ぼやけた視界がだんだんとクリアになった。パチパチとまばたきをすると、温かい液体が目から頬へと流れ落ちた
喉から声がうまく出せず、うめき声が漏れる
気がついたのね
耳に雑音が流れ込みだし、ようやく周囲の状況がわかるようになってきた
保全エリアの臨時病院です。順調に回復しているみたいね。侵蝕度もそれほどひどくなさそうだし
30分後にもう一度血清を注射して様子を見ましょう。問題なければ、3日後には歩けるようになるわよ
なんですって?まさかあなた、自分が誰かを思い出せないの?
妙ね、こんな症例はなかったはずなのに
でも聞いたことがあるわ。赤潮に触れた人は助けられたあと、性格が大きく変わるって……
その単語が記憶の引き金を引いたのか、頭が回転し始めた
あら、思い出した?
赤潮の中で不思議な光景をたくさん見たっていう人もいるけど。あなたは意識が戻ったばかりで、少し記憶が混乱しているのかも
時間が経てば治ると思うから
そうだ、あなたがなぜ赤潮に触れたのかはわからないけど、あなたを助けたのは空中庭園の執行部隊よ。まだ保全エリアにいるから、質問があるなら彼らに訊いてみたら?
ついでに彼らにお礼を言うことね。赤潮に触れたのに生き延びるなんて、本当にラッキーなんだから
医療スタッフはそう話すと部屋を出て行った
頭を抱えこんで気持ちを落ち着かせようとしてみる
枕の横にはボロボロのショルダーバッグが置かれている。中にあるのは自分の持ち物らしい
中身が少なすぎることに驚きつつ、中を調べた。カビかけた圧縮ビスケット、半分だけの包帯、空のアルコール瓶、万年筆が1本、インク瓶、それから……束になった原稿用紙
それはまだ書きかけの小説、何年もかけて書いている物語だったはず
アポカリプスの後という世界観、「潮の声」という災難、失われた古代の智慧、深淵へと向かう旅……
無駄な修辞句、わざと難解な言葉を並べるのが自分の癖だ。そのせいか、自分以外に最後まで読み切ったという人はまだ現れない
原稿用紙をめくっていくと、記憶はますます鮮明になってきた
正直にいうと、自分はあの旅のことをほとんど思い出せない
まさに、起きるとすぐに忘れてしまう浅い夢のように
自分は別に物書きではないし、そもそも今の時代に物書きなんて職業は必要ない
創作はただ何年も続けている趣味にすぎない。才能がないとわかっていても、どうしても諦められずに書いているだけだ
でも本当にこれでいいのですか?
誰かに読んでもらい、あなたの考えに共鳴して欲しくはないのですか?
自分を評価してくれる人が欲しくはないのですか?
頭のどこか深い場所に、ある声が残っていた
大丈夫?顔色が悪いけど
戻ってきた先ほどの医療スタッフが、ぼんやりした自分の表情に気づいてくれた
栄養不足かしら。ちょっと待ってて。使えるブドウ糖の点滴があれば、1瓶分点滴するから
彼女は最後まで話を聞かず、急ぎ足で部屋から出ていった
彼女を止めようとしていた手を下ろし、再びベッドの上の原稿を眺めた
ペンのキャップを外し、新しい原稿用紙を広げて書き始めた
記憶喪失の主人公が知らない町で目を覚まし、自分こそが災いを止められる運命の人だと告げられる
黄金時代からの使い古されたベタな設定だ。だがなぜかこの設定が大好きだった
突然、心の中に水滴が落ちて波紋が広がるように――
インスピレーションがなみなみと湧きあがった
ひとりぼっちで旅をする主人公なんて、あまりに孤独だ
主人公を支える人や、理解者が必要なはず
主人公を正しい道へ導く人、心を通わせる仲間たち
世界は必要としています。あなたみたいな人が災厄を止めてくれることを
ですから、あなたが起きるのを待っていました
ここなら有用な情報がたくさん集められそうですね
ここに少し滞在しましょうか
深海の守護者である彼女を倒さない限り、前へは進めません……
……旅の終点はその先にあります
そうすればあなたと私の使命は終わるのです……
そう話すのは、主人公のことを気にかけるミステリアスな少女だ
あなたを理解する唯一の存在として
私はここで、ずっとあなたの帰りを待っています
ふと、ある名前が脳裏に浮かんだ