午後になると激しく損傷したアジール号を大雪が包んだ。真っ白な荒涼とした景色の中、ひときわ目立つ鮮血にまみれた人影が上層車両の屋根の上を走っていた
マックと重傷のニーノ、他の人々を下層車両に残し、ノアンはレイチェルや他の輸送隊員の安否を確認しようと、ひとりで雪原を5kmも走り、上層車両にたどり着いた
大雪でも隠しきれない死体の山や血の川の中で、ノアンはやっとの思いで見慣れた姿を見つけた
レイチェル隊長!!
……ノアン……?
レイチェルの左手は切断されており、額からもとめどなく血が流れ続けている……ここまで弱々しい出で立ちのレイチェルを見るのは初めてだった
左手が……医者はどこに?
……ハハハ、もう誰ひとり生き残っちゃいない。私たちの負けだ……
ヒースはまだあの丸い機械体を何体も隠し持っている
ここにきてようやく……貴族が仲間割れを始めて……私もちょっと休憩できてるって訳さ
仲間割れって……まさかジャミラ王女とヒースが?
ああ……だがジャミラ王女もまだ完全に勝った訳じゃない……彼女の護衛たちの動きが止まって静かになっている……まるでこの雪みたいにね
唯一いいニュースがあるとすれば……ヒースが全部の切り札を使い果たして、権力の座から引きずり下ろされたことだ
拠点に行こう。医者に診てもらうまで頑張ってくれ!
いや、もう無駄だよ……
疲れた顔で無理に笑みを浮かべながら、彼女は自分の端末をノアンに握らせた
レイチェル隊長……!
私の最後の言葉だ、よく聞いてくれ
この端末を持っていくんだ。私と彼の裏取引の内容の一部だ……
裏取引?
彼が――ヒースがお前を生かすことを祈るしかない
この端末に私と彼の取引記録の多くが残っている。彼が絶対に明るみに出したくないであろう物だ
この端末と私の首を持っていけば、お前はこの暴動を鎮圧した英雄だ……貴族側に認められて、輸送部隊の責任者になれるだろう
……
私にはもう力が残っていない……二度は言わない……
なぜこんな方法で、リーダーの座を僕に渡すんだ!?
今回は失敗したからだ。お前はもう一度、力を蓄えて……再決起するチャンスを待つんだ
お前までここで諦めたら、家を失った人々は……どうすればいい?
拠点は彼らを受け入れまい。列車に残るしかない……誰も守ってくれず……今までと同じで……貴族どもに踏みにじられるだけ……
ヒースにはもう切り札がないと言ったじゃないか?今こそ彼を倒す絶好の機会なのに!
そう簡単な話じゃない……貴族側の結束を強くしているのは、武力だけじゃないんだ
たとえ輸送隊の革命が成功しても……それは始まりにすぎない……その後も多くの問題が待ち受けている。だが私たちは一手目で失敗した。最初からやり直すしかない
うつむいたレイチェルの顔は、あまりの失血の多さで真っ青になっている
まずい、誰かがここを調べにくる。やるなら今しかない
そんなの無理だ、レイチェル隊長!
無理だなんて二度と言うな……!
彼女は弱々しく叫ぶと、ノアンに自分の銃を握らせた
しっかり握れ!離すな!
フィールドに会いたいんだろう?端末には彼の情報も入ってる……生き残れ……生き残らないと、フィールドを探しにいけないだろう!
輸送隊の責任者として……私は多くの間違いを犯し、多くの人を傷つけた……
心から本気で信じてくれた人を信用できずに、アーサーみたいなやつを信用してしまった……
アーサーは自分のチームの貨物を盗んでいた。それを……私は見逃していた……彼から分け前を半分とって……武器と交換していたんだ
それじゃ、バンクロフトおじさんも……
そうだ……フィールドにG54号貨物車のことを教え、彼をコンテナに誘導したのはアーサーだ……だからお前が恨むべきは私なんだ
撃て。私を殺せ。そして生き延びろ……!
