万千の終篇
……私が綴った「私たちの物語」は気に入ってくださいましたか?
心ここにあらずといったご様子ですね。私の声が聞こえていますか?
ビアンカの声が、どこか遠くから響くように聞こえる。厚い幕を隔てたような、ぼんやりとした音
白昼夢の中を漂っていた意識がようやく戻り、ゆっくりと目を開けた。しばらくして、自分がビアンカの肩にもたれたまま眠っていたことに気がついた
傍らに座るビアンカが、心配そうな眼差しでこちらを見ている。その表情から、彼女は何度も自分に呼びかけていたようだ
よくお休みになれましたか?邪魔してはいけないと思い、起こさなかったのですが
もう日も傾いてまいりました。そろそろ帰る準備をなさった方がよろしいかと
辺りを見渡すと、劇場の中はすでに薄暗くなっており、どうやら夕方に差しかかったようだ
思い返せば、彼女とこの劇場に並んで腰かけ、彼女の語る物語を静かに聴いていた……はずだった
いつの間にか劇中の運命に引き込まれたような、現実とも幻想ともつかぬ長い夢へと迷い込んでいた
彼女は察したように笑みを浮かべ、そっと手を伸ばしてこちらの耳元の髪を整えた。指先の温もりが優しく肌をなでる
どうかそのままで。髪が少し乱れていますので……
連日の任務で、疲れが溜まっているのでしょう。貴重な休暇を私の話に使わせてしまって、申し訳ございません
本当は、創作についてご意見を頂きたくてお誘いしたのですが……私のわがままで、ご負担をおかけしてしまいましたね
彼女の言葉を聞いて、この旅の始まりを思い出した
任務続きの日々の中で、ようやく得られた束の間の休暇。そこでビアンカとともに、この保全エリアに息抜きに来たのだ
せっかくのふたりの時間を邪魔されたくなくて、人気のレクリエーションには参加せず、彼女と手を繋ぎながら、静かな郊外をゆっくりと散歩した
人のいない場所を並んで歩き、黄金時代の建築物の遺構を巡りながら、その時代の息吹に耳を澄ませる
その中で、ビアンカがひときわ心を奪われたのが、この廃れてなお美しさを残すオペラ劇場だった
重厚なベルベットのカーテンが外の喧騒を断ち切り、巨大なクリスタルのシャンデリアが幻のような光を振り撒いていた
彼女は1歩足を踏み入れた瞬間から歓喜の表情を浮かべ、これまでにない真剣な眼差しで劇場の隅々まで眺めた
彼女はこちらの手を取り、舞台に最も近いボックス席へと導いた。そしてカーテンを引き、そこを小さなふたりだけの空間に変えた
彼女と肩を並べ、ふたり掛けの席に座り、誰もいないステージを静かに見つめる
当時の人々も、こうして大切な人と並んで演劇を観たのでしょうか?
あなたと一緒に、そんな体験をしてみたかったです
彼女は嬉しそうに微笑み、またゆっくりと視線を舞台に戻した。何かに思いを巡らせているようだ
これまで多くのシミュレーション映画を体験してきましたが、どれほど精巧に「現実」が演出されていても、実際にその場に立つ感覚とは異なります
今のシミュレーション技術で十分「現実」を感じられると言う方もいますが……私はこうして、本物の場に身を置く方が好きです
それにシミュレーション映画は、観客に「没入的」な体験をさせるために作られていますから、舞台そのものの存在は意図的に消されてしまいます
ですが……私は全てが闇に沈んだ中、スポットライトが舞台を照らすその瞬間にこそ、特別な魅力があると思うのです
一度、舞台にあなたと一緒に立ってみたいのですが……叶いますか?
彼女の手を取って、ふたりで静かに舞台の上へと歩を進める
舞台の上には光と影が入り混じっていた。見上げると、天井の壊れた部分から射す陽光が、まるでふたりにスポットライトを当てているようだった
陽光は巨大なシャンデリアに反射し、ビアンカの体に幻想的な虹の光を纏わせる。観客の注目を一身に集める物語の主人公のように、彼女はそこに立った
彼女はくるりと振り返って微笑み、誰もいない観客席へ優雅に一礼した
初めて舞台の上に立ちましたが……今、ようやく気付きました
演じる側の視点に立つことで、物語の理解はこんなにも深くなるのですね。命を宿すかのように、登場人物が生き生きと感じられます
ふふ。これは、物語に対する私の拙い憧れです。笑わないでくださいね
たまに、物語を書いているんです。でもいつの間にか入り込んでしまって、自分がその「登場人物」になったような気がするのです
そして、その「登場人物」の視点から、これから待ち受ける運命を思い描くと……
ふと「定められた運命に抗いたい」という気持ちが湧いてきます
それで結局、筆が止まってしまうのです。いくつもの違う「運命」が見えてしまいますから……
面白くて的確な表現ですね。きっと、そうなのでしょう
そして私も、登場人物が「自分の意思」で運命を選べるようにしてあげたくて……結局、どの物語も結末を書けずじまいです
お恥ずかしい限りです。きっと、自分の行動に対する滑稽な言い訳にすぎないのでしょう
けれど、物語を書き上げるよりも、登場人物が「自分の意思」で運命を選べるようにしてあげたくて……結局、どの物語も結末を書けずじまいです
その言葉がビアンカの心に触れたのか、彼女は静かに頷き、笑みを柔らかく深めた
実は……ある特別な物語について、ずっと考えているんです。でも、どうやって書き始めればよいのか迷っていて
私とあなたが、まったく異なる運命を歩む……そんな物語です
もしご迷惑でなければ聞いていただけますか?私の中にある、その物語を
ふたりで観客席に戻り、肩を並べて腰を下ろした。そして、彼女が「ふたりの物語」を語り始めるのを静かに待った
ほんのひと呼吸の静寂の後、言葉が優しく紡がれ始めた。その語りは淀みなく、彼女の中で幾度となく描かれてきたかのようだった
物語の中で、自分とビアンカはまったく新しい身分を持ち、別の世界を生きていた
その世界は我々の現実とまったく異なっていた。災厄もなく、戦火もなく、パニシングもない
ただひとりの天才劇作家と、
いつの間にか、自分は物語の中の「劇作家」になっていた
ビアンカの描く物語の中で、数々の波乱をともに乗り越え、彼女との絆を深く強く結んでいった
そして最後には、現実と幻想の境界が曖昧になり……
本当にその夢の中で、彼女とともに生きていると錯覚するほどだった
そして、彼女の声に起こされた。長い夢の終わりが、黄昏の帳とともに静かに訪れた……
胸には彼女の物語が残した余韻が深く波のように広がり、新たな人生を彼女と歩んだかのような感覚が残っていた
私の物語は、あなたの心にどのように響きましたか?
