この世界から「テセ」の存在はなくなるとあなたに伝えたかったですから

バネッサ

貴様……

バネッサは引き続き話かけようとしていたが、耐えられないほどの疲労に襲われ、意識が途切れていった

バンビナータ

ご主人様!

テセ

……死んじゃいない、気絶しただけだ

テセがバネッサを抱え上げようとすると、バンビナータがとっさに身構えた。その鋭い刃は瞬時にテセの腕の皮膚を切り裂いていた

バンビナータ

触らないでください

テセ

ここで彼女が死んでも構わないと?

……本当に、彼女のことを恨んでいないのか?

バンビナータ

どうしてご主人様を恨むんです!

テセ

君の意識海は細工されていると聞いたことがある。だから君が……盲従するのも理解できる。だが、全てを自分自身で決める感覚を味わいたくないのか?

誰かの命令に従うのではなく、やりたいことを思うままにやるんだ。そして自由な……人になる

バンビナータ

バンビナータのやりたいことは、ご主人様が望むことだけです

自由は、任務を遂げるための必要条件ではありません

テセ

まだ無理か……いつか私の言葉を理解できた時、また会いに来ればいい。「あの方」に会わせてあげよう

その時が来れば、君も自由の意味を理解するだろう

記憶データの再現を停止>>>>>>

バネッサは停止ボタンを押した。しかし、その指はデータ編集の画面の上で固まったままだ

まさか自分が気絶したあと、テセがバンビナータを誘っていたとは思いもしなかった

バンビナータの返答に迷いは感じられず、彼女の機体に侵入された痕跡も見えないが――

いつか私の言葉を理解できた時、また会いに来ればいい。「あの方」に会わせてあげよう

バンビナータが「自由」を理解できたとしたら、彼女も自ら去ることを選ぶのだろうか?

バンビナータは戦闘構造体としてホワイトスワンに加わっただけで、それは彼女自身の選択によるものではない。もし……

……アシモフのところに行くんだ。他の項目は彼にチェックしてもらえ

はい。ご主人様はここにお残りになりますか?

気にするな。行くんだ

それ以上の質問はせず、バンビナータは一礼すると急いで走り去った

バネッサはバンビナータの休眠カプセルを開けた。その中にある彼女のアクセサリーは全てバネッサが選んだものだった

なぜか先ほどよりも強い焦燥感を覚える。なぜそうなるのかを知りたいのに、それを探す手がかりがまるでない

バネッサが休眠カプセルを拳で殴りつけると、合金の外殻から乾いた重苦しい音がした

――ご主人様が言わないことは、必要以上に訊ねるな

それはバンビナータが何度も手探りで学習した「規則」であり、ご主人様の機嫌に合わせたつき合い方だった

ご主人様が話しかけてくる気配も自然と察することができる。そして話しかけられるまでの不安や焦燥を、目に見えぬ深い場所に抑え込むことにも慣れていた

ホワイトスワン小隊、構造体バンビナータ、外付け記憶モジュールのチェックを要求します

また来たのね。こっちに来て。私もまだ30分くらいは余裕があるの。30分したらこっちの彼に任せるわね

研究員は隣の研修中のネームプレートをつけた研究員を指さした。彼は少し緊張しているようだ

ホワイトスワンの構造体……?まさか、構造体記憶喪失の典型的な症例とされる、あの?

そう言って彼はハッと口をつぐんだ。本人の前で「症例」とは失礼だと思ったのだろう。ましてや彼らにとっては、その症状よりバンビナータ自身が特別な研究対象なのだ

彼が自分の無礼な言葉について謝るべきかと悩んでいる間に、ふたりはすでに会話を始めていた

バンビナータ、定例検査をしたいってことは、何か問題でもあったの?

ご主人様が読み取り速度が遅くなったと言いました。たぶん地上での任務が長すぎて、メンテナンスを怠ったせいです

どれどれ……ああ、なるほど、また症状が出てるのね

せっかくだから全面検査をした方がいいわ。意識海のプローブを用意するから、ちょっとここで待ってて

はい

熟練しているらしき研究員が機材を置く部屋に入っていくと、中からピッピッという操作音が聞こえてきた

どうも、バンビナータ、私は……まぁ、話しても意味はないかな。いや、気にしないで。私の名前なんて知らなくていいんだし

不必要な記憶の負荷を与えたくないと思ったのか、その新人研究員は自己紹介をしようとして、すぐにやめてしまった

はい……

さっきはごめんなさい。症例だなんて、わざとじゃなくて……君の名前を聞いたことがあって、まさか初日に会えるとは思わなくて……いや、これもちょっと違うな……

とにかく……こんな症状が起きている君は辛いだろうな、と言いたくて

バンビナータは目を伏せていたが、しばらくすると顔を上げた

大丈夫です。バンビナータがお役に立っていれば十分です。皆さんももう慣れていますし

慣れる?研究員は一瞬言葉を失った。慣れによって記憶を失う悲しい事実が変わる訳ではない。慣れで憐みすら抱かれない、そんな悲劇が一体何度繰り返されたのだろう?

はい、研修生、これを彼女につけて

あ、はい!