お前の思うがままに、新しい輸送隊組織を作れ。そして二度と私みたいな過ちを犯すな!
早くしろ、やつらがくる……!
輸送隊はもうほとんど全滅だ。たとえあなたが間違っていたとして、僕がどうして恩人を殺す必要があるんだ!?
なら……これを私の最後の願いだと思ってくれ、ノアン
ずっとお前の母親に償いたかった……
私が巻き込んだせいで彼女は殺された……私が彼女にできる唯一の償いは、お前を生かすことだ
レイチェルは自分の手をノアンの手にしっかりと重ねた。彼はその冷たい手を握り返そうとしたが、彼女の目的はそれとは別だった
レイチェル隊長……何を!?
今でも、私はジュリーに深く――
銃口から噴き出した火花と轟音で、彼女の最後の言葉はかき消された
茫漠たる真っ白な雪原で、ノアンはただひとり立ち尽くした
…………
レイチェルの死後、ノアンはかつて彼の母親も監禁されていた同じ独房に閉じ込められた。多くの護衛に監視されながら、牢獄生活は14日目を迎えていた
独房の外を役割の異なる護衛たちが歩いている。ヒースの部下や滅多に見かけない王家の親衛隊、更に負傷している少年構造体が目の前を何度も横切っていた
嘘偽りのない真実を求める人もいれば、彼らにとって都合のいい「真相」を期待する人もいた
独房の外にいる者たちは互いを警戒し、牽制し合って行動していた。そのお陰でノアンは命を狙われることなく、今日まで生き延びることができた
臨時「会議」に連行される日の前夜、先日から独房の周辺を徘徊していた少年構造体が、誰もいない隙を狙って独房の前に座り込んできた
ジャミラ様からの伝言だ。申し訳ないって
助けるつもりだったけど今は王家の勢力が弱くて、最後に兵を出すのが精一杯だったとジャミラ様が言ってたぜ
…………
それと、ジャミラ様はあんたに感謝もしてた。レイチェルの端末を持ってるよな。まだ誰にも渡していないだろ?
……一体何が言いたい?
「好きなようにやれ」ってさ
翌日、ノアンは護衛に監視されながら臨時の「会議ホール」に引き出された。そこには多くの平民たちがおり、声をひそめてあの爆発事故と僅かな生存者について話していた
王族とその親衛隊は階段の最上段に座っており、その側には複雑な表情で大勢の貴族たちが立っていた。更に一番右側には貴族たちも初めて見るであろう「ゲスト」が来ていた
その外見から察するに、来客はおそらく空中庭園の構造体だ――ノアンは輸送任務中にその構造体を何度も見かけていたが、取引の時以外は話したことすらない
アジール号の爆発事故はアディレ商業連盟に深刻な影響をもたらしました。よって、我々の重要なパートナーである空中庭園にも、この裁判の傍聴を求めました
空中庭園やアディレ商業連盟にとって、下層車両の輸送部隊、働きバチの隊員は地球奪還の重要な戦力です。我々の会議に彼らを呼んだのはあちらにも知る権利があるからです
問題はありませんね?