それは、たとえ別の世界が舞台であっても……今の私たちとの繋がりを深めたいと、強く願っているからかもしれません
「夢」は現実の映し鏡であり、理想の姿でもあります。そして数多の夢が交差するその狭間こそが、誰しもの心の奥にある「夢の境界」なのではないでしょうか
物語がどのように展開しようとも、私はいつも、そこに「私たち」の今を投影したいと思ってしまうのです
それは、たとえ別の世界が舞台であっても……今の私たちとの繋がりを深めたいと、強く願っているからかもしれません
私があなたとともに生きている、戦火や危機が絶えないこの世界には、理不尽で満たされないものがたくさんあります
でも、あなたとともに歩んだこの現実の全てが、私にとってはかけがえのない思い出なのです
だから私は、その物語の「脚本」の中にも……そうした過去を、想いを、映し込んだのです
こんな風に認めていただけるなんて、本当に光栄です
手と手を重ねた時、あの物語の中で、ふたりが互いの手の平に「印」を描いた場面が蘇った
その意図に気付いたのか、ビアンカは静かに微笑み、優しく指を重ねた
ふたりの指先が息を合わせるように、手の平に「印」を描いていく。やがて彼女はそっと手を閉じ、大切なものを包むように、こちらの手を胸に抱いた
もしかしたら……別の世界では、私たちはこうして出会ったのかもしれませんね
戦いもなく、静かで穏やかな世界で、こうして手を取り、新しい運命をともに歩み始める……
けれど、どんな始まりであっても物語の結末だけは決して変わらないのです。だって、私の想いは変わりませんから
どんな物語の中でも、私はこうして、あなたの傍にいます
手を取り合い、劇場を後にした。ちょうどその時、太陽は地平線へと沈み、西の空に紅を残していく。草原には百合の花が咲き誇り、気持ちよさそうに風に揺れていた
ビアンカの物語の中で、華やかな衣装を纏った彼女の傍に咲き誇っていた、あの白く鮮やかな花――
物語の中のあの姿が、今ここに立つ現実のビアンカと重なって見えた
手の平に咲く純白の百合は、彼女の純粋な愛のようだった
その花を、彼女の髪に優しく飾る
彼女は手を伸ばし、そっとこめかみに触れた。無意識にメイクをしていない頬をなぞり、僅かに寂しげな表情を見せた
私の今の装いは「舞台」のように華やかではありませんが……この百合が似合うでしょうか?
手を伸ばして彼女の髪を整えようとした時、指先に見覚えのある色がついていることに気がついた
その瞬間、あの幻想との境界が再び溶け出し、舞台前に彼女の唇に口紅をのせた時に戻ったかのような錯覚に陥った
指先をそっと彼女の唇に這わせる。ほんの僅かに残った色が唇に再び花を開かせると、指先にあの時と同じ温もりを感じた
だが、今の彼女は目を閉じなかった。まっすぐにこちらを見つめ、瞳に自分の姿を焼きつけていた
……これでいいのです
彼女はこちらの手を取り、蝶の羽のように軽やかな口づけを指先に落とした。その感触が、少しだけくすぐったい
その短い口づけの合間に、彼女はふたりだけの誓いをそっと口にした
あの世界の「ビアンカ」は、本当の幸福が訪れるのを恐れていました。幸福を手に入れたら、終わりが来ると……
でも、私にはそんな不安はありません
今、こうしてあなたとともに過ごす。どれほど短い瞬間であっても……それが、私には何よりも尊いものだからです
戦場であれ、束の間の休息であれ、ただあなたの隣に立ち、同じ未来を見つめていられることが、私の幸せなのです
だから、この時を永遠にください。あなたとともに、幸福へと歩む一瞬一瞬を
[player name]……一緒に帰りましょう
最後の陽が地平線へと沈み、夜空には星の光がひとつ、またひとつと灯っていく
広い星空の下、ここへ来た時とはまったく違う気持ちで、ふたりはともに帰路へと向かった
夜空を仰ぎながら願う――幾億の星の煌めきが、彼女と出会い、歩み寄り、心を重ねてきた全てを照らしてくれますように
そしてこれからも続く、無数の約束とふたりの時を
こうして手を取り合いながら、この先もずっとともに歩いていく
ふたりだけの未来へと、歩み続けていく