あたふたしながら新人研究員はバンビナータに機械を取りつけた。人間のように痛みを感じることはないとわかっていたが、彼はできるだけ優しく作業を行った

検査に慣れているバンビナータはすぐに金属のベッドに横たわったが、目を閉じる前、彼女は研究員をじっと眺めた

――もし彼が名前を教えてくれたら、少なくとも一定期間内、外付け記憶モジュールに彼の記録が残っていたのに

そんな意味のないことを考えながら、バンビナータは指示に従って無秩序な思考を止めた

お前は見てないからだよ。あの怪物は30mくらいあったんだぞ!あれを見たら誰だって腰を抜かすぜ!

なんだ?今日は自分の武勇伝じゃないのか?

ちっ、あんな戦場じゃ、俺ひとりがどんなに奮闘しても何の意味もないぜ。お前はたったひとりでビルをぶっ壊せるか?瞬殺されるだけだ

俺のクローンが小隊の人数くらいいたとしても、あれは倒せないだろうさ

お前のクローンなんて、どれだけいても意味ないって。聞いたところでは、前回の戦闘では待機中の精鋭小隊が全部出動したんだってさ

まあ、ありがたいことに、なんとか勝てたしな。俺は海で死ぬ覚悟までしてたんだけど

そう怖がるなって!どうせ新しい機体で復活できるんだし

お前はここにいるから口先だけでそんなことが言えるんだ!前回お前が重傷を負った時、ちっとも恐怖を感じなかったのかよ?

お前とは違うからな。あーあ、もういい、いい男は自分の武勇を誇るなんてことはしないんだよ!

はぁ?てかさ、長く休養してたけど、もう復帰手続きは済んだのかよ?どの小隊を志望した?

まだ決めてない。精鋭隊員の試験を受けるかどうか迷ってるんだ

はぁああ?お前、俺に隠れてこそこそ練習してたんだな!

でもさ、お前にゃちょうどいいかも。昨日ホワイトスワンが人手不足だって聞いたんだ。戦没者情報とか見ないから詳しくはわからないが、隊員のひとりが行方不明らしい

ホワイトスワン?俺は行きたくないね……お前、知らないのか?……その隊員は裏切って失踪したんだってよ!

……ほえ?

そんな訳あるかよ!あそこの指揮官はトップクラスに有能なんだ。あの隊に重大な人員事故なんてなかったはずだぞ

あのな……お前の首にちょこんと乗っかってるのは電子ゴミ箱なのか?ちゃんと自分の頭で考えろよ

ホワイトスワンの任務では重傷者は発生しない。無傷か、戻ってこないかのどちらかなんだぞ。もう少しその足りない頭を動かして考えろって……

とりあえず、俺は行きたくない。そんなにいいチームならなぜ裏切り者が出た?グレイレイヴンにそんな話はないだろう?

なるほど、悪くない。お前のそのたいそうな志、審査委員会の全審査員がきっと笑うに違いない

バネッサが曲がり角から現れた。彼女はバンビナータの休憩室を出たところでテセの離隊について話す構造体たちのやり取りを聞いていたのだ

会話中のふたりは飛び上がるほど驚き、ひとりはすぐに自分の口を抑えたが、その後ハッとした表情でバツが悪そうに手を下ろした

グレイレイヴンがどうかは知らないが、ホワイトスワンはクズを受け入れない主義というのは正しい

ク……何だって!

シーッ……黙れって……

お前みたいなクズが精鋭小隊に入る?それなら、人類は滅びるしかなさそうだ

精鋭小隊の指揮官として、これだけは言っておくわ。未来永劫、お前にそんな日は訪れない。任務で赤潮の養分にならないことを祈っておくがいい

バネッサはふたりに向かって軽蔑の笑いを浮かべると、振り返ることなく自室へと向かった

ひとりの構造体はこれ以上事態をエスカレートさせないよう、廊下の反対側へともうひとりの構造体を必死に引っ張っていた

携帯端末から通信音が鳴り、バネッサは進めていた足を止めた

バンビナータ?外付け記憶モジュールの検査で何か問題でも?

いいえ、ご主人様、まだ検査中ですが……

実は任務の指令がありました。すぐに指定された場所で任務内容の詳細を聞くようにとのことです

任務?誰からだ?

これは……議長決裁の任務のようです

こちらに任務通知は来ていない。お前単独で来ているの?

ケルベロス小隊の隊長も呼ばれています

ケルベロスのあの女が?何であいつが……

バネッサはその通信を切ると、すぐさまセリカに繋げた

バネッサさん?ごめんなさい、今ちょっと――

任務の説明に向かっている途中、ね?

私もバンビナータの監督者として、この任務に加わるわ

えっ?バンビナータさんの機体に何か問題でも?

そういうことではなく……最近、規則違反で離隊した隊員がいる。残りの隊員であるバンビナータを、指揮官に同行させる方が安全だわ

それに私も今は任務がなく、たまたま手が空いている

……総司令?

いいだろう

考えてみれば、バネッサの話にも一理ある

わかりました。ではバネッサさん、今すぐ任務内容を端末にお送りします