もちろんございませんよ
ヒースの声は自信に満ちていた
この3日間、彼はしつこいほどノアンに詰問と自白を強要し、さまざまな条件を出したり、あるいは恫喝をして、ノアンがレイチェルの端末を持っていないかを確認しようとした
下層車両を隅々まで知っているノアンがどこかに端末を隠したのではないかと、ヒースの護衛が何度も彼を問い詰め、更にある事実を強調していた
今回の暴動や爆発事故を、レイチェルと王家の共謀ということにすれば、ノアンは「反乱鎮圧」の英雄だ。輸送隊の総責任者になって、貴族の分け前にもあずかれるというのだ
もしノアンがこのシナリオを拒絶すれば——最も残酷な方法の処刑が彼を待っている。更に輸送隊が必死で守ろうとした平民たちは、全員列車から追い出されてしまうと
では最初に暴動を発見したこの私が、証言をいたしましょう
ことの発端は、私の忠実な部下が貨物検査で、貨物車両にレイチェルが大量に規則外の武器を隠蔽している事実を発見したことでした
私の部下は平和的に彼女に武器の来歴と用途を訊ねようとしたのですが、いきなり輸送部隊に襲われたということです
彼は堂々と真っ赤な嘘をついた。襟に隠した盗聴器、列車に引きずられて死んだアーサー、恐喝されていた平民、その全ての事実はまるで最初から存在していないかのようだ
その後の調査で私たちは重要な証人を保護しました。輸送部隊のコアメンバーのひとりです
人々の視線は彼が指し示したノアンに集中した
…………
彼の証言によれば、レイチェルは長期にわたって王家と手を組んでいた。王家も反逆者排除のため、輸送部隊が武装暴動を起こすのを黙認していたそうです
バカな!レイチェルがクソ貴族どもと手を組む訳ないだろう!!
デタラメもいい加減にしろ!!
レイチェルは真相を一度も明らかにしなかった。その暗く醜い協力関係を知られれば、おそらく全員を失望させてしまうだろうと話していた
汚らしい愚か者どもめ、現実と向き合うがいい!王家の黙認の下、輸送部隊が暴動を企んだことで、このような悲劇が起きたのだ!
つまり——
彼はそこで一段と声を張り上げた
王家が権利を濫用して民を脅かすのを防ぐため、空中庭園のように王家廃止を提案いたします。議会を設立し、真に民のことを思う我々に、権利と責任を与えていただきたい
賛成!
まるで台本でもあるかのように、すぐさま周りの貴族や彼の配下の者から賛成の声が上がった
ヒース様、王家が輸送部隊の行動を黙認していたと仰ったが、それは具体的にどの行為を指すのでしょうか?
決められた以外の武器の備蓄行為を黙認し、更には暴動への責任追及を行っていない点です
確かな証拠の有無はさておき、衝突が起きた日には、貴殿も数多くの軍事用機械兵器を使っていたようですが?その使用権限についてはいかがなさいました?
私はエンジニアを派遣し、それらの武器の制御権を奪ったにすぎない。もともとはレイチェルの物だった訳ですからね
ほう?実は、こちらにとある証拠品があります
バーバリーという後方勤務の管理者が、自分は殺されてしまうからと、ある帳簿を私に送ってくれたのです
……?
貴殿は何度も彼女の手を借りて、不当に物資を取得していたようだ
……信書の偽造など誰にでも容易い。当然帳簿も同じことです
彼女はすでに故人だ。そちらが偽造した訳ではないという「証拠」はどこにあります?むしろ偽造の事実が漏洩しないように、あなたが口封じなさったのでは?
ヒース様の仰る通りだ!
忠誠を尽くすヒース様に罪をかぶせようとは、下劣な王家め!
ヒース擁護派は一斉に騒ぎ出し、大声でアストンに罵声を浴びせた
(バーバリーは死んだ……アーサーの盗聴を差し出したのに殺されたのか……)
よろしい、でしたら最も重要な証人である人物に話を聞きましょう
この少年こそ、まさに我々の英雄です!レイチェルに育てられはしたが、彼は自らその育ての親を殺し、この悲劇に幕を下ろした!
その言葉を耳にするなり、後方にいた平民たちの間に怒号が渦巻いた
おい、なんだって!お前っ、レイチェルを殺したって!?
あれ、いつもレイチェルと一緒にいた小僧だよな??
なんでそんなことを!?皆が全力で戦っていたと思ってたのに……畜生、お前が……
裏切り者!こいつは裏切り者だ!!
静粛に!!
彼は得意満面といった顔で手を振ると、人々を鎮めるように護衛に指示をした
会議ホールが再び静まり返ると、ヒースは両手を後ろに組んで、悠々とした足取りでノアンに近づいた
では、皆に話してあげなさい――レイチェルは一体どうやってここまでを仕組んできたかということを
レイチェル隊長は……
アジール号は、ずっと混乱の中にいる。皆は思いつく限りの手段を使って、この地獄で生き延びようとしている
レイチェルを信じるのよ。彼女は今、上層貴族への反乱計画を立てている
レイチェルはみんなの指導者になろうとしているの?本の中のヒーローみたいに?
ええ、そうよ……彼女の手段に諸手を挙げて賛成って訳じゃないけど、私に指摘する資格はないし
今日から、お前は私の弟子よ。私がお前に自分の身を守る術を教える
でも何度も言うけど、私たちがラッキーボックスの製造を断っても、上は他の協力者を探すだけ。私たちの境遇は変わらない
ボイコットもデモも全部やった……でもこの列車は彼らが所有してるのが現実。貴族が存在する限り、私たちに発言権なんてない
確かに私はするべきではないことをした。でも、それが多くの人に未来を与えるためなら、犯罪者になることも厭わないわ
武器交換の物資?ハッ、私なりの方法があるのさ
今後のことなんて考えてない。このままだと、下層車両の全員が生き残れなくなるのに
……フィールドがなぜ失踪したのかはわからない
今のこの犠牲は全て、皆が未来でよりよい生活を送るためだ!
ずっとお前の母親に償いたかった……
お前の思うがままに、新しい輸送隊組織を作れ。そして二度と私みたいな過ちを犯すな!
…………
もし時間を巻き戻せるとしたら、レイチェルはまたヒースとの協力関係を選ぶのだろうか
(おそらくそうだろうな)
レイチェルは最後の瞬間まで、自分より強大で揺るぎない力を頼ることで、その力をもってノアンを守ろうとした
レイチェルは実際のところ、俺らをまったく信用していない。武器を集めるためなら、彼女は話を聞く耳のない暴君になっちまう
彼女はいくら努力しても変えられない状況をたくさん見てきて、人を救うことを何度も諦めたんだ。そんな自分の側には、誰もいてくれないだろうと思っただけ
どうしてこんなことに?ノアンは再び自分に問いかけた
私はそうするしかなかったんだ。そうしなければ、私は何も変えられない
…………
ならば、今の彼には選択肢があるというのか?
輸送隊にはさんざん世話になった。だが小僧、慈悲深いヒース様はお前にチャンスを残してくださったんだ。お前に選択する権利はないぞ。従うだけだ
アーサーみたいに列車からぶら下がって、レールの上でミンチになって死にたいのか?お前がそれでよくても、他のやつらはどうなると思う?
本当にそうなのだろうか?
会議ホールに着いてすぐ、ノアンはジャミラ王女の意図的に高く張り上げられた声を聞いた
空中庭園やアディレ商業連盟にとって、下層車両の輸送部隊、働きバチの隊員は地球奪還の重要な戦力です。我々の会議に彼らを呼んだのはあちらにも知る権利があるからです
ジャミラ王女のこの行為には明確な意図が含まれていた。彼女はその言葉であるメッセージを伝えようとしていたのだ
――「彼らは重要な存在であり、空中庭園の協力者たちも彼らを重要な存在だと思っている」
商人には当たり前のことだった。自身にとって何が重要になるかわからないのだ、物を簡単には捨てたりしない
どうした?皆がお前の発言を待っているんだぞ
周りでざわつく人々を見渡すと、ヒースは苛立った様子でノアンの前のテーブルをドンと叩いた
ぼんやりとしていたノアンはふと、子供の時に訊かれたフィールドの質問を思い出した
ノアンは将来何になりたい?
ノアンがふと頭を上げると全視線が彼に集まっていた。その視線はまるでホールにいる自分を貫くように鋭かったが、ノアンは怯まなかった
今こそ「未来」を選択する時なのだ。この選択で命を落とす可能性もあることを、ノアンはわかっていた
しかし輸送隊の積年の悲願が叶うなら、選択することに抵抗などあるものか。彼は、人生がここで終わることだけが少し無念だと思った
レイチェルはただ下層に住む人々に平等な権利を与えたかっただけです。ラッキーボックスやその他の不条理な制度から人々を解放しようと、武器を蓄えていたんです
これまで、最も人々を虐げてきたのは、ヒースとその部下たちです
今回も同じだ。彼らは隠していた殺傷力の高い軍用の機械体で輸送部隊を虐殺しただけじゃなく、分断されていた後方車両の平民を護衛に追撃させたんです
この点に関しては、僕の後ろにいる全員が証人です
彼らはあの災難の生存者です。災難が起きた原因を知らなくても、どういう行為があったかは必ず目にしていたはず
後方にいた平民たちがざわめき、彼らは大声でノアンの話に賛同してあの虐殺を批判した。だがヒースはそれを一笑に付し、一切動揺していない
どうやらこちらの証人は誰かに入れ知恵されている、真実を話す気はなさそうだ
では貴族の皆さんに問おう、我々がアジール号の建造に出資した主な理由は何でしょう?
それは、愛と希望です。世界各地に愛と希望を届けるためです。では輸送部隊の行為は私たちの理想にふさわしいでしょうか?否、断じて否です
地球を奪還し、黄金時代の栄光を取り戻すには、個人の忍耐は避けられない。それを、辛抱できずアジール号を爆発させるなど、自己中心的で恥ずべき行為ではありませんか?
――大局的見地から言えば、個人の痛みなど取るに足らない
17年間、下層車両の人々の苦痛を見てきた成育歴がなければ、ノアンも対岸の火事としてこの審判を眺めていたのだろう
台本通りの拍手と喝采が静まる前に、ノアンは彼の切り札を切った
レイチェルの端末を持っています
……なんだと!
僕はその端末の内容を見ました。20年の間にわたる帳簿や明細、通信記録、契約書や議事録、そういったものを彼女は全部保存していました
それを見せればあなたの非道な行いについて証明できます。人々を虐げていたのは誰なのか、あなたに反旗を翻した貴族を殺したのが誰なのか、全部明らかになる!
……当然、それはお前だろう
何だって!?
お前はジュリーの息子だろう。父親も私の部下だったのだ
彼の行った犯罪の記録はまだ残っている。ただ罰を受ける前に、やつはレイチェルに仇討ちされて殺されたが
その言葉で、周りが再びざわつき始めた
お前の母親、ジュリーはずっとレイチェルを恨んでいた。彼女がレイチェルのためにやった帳簿の改竄、物資の着服、全ては尋問記録に残されている
お前は両親の復讐を果たすため、ずっとレイチェルの近くに潜み、彼女が暴動を起こすのを扇動し、それに乗じて彼女を自らの手で殺そうとした!
輸送隊の内輪揉めだったのか?
平民なぞ、車両で暴動を起こすようなやつらだ。問題を起こすしかやることがないのか??
全員教養もない、ナンセンスの塊だ!ただ暴力を振るうだけの無能め!
仰る通りでございます!
恐ろしい、実に恐ろしい!
ヒースは先ほどとは別のロジックを持ち出すような詭弁を用いて、全ての責任をノアンに押しつけてきた。それでも貴族と彼らの部下はヒースに声援を送るのをやめない
皆さんは何を言ってるんです??彼が何か証拠を示しましたか!!何を根拠にそうまで賛同してるんです!?
ノアンは大声で叫んだが、誰も彼の声に耳を傾けずに、ヒースが誘導した方向のみで討論が続けられた
犯罪しかしない平民など追い出せ!
我々にはより安全な環境が与えられるべきだ!!
お前は「鹿を指して馬と呼ぶ」という言葉を知っているか?
ヒースは余裕たっぷりにノアンに歩み寄ると、耳元で囁いた
ある宰相が皇位を奪おうとしていた。だが反乱を起こす前に、自分の賛同者がどれほどいるかを調べようと、王に鹿を献上し、これは馬だと言い張った
当然王はそれを信じない、そこで宰相は大臣たちにこれは鹿か馬かと訊ねた。さて、結果はどうなったと思う?
ほとんどの者が、それを馬だと言ったのだ
鹿を馬だと呼ぶなど、愚かだと思うだろう。だがこれが彼らの賢さなのだ。本当のことを口にすれば……早死にする
…………
今日は空中庭園のゲストもお見えだ。これ以上不格好なところを見せたくはない。最後にチャンスをやろう。さあ、端末を渡せ
…………
端末を握る手が震えていた
鹿の正体はとっくに彼らにバレているぞ。それでも「不格好」だなんて気にするのか?
彼らはもともと私と協力関係にある。終わってから「宥めて」、「合理的な」証拠を提供すれば、彼らも納得して帰るだろう
合理的、だって……?
ノアンはジャミラ王女を見た。王女は最初の言葉以降、何も発言しない。背後から誰かに脅されてでもいるのか、うつむいて隣の人と会話をしているだけだった
更にノアンは名を知らぬあの少年構造体とアストンを見た。彼らも近くにいる人々をじっと警戒している様子で、助けを求めるノアンの目には気づかない
反抗する余地のない流れに、ノアンは「黄金時代の秩序と法律はすでに崩壊した」という本の中の一節を今、切実に理解した
混乱する終末世界では、実験を握る「一握りのトップ」だけが他者を従え、ルールを制定できる。普通の人はたとえ自分を燃やして叫び声を上げても、長い夜の闇を払えないのだ
それが真実、現実だったとしても、彼は最後にもう一度挑戦したいと思った
……おい!!
……!?
彼は手を高く振りかぶり、少年構造体に向かって全力で端末を投げつけた
次の瞬間――
影に潜む者たちが撃った数発の銃弾が、手をまだ上げていたノアンに命中した
ぐっ……
胸と腹を撃たれた強烈な痛みで気を失いそうになる
本当にこんなことに意味があったんだろうか?
遠くから声が聞こえた。まるで記憶を通して、未来から過去へと投げかけられた質問のように
……意味……?
彼はやっとの思いで頭を上げた。しかし周りの人たちはヒースが作ったルールに従うように、声を揃えて同じセリフを繰り返している
――それは、彼ら自身が次の標的にされるのが怖いからだろうか?
彼らの怒声と護衛があの少年構造体を取り囲んで、例の証拠品を奪おうとした。しかし彼はジャミラ王女側近という立場だったらしく、あからさまに反抗できないようだ
徒労に終わってしまった……あなたは選択を間違えたんだ
……みんなの……願いさえ……
その「証拠」があれば、輸送隊の悲願が叶うと思った?
遠くからくすくす笑う声が聞こえた
薄れゆくぼんやりとした意識の中で、少年が手に持った端末が撃たれて弾け飛んだ
…………?
端末の破片が床に散らばり、混乱した人々に踏みにじられていく
あなたの選択で彼らの犠牲が全部無駄になったんだ
……違う……
彼は震える手でその破片を拾おうとしたが、その指が破片ごと踏みつけられた
返せ……!
心を抉るように、魂が痛む
彼は選択を間違った?レイチェルに言われた通り、全てヒースに渡すべきだったのか?
――いや、そんなのは僕が望んだ道じゃない!
なら、これがあなたの望んだ道?
……いや……違う……僕はただ……
――下層車両の人たちに飢えて死ぬこともなく、迫害もされず、平等な報酬と生きる権利を持つ、そんな生活を送らせたいだけだ!!
その叫びは人々の声に埋もれ、下層車両にいた1万人近い人々の悲願の火は燃え尽き、果てしない暗黒に飲み込まれていく
後悔しているの、シュレック?
こいつ、まだ生きてるようです
列車から突き落とせ
……後悔しているの